■ 大戦中の滑走路舗装について -2017年7月30日(日)10時26分
戦前戦中を通じて日本側があまり重く見ていなかった要素のひとつに、飛行場の品質が挙げられる。
戦中戦後のアメリカ側の指摘には日本側の飛行場の品質の劣悪さが多く挙げられている。例えば誘導路を持たないため運用効率に劣り、爆撃等で主滑走路が塞がれると容易に使用不能になる点や、滑走路の隠ぺいが下手な点等だ。
また日本は盲目着陸支援などの地上側の整備を怠った。飛行場地上設備は航空技術のうちには入れられておらず、日本側の地上側設備は日中戦争前の水準に留まっていた。
日本の滑走路は煉瓦などを下に敷いた上にコンクリートを舗装するものだった。煉瓦の下には路盤は無かった。そもそも路盤という概念自体が戦後のものである。目地は数メートル間隔で切られていた。圧延は行なわれてはいたが機械によって行なわれるのは稀であり、芝生で運用されることも多かった。戦前日本の滑走路は幅70~80メートルと広く、両端に大きなサークル状の舗装部分があるのが特徴的である。
路盤が無いのは道路も同じで、これはアスファルト舗装も同様だった。アスファルト舗装の厚みは5センチほど、これはコンクリートも同じで厚みは不均一、鉄筋等も入っていなかった。
大戦末期に重爆用に建設された、例えば大刀洗北飛行場では滑走路幅は30メートルまで狭くなり端のサークルが無くなっている。また米軍風の誘導路を設けるようにもなっている。この時期の滑走路のコンクリート舗装に鉄筋が入っていたかには諸説あるが、四式重爆の1軸当たり接地圧は全備重量でも7トン程度であり問題は無かっただろう。ただ4発重爆撃機となると問題で、コンクリート舗装でなく砂利を深く敷き詰めたマカダム舗装が正解であろう。問題は展圧の大きさとなる。
米軍は戦前から重機を使った圧延をおこない、舗装にアスファルトを使うことも多かった。アスファルト舗装は施工後使えるようになるまでの時間がコンクリート舗装より大幅に短くなる。
1930年代アメリカ各地では有料高速道路(ターンパイク)建設が相次いだが、それらは殆どは日本と同じ5センチ厚の不均一アスファルト舗装だった。その後進んだモータリゼーションにあわせ、舗装の耐久性向上の為さまざまな評価試験が考案され、輪荷重5.6トンまでの設計法が開戦前には確立されていた。
だが滑走路用舗装となるとその荷重、開発中の重爆撃機XB-19の輪荷重16トン、全荷重72トンという桁違いの値が問題となった。1939年まで米空軍はほとんどの航空機を草地で使う想定だったのが大転換である。
1941年に試験舗装されたラングレーのアスファルト舗装滑走路は重爆想定の荷重試験に耐えられなかった。1942年に入ってカリフォルニア州の高速道路技術者O・ジェームズ・ポーターが開発した試験方法、CBR(カリフォルニア支持力比)試験が導入され、そこから理論的に外挿された値が試された。試験は材料のせん断歪みを計測していることに等しい。つまり砕石路盤の断面積を増してやれば、この場合深さを変形が問題とならなくなる水準まで増してやれば良い。この試験舗装はB-29の片輪27トンの荷重にも耐え、コンクリート舗装を主張する反対派をねじ伏せたのだ。
また誘導路には細長い穴あき鉄板を敷き詰める舗装が多用された。これは滑走路の損傷部位を塞いで素早く使えるようにするのにも多用された。
日本も穴あき鉄板をラバウルでは滑走路に使用している。だが他ではこういった工夫は見られなかったようだ。
福生飛行場、後の横田の1941年と1947年の状況を航空写真によって比較すると日米の飛行場の違いがよく判る。戦中の滑走路は幅80メートルと広く、格納庫前のコンクリート舗装が僅かしかない。
対して米側は格納庫前のコンクリート舗装を大きく拡充し連結して、主滑走路を新しく舗装しなおしているが、新しいものは幅が狭い。また中間位置に出られるランフェイ、新しい排水路が掘られているのにも注目すべきだろう。アメリカでは路盤変形の主要因として水分を挙げ、排水を重要視していた。
戦後の道路技術はCBR試験によって一変した。CBR試験は現在でも世界中の舗装道路で使われている。アメリカではCBR試験によって得られたパラメータに従って1951年にWASHO道路試験、次いでAASHO道路試験という大規模試験によって道路設計が固められることになる。路盤概念はこの日本での翻案である。
■ 日米の工作機械と生産#3 -2017年7月28日(金)21時08分
開戦前夜の国産工作機械の品質をざっと説明しよう。
まずその架台の鋳鉄品質から海外の機械とは違っていた。それまでの鋳鉄は肉厚によって強度が変化したが、当時海外で一般化しようとしていた鋳鉄品質ミーハナイトは肉厚によらず均一な強度となる。ミーハナイトは戦中にこれを国内で再現したところもあったが[5]、ミーハナイトの日本への本格的な導入は1950年代までずれ込むことになった。
ボールベアリング品質も全く違っていた。当時の池貝製作所製の旋盤と、コピー元のドイツ製旋盤とを比べると、オリジナルには存在しない注油口に気づかざるを得ない。精密ベアリングはスウェーデン製SKFまたはドイツ製FH加工済み鋼球の輸入によって賄っていた。チェーン用の鋼板も輸入である。国産軸受は日本精工と光洋精工、西園鉄工所(NTN)が生産していたが、スウェーデン鋼丸棒の輸入に頼ったものだった。国産の工作機械用軸受けが誕生するのは1942年まで待たなくてはならなかったし、材質の問題は付いてまわった。そしてそもそも技術が10年遅れだったのだ。
工作機械の性能の差は、スピンドルの最大回転数のような判りやすい部分でも明白だった。海外製旋盤の大半が3000rpmを達成しているのに対して、国産だと2000rpmに達するものは皆無だった[4]。
当時の工作法の本を読むと、機械の扱いや加工法については詳細に説明されているが測定機器の説明はページ後方でしかも操作法のみ、測定して出た値の取扱いなどの解説は皆無だった。図面の読み方もほとんど説明が無く、電気溶接などの新しい加工技術の解説で唐突に出現するのみだった[6]。
また冶具の重要性は全く意識されていなかった。当時の冶具と言うのはボール盤加工で楽をするために板にあらかじめ穴を開けて穴位置出しを容易にする程度のモノしか無かった[7]。
こういった状況を問題視する者も当然存在した。汎用工作機械ではなく専門の機械を並べて専門工を養成すべきだと主張する者は多かったし、専用機械によって構成されるラインを構築しストップウォッチ片手にタクト生産をやろうという試みも、投資余裕のある大企業では幾つか見られた[4]。三菱重工名古屋発動機製作所ではトランスファーマシンの導入が試みられている[8]。
機械生産に適した規模に各工場を再編しようと言う主張は生産力理論の支持者に多かった。その主張は産業統制のかたちで実行に移されることになる。
日中戦争直前には国産工作機械の生産台数は二万台、生産額3000万円に届こうとするところまで成長していたが、1936(昭和11)年、陸軍のシンクタンクだった日満財政経済研究会が作成した重要産業五カ年計画は、工作機械生産を額面五倍の毎年五万台、うち五千台を満州で生産するというものだった。1937年の資源審査会の答申はさらに上積みした国内生産五万台に変更された。
このために1938年工作機械製造事業法が制定されたが、これは中小企業を統廃合し少数の大企業のみを特別扱いするものだった。大企業である許可会社以外の中小企業は各県の第一工作機械工業組合に統合されていく事になる。零細は第二工作機械工業組合の組合員となったが、第二工作機械工業組合への資材割り当ては無かった為、これは強制廃業と同じであった[3]。
重要産業五カ年計画は工作機械増産を生産力増大による国力増大と言う政策枠組みの中に位置づけていたが、日中戦争はこれを戦争遂行のための施策に変化させることになる。これら施策は需要の裏付けとなり特に第一工作機械工業組合に属する企業の生産を増大させたが、計画経済の常として品質は相変わらずであった。
工作機械の品種は統廃合され、他業種と同じく標準型が制定されることとなった。これは実質、企業共同による海外主要製品のコピープロジェクトだった。この手法はそのまま戦後も使われることになる。
生産量の増大を図るため、大企業でも生産品種を絞り、パーツやユニットを供給して他企業で量産した部品とあわせて組み立てる方式がとられた。これは企業間のパーツ互換性を否応無しに向上させることとなった。
1940年7月の輸入途絶と需要増大によって工作機械の生産台数は更に倍以上に跳ね上がった。開戦は工作機械産業の需要を増大させたが、同時に崩壊も進行することになる。この時期ようやく陸海軍は工作機械産業の重要性に気がついたものと思われる。それ以前は例えば、1936年辺りまでは工作機械より自動車のほうが優先度が高いと思っていたらしい[9]。以降工作機械は終戦まで年五万台以上が生産された。
切削工具は消耗品である。当時出始めていた超硬バイトは国産化できていたが、問題は工作機械の65パーセントで使用されていた高速度鋼(ハイス)バイトで、スゥエーデン鋼の輸入が途絶えると新規生産は出来なくなった。
工作機械で用いられる特殊鋼、例えば高速度鋼やボールベアリング用クロム鋼はほぼスウェーデンやオーストリアからの輸入だった。超硬バイトもタングステン等の希少元素が欠乏すると生産できなくなった。高性能モーターもまた輸入に依存していた。輸入途絶は高性能工作機械が作れないという事も意味していた。
アメリカ製の高性能工作機械は使用する切削油にメーカー指定のものを使わなければならなかった。開戦後この切削油も消耗するに従い水を足してごまかしていたが、やがて焼き付きによって工作機械ごと使い物にならなくなった。工作機械を作る工作機械が使い物にならなくなると当然生産も品質も落ち込むことになる。
大戦中量産された国産の普通旋盤は皆スピンドル速度がせいぜい500rpmという悲惨な性能だったが、それ以上の性能を発揮するために必要な切削工具がそもそも無くなっていた。資源節約から摺動部の処理は行なわれず、そのためすぐにガタが出るような代物だった。
工作機械需要の逼迫に対して資源は明確に不足しており、例えば年11万台という過大な生産計画が資源の裏付けも何も無く飛び出しては有耶無耶のままに消えていった。
エンジンのシリンダー加工に使う内面研磨盤は、1941年の生産台数192台に対して1944年の生産要求は1075台にも達していた。これら目標は主要工作機械メーカーに頼ることなく達成されたが、つまり精度の無い粗悪品が930台ばかり出来たという話であった。歯車形削盤の生産要求600台も同様である。
対して生産管理と冶具の使用はこの時期大きな進歩を見た。工業規格は戦争中に大幅な拡充を見ることとなる。原価計算は標準計算が導入された。熟練工を徴兵で失い臨時工を抱えた生産現場ではマニュアルの重要性が認識されるようになる。
空襲によって生産設備が失われると再建のために工作機械が必要とされたが、一緒に工作機械も失われていた。1944年12月の地震被害もあって工作機械生産を打ち切って工作機械を航空機生産にまわす決定が下されることになる。ただこの転換と動員計画が順調に推移したかと言うと疑わしい。もはや生産転換に必要な資源すら欠乏していたからだ。
終戦後残っていた工作機械の台数はおよそ75000台、その大半を賠償のために海外に送られることになり、うち優秀性能機であるとされたものを調査したストライク賠償調査団はその品質の劣悪さを「使い物にならない」と端的に要約した[10]。ストライク調査団は全ての工作機械の日本への残置を勧告した。こういった状況はしばらく変わる事がなかった[11]。
「昭和27年2月、米国から工作機械買い付け調査団が来日しました。米ソ関係が一触即発の危険な状態にあり、国防上設備拡張が急務だったのでしょう。……ところが結果的に彼らは1台の工作機械も買わないで帰国してしまいました。……私は翌年(28年)米国へ行った際,クラーク氏(調査団団長)をたずねました。……日本製工作機械を1台も買わなかった理由を問い質しますと『日本はあれで、よく戦争をしたな』というんですわ。……非常にショックでしたね」小山省三〔大日金属工業会長〕談[12]
戦前戦中の工作機械に関する状況も、先に描いた他の技術分野と同じく暗澹たるものであるが、しかし、戦後日本がやがて世界に冠する地位に到達する、その萌芽が既に見えているのに注目したい。
輸入途絶と標準型制定は、日本が独自に必要に応じて工作機械を開発するきっかけとなった。精密転がり軸受はこういう条件下に無ければ独自製造という決断まで至らなかっただろう。大手メーカーの技術は拡散し、原価計算や冶具の多用なども行われるようになる。戦後の国産工作機械は海外メーカーとの技術提携を画期として成功への道を歩み始める。戦前問題とされた中小メーカの乱立状況は結局変わることがなかった。結局成功の最大の立役者は政策、工作機械設備投資に対する特別償却制度であった。
しかしこの成功、日本製工作機械が世界を征した期間と言うのも、電気電子産業と同じく、1980年代半ばから20年程度の間に過ぎなかった事に、歴史的視野を持って強い注意を払う必要があるだろう。
戦後日本の歩みは、もっと良く研究され評価されるべきである。
[4] 「日本機械工業の基礎構造」豊崎稔 1941年 日本評論社
[5] SME LIBRALY 9 日本の工作機械を築いた人々 倭周蔵氏
http://www.sme-tokyo.org/library9.pdf
[6] 「工具とジグ」東海林由吉 太陽閣
[7] 「機械工作法」財団法人国民工業学院
[8] 私の歩んできた道 生産技術者を目指す 山田卓郎 精密工業学会誌 Vol.78
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspe/78/12/78_1060/_article
[9] 「日本工作機械史論」 長尾克子 ISBN4-526-05259-0
[10] 戦後日本工作機械工業の展開 -昭和20-40年代- 長尾克子 1995
http://hdl.handle.net/2115/31999
[11] わが國機械工場の陳腐老朽化について 淺田長平 1964
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane1915/39/7/39_7_748/_pdf
[12]「"母なる機械" 30年の歩み: 日本工作機械工業会創立30周年記念出版」1982
■ 日米の工作機械と生産#2 -2017年7月27日(木)19時04分
日本における現代的な工作機械は1857年にオランダから輸入された16台で、輸入は戦前日本の工作機械の需要を支え続けた。国産の工作機械が出始めるのは1880年代からで、産業として曲りなりに現れるようになるのは1890年代からである。
先駆者であった中島工場は中島兼吉が1886年に開業したが、経緯不明ながら1873年に東京砲兵工廠に卓上フライスと多軸ボール盤を納入している。中島は幕末に渡欧経験のある砲兵工廠出身の技術者で、日清戦争の頃は縁故受注もあってか東京を代表する機械工場とされていたが、設備投資に乏しく1907年の中島兼吉の没後は衰退の一途をたどることとなる。
初期の工作機械メーカーはまず大阪に多数生まれたが、どれも零細企業だった。1903年には従業員20名以上のメーカーは24社を数えている。いずれも専業ではない。
池貝製作所は田中重久の工場で旋盤工であった池貝庄太郎が1889年に2台のイギリス製旋盤と共に開業したのを始まりとし、同年旋盤を独力複製したがこれは実物が科学技術館に展示されている。
その後も人力を動力としてわずかな工員数で様々な機械を製造していたが1905年に飛躍のきっかけとなる池貝式標準旋盤を完成させた。同1905年には東工大の前身、東京高等工業学校から海外製旋盤のコピーの注文が出されたが、これは詳細な仕様書とプラット&ホイットニーの検査員を勤めた経験のある教員による検査が付いてきていた。この要求を満たすために池貝製作所は大きな質的跳躍を遂げることとなる。
若山鉄工所は1898年に25歳の若山瀧三郎が開業し、やはり手動の旋盤から出発して日露戦争の需要増大にのって海外製工作機械を導入し、やがて工作機械専業メーカーとして頭角を現していった。
大隈鉄工所は製麺機械の製造から1904年ごろから工作機械の製造を始めたが、経営を支え続けたのは製麺機械だった。
唐津鐵工所の創業はずっと遅く1909年、竹内鉱業の社内部門として発足した。当初から品質指向を明確にしていたが、1911年に竹内鉱業が三菱合資会社に買収されると唐津鐵工所への投資規模は激増した。1913年の東京高等工業学校に納入された工作機械の品質は従来の国産工作機械とは隔絶したものだった。1916年の経営分離後は合理的工場経営が指向され、唐津鐵工所は大型機メーカーとして地位を確立することになる。
新潟鐵工所はアメリカ人技師の指導によって立ち上げられた日本石油の新潟支所の社内部門が1910年に独立したものであるが、受注生産は1904年の東京砲兵工廠からの旋盤50台に始まっている。ただし外販は1913年からである。
日清日露の戦争による工作機械需要は、瞬く間に輸入機械の国内在庫を枯渇させ、国産機械の需要を創出した。当時の国産工作機械はメーカーブランドを名乗るものは稀だった。
「内地品は独創的計画少く……甚だしきは全能力運転に於て機械の振動烈しく精密なる作業に堪へざるものもあり、或は組立後手入不能のものあり……又邦人の体格体力等に没交渉にして全然不適当のものあり……」[4]
品質と呼べるものは実質存在しなかったのだ。
戦後の需要収縮は廃業と再編の時期となったが、これは第一次世界大戦の勃発による好況で一転した。まず世界大戦による欧米の輸出途絶による国内需要があった。次いで工作機械の輸出も始まる。これは主にアジア圏への輸出で、これもまた欧米の輸出途絶に付け込むものだった。そして戦争が終わり欧米製品の輸出が再開されるとこれら特需は瞬く間に消滅した。品質的にまったく太刀打ちできるものでは無かったからだ。
国内メーカーの設備投資が続いたのは1920年代初頭までだった。この時代の国産工作機械の精度はその製造に使用した工作機械の精度を超えることは無く、つまりどれだけ高価な輸入機械を導入できたかで一意に決定されるものだった。この時期工作機械製造でリミットゲージを用いていたのは池貝や唐津、新潟など限られた企業だけだった。
第一次世界大戦の輸入工作機械の大半を占めたのはアメリカ製機械だったが、1920年代半ばアメリカの貿易が保護主義に転じ、関税率の上昇に伴ってアメリカ製品がシェアを失い、その分ドイツ製工作機械が躍進することになる。ドイツの機械産業の振興はアメリカの保護主義のおかげだったのだ。
昭和の不況もあって工作機械の需要はほぼ軍需に占められていたが、軍縮はこれら軍需も失わせた。民間需要は品質の劣る零細メーカーの供給する工作機械で満たされていた。これら零細企業は現物合わせレベルの精度しかなく、炭素工具鋼を使うレベルの製品しか供給できなかった。
昭和の不況期に工作機械専業メーカーとして生き残ったのは唐津鐵工所のみ、残りは大なり小なり様々な機械製造に手を出すことになった。唐津と池貝は原価計算を工程管理に持ち込む現代的な工程管理を導入していたが、他には波及しなかった。
これら優良メーカも、独自開発力となると限られたレベルしかなく、基本的に輸入工作機械のコピーしか行なわなかった。そもそも顧客である軍の指定だったのだ。軍はお手本となる工作機械を輸入して民間に渡してコピーさせていた。技術的問題解決は独自の解決ではなく、他の機械を購入することで行なうこととなっていた。そもそもこの時期の海外の技術進歩の速さに国内業者は全く追従できていなかったのだ。
1930年代に入りアメリカが貿易自由化に転じると、再びアメリカの工作機械シェアは上昇に転じた。アメリカの対日貿易額は増大し、1933年にアメリカの輸出したフライス盤の42.9パーセントが日本向けであった。日本の増大した軍事予算のうちの相当額がアメリカとドイツ製工作機械に投じられることとなった。この金額はアメリカの工作機械業界に開戦前夜の対日制裁に反対させるに充分なものだった。
アメリカの最新工作機械は高度化の結果として運用側にも様々なものを要求するようになっていた。例えば歯切り盤の導入には微分方程式に通じていることが要求されたし、見積もり前に作業行程の資料、図面や行程明細書を要求するようになっていた。いわば懇切丁寧になっていったのだが、軍事用途には障害となっていった。
旧来の軍工廠では工作機械はそのまま導入されるだけで設備更新や品質管理の導入などは行なわれることが無かったが、新たに一から設備を導入した新興産業である航空機製造の現場では、少なからず新しい機械製造のやり方が導入されることになる。
民需も順調に伸びて安価な国産機械が導入されていたが、これら生産現場は旧来と殆ど代わるところが無かった。例外は豊田など、自前で工作機械製造に取り組むような一部の企業だけだった。安価な国産工作機械は相変わらず零細企業が現物合わせで製造しており、価格のディスカウントによって競争力を確保していたが、その低い利益率は新規設備投資を難しくしていた。
恐らく国産大手が安価な高性能機械を供給すれば良かったのだろうが、そういう事態は起きなかった。大手にとって民需は存在しないも同じだったのだ。
1930年代はアメリカからの工作機械輸入が年5000台にも達したが、同時に国産工作機械の生産もほぼ同規模で増大した。これは殆どが官需だった。メーカーは大戦中に強制的に整理合併されるまで多くが中小企業だった。
-----------------------------------------------------------
本記述は主に以下の資料に拠った。
[3] 「マザーマシンの夢 日本工作機械工業史」沢井実 名古屋大学出版会 ISBN978-4-8158-0747-4
[4] 「日本機械工業の基礎構造」豊崎稔 日本評論社
■ 新刊「宇宙用コンピュータの構成と設計」のお知らせ -2017年7月26日(水)22時57分
コミックマーケット92 8月12日(土曜日)東ペ60b、風虎通信での頒布となります。表紙はSICP本(MIT Press版 CC-BY-SAライセンス)のパロディになると思います。
タイトルの通りこれ一冊で宇宙用コンピュータが作れるようになる本です。嘘じゃありません。勿論それなりの実行と努力は要求します。というか他の類書(あるのか?)を読んでも宇宙用コンピュータは作れないでしょう。
本書は見積もりや試験、インタフェイス仕様といった他の工学系類書には無い項目、視点がかなり多めに盛り込まれています。ソフトウェア関連も多めに盛ったつもりです。耐放射線性の項目はかなり踏み込みましたが、全て公知の資料にある内容です。
あと、福間晴耕さんの「宇宙の傑作機 ソビエト・ロシアの偵察衛星 ゼニットからペルソナまで」も出る筈です。
また、去年の夏に頒布した「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」の再頒布もおこないます。恥ずかしい誤字脱字等多少は直った筈です。
「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」推敲の段階で相当分量を割愛したのですが、それらのうちの一つ、工作機械についての記述を手直しした上で数回に分けてここに掲載したいと思います。割愛したのはどう考えても工作機械が電子でも情報でもなかったからです。同様に道路技術についても割愛した分を紹介したいと思っています。
では。
----------------------------------------------------------------------
日米の工作機械と生産#1
19世紀初頭にヘンリー・モーズレーの開発したねじ切り旋盤は、画期的な自動送りを備え、現代のものと基本的に同じ構造のベッドや刃物台、心押し台などを持ち、現在の旋盤の原型となった。モーズレーはさらに高精度の定盤とマイクロメーターを生み出す。彼の生産するねじは標準となった。
平削り盤は1820年に現れ、これにより平行運動機構がようやく実用精度で作れるようになった。ジョゼフ・ホイットワースは1941年ねじの国家規格を提案している。ホイットワース社は最初の近代的専業工作機械メーカーとなった。
この時期の歯車は割り出し盤と切削盤の組み合わせで加工されていた。きちんとしたインボリュート歯車が製造されるようになったのは1940年代である。
工作機械の王座をイギリスが譲るのはそのすぐ後、1950年代である。アメリカは以降120年以上に渡って工作機械の王座を維持し続けた。
精度が生産性につながることは19世紀初頭にはエリ・ホィットニーによって見出されていた。1915年以降、米政府の調達火器は標準への互換が契約で求められるようになる。
1845年に最初のタレット旋盤が、1850年に最初の現代的なフライス盤がアメリカで売り出された。螺旋溝を持つ現代的なドリルもアメリカで発明されたが、これが機械切削で製造できるようになったのは1862年だった。
1855年に完成したコルトの新工場では、調達した工作機械の額より多い金額が、冶具やゲージを揃えることに費やされていた。アメリカでは安価な労働力である移民でも生産できるように機械化が推進されていったのだ。イギリス人は一次世界大戦の頃まで、職人気質によらないアメリカ製品はイギリス製品に質で劣ると考える事を好んだ。
炭素工具鋼は1868年ロバート・フォレスター・マシュトによってイギリスで発明された。1873年にはアメリカでフレデリック・テイラーによる切削工具の研究が始まっている。テイラーは刃先の丸い比較的柔らかい刃物のほうが鋭い刃物より高速で切削できること、既存の工作機械の送り動力の不足などを立証し、連続的に水をかけながら切削する手法を生み出した。テイラーは膨大な試験と徹底した科学的手法で、やがて高速度鋼(ハイス)を生み出すことになる。高速度鋼の性能は工作機械の性能をも一挙に引き上げざるを得ないものだった。
旋盤の要素のうち自動調芯チャックだけははずっと遅く19世紀末に実用化した。砥石を使う精密研削は隙間の無い密閉を実現したが、この技術は当初ほぼアメリカでしか使われなかった。モータが工作機械に採用されるようになるのもこの時期である。
工作機械の生産性の向上は新しい水準の生産を実現した。ボールベアリングが使われるようになり、アメリカの自動車生産は1890年の4万台から1897年の100万台まで激増する。テイラーは1911年に「科学的経営の原則」を出版し、品質管理の原則はここで確立された。
20世紀になると現代と同じホブが現れ、歯車は安価な機械要素となった。またドイツの工作機械の躍進が目立つようになってきた。イギリスでは未だに工作機械をモーターではなく皮ベルト、高速度鋼ではなく炭素工具鋼を使っている工場が大半だったのに対して、ドイツはアメリカの模倣の段階を脱しようとしていた。初期のホブ切り盤はドイツで最初に製造されたのだ。
1930年代になって、ドイツでタングステンカーバイト焼結ダイスが発明され、これにより工作機械の性能は更に飛躍を余儀なくされることとなる。ベアリングは5000rpmの高速回転に耐える精度が要求され、切削油も添加剤入り水溶性切削油剤が使われた。
工作機械を統合したオートメーションは、まずフォード社で高度な単能機械、トランスファーマシンとして表れ、次いで高水準な汎用工作機械を連結したリンク・ラインシステムとして普及した。ならい旋盤の技術と冶具の組み合わせは汎用機を半自動工作機械にすることが出来たのだ。やがて第二次世界大戦の軍需を満たすために、アメリカの様々な産業でこうした生産技術が採用されることとなる。
-----------------------------------------------------------
本記述は主に以下の資料に拠った。
[1] 「工作機械の歴史 職人の技からオートメーションへ」L・T・ロルト 平凡社ISBN4-582-53203-9
[2] 「近代技術史」ダニレフスキイ 三笠書房
■ 同人誌訂正個所について -2016年8月23日(火)19時15分
同人誌「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」を、風虎通信さんから出させていただきましたが、申し訳ありません。幾つかミス記述がありました。
現在確認している訂正個所は以下の通りです。
5p 5行目 "原材料輸入量の現象を" => "原材料輸入量の減少を"
42p 8行目 "戦費調達力が二百万ドル" => "戦費調達力が二百億ドル"
同 9行目 "一年半で百二十八万ドル" => "一年半で百二十八億ドル"
45p 6行目 "設立提案を" => "設立提案に対し"
68p 10行目 "従来の抵抗器は" => "従来の、そして日本の抵抗器は"
74p 27行目 "アンテナそれぞれでの" => "アンテナそれぞれで"
81p 6行目 "奥行き36メートル" => "奥行き精度36メートル"
113p 13行目 "MITのドレーバー" => "MITのドレーパー"
116p 20行目 "開戦直前だったのて" => "開戦直前だったので"
117p 20行目 "三色弾" => "三式弾"
132p 11行目 "使用波長が技術上の問題で大きく" => "使用周波数が技術上の問題で低く"
140p 11行目 "OODAサイクル" => "OODAループ"
あと、表紙が太平洋にいないドイツ艦とFuMO23
次は「宇宙用コンピュータの構成と設計」の予定です。
■ "宇宙の傑作機 モルニヤ" と修正箇所について。 -2015年8月15日(土)18時55分
コミックマーケット88、サークル"風虎通信"へ来ていただいた方、ありがとうございます。今回、「宇宙の傑作機 モルニヤ」を頒布することができました。
本書は旧ソ連/ロシアの非静止軌道通信衛星モルニアシリーズを中心に放送衛星、気象衛星等の実用衛星について、その開発史をまとめたものです。
モルニアについて調べているうちについ寄り道した気象衛星メテオールが、デザイナーのイオシピュン(А. Г. Иосифьян)共々なかなか面白くて、メーカーのVNIIEMの技報を読み漁ってしまいました。イオシピュンは学生時代に"電気銃"を発明し、戦前は電気飛行機と電気ヘリコプター、戦時中は電気手榴弾を開発した電気野郎ですが、コロリョフやヤンゲルらと交友も深く、戦後はB-29のアビオニクスのコピー生産をやりながらコンピュータの開発もやって(チェルノブィリの制御用コンピュータはソフトもVNIIEM製でした)アルメニア科学アカデミーの長もやって、とえらい人物です。現在のロシアの電気推進、ホールスラスタも、元を辿れば彼の開発でした。電気ロケットを作るあたりまったくブレていません。
あと寄り道と言えば、GPSの開発初期に関わった、Nakamura Hideyoshi氏とは一体どのような人物だったのでしょうか?
それと、早速ですが修正個所があります。申し訳ありません。
P20 誤:これらは全て、4.2MHzのAM変調信号に詰め込まれる。
正:これらは全て、搬送周波数4.2MHzのAM変調信号に詰め込まれる。
P24 誤:当時の256kbpsのPCM-FM変調ダウンリンクでは、
正:当時の256bpsのPCM-FM変調ダウンリンクでは、
P24 誤:テレメトリに使用されたのは20MHzのPWM伝送方式だったが、
正:テレメトリに使用されたのは搬送周波数20MHzのPWM伝送方式だったが、
P40 画像に問題がありました。"メドベージェフのチューブ"は以下のような装置です。
P46 画像のキャプションを訂正します。
①根元のヒンジ内のバネでアームが展開し、展開完了で①根元のラッチが外れて②の棒が衛星側に引っ張られて、③のヒンジ固定が外れて90度回転し、アンテナ展開が終了する。
P70 誤:レスチネフ社ではこの機種をモルニア-1Kとしている
正:レシェトニェフ社ではこの機種をモルニア-1Kとしている
P84 [50] The Origins of GPS
誤:https://www.u-blox.com/images/stories/the_origins_of_gps.pdf
正:https://www2.u-blox.com/images/stories/the_origins_of_gps.pdf
P87 誤:モルニア軌道とはかなり似ているが、
正:モルニア軌道とはかなり似ているが軌道ドリフトは遥かに小さく、
----------------------------------------------------------------------
Maker Faire Tokyo 2015へ来ていただいた方へ
"よわアーム"、独自開発サーボによる、弱いけど最低限使えるレベルのロボットアームをめざすプロジェクトのデータ一式は以下URLののGithubに公開しています。
https://github.com/mizuki-tohru/YOWA-ARM
"てのりマイコン"てのひらサイズのBASICが動くコンソールのデータ一式は以下URLののGithubに公開しています。
https://github.com/mizuki-tohru/stm32f4-console
■ ポーランドの宇宙開発史#2 -2015年4月1日(水)00時02分
比較的牧歌的な、ネガティブに言えば他国よりかなり遅れた状況にあったポーランドだが、国際情勢の急速な変化はポーランドの宇宙開発にも影響を与えるようになった。
ポーランドは2015年4月、新たな打ち上げ機開発計画を発表した。これはRP-AとRP-B (Rakieta Przesylowa-Parcel or Dispatch Rocket-A,-B)の二種で、RP-Aは固体二段式の観測ロケット相当の機体、RP-Bは大型の液体打ち上げ機だ。双方ともRP、貨物ロケットだとポーランド政府は主張している。
RP-Aは全長6.5メートル、径34センチ、高度500キロに到達する能力を持つスペックを目指している。これはドイツのDLR(ドイツ航空宇宙センター)が独自にスウェーデン製MAXUS固体ロケットやブラジル製VSB-30固体ロケットを通じて打ち上げ機開発に関与しているのをモデルにしたものである。これまでポーランドは高度100キロを越える高度、つまり宇宙に到達したことが無い。意気込みの強さは発表の文面からも伺える。
ただ、イージス弾道ミサイル防衛システムのスタンダードミサイルに様々なスペックが類似していることが既に幾つかの筋から指摘されている。ポーランドは現在NATOの部隊をポーランドに展開するよう求めているが、ドイツなど他の条約国の反応は思わしくない。ポーランドはアメリカの地上配備BMD、イージス搭載SM-3を受け入れ、近いうちに稼働段階に入るが、ポーランドは独自の弾道ミサイル防衛システムを構築する意向を持っている[9]。
RP-Bは、これはまたブラジルでの打ち上げが怪しくなったツィクロン-4打ち上げ機にそっくりである。これは主にウクライナのユージュマシュ社に対する経済支援、保護の目的があるものと思われる。ロシア製の機材を他の機器で代用するのが主な計画らしいが、これはポーランドがロケット開発のノウハウを入手しようとする動きの中の一部だろう。ただこの動きは弾道ミサイル防衛システムの枠を超え、弾道ミサイルそのものを保有しようとしているのではないかという疑惑を向けられることにも繋がっている。
大型液体打ち上げ機最初の搭載ペイロードはすでに開発が終了しているらしい。目標は有人運搬、つまり有人打ち上げであると宣言されている。試験機Pirxieは直径2メートルの球形をした有人機で、熱設計上の理由から、半球をそれぞれ紅白に塗装したいわゆるポーランド球体[10]となっている。打ち上げがいつになるか、そもそもどこから打ち上げられるのかも不明だし、そもそもこれがポーランド独自の打ち上げにカウントできるのかも疑問なのだが、詳報を待ちたい。
---------------------------------------------------------------------------
今回更新分は勿論大嘘なのです。ポーランドはきっともうじき宇宙到達を平和裡に果たすに違いありません。
[9] http://www.defensenews.com/article/20140201/DEFREG01/302010028/US-Ready-Assist-Poland-Indigenous-Missile-Defense-System
[10] http://polandball.wikia.com/wiki/Poland_cannot_into_space
■ ポーランドの宇宙開発史#1 -2015年3月31日(火)04時41分
ポーランドの宇宙開発は1956年、ワルシャワでのポーランド宇宙協会の設立から始まるが、実際のロケット開発は、その後一貫してポーランド南部の都市クラクフを中心として行われた[1]。
ポーランドのロケット開発そのものはそれまで至って低調な歴史しかなかった。1650年代の兵器技術者カジミェシュ(Kazimierz Siemienowicz)はポーランド出身とされ、多段ロケットの原理を含む議論を出版したとされる[2]。
ナポレオン戦争のさなか、砲兵大将ユゼフ·ベム(Józef Bem)がロケット兵器を開発し、これは使用されて大きな成果を上げているが、肝心のベムはフリーメーソン会員であった為に軍から追放され、1848年から1849年のハンガリー蜂起に関わり、そしてその蜂起の崩壊後イスラム教に改宗してトルコ軍に入るという波乱すぎる人生を送っている[3]。アレッポで死んだ後は遺骨がポーランドに持ち帰られ、公園に霊廟が建てられているという。
それから第二次大戦後しばらくまでの間、ポーランドでなんらかのロケット熱があったかというとどうも無かったようである。
第二次世界大戦中、ドイツのA-4(V-2)ミサイルの生産テスト及び発射訓練部隊は、クラクフの西120キロのブリツナに移転していた。これに関連して地元でも工場等の利用など影響があった可能性もあるが、史実としては伝わっていない。
戦後、クラクフに住んでいたスタニスワフ・レムは1951年にSF小説「金星異常なし」Astronauci で一躍有名作家の仲間入りを果たす。レムがクラクフでアマチュアロケット開発に関わったという資料は見つけることが出来なかった。
1958年、ヤツェク(Jacek Józef Walczewski)がクラクフの水文気象学研究所(PIHM)支所で開発したロケットRMは固体ロケットだった[4]。
1956年にポーランド宇宙協会が設立され、翌年クラクフ支部が開設されると、このクラクフ支部こそがポーランドのロケット開発の中心となった。ヤツェクは1958年まで技師として働いていたが、水文気象学研究所で彼はロケット開発を始めたのだ。
彼らは日本の宇宙開発に触発され、大学主導の宇宙開発を目指すことにした。まずはペンシルからで良いのだ。
最初に作ろうとしたRM-0はロックーンで打ち上げようというものだったが、挫折している。完成したRM-1は長さ174ミリ、径66ミリ、4.9キログラムの小さなロケットで、機体はボイラー管を流用したものだった。RM-2は二段式、RM-3は三段式の予定だった。RM-1はクラクフ北西のBłędowskiej砂漠(そう呼ばれている地域がある)で1958年10月に打ち上げられた。到達高度は当て推量に近いが3000~3500mだった。
ヤツェクは1959年に改良型RM-1Aを開発した。全長はおよそ1メートル、径は16ミリ、パラシュート回収可能なペイロードベイを持っていた。しかし1960年2月の最初の打ち上げで爆発し、残った同型二機は打ち上げられなかった。
RM-2Aは全長1.4メートル径80ミリの二段式で、1960年6月にBłędowskiej砂漠で打ち上げに成功、さらに一段目空力翼を大きくして直進安定性を与えた改良型RM-2Pを開発したが打ち上げは失敗した。
ヤツェクを中心としたクラクフのエアロクラブは、ロケットを貨物輸送に用いることを提案していた。新しく開発されたRM-2CおよびRM-2Dは1961年から1965年にかけて、数度にわたって郵便輸送のデモンストレーションを行っている。最初の二度は失敗、6回打ち上げに成功しましたが、一回は機体が水没してペイロードともども失われている。
1961年、ポーランドのロケット開発者たちは、太陽黒点極小期国際観測年(IQSY)へ観測参加することにした。太陽活動が最も活発だった1957年のIGYへの観測参加というかたちで米ソの最初の衛星は打ち上げられ、そして今度は太陽活動が最も穏やかな期間を観測しようという訳だ。観測に必要なのはもちろん高高度に到達できるロケットだった。
1962年、航空研究所(IL)及び水文気象学研究所(PIHM)が開発した固体ロケット、メテオール-1(Meteor-1)は全長2.5メートル、径12センチ、先端に4.5キログラムの分離式ペイロードを搭載し、最高で高度36.5キロに到達した。ペイロードは主に金属針のチャフで、これを地上からレーダー観測することで高層大気の風を観測することができた[5]。
打ち上げはポーランド北部ウストカの海岸から、高さ4メートルのランチャを使って行われた。1964年から40回の開発打ち上げの後、1965年6月からIQSY観測を開始し、1967年までに41回の観測打ち上げが行われた。打ち上げ成功率は91%だった。
1963年、水文気象学研究所は人工降雨や雹抑制実験のためのロケットRASKOを開発した。RASKO-1はRM-2の転用で、1964年開発のRASKO-2は長さ1.3メートル径5.5センチの単段固体ロケットだった。RASKOは海上打ち上げされたが、一度も高度1キロにすら届かなかった。RASKOは1970年まで実験が継続されたが、成果は思わしくなくその後計画はキャンセルされた。
さらに大型のメテオール-2は全長4.5メートル、径35センチ、二本のブースターを装着しての全重は400キログラム以上にもなっていた。ペイロード重量は10キロ、これを最高で高度90キロまで打ち上げることができた。計算から導かれる推進剤の比推力は130秒程度と、これは黒色火薬のものだ。ペイロードは温度テレメトリをダウンリンクするラジオゾンデで、1965年から開発を開始して1968年には最初のバージョンであるメテオール2Hが飛行した。メテオール-2Hは7機が打ち上げられた後、改良型のメテオール-2Kが1969年にとって代わった。
彼らは当然多段化を考えていた。そのための試験機がメテオール-3で、1967年から開発を開始し、1968年から打ち上げられるようになった。これは基本的にはメテオール-1のモジュールを二つ縦に繋いだだけの代物である。そういう訳で高度は最高65キロまでにしか到達しない。
だがメテオール計画は1970年、ゴウムカ失脚後の新政権により政治的に中止させられることになった。メテオール-Kは10回の打ち上げで、結局二段目を搭載しないまま終了した。最後のメテオールは1974年に飛んだメテオール3Eだった。新政権はソ連寄りの政策をとり、宇宙開発の独自開発路線は否定された。
1970年2月、日本の東京大学宇宙航空研究所は衛星打ち上げに成功し、世界四番目の独自衛星打ち上げ国となった。
1976年、ポーランド科学アカデミー宇宙研究センター(CBK)が設立されたが、活動はソ連の国際宇宙開発の枠組み、インターコスモスの一部として活動するに留まった。つまり打ち上げ機も宇宙機開発も行わず、宇宙機搭載ペイロードと客員宇宙飛行士を送り出すだけに留まった。
ミロスワフ・ヘルマシェフスキ(Mirosław Hermaszewski)はポーランド最初の宇宙飛行士である。1978年にソユーズ30号で打ち上げられ、サリュート6号に一週間滞在した。
ポーランド共産政権が崩壊した1989年以降も、ポーランド科学アカデミー宇宙研究センターの活動はほとんど変わらず、研究はおもに惑星間物理に限られてきた[6]。ESAの宇宙計画に参加するようになったが、主に観測ペイロードの開発と利用に限られている。2012年前後の欧州経済危機ではその活動を大きく制限されたが、ポーランド経済も少しづつ復活のきざしが見え始め、それにより活動も復活している。
現在、ポーランドのロケット開発は民間団体のポーランドロケット協会(PTR)のそれを最大の活動としている[7]。活動は2010年からと最近だが、クラフクを中心に主にハイブリッドロケットを開発、打ち上げている。
ポーランド最初の独自人工衛星「レム」(Lem)は2013年11月に打ち上げられた。開発はカナダとオーストリア、そしてポーランドの合同プロジェクトBRITEによって行われた。重量は6キログラム、20センチ四方の三軸衛星で、パドルは展開しない。スタートラッカとSバンド送受信機を搭載している[8]。同型の二号機ヘベリウスは2014年8月に長征4号で打ち上げられた。
[1] http://www.samolotypolskie.pl/samoloty/3071/126/Sekcja-Techniczna-Oddzialu-Krakowskiego-Polskiego-Towarzystwa-Astronautycznego
[2] http://pl.wikipedia.org/wiki/Kazimierz_Siemienowicz
[3] http://pl.wikipedia.org/wiki/Józef_Bem
http://phw.org.pl/rola-jozefa-bema-rozwoju-wojsk-rakietowych-krolestwa-polskiego/
[4] http://pl.wikipedia.org/wiki/Jacek_Walczewski
http://www.samolotypolskie.pl/samoloty/3104/126/Walczewski-Jacek2
[5] "Rockets of the World third edition"
[6] http://www.cbk.waw.pl/
[7] http://www.rakiety.org.pl/
[8] http://www.brite-pl.pl/pliki/satelita.html
■ C86、当サークルにおいでくださって有難うございました。 -2014年8月17日(日)21時47分
1:ハイレゾオーディオプレーヤ2014年版
サポートはhttp://www.wikihouse.com/madnoda/で行っていきます。マニュアルpdfはこちらにあります。
2:てのりマイコン
サポートはhttps://github.com/mizuki-tohru/stm32f4-consoleで行っていきます。マニュアルpdfをはじめデータ全般がこちらにあります。
3:「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ」
申し訳ありません。ミスがありました。
7.4 プロジェクト・オーガス の項の最後は、正しくは以下のようになります。
"ウクライナでは80年代を通じてゆっくりと企業ASが導入されていき、経済の80パーセントがウクライナ政府の制御下に置かれることとなる[38]。ただこれはOGASではなくOAS(ОАСУ)であり、自動経済システムではない。
グルシコフは1982年に死ぬ。それはソ連にパーソナルコンピュータが生まれる前年でもあった。現在キエフには、グルシコフの名前を冠したサイバネティクス研究所が存在している。ウクライナでは現在でも発電所などでは細々と企業ASが開発、利用されている。"
[38] Надо ли изобретать колесо?
http://ehronika.com/2011/05/07/надо-ли-изобретать-колесо/
Автоматизовані системи управління технологічним процесом електростанцій
http://lektsiopedia.org/ukr/lek-7385.html
■ コミックマーケット86に、サークル名"航天機構"で参加します。 -2014年7月9日(水)23時28分
8月17日(日曜日)西く-16b、同人ソフトの西南、電子デバイス島です。頒布は以下のものとなります。
1:ハイレゾ高音質携帯オーディオプレーヤ
去年のものからDACがFN1242Aから変更になります。USBストレージ対応、秋月I2C小型液晶対応になります。ただ、まだ開発中なので、最悪出せない可能性もあります。
2:てのりマコン
400x240白黒ビットマップ液晶とキーボード、32ビットSTM32F4マイコン上でBASICがエディタ付きで動きます。リチウムポリマバッテリーでどこへでも持ち歩けます。
BASICはマイクロSD上のファイルの読み書きに対応します。充電はUSBからおこないます。フルシステムではBluetoothシリアル入出力やBluetoothキーボード化、アナログ入力、RS422シリアル入出力などにも対応しますが、頒布価格を抑えるために、基本キットにはそれらに対応するための部品を搭載しません。ただ、いづれも秋葉原に入手できる部品です。基本キットでは液晶とバッテリーを別途調達して組み立てる必要があります。これらも秋葉原や通販で入手可能です。
写真は開発版で、頒布するのはキーボードをシンクレアZXスペクトラムをベースに作り直した改修版になります。
その他基板も持参するかもしれません。詳細は直前にはもう一度書けると思います。
-----------------------------------------------------------------------------
あと、8月15日(金曜日)西あ-43b"風虎通信"さんで、"ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ 増補改訂版(仮)"が出ます。
前の本の内容を全部見直して、訂正した上で足りなかった部分を足しただけの筈が、なぜか100キロバイト分ほど内容が増えていました。増えたのは主に組み込みとパソコンです。
ソ連独自OSのDispakもじっくり調べましたが、前の本では作者を間違えていました。訂正します。Refalの作者トゥルチン(В.Ф. Турчиным)じゃなくて、別人のトゥリン(В. Ф. Тюрин)でした。トゥリン本人が書いた解説書も読みました。
Refalもソースから読みました。マルコフ連鎖のマルコフの子供が同姓同名で、マルコフアルゴリズムはその子供のほうの考案だとか、なんなの一体……
ウクライナのアーケードゲーム機ТИА-МЦ-1は収穫でした。ウクライナのコンピュータ産業については考察する価値があるでしょう。
■ ウクライナのバナッハ-タルスキ分割 -2014年4月1日(火)00時05分
西ウクライナ、ガリツィアの都市リヴィヴは、最近の国際情勢の中でよく耳にするようになった地名であるが、ここが元はポーランドの都市だった事、ポーランド人とユダヤ人の都市だった事はあまり意識されていないように思う。さらにこの都市が、かつてポーランド数学及び論理学の一大中心だったことは、ほとんど知られていないことと思う。例えば逆ポーランド記法の元となったポーランド記法の考案者、ヤン・ウカシェヴィチはルヴフ(リヴィヴのポーランド名)の出身者である。
バナッハ-タルスキのパラドックスでよく知られているポーランド数学の巨星、ステファン・バナッハもまたルヴフの出身者である。バナッハとポーランド数学、そして当時のルヴフは極めて緊密に結びついていた。
ルヴフは、第二次世界大戦まではポーランドの都市であり、第一次世界大戦後の西ウクライナ人民政府による短い支配の前はオーストリア-ハンガリー帝国に属し、ポーランド人とユダヤ人の都市として繁栄した。ルヴフはウクライナ人の都市とは決して言えなかった。
バナッハは1892年にクラクフで生まれ育ち、ギムナジウムを卒業した後、ルヴフ工科大学へと進学した。第一次大戦後、シュタインハウスにその才を見出されたバナッハは、優れた研究成果を次々と発表し始める。1920年、ルヴフ工科大学の助手に採用されると、同年博士論文でバナッハ空間を導入した。1930年に発表したタルスキとの共著論文「合同でない点集合の分解について」は後にバナッハ-タルスキのパラドックスと呼ばれることになる。
1939年、独ソ不可侵条約の締結に伴いソ連はポーランドへ侵攻、その国土を分割占領した。ソ連占領下のルヴフでは大規模なポーランド人の迫害と追放が始まり、バナッハは市議としてポーランド人の保護に努めた。しかし1941年ドイツの侵攻によりバナッハらユダヤ人は絶望的な状況に置かれることとなる。占領直後に40人の都市指導層知識人がウクライナの民族主義者の手引きで粛清され、11万人の市民がゲットーに押し込められた。バナッハはルドルフ・ヴァイクルのバクテリア研究所によって保護されたルヴフのユダヤ知識人の一人だった。バナッハは腸チフスワクチンの製造に必要なシラミの飼育係だった。腸チフスはゲットーでも強制労働の現場でも猛威を振るったが、生き残った人々も絶滅収容所へと移送されていった。
1944年のソ連による再占領の後、バナッハは自由を取り戻したが健康を回復することなく、肺と気管支の癌により1945年死去した。
戦後ルヴフはウクライナに編入され、冷戦中の迫害によりユダヤ人は社会的地位を奪われることになる。冷戦終結後、少数となっていたユダヤ人の多くが主にイスラエルへと移住していった。
バナッハ-タルスキのパラドックスが今日見直されているのは、ウクライナ情勢が選択公理の適用であるという指摘からである。ロシアがウクライナからクリミアを分割した処理は、建前上は住民投票に基づいており、これは分割の単位が住民であることを意味している。住民はたかだか有限個の集合でしかないが領土は無限に分割可能であり、そのためクリミアは民族に分割された要素の濃度写像であり、この領土はルベーグ可測でない断片の集合と考えることが出来る。
要するにバナッハ-タルスキのパラドックスを適用すれば、このような有限個の断片を組み替えることによって、例えばもう一つの、全く同じ大きさのクリミアや、全く同じ大きさのウクライナを作り出すことが出来るのである。
バナッハ-タルスキ分割が適用された場合どうなるか、ルヴフを例にすると、スヴァボーディ大通り/レギヨヌフ通り中央に見えない分割線が設定され、東がリヴィヴ、西がルヴフと呼ばれることになる。リヴィヴ住人は西のルヴフが存在しない振りをし、逆にルヴフの住人はリヴィウという都市が見えないかのように振舞る。
分割線の周辺では、この二つの都市は複雑に交ざりあっており、例えばシェフチェンカ大通り/アカデミア大通りの南端東側にある銀行は、ルヴフ側から見るとスコットランド風の内装をした、ケーキがおいしいと評判のカフェである。二階の大理石のテーブルでコーヒーを飲みながらバナッハやフォン・ノイマンばりの定理証明の落書きをしたいのなら、窓口で年金の相談をするために辛抱強く待ち続けるリヴィヴの住人たちを邪魔しないよう、万全の注意を払う必要がある。勿論年金相談窓口が見えているかのような振る舞いをしてはいけない。万が一そんなことをしてしまうと、あなたは最終的に高い城砦またはソラリス・ステーションと呼ばれる場所に連行、監禁されることになる。ただ、誤って間違いを犯してしまった場合でも、落ち着いて床や路面にシェルピンスキー図形を描くことで執行者たちを幻惑することが出来るという噂がある。
都市郊外にはリヴォフ、またはレンベルクと呼ばれる地域もあるが、市中央からは離れており、特にリヴォフは陰鬱な共産主義時代のアパート群に設定されているため、旅行者は特に気にする必要は無いだろう。
ベジェルとウル・コーマ両都市の例を引くまでも無く、このような分割はウクライナに諸問題の解決と平和をもたらすであろう。
----------------------------------------------------------------------------
上記当たり前と言うか、付記の必要も無く嘘です。
……去年は全然更新しなかったので、今年はもちっとやろうと思っています。
あと、夏コミは「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ」増補改訂版を予定しています。あと自サークルが受かれば、電子系も色々と。
■ コミックマーケット84に、サークル名"航天機構"で参加します。 -2013年8月9日(金)00時56分
8月12日東へ-12b、電子デバイス島です。頒布は以下のものとなります。
1:ハイレゾ高音質携帯オーディオプレーヤ
CDに記録される楽曲データは16ビット44.1KHzのサンプグリングレートとなっており、特に高周波領域の音はCDへの収録に当たってカットされています。本機はこれを越える24ビット96kHzのサンプリングレートの楽曲に対応しており、より原音に近い楽曲再生がおこなえます。
また、高音質用OPアンプを8Vのバッテリー電圧で駆動するという、市販の携帯オーディオプレーヤではまず無い理想的な動作を可能としました。そのため電源には2セル直列のリチウムポリマバッテリーを使い、更にこのバッテリー用の充電回路も内蔵しました。
mp3再生では音質に定評のあるライブラリMADを用いて、高品位なソフトウェアデコードを行います。
この音質のポータブルオーディオプレーヤは最近ようやく幾つか出てきましたが、安くても五万円台と高価です。本機は設計データの全てが公開された安価な機体です。特にソフトウェアを自前で書き換え、載せ替えが可能となっています。またOPアンプの乗せ替えにも最適です。
今回は、基板と実装解説のセットを1000円、基板に表面実装部品を載せたものに解説のセットを9000円で頒布いたします。
2:液晶付きデータロガー
主に低頻度の事象を補足するために開発された、モノクロ液晶ディスプレイ付きのディジタル/アナログ/シリアルデータの収集機です。入力された信号のパターンを液晶に表示すると共に、マイクロSDカードに記録していきます。
今回は、基板と実装解説のセットを1000円、基板に表面実装部品を載せたものに解説のセットを5000円で頒布いたします。液晶は別にご調達ください。
カタログで予告したペットボトルロケット用慣性誘導コンピュータは、部品のディスコンと実装不良、歩止まりの悪さから今回の頒布は断念しました。
-----------------------------------------------------------------------------
あと、8月11日西あ-11b"風虎通信"さんで、"宇宙の傑作機別冊 スカッドミサイル改訂版"が出ます。ロシアのネット書店で買った、後ろ半分がスカッドの部品の廃品利用アイディア集みたいな変な本を元にしたスカッドの詳細など、いろんな内容が増し増しになっています。こちらもよろしくお願いします。
■ ミクロ経済学はほとんどガラクタだった -2013年7月17日(水)00時15分
経済学の勉強を始めたとき、期待していたのは、お金とは何なのか、経済の人間生活における位置づけはどうなっているのか、そういう事をまず明確にしてくれる事だった。
経済学はそういう私の期待をきれいさっぱり裏切ってくれた。経済学者はお金とは何かとか、あんまり考えないらしい。経済行動における通信プロトコルとかまったく考えていなくて、代わりに均衡とか平衡とか、そういう言葉が大好きのようだった。
仕方が無いので私は独学を続け、そうして行動ゲーム理論を一巡りして、ようやく私は経済学の基礎に巡り合ったことを確信した。当の行動ゲーム理論の理論家たちはまったく意識していないようだったが、経済行動の基礎は行動ゲーム理論の中にしか無かったのだ。
経済行動の基礎は取引だ。この取引にはお金を使わないものも含まれる。実際には人間の経済行動の大半はお金を使わない。また、取引の相手も、実は自分自身が大半を占める。例えば前方に道が二つに分岐していたとする。どちらにするか、経済的な選択を人間はするだろう。より近道を、よりお金のかからない道を選ぶだろう。毎回通っている道を選ぶというのも、選択にコストをかけたくないという経済的に合理的な行動だ。
経済的に合理的な行動が、経済活動でなくて何であろうか。
こういう事柄を研究するのが行動ゲーム理論だ。
私はこういう事柄こそ経済の基本だと考えるが、たいていの人の意見は違う。彼らが論じるのは天下国家の経済であり、金儲けの経済だ。
例えばスコット・サムナーの貨幣に対するご高説を拝聴してみよう。貨幣の定義はいろいろあるそうだ。だが要するに媒体であるらしい。媒体!かっこいい言葉だが、要するにエーテルだ。二者が財物を交換するとき、その間に貨幣が挟まって、多分ぷるぷる震えることでこのエクスチェンジを可能とならしめるのだろう。ここにあるのは単なる似非物理学もどきだ。
私はもっと根本的な疑問を抱えている。貨幣が自然数を表現するのは何故か。なんでお金は数字なのだろうか。価値の、信用の表現が数字で済んでしまうのは何故なのだろうか。だが、話を現在の経済学に戻そう。
金儲けの経済に目を移そう。要するにミクロ経済学だ。私はマンキューの分厚いミクロ経済学の教科書が、ほとんど明確な裏づけを持たない空論の集合であることに驚いた。マンキューは何か自分でモノを売った経験が無いのだろうか。
例えば、モノの値段がどうやって決まるか考えてみよう。例えば同人誌即売会で同人誌を頒布する場合を考えてみる。これは零細少量生産のよい例題だ。
まず書きたい題材がある。同人誌ではまずこれが大前提だ。書きたい題材を本にすることが同人誌の鉄則で、ここに従来の経済学の経済性だとか合理性だとかいう理屈はまったく立ち入ることができない。但し行動経済学、行動ゲーム理論では別だ。同人誌を書くのはそれが幸福になるための、例えば自己顕示欲を満たす豊かさを手に入れるための活動の一環だからであり、行動経済学的な経済合理性は充分すぎるほど成立している。
さてミクロ経済学の領域に戻ろう。同人誌の価格は、書きたい題材に関するマーケット規模、製作する同人誌がどの程度ウケるのかの予測、印刷サービスのコストによってほぼ決定される。というか、価格決定は冊数決定に比べるといい加減で良い。実際のところ最も重要なことは冊数決定、つまり需要予測である。価格はあとで幾らでも調整がきくパラメータだが、冊数は同人誌即売会のずっと以前に決定され、印刷サービスへの支払いも即売会のずっと以前に確定する。
冊数をどうするかでデフォルトの価格はほぼ自動的に決まる。たいていの場合価格は、コストプラスアルファを販売予測冊数で割ったものに、1から2のあいだの係数を掛けたものになる。プラスアルファの部分は、価格を100円単位で調整するときにかなり適当になってしまう。価格を100で割り切れるようにすることは、同人誌即売会では10円安くするよりも客に評価される。
ただ実際には、売れる冊数は事前予測よりもかなり少ないことが多い。事前の告知のようなちょっとした宣伝広告すら無い場合や、宣伝に反応が無かった場合は特になりがちである。そういう場合は即売会会場でリアルタイムに値下げすることになる。同人誌は水モノに近いので、在庫を持たないことが優先されることが多い。だから販売予測冊数と印刷する冊数は通常等しい。
すると同人誌の価格は、需要予測と生産コスト、そして価格端数と実売実績によって決定されるが、結局需要予測こそが同人誌経済の主体であるということが出来る。結局同人誌は極端な値段でもない限り、買うのを値段で決める奴はいない。隣より10円高いからといって、隣を買う奴はいないのだ。
何が言いたいかというと、零細少量生産の世界では価格決定というのは経済の主役ではないという事だ。
つまるところ、マーケットの性質が違うと、ミクロ経済学の教科書で金科玉条として扱われている事柄も様子が全然違ってくる。
例えばコンビニに行ってみよう。コンビニに置いてある商品は、どうやって需要の変化に対応するのだろうか。それは決して価格の変更ではない。ただ単に置く数を増減するのだ。価格は極めて硬直的で、もし需要供給曲線を描くなら、それはとてもおかしなものになってしまう。需要が変化しても価格はフラットな水平線で、ミクロ経済学の教科書では、これは供給の価格弾力性が無限大の場合だと言っている。つまり我々は、コンビニを覗くたびに無限を目にしていることになる。実際にはコンビニの商品は無限供給には程遠い。それらはバッチ生産で、売り切ったらそれまでだ。
値引き交渉ができる店とコンビニとでは、何が違うのだろうか。コミュニケーションが取れることだろうか。いや、この問題は一般化するとコミュニケーションの問題では無いことがわかる。例えば原油や小麦の価格、株価などは過敏に変化する。これらはコミュニケーションで変化しているのではない。将来の需要予測で変化しているのだ。
値引き交渉とは、需要予測に関するパラメータを互いに相手に与える行為に他ならない。コンビニはユーザの需要予測をほとんどしない。客は需要の都度に頻繁に来るに決まっている。もし需要予測をするならそれは店舗の出店時にだ。
結局大事なのは需要予測だ。特に現在の社会のような供給過剰経済下ではわりとシンプルに需要のみが問題となる。
逆に供給が少ない場合、問題は複雑となる。というより市場経済のルールから逸脱しがちになる。例えば公共工事で入札が行われるとき、談合がはびこるのは何故だろうか。それは、実のところ取引には市場以外の数限りない方法が存在し、市場取引は特殊な状況に過ぎないということだ。
供給過剰条件と過小条件では取引の条件がまったく違うことを説明しているミクロ経済学の本を、私はまだ見たことが無い。供給過剰条件では経済のパラメータは基本的に需要一つだけだということも、これを説明した本を見たことが無い。そもそもが、現実の数字の裏づけのあるグラフを載せているミクロ経済学の教科書を見たことが無い。大抵のグラフは単位すらない。
怖い。なぜミクロ経済学の教科書たちは現実から遊離しているのだろうか。それとも私の見ている現実とやらが幻なのだろうか。私の経済学の教科書の読み方は全て間違っていて、全ての現実の取引に明快な説明が与えられる、時々そんな夢を見ることがある。
ひとつの知識分野がまるごと空虚だとか、それは悪夢だ。こう言明することすら悪夢だった。ミクロ経済学の現状に対して誰も疑いを差し挟まないなんてありえるのだろうか。それともやはり、私の頭がおかしいだけなのだろうか?
どちらにしても、悪夢に違いない。
■ 第一回国際マイクロ経済学会レポート -2013年4月1日(月)00時08分
去る13月に開催された第一回国際マイクロ経済学会は、急速に注目を集めつつある新しい学術分野の勢いを確認する良い機会となった。発表された内容はどれも混沌としか言いようが無く、今後の波乱を感じずにいられないものばかりだった。
まず基調講演からゼーニマンはやってくれた。本来ならマイクロ経済学とは何か、新しい学術分野に対して俯瞰するような事を言うべきなのだが、しょっぱなから貨幣の時間に対する非対称性に関する持論を滔々と語った挙句、貨幣は自然数ではないと言い出した。貨幣の時間に対する非対称性とは要するに負債には利息がつき、貸した金には利子がつく、これを言い換えただけの事であるが、これをゼーニマンは貨幣の基本性質だと定義した。増えたり減ったりするのは資産価値であり貨幣ではないという、当然の指摘をする野暮なミクロ経済学者はここにはいない。ゼーニマンは貨幣と資産価値は不可分である、できるならこれを分離してみろという。貨幣は自然数ではないというのは判りにくいが、筆者にも後に飲み込めるようになる。分科会にそのものずばり貨幣数論というものがあったのだ。
パネルディスカッションは、生物経済学についてだった。これは要するに人間以外の動物の経済行動に関する学問である。だがここでは、通貨を使わない、普通の人間の合理的行動を含めるかという提起で議論は紛糾した。それは行動経済学の分野だというのが大勢の見方だったが、そもそも行動経済学がそこまで拡張されていないという、悲しい意見により、そもそも行動経済学とは何かという話に脱線する始末となった。
午後からは生物経済学と貨幣数論の二つの分科会のうち、貨幣数論のほうに顔を出してみた。貨幣数論では、どうも貨幣に対して足し算や引き算、掛け算や割り算がどこまで使えるのか、たとえば大きな金額では掛け算、つまり利率計算は正しい判断に結びつきにくい事を、どう定量化すべきかが大きな議論になっていた。
これに対してマンジューは人間の価値計算、価値判断の基礎を、人間の脳内にある何らかの計算機械のアーキテクチャに求めた。マンジューによれば、人間の脳には大きな数を正しく計算できない計算機ハードウェアが内蔵されている。同時に7つの事象、7つの数しか覚えられないとは良く聞くが、それは人間の内蔵する価値計算機が3ビットのレジスタしか持っていないからだという。人が覚えていられる事は明らかに3ビットより情報量が多いという指摘に対しては、人間の、認識の結果をひとつのニューロンが代表して記憶する方式が、コンピュータで言うところのポインタに該当するのではないかと曖昧にかわした。マンジューによれば人間の価値計算機は他の生物と違いチューリング完全であり、ソフトウェアにより大きな数の認識と計算、高度な価値判断を行っているのではないかという。人間だけがチューリング完全なのかという問いには、それは今後の研究を待たなくてはならないといい、既にチューリング完全を当の昔に達成しているコンピュータに、なぜ自我が芽生えないのかという質問に対しては、価値判断に自我が必要だというなら根拠を示すべきだと返し、機械経済学者たちの拍手を浴びていた。
行動経済学によって明らかになったパラメータにしたがって作られた貨幣計算用の数学ライブラリMONYMATHはオープンソースとして開発が進められており、それを使うと大きな金額の価値が曖昧になる問題や、きりのいい金額より少し小さい数にすることによって価格大きさを誤魔化す手法などに左右されずに、人間の本来感じる価値の大きさを自然数で表現できるという。
この日聞き逃した生物経済学の発表では、カラスの経済行動に関するものが評価が高かったようだ。カラスが光り物を集めるのは貨幣として使うためだということを発見したのみならず、その交換率が季節によって変化することを根気強い観察で明らかにしたのだ。
翌日は機械経済学の分科会に参加した。機械経済学とは、人間と生物以外の、ロボットや人工知能の合理的行動のデザインに関する分野で、そのスペクトルの端はミクロ経済学や行動ゲーム理論の社会制度デザインに接している。分野は広大で、たとえばクレーグメンはネットゲームの経済デザインに関して発表した。ネットゲーム内の価値は、ユーザがそれに費やした時間をその根拠として持っているとクレーグメンは言う。ゲーム内の価格付けは獲得するのに必要な平均時間に比例すべきで、そこからの差が価値の割高、割安感を生むという。しかしネットゲームの成功は更にゲーム内で価値を創造できるかどうかにかかっていると言う。要するに仲間を見つけやすくする、そのコストを低減することが重要だという、それは理解するのだが、それで仲間としてAIを宛がうというのはどうなのだろうか。
AIもまた機械経済学の重要な対象である。ウィンターズはAIシステム用のリアルタイムOS開発について報告した。ウィンターズはいわゆるフレーム問題はバッチジョブ的な考え方であって、リアルタイムマシンではそもそもそういう切り口で問題を考えないと言う。単純に優先順位付けさえしっかりしていれば、AIは計算できる範囲で計算すれば、自分の計算能力の範囲で問題を解決できるという考えだ。そして優先順位付けは経済計算だと言う。つまり、様々な事象の価値の組み合わせが状況であり、自己価値を最大化していく行動をとることが合理的行動だというのだ。
「われわれの脳内でも、あれがいいか、これがいいかと迷うとき、同じように経済計算が行われている。仮想の脳内通貨が行き交い、取引として決定が行われる。脳内市場の相場観をわれわれは価値観と呼んでいるのだ」
今こそAI研究は再始動すべきだという力強い呼びかけが印象的だった。確かにAIは人間的である必要など無いのだ。合理的である必要すら無いかも知れない。問題を与えたら問題を解決する、万能問題解決機こそがAIの本質である筈だ。
この盛り上がりに冷や水をぶっ掛けたのがスティグだった。AI研究は巨大な問題を無視し続けているとスティグは言う。問題解決、つまり与えられた問題の解空間の探索に関してはAIはすばらしく上手くなった。しかし肝心の与える問題の性質の研究がおろそかである、と言う。
AIに与える問題に関する"問題"は大きく分けて二つある。一つは解けない問題への対処だ。そんなことは昔から解法は決まっており、要するに問題を解けるまで分割するという話になるのだが、それをAIにやらせる手法はまだ確立していない。スティグは可能性のひとつとして定理証明器の応用を挙げた。もうひとつの問題は、問題を発見させることだ。もしAIがいろんな潜在的な問題に気づけるようになれば、その産業価値は計り知れないだろう。これは現状と過去の問題例とのパターンマッチング、または現状の将来状況の探索によって行われるだろうと予測された。
この日は朝からプログラムの一部変更がアナウンスされていた。昨日急遽、生物経済学の分科会で扱うより参加者全員が聞くべきだと、発表がひとつメインホールにセットされたのだ。サムィナーはそこで驚くべき発表をおこなった。人類はかつて資本主義によって滅びかけたというのだ。サムィナーはその時期を五万年より最近、およそ三万年前付近だろうという。カフカスの後期旧石器時代の遺跡で、食料や道具の極端な集積の差が発見されたという。サムィナーはこれを、かつて人類は合理的な経済行動をおこなう生物だったのだという。
「お金がなぜこれほどまでに万能であるか、考えてみたことがあるか」とサムィナーは問う。「そして万能ではないというわずかな反証例がなぜ存在するかを」
経済行動をおこなうなら、合理的なほうがシンプルで強力である。お金ですべて買える価値観のほうが経済行動計算機は簡単で強力だろう。人間は完全に合理的な行動が出来たはずだ。そういう人間は脳内の市場に完全に従い、高度に資本主義的に振舞うはずだという。しかしそれでは資本主義社会の終着点、寡占で破綻することになる。
人間の非合理性はその後に進化によって獲得したものだったのだ。つまり、愛や様々な美徳を通貨に換えることができないという、通貨の万能性に対するアノーマリは、価値を集積した人間、つまり金持ちだけがモテる経済合理性、寡占状態が人類の生存には向かなかったから、そういう価値観がある程度壊れた人間が愛などの非合理的価値観によって生殖し、生き残ったのだという。
印象的な発表だったが、根拠は薄く、そういう意味では感心はしなかった。しかし会場での受け止められ方は違ったようだ。そもそも経済学そのものが割りと適当なデータと正しくないグラフを弄ってこじつける様な文化があり、この程度でも立派な発表なのだ。
今学会で個人的に一番感心したのは、マイクロ貨幣数量説だ。これはいわゆるフィッシャーの交換方程式のマイクロ的基礎と位置づけられたもので、個人の取引速度をメッセージとしてやり取りすることで物価水準を個人レベルで把握、コントロールできるというものである。具体的なメッセージは以下のようなものになるという。
「もうかりまっか?」
「ぼちぼちでんなぁ」
------------------------------------------------------------------------
はい。全部嘘です。日付参照のこと。最近ずっと経済学に凝っていましたが、結局わかったのは、マクロ経済学のみならず、ミクロ経済学も半分がたガラクタだという事でした。需要-供給曲線なんて嘘っぱちもいいところです。正しい基礎を得ようとしたら、行動ゲーム理論まで掘り下げる必要があります。
■ 韓国の宇宙開発史#11 -2012年11月12日(月)01時27分
2004年のKSLV-1のアンガラベースでの実現という方針転換は、韓国の既存液体エンジン技術の放棄を意味していた。独自開発の道の閉ざされた現代重工業とロテム社のエンジン技術者たちは、2004年11月に独立してベンチャー企業チャレンジ&スペース社(C&SPACE:CSI)を設立した。
彼らは既に開発していた衝突型インジェクタとアブレータ冷却を持つ燃焼室と、露ケルディシュ研究所製のターボポンプを結合して、10トン推力の液酸メタンエンジン、CHASE-10を開発した。燃焼室圧力は7MPa、比推力は321秒となっているが、今日の視点からするとこれら数値は実現できていたか怪しい。2006年3月の燃焼試験はロシアで行われ、最良と思われる10秒の燃焼試験結果を得た。この燃焼試験はビデオが公開されているが、燃焼ガスの様子を仔細に観察できないため、エンジンの性能についてなんとも言えないものとなっている[49]。その後燃焼室は再生冷却になったようだが、性能の数値は混乱している[50]。その後C&SPACEは韓国に試験場を移してエンジンの屋外用テストスタンドを新造した。
C&SPACE社は社長を含めわずか従業員6名の会社だったが、うち5人が工学博士号を持ち[51]、公開された株式は投資家の人気となった。彼らは2007年には500キログラムのペイロードを高度300キロまで弾道飛行で打ち上げる小型の科学観測ロケットを実現し、将来的には有翼ロケットプレーンによる観光弾道飛行を実現するとしていた[52]。
しかしC&SPACE社は2008年には資金繰りの問題を抱えるようになる。そもそも売り上げを出す手段が当分無いのだから、投資家には充分なだけの夢を見せておかないと即座に行き詰ることになる。
C&SPACE社は2008年2月にCHASE-10の通算二度目の燃焼試験を実施したが、これはお粗末としか言いようが無い出来だった[53]。役割も持たない人間がエンジンの周りをうろついたまま試験は開始され、試験担当者たちは燃焼試験のやりかたも意味も、自分たちのエンジンの動作もまるで知らないかのようだった。
プリバーナは正常に燃焼していたか疑わしい。恐らく予冷不足で液体メタンと液体酸素がガス化、つまり配管で温まってガス化したメタンおよび酸素が配管を占め、重量単位の流量が極端に少ない状況のまま点火したのだと思われる。不完全燃焼か、燃焼せずに気化したガス圧のみでターボポンプが駆動されていたように見える。
点火による爆発的燃焼はエンジンを痛めかねないハードスタートだった。その後の12秒間の本燃焼ではほとんど推力が出ていたようには見えない。ターボポンプの圧力不足による推進剤供給の不足か、やはり予冷不足による供給不足の可能性が高い。燃焼終了シーケンスに入ってメタンは盛大に燃え始めた。恐らく窒素ガスによる配管パージで、未燃焼のメタンと酸素が押し出されて燃え出したものと思われる。炎が勢いよく見えるのは窒素ガスの圧力によるものだ。
ターボポンプ排気管からは、燃え損なったメタンがプリバーナ配管のパージによって押し出され、盛大に燃え盛ってテストスタンドを焼損した。プリバーナ配管は本燃焼中にようやく冷え切ったようだ。彼らは極低温液体の扱いを全く知らないかのようだった。もしそうなら悲劇的な結果に終わらなかったことは幸運だったと言うしかない。
彼らの資金は初期にはVitzro tech社が出していたようだ[54]。2008年12月にはSOLAR&TECH社と接触したようだが、取締役人事でごたごたを演じたあと縁が切れた。2009年1月にBNR社が後見となり、新たに経営陣は一新された[55]。
2009年7月、C&SPACE社はアメリカに売り込むべくエンジンと燃焼試験設備一式をアメリカ本土にに送り込んだ。韓国ではS&SPACE社は米空軍とNASAの立会いの下で評価されると報じされていた[56]。見本市ではクロムメッキでピカピカに光るCHASE-10エンジンを展示した。そこそこの注目は浴びる事はできたが、燃焼試験を実際に見るまでは、どんな投資家でも態度は保留したかったところだろう。
ところがアメリカで二年分の納税記録が無いとLNGを売ってくれないという事が判明し、これで彼らは三週間をふいにした[57]。ようやく協力者を見つけて燃焼試験に漕ぎ付けたが、8月の燃焼試験は失敗、これはインジェクタの破損らしい。アメリカへの輸送中の破損という事になってはいるが、彼らはアメリカで幾らでもエンジンの面倒を見る機会があった筈である。彼らはこの一回きりの試験失敗で簡単に見切りをつけて韓国に戻ることとなった。このときに試験を担当した技術者は、この時の失敗の責任をとるという名目で会社を辞め、アメリカに渡ってメタンエンジン開発のベンチャー企業DARMA Technologyを興した。Blogの写真に見えるのは100kg以下の推力くらいのガス押し式エンジンだが、奥にはCHASE-10と同じ形式のターボポンプがあるのがわかる[58]。このターボポンプの入手経路は非常によくわからない。従来はC&SPACEはこのターボポンプを国産化したものと思われていた。しかし実際はロシアから幾らでも購入できる代物なのかも知れない。燃焼試験をYouTubeで公開している[59]が、青い炎の中にダイヤモンドコーンが形成され、正常な排気速度を達成していることがわかる。現在DARMAはC&SPACEの米国法人として新規技術開発と共にCHASE-10の売り込みも担当している。
S&SPACEはBNR経由の迂回上場を目論んでいた。BNR株は宇宙大国への夢と共に投機対象として人気を集めた[60]が、2010年3月、BNRの株は取引停止に、5月には上場廃止となった。この時期にSOLAR&TECH社も上場停止となっている。これはコスダックの取引監査室が頑張りすぎた結果らしい。BNR株の株主たちは阿鼻叫喚の体を演じたが、結局、C&SPACE社は生き延びたらしい。
C&SPACE社は2011年4月、一時期閉鎖していたウェブサイトを再開したが現在再び封鎖されている。C&SPACE社はCHASE-10の営業を行っているが、韓国国内における、特にCHASE-10の開発はもはや行われていないと思われる。DARMAの状況もあまり思わしくないようで、残念である。
[49] C&SPACE Firing Test
http://www.youtube.com/watch?v=uomKM3EBV7Y
[50] 제품명: Engine System (로켓엔진 시스템)
[51] [우주인] 로켓개발 벤처기업 '씨앤스페이스’ (세계일보, 2004/11/25)
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143918/index
[52] 서울~미국 2시간 만에 가는 탄도미사일 비행체 나온다
http://www.donga.com/docs/magazine/weekly/2007/12/05/200712050500045/200712050500045_3.html
제품명: SOUNDING ROCKET (탐사/관측 로켓)
[53] 【韓国】 メタンロケットエンジン テスト 【ドリフ状態】
http://www.youtube.com/watch?v=BjUuGONDXd8
[54] 비츠로그룹 : 하반기 부문별 신입 및 경력사원 공개채용 안내(2005)
http://blog.daum.net/jobtong/3054633
[55] 비엔알(023670)의 씨앤스페이스 우회상장 일지
[56] 씨앤스페이스 "메탄로켓엔진 美공군서 테스트
[57] 미국 상륙기.. 그 난관에 부딪히면서
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143426/index
[58] 설비 준비 및 그 경과 (중간)
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143355/index
[59] Youtube:ch4engine
http://www.youtube.com/user/ch4engine
[60] 비엔알 - 씨앤스페이스 - 우주항공테마 - 메탄 엔진
[중장기강추][비츠로테크] ★★(씨앤스페이스)점상 40방 갱신종목★★
http://econo.urin79.com/anal5/7149
비엔알 - 우주항공테마 - 씨앤스페이스 우회상장
http://blog.daum.net/2245405/475