(cache)「nWo」創始者エリック・ビショフ氏が明かす新日本プロレスとの秘話〈4〉…nWo結成と新日本との交渉 : スポーツ報知

「nWo」創始者エリック・ビショフ氏が明かす新日本プロレスとの秘話〈4〉…nWo結成と新日本との交渉

サニー・オノオ氏、マサ斎藤さん夫人の倫子さんとエリック・ビショフ氏(右)
サニー・オノオ氏、マサ斎藤さん夫人の倫子さんとエリック・ビショフ氏(右)

 1990年代に米国で「WWE」と並ぶプロレス団体「WCW」の現場責任者で副社長だったエリック・ビショフ氏(63)がこのほど、来日しスポーツ報知の取材に応じた。ビショフ氏は、90年代に新日本プロレスと提携し96年に日米のマット界を股にかけたユニット「nWo」で一大旋風を起こした。新日本との提携では、当時の渉外担当で昨年7月14日に75歳で亡くなったマサ斎藤さんと協力し、新日本のドームツアーの成功にも尽力した。「Web報知」では、ビショフ氏に当時の秘話とこれからのプロレス界の進む道を連載します。4回目は、「nWo」。

 ビショフ氏は、1996年に新しいヒールユニット「New World Order」を産み出した。

 「WWFとの戦いに勝ち抜くための、強いインパクトが欲しかった。それも大衆が信じる何か強いショックが必要だと考えていました」

 当時、WCWは、ビンス・マクマホン・ジュニア率いる「WWF」(現WWE)と激しい興行戦争を展開していた。テレビ視聴率を含めてライバル団体を制圧するため、ビショフは新たな発想を巡らせ、「nWo」の結成を決断した。軸になった選手は、WWFから引き抜いたケビン・ナッシュとスコット・ホールに加え、ハルク・ホーガンの3人。中でもリアルアメリカンヒーローだったホーガンのヒールターンは、ファンに大きな衝撃を与えた。

 新ユニット「nWo」は、96年7月7日、フロリダ州デイトナビーチのオーシャンセンターで行われた「バッシュ・アット・ザ・ビーチ」。ホーガンがナッシュ、ホールと合体しリング上で「これが、New World Orderだ」と宣言して正式に誕生した。

 以後、WCWは「nWo」を中心に展開し、興行、さらにテレビ視聴率でも83週間連続でPPVの視聴者数1位を獲得するなどWWFを圧倒するムーブメントを起こした。この動きに興味を示したのが、新日本プロレスの蝶野正洋だった。蝶野は、渉外担当部長だったマサ斎藤に相談し96年12月16日にフロリダ州ペンサンコーラで行われたWCWの会場を視察した。

 この時に絶大な貢献を果たしたのが、再提携を結んでからWCWと誠実な姿勢で付き合いを深めてきたマサ斎藤の人望と信用だった。ビショフ氏は、蝶野とマサの訪問を受けたことを覚えている。 「フロリダにマサと蝶野さんが来ました。マサから“日本でもnWoをやりたい”と言われました。私の返事は、何もWCWの条件も言わずマサと握手をしただけでした。これは、マサと私の間のジェントルマン・アグリーメントでした」

 ビショフ氏は、新日本で「nWo」の名称、ロゴ、グッズ販売など様々な権利関係で新たな契約を要求しなかった。すべては、従来の提携関係の枠の中ですべてを承諾した。

 「私の経験から、ビジネスをうまく進めるためには定説があります。それは、たくさんの条項がある過剰な契約はうまくいかないというものです。新日本は、nWoに関してのビジネスではすごくラッキーだった。すべては、マサを信頼していたからです。私がWCWのトップになってから、ビジネスを通じて彼ほど、正直で誠実で広い世界観を持つ人を、私は、他に、知りません。当時、私とマサは、ビジネスパートナーという枠を超えて家族ぐるみで付き合う友人関係になっていたのです。今も思い出すマサの姿は、堂々たる存在感にも関わらず、常に優しく、ユーモアに富み、品位ある人物でした。ですから、私の人生でマサ斎藤という人物との出逢い、強い絆、友情を結べたことは、誇りですし、光栄に思っています」

 マサとビショフ氏のビジネスを超えた友情が「nWoジャパン」の産み出したのだ。

 マサの尽力でnWo入りした蝶野は、翌97年2月にnWoジャパンのリーダーとして新日本に登場。以後、グレート・ムタも加入し平成のプロレス史で最大のヒットと言える記録的な人気と興行収入を獲得した。日米を通じて観客に絶大な支持を受けた「nWo」。その要因をビショフ氏はこう振り返る。

 「nWoは、個性的でカリスマ性溢れる選手が奇跡的に集まったことと、その思想、レスリングが新しくユニーク、アグレッシブだった。そこがファンを惹き付けたのだと思う」

(取材・構成 福留 崇広)

格闘技

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS ショップ報知 マガジン報知 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真販売 法人向け紙面・写真使用申請