February 15, 2006
『ストロベリークリームと火薬』(振付:ヤスミン・ゴデール)
話が逸れてしまったが、筆者がヤスミンと『ストロベリークリームと火薬』を知ったのは昨年の10月、ブタペスト公演の頃で(ヤスミンの作品はイスラエルの他、既にイギリス、ドイツ、アメリカ等世界9カ国で上演されている。パリ公演の前にはリヨンで上演されており5月には ”Two Playful Pink” (2003)がナントで上演される)その耳にした人の心を掴んで放さないタイトルに魅かれて「観たい」と思ったもののさすがに遠いのでそのときは諦めた。今回パリで見られるということで駆けつけたのだが、彼女はやはりフランスでもかなり注目されているようでCNDの小さなホールは満席で補助席も出ていた。
ヤスミン及びこの作品については既に「DDD dancedancedance vol.4」(Flux Publishing)に充実した特集(イスラエルの文化やヤスミンのインタビュー)が載っているし(p98-p107)、TIF2006のHP上に素晴らしい紹介文が載っているので、改めて言うこともあまりないのかもしれないのだが、できる限り重複をさけつつ以下、書いていこうと思う。
一口に言うと『ストロベリークリームと火薬』はとても素晴らしい作品だった。昨秋フランスに来て以来、実は20本ほどダンスを観ているのだがこれほど緊張感、緊迫感に満ちた舞台はなかった。もちろんそれは観ていて緊張してただ疲れるというものではないし、途中その張り詰めた空気が緩む瞬間もある。しかしそれは何か安心できる状態が訪れたのではなくて故意に、無理に空気が「緩ま」させられるのである。作品中に何度か笑顔が出てくるのだが、ダンサーは別のダンサーに(指で作った銃の)銃口を向けられ笑うしかなくなっていたり、テロあるいは徴兵への恐怖(イスラエルでは男女とも徴兵される)に耐えかねたのかバカみたいに明るくなっていたりするのである。後者においては「緩む」のレベルを超えてはじけてしまっている。そしてこのセキュリティという言葉に置き換えられうる「緊張感」とその反動として例えば(テロの標的になるにも関わらず)ディスコやクラブで踊り狂う若者たちが表象する「はじけ」が現代イスラエル社会にコインの裏表のように存在しているのだろう。
既に書かれていることだし舞台写真を見ればわかることかもしれないが、この作品はイスラエル社会が抱える問題に真正面から取り組んだ作品である。アフタートークでも話題になったが制作に際しては10枚ほどのイスラエルに関する報道写真(テロ現場、銃口を向けるイスラエル兵、パレスチナ人に対する検問etc)を選び、その写真からスタートして動きを作っていったという(1人のダンサーにつき2~3のキャラクターを受け持つことになっている)。この作業は外界から「隔離」された稽古場の中で行われ、例えばイスラエル、パレスチナ市民にインタビューするというような作業は一切行わなかったという(ちょうど同時期にハイム・アドリというイスラエル人の振付家がこのようなフィールドワークを基に作った "Back up" という作品をCNDで上演していた。筆者は見ていない。)。ここで注意したいのは、ヤスミン達は単にこれらの写真を再現すること、あるいは写真から読み取られる物語を語ることを意図しているわけではないということである。彼女によればこの作品でやりたかったことは写真のイメージに自分達の体験を重ね合わせつつ、そのどちらにも距離を取りながら新たなイメージを立ち上げることだという。
作品の内容に入るが、中央に草らしき緑があるのと下手端に検問の遮断機がある以外は何もない舞台に普段着の7人のダンサー(男3、女4)が現れる。音楽は冷たく舞台上の空間を切り裂いていくギターの音とノイズだけである。冒頭、2人の女性ダンサー(うち一人はヤスミン)が中央に歩み出てヤスミンが倒れかかったところをもう一人のダンサーが抱える。テロの被害者を救出しているような態勢である。注目すべきはヤスミンの客席をじっと睨みつける視線で、そのまなざしの力に筆者は囚われてしまった。決定的瞬間を捉えたカメラがこうした視線を写真に刻み付けることがあるが、この場合は生身の身体から発せられしかも時間的な持続がある分一層強烈な印象を持っていた。
その後もバレエのような振りやステップではなくダンサー同士の身体の絡み合いから生まれる動きによって作品は進行していく。その中でアクセントを与える役割を果たすのがストップモーションであり、テロ現場やパレスチナ人に銃口を向けるイスラエル兵というような決定的瞬間を効果的に表している。またダンサーが時折見せる表情も秀逸だった。特にバレエなどにおいてはダンサーが安易に表情をつけるとシラけてしまったりするのだが、この作品では彼/彼女たちの表情が作品の緊張感を増すのにプラスに作用していた。恐らくそれはこうした表情が突発的に瞬間的なイメージとして表れてきたからだろう。その結果「悲しいところだから悲しそうな顔をする」というような説明的な表情を免れていた。
最後になったがラストも素晴らしい。ネタバレになるので詳しくは書かないが観客は舞台上で起こっていたことがそこで終わるのではなく、現実のイスラエル社会で途切れることなく続いていることだということを認識させられるはずである。『ストロベリークリームと火薬』は一昨年、昨年と上演されたパレスチナのアルカサバ・シアターの作品を観た人には絶対に観てほしいし、そうでない人にももちろん観てほしい。というのもこの作品が「ダンスでもこれくらいのことはできる」という可能性を見せてくれるからである。実際そういった、アートの一ジャンルとしてのダンスという存在を超えて社会と応答しようとする作品は多くないのだから。
『ストロベリークリームと火薬』は3月1日(水)~4日(日)に、にしすがも創造舎特設会場(東京)で上演される。詳細はこちら。