今夜がヤマです。
その言葉を受け。
病室には父の奥さんが泊まっていたため、そこにいるのも気まずく、
車の中で夜を明かした。
「のぶちゃん、すぐに上がってきて。」
父の奥さんからの電話で僕は病室に戻った。
もちろん、その電話の意味はよくわかっていた。
兄はフランスから帰国中。
母はやはり来づらかっただろう。
よく知らない女性と、父の最期を二人で看取る。
奇妙な光景。
僕がつくと同時に、お医者さんから最後の通告が。
不思議と泣き崩れたりはしなかった。
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「なんか最近、胸が痛くてさ、神経痛かなぁ。」
と言いながら、癌に湿布を張っていた父。
それは治らん。。。
無類の医者嫌いで癌が発覚した時にはそれなりに進行していた。
母の従妹たちがお医者の一家でかなりの名医揃い。
なので、あの時すぐに手術をしていればまだ生きてたかもね。
「酒とゴルフと仕事ができなくなったら、生きている意味がない。
だから、手術はしない。(`・ω・´)キリッ」って。
でもね、やっぱり途中で死にたくなくなって、
「やっぱり手術する!( `Λ ’) ドヤッ!」
えぇぇ~~~、オソイゾ。オソイ。
もう手遅れです。。。
一応手術は何度かしたものの、結果として、一番、酒とゴルフができる時期の短い対処法だったんじゃない?
僕は初めてあなたに涙を見せ、お願いだから手術をしてと頼みましたよね。
あなたの家の近所の下高井戸のお寿司屋さんで。
この先誰かと結婚して結婚式でスピーチしたり、
孫の顔とか見たくないのと?
だから、あの時言ったのに。。。
ザンネン。。。 orz
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僕の幼少の記憶。
もはやそう思い込んでるだけかもしれませんが、
こんなとこから始まります。
「もうパパはここには帰ってこないのよ。」
幼稚園から帰ってきた僕に告げる母。
これはなぜかはっきり覚えているのですが、
その意味はよくわからなかったけど、
とりあえず泣いとくか、みたいな気持ち。
母の表情がそうさせたのでしょうか。
このころから、期待には応えたいタイプだったのかもしれません。
そんなこんなで、僕の記憶は泣きながら、玄関マットに顔をうずめるところから始まるのです。
で、離婚してるのを知ったのは高校の時。
まぁ、そうはいっても、うすうす感づいてはいたものの、
父と母は仲が良かったし、
そんなに気にしていませんでした。
高校1年の夏。
友達とハワイに行くことにしました。
いとちゃんと。(もちろん男)
この時の面白エピソードも思い出しましたが、それは機会があれば。
で、ハワイ=外国=パスポート=戸籍
という、ありがちな感じです。
母にはやっぱりばってんがついてました イヤン(*ノ∇)ゝ
とはいえ、そこにはそんなに感慨もなく、やっぱりなぁ、みたいなね。
なので、
「なんで黙ってたんだよ!!」という、ドラマ的な騒動もなく。。。
大人でしたな、僕。
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僕は父の思う通りの道を歩んだんだと思います。
父は昭和8年生まれ。
僕は46年。38歳の時の子どもです。
当時にしてみれば結構おそくなってからの子供。
その分、一緒に暮らしてなかったとはいえ、かわいがってもらったと思います。
(でも、怒られたこと、ほとんどないのに、ちょっと怖くて言いたいこと言えた思い出がない)
年が年なので、早く安心したかったのか、中学から受験を望まれ、
大学まである私立を受験。
父の母校である、立教(大学)と、成蹊(中高)を受けました。
立教は補欠での合格。
自分で成蹊を選びました。
僕がバンドを始めたとき。
体育会(スキー部。ほんとはゴルフ部に入ってほしかったのは知ってましたよ。)に入ったとき、
煙草を始めたとき、
酒を飲み始めたとき、
嬉しそうでした。
大学5年生の時、ゴルフも始めました。
そして、テレビ東京入社。
ほら、兄と違って僕は割と父の望む方向に進んでる。
まぁ、どれも楽しそうだったし、やらされてる感はもちろんない。
そもそも一緒に暮らしてないし。
でも、性格のやくざっぷりは今学者先生をなさっている兄のほうが父には近いです、全然。
何をしろって言わなかったのは離婚している引け目だったのか何なのか。。。
でも、ほら、期待に応えたいタイプなのでね。
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そんなこんなでお通夜です。
お通夜の昼間、することないから会社に行ったら、
気を遣うから帰ってくれと言われたのをよく覚えています^^;
そりゃそうだよね。ごめんチャイ。
で、しょうがないからお寺にいったら大騒動です。
うちの父は長く芸能界におりましたので、
まぁ、それはいただくお花が豪華、豪華。
でもね、そんな序列なんてぼくにはわかりませんよ。
営業だもん、営業。
名だたる演歌の大御所たち、どっちが序列上かかなんて。
しかも数が。。。
で、親戚一同でてんやわんやしているとき、
テレビ東京の某大先輩が見事に采配してくれました。
「全部やり直し!!」って。
その後、部署の先輩方も受け付けのお手伝いに来てくれて、
あぁ、組織ってありがたいなぁって思いました。
で、お通夜が始まります。
すると・・・
横っちょで泣き崩れる老婦人が。
あら、ずいぶん派手に泣いてるなぁ、と思っていたら、母でした。
僕の母。兄の母。
父の前妻さんです。
実は父の奥さんが籍を入れたのは癌が見つかってもう駄目だってなったとき。
(入籍を伴う)再婚はしないって僕の母と約束があったのかなかったのかは知りませんが、
籍は入れてなかったのです。
でも、死ぬとなれば話は別。
年金のこととか、奥さんの今後の暮らしとかあるわけで、
父に呼ばれて籍入れたいんだけど、っていうから、
いいと思うよ、てか、当然じゃない?
的な返しをしておきました。
でも、そんな状況なので、奥さんのことは誰も知りません。
古い友達は母のことみんな知ってます。
そんな人たちに囲まれて、感極まったんでしょうかね。
でも、死ぬときは和子(僕の母)と暮らしたいって父はずっと言ってたような。。。
よくわからん。
そんなこんなでお通夜が終わり、家に帰るわけですが、
ここで、事件が。
お寺のそばの父の実家にあいさつに行かなかったんです。
だって、くたくただったんですもの。
父の母=おばあちゃんは当時はまだいて、
その妹と暮らしていたんですが、
この妹が大激怒。
で、ここから細谷家骨肉のお家騒動が始まり、最終的には親子三代受け継いだ、
相模原ゴルフクラブの会員権と四谷の60坪の土地を奪われることになるのですが、
さすがにこれはかけません。
あはははは。。。
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父の仕事。
父は小さい小さい芸能プロダクションをやっていました。
その前は詳しくわからないので、音事協さんが創立三十周年で作った、
「社長、出番です。」という本があるのですが、
それを読んでみました。
聞いてる話とはちょっと違うのもあるし^^
で、芸能界の荒波と酒の海を泳ぎまわってる破天荒な父だと思っているわけですよ、僕は。
で、実際そうだったんでしょう。
で、でもね。。。
よーく考えてみましょう。
それなりに大物とはいえ一人しかタレントさんを抱えていない、小さな小さなプロダクション。
完全に使っていただく側です。
そんな、破天荒じゃいられませんよね。
ソリャそうです、もう。
僕が大学の5年のころ、父のゴルフの運転手をしていました。
運転手という名の顔見せかな。
そうするとね、あの、破天荒な「はず」の父が、
意外とそうじゃないんですね。
業界長いからもちろん周りの人たちはちゃんと持ち上げてはくれるんですよ。
でも、父もこんなに頭下げるんだなって。
ショックとか、ダサいと思ったとかはないんだけど、
やっぱり社会って大変だよな、ってつくづく思いました。
でもね、あとから思ってさすが破天荒!と思ったのは、
そんな姿を僕に見せることになんの抵抗もなく、
もちろん言い訳もせず、
破天荒の頭の下げっぷり、しっかり見とけよ!
みたいなことだったんだと思えることかな。
いまでも、全部覚えてますよ。
あなたの頭の下げっぷり、人への気遣い。
僕も、そんな人になりたいと、思えてますから成功ですよ!
こないだ、なんかで、そんな話になったのですが、
僕は子供のころ、父のことを「パパ」と呼んでました。
話題はそれがいつ、おとうさん、とか、親父、とかに変わるか、
変えるとき恥ずかしかったか、とか。
僕は一緒に暮らしてなかったからなのか、
「パパ」が恥ずかしくなってきたころから、呼ばなくなりました。
ねぇ、とか。
でも「おやじ!」って呼んでほしかったんだろうな。。。
まぁ、とりとめが完全になくなりました。
今回は一層、まとめる気も元々ありませんが^^v
まだまだ、書きたいこともあるのでですが、
命日が終わってしまってもあれなので、このへんで。
ビール買いにいこっと。
なにはともあれ、せっかく思いったって17回忌記念のブログ更新なので、
祖父、父、と三代続いたプロデューサー業、
ここから心機一転、エンジンかけなおして、頑張っていきますYO!
あなたたち以上に、時代に足跡をつけることをめざして。
おやじ!見ててくれよ ヾ( ゚∀゚)ノ゙
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