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2019-04-12

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・年をとると、同じ話を何度もすると言われている。
 ぼくは、よく同じ話をしているつもりなのだけれど、
 それは、年をとる前からのことで、
 知っていながら同じ話をしているのである。
 しかし、まぁ、思えば、人は一生同じ話をしているのだ。

 さて、同じ話だよ。
 ぼくが『週刊文春』で「萬流コピー塾」という
 読者参加型の連載をやっていたころのことだ。
 父親が食道のがんであることがわかった。
 いまのがん治療と、どこがどれくらいちがうのか、
 よく知ってはいないのだけれど、そのころは、
 まだ本人に告げないというのが常識的な時代だった。 
 ぼくの周囲の人たちにも病名は曖昧にしたまま、
 父が重めの病気であるということだけ言っていた。
 そしたら、塾生のひとりが関西のほうから、
 なんでも願い事が叶う大黒様というものを送ってくれた。
 その人は、ユーモラスな塾生のひとりで、
 職業は「ねぎ師」とかで裏街道の事情にも強い人だった。
 「ねぎ師」の意味は聞いたけれど、よくわからなかった。
 「おとうさんの具合がわるい」ということを知って、
 彼の世界では有名な「大黒像」を送ってくれたのだ。
 持ち重りして黒光りする如何にも有難そうな像を、
 ぼくはどうしていいかわからずにいた。
 「父親の病気が治りますように」と願えば話は済むが、
 どうにもその気になれないでいたのだった。
 「願いは必ず叶うから、すぐに次の人に渡せ」と、
 そういうルールで、世間をぐるぐる回っているらしい。
 「絶対に、必ず願いが叶う」というのが気味悪い。
 つまり、願いが叶うにはなにか代償があるのではないか。
 父親の病気が治ったけれど、こどもが事故にあうとかね。
 それはそれで、願いが叶ったということになるのだから。
 さんざん考えたけれど、父親の病気が治るということが、
 なにを犠牲にしてもいいというものではないと考えた。
 結局ぼくは、叶うに決っている些細なお願いをして、
 それをすぐに叶え、感謝して、大黒像を梱包した。

 強く願うということには、大きななにかを失わせるような
 「狂わせる」ものがあるような気がしてならない。
 必死とか、何がなんでもとか、ぼくはあんまり…である。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「健康のためなら死んでもいい」という冗談もあったよね。


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