元号は時代の器なのかもしれません。中身を詰めるのは、その時代を生きる、私たち一人ひとりです。統一地方選前半投票日。新時代の種をまく日に-。
梅ならぬソメイヨシノの木の間から、月光が静かに、しかしさえざえと、平成なごりの花見の宴を照らします-。
まだ少し肌寒い卯月(うづき)の宵ではありますが、これもまた「令月」というのでしょうか。
桜前線の北上に伴って、「平成最後」の大合唱も、新元号フィーバーも、通り過ぎては行くのでしょうが、それにつけても新元号に関する官邸の“機密保持”は、すさまじかった。
◆ケータイの携帯禁止
ノーベル賞受賞者やNHK会長ら「元号に関する懇談会」のメンバーや、閣議に出席する大臣の皆さんも、首相官邸内への携帯電話の持ち込みを禁じられ、正式発表の時間まで官邸内に足止めされて、お目付け役の職員が、トイレにも付き添った。
抗議があって撤回されはしたものの、閣議に先立つ衆参両院の正副議長からの意見聴取に際しても、同様の「要請」があったと言われています。行政は立法の風上に立つ、と言いたげに。
政府高官たちが「発表前に漏れたら必ず差し替える」「民間の予想ランキングで上位に入ったものは採用しない」-などとメディアを牽制(けんせい)するに至っては、冗談でしょう、というしかない。
発表直前になって政府は、平成改元までの過程を記録した公文書の公開を「新元号の制定に支障が出るから」と、五年間、先送りすることを決めました。どんな支障が、あるのでしょうか。
元号は「新時代」の器、あるいはタイトルにもなるものです。暮らしや職場の隅々にまで浸透し、誰もが毎日目にしたり、使ったりするものであるはずです。
<若い世代の新しいムーブメントは確実に政治や社会に大きな変化をもたらしつつある。新しい時代には、若い世代の皆さんが夢や希望に向かって思う存分活躍できる時代であってほしい->
発表後の記者会見で安倍晋三首相自身が語った、新元号選定のポイントです。
とは言うものの、これから長く新元号に親しんでもらうべき、若い世代の夢や意見が反映された気配はありません。考案者は厳に秘匿され、込められた思いを直接、うかがうこともできません。
◆民は、由らしむべし
旧態依然の“民は、由(よ)らしむべし。知らしむべからず”、そして“親しましむべし、使わしむべし”-。前回の東京五輪のころにはやった、“黙っておれについてこい”、なのでしょう。
漏れ伝わった他の候補に比べると、「令和」はどこか新鮮なイメージなのに、「平和」の「和」より「命令」の「令」に視線が向いてしまうのは、また一つ遠くなる、昭和世代の僻目(ひがめ)でしょうか。
そういえば、“由らしむべし。知らしむべからず”の風景には、このごろしばしば出会います。
住民投票の結果をものともせずに、埋め立てられる沖縄の珊瑚(さんご)の海。住民の不安の声に耳をふさいで「国策」として次々と再稼働する原子力発電所…。「われわれは選挙に勝った。つべこべ言うな」と言わんばかりの国政です。
地方の声はどうすれば、国へ届けられるのか。遠回りでも「自治」という土を耕し、肥やして、「民意」という種をまき、育て上げるしかありません。
「私はねえ、木を植える人になりたいんです。成木になった姿を見ようとは思いません。それでもきっと豊かな森に育つと信じて、木を植えたい-」
おととし亡くなった岐阜県前知事の梶原拓さんが、初当選直後にしみじみと語った言葉。平成元年一月のことでした。
その言葉には、こんな続きがあるように思えてなりません。
「政治家が“木を植える人”ならば、有権者は“種まく人”になってほしいね」-。
◆ハチドリの滴のように
南米アンデスに伝わるハチドリの寓話(ぐうわ)をご存じですか。
山火事が発生し、森の動物たちはわれ先に逃げ出します。
ところが小さなハチドリのクリキンディは、くちばしでせっせと水を運んで消火を試みます。
クリキンディに山火事は消せません。でもそれが集まれば、まだ見ぬ「令和」を本当に新しい時代にできるはず。ハチドリの滴(しずく)のような一票を、大切に使っていただきたいと願っています。
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