【野ブタ。をプロデュース】 2005年10月~12月日本テレビ系列放映のテレビドラマ。 教 室の人間関係をメタ視して、人気者の位置を確立している主人公・桐谷修二が、変人としてクラスで浮いている草野彰を相棒に、いじめられっ子の転校生「野ブ タ」を人気者に「プロデュース」する課程を描いた青春ストーリー。 原 作は白岩玄による同名の2004年「文藝賞」受賞作。脚本の『木皿泉』は男女ペアの共同ペンネーム。他の代表作に『すいか』(2003年日本テレビ系列放 映)などがある。 惑 星開発委員会ではこのドラマを放映直後より大プッシュ。「週 刊 野ブタ。」として善良な市民、成馬01、中川大地の3名に よる全話レビューを行った。 今回はこの「週刊 野ブタ。」の総決算も兼ねて、2005年最大の話題作を振り返ります! 【週 刊 野ブタ。】 第1話 第2話 第3話 第4話 第5話 第6話 第7話 第8話 第9話 第10話 原作ロングレビュー 「すいか」ロングレビュー 【キャスト】 桐谷修二 : 亀梨和也 草野 彰 : 山下智久 (特別出演) 小谷信子(野ブタ) : 堀北真希 上原まり子 戸田恵梨香 桐谷 悟 : 宇梶剛士 桐谷伸子 : 深浦加奈子 桐谷浩二 : 中島裕翔 横山武士 : 岡田義徳 セバスチャン : 木村祐一 家原靖男 : 不破万作 黒木広子 : たくませいこ ゴーヨク堂店主 : 忌野清志郎 平山一平 : 高橋克実 佐田杳子 (キャサリン): 夏木マリ 蒼井かすみ (カスミ) : 柊瑠美 |
■「野ブタ。」1話の衝撃! ●narima01 いやぁ終わりましたね。みなさんお疲れさまです。 正直野ブタ自体に関しては書きたいこと書き尽くした感あって、特に言うこと思いつかないというかうまく距離がとれないんですよね。テーマ的なトコはだか ら「週刊野ブタ。」読んでねって感じで。 だからまず「週刊野ブタ。」の成立過程というか始めた動機みたいのを言いますね。 まず1つとしてドラマ批評をやりたかったんですよ。 それも終わったものでなく放送中のものを薦めるような週刊で追うようなものを、ほぼ日(注1)で タイガー&ドラゴン(注2)評を毎週やってたのがすごく良くて、ああいうの必要だなぁって思ってて、 まぁ、こんなに大変とは思わなかったけど(笑) ネットや雑誌見ててもドラマって数字と役者へのキャラ萌え、あるいはトリックみたいなネタ的な部分でしか語られなくて、テーマ的物語的な部分では無視さ れてる感じが特に評論家勢には強く感じて、それも大御所(山田太一(注3)とか市川森一(注4)とか)ならいいけどトレンディドラマ以降はダメみたいな無言の抑圧みたいのを 感じててそれは違うだろうって思ってたんですよ。 そんな中で明確に作家性を打ち出してきた宮藤官九郎(注5)さんみたいな若手の脚本家とか堤幸彦(注6)みたいな語るに値する人が出てきて、俺もはじめとして、そこら辺の人は序々に ネットでは評論を見るようになってきたんですけど、まだ別枠っぽい感じなんですよね。後が続かないから一過性の流行で終わりかねないというか、そこで木皿 泉っていう人が「すいか(注7)」の頃から気になってたんだけど「すいか」は惑星の中でも多分俺くらいしか見 てる人いなかったから、次にドラマやる時は、なんとか見てもらいと思ってて野ブタ。が始まった時は不安要素(一話感想参照)もありつつもまず市民さんに見 てもらおうと、はじまる前からちょくちょく薦めてました。 それで1話終わった後に個人的にはイケると思ったし市民さんも面白いって日記にコメントくれたので、コミュにトピック立てたんですよ。一応BLOG形式 でUPとか書いたけど、とりあえず惑星の人が注目すればいいかなぁって感じで。 そしたら市民さんが、その日のうちに「やりましょう」って言って、ただ「発表する形式を考えたい」ってのと「一話だけじゃ不安、ドラマはつまらなくなる 可能性がある」ってことで一週間様子見をして、2話見て、まぁ不安だけどやりましょうってことになったんですよね。 あと市民さんに1話の感想書いて言われたことで面白かったのは「平坦な戦場は古い、前提だろ」って言われて(笑)この人は進んでるなぁとか思ったけど、 当時はうまく答えられなかったけど俺は野ブタみたいなみんなが見るドラマで『リバーズ・エッジ』(注8)みたいなことがやれる予感を感じたのが新鮮だったんですよ。と同時にあれが前 提になって、どう「生き延びるため」に行動するかっていう実践編にやっと入ったんだなぁと思って、野ブタ。のドラマを入り口にリバーズ・エッジから始まっ た平坦な戦場の現在みたいのが見えるんじゃないかなぁって思ったんですよ。綿矢りさとか安野モヨコも絡めて。 そこら辺を書いてければ若い人と岡崎とか読んでた人を繋げるんじゃないかなぁっていう目論見はありました。 まぁそれは保険みたいなものでドラマ自体が面白かったからそっちはおざなりになってしまったんですけど。 ●中川大地 どうも、完走お疲れさまでした。 僕の場合は、『野ブタ。』の原作や『すいか』も知ら なくて、むしろ前番組の『女王の教室』(注9)が 「時代が一回転しきったゼロ年代ならではの、通俗良識の組み換え」としてだいぶ面白いことになってたことが前フリとしてありました。残念ながらリアルタイ ムでは第1話は観逃してしまっていたんですが、ドラマ目利きとして信頼している成馬さんが「『女王の教室』といい『野ブタ。』といい、日テレのこの枠はど うしちゃったんだろう」という感想を漏らしていたのを見て、継続した問題意識とテンションで観られるなら、ということで第2話から参戦させてもらったわけ です。 要は、どっちのドラマもかなり陰惨な学校内の「いじ め」とかを出発点にしつつ、教師や両親に依りかからず、示唆や助言は受けながらも、ほぼ自力と横の連帯での脱出や価値観の組み換えのプロセスを描くという 点が共通してたと思うので、そういう構造への関心でした。いじめや格差を「あってはならないこと」として社会問題的に告発するのではなく、そういうのが存 在するイヤな教室内人間関係を仕方のない前提としたうえで、そのメカニズムや対処法を戯画化して示す、という。で、最後にはそんな狭苦しい人間関係の力学 の外側に、ちゃんと信ずるべき価値はあるよ、と導く。 岡崎京子(注10)と かをあまり知らない人だと「平坦な戦場を生き延びる」という言い方がピンとこないかもしれませんが、僕なんかの興味から同じことを言い直すと、そういうこ となのではないかと思います。 ●善良な市民 僕も『すいか』は観ていないんですよ。ただ某女性ブロ ガーから放映当時勧められていて、そのうち観ようと思っていたらこの作品がはじまったって感じですね。 この秋はアニメよりもドラマの方が面白そうな企画が多 くて、最初は『野ブタ。』『ブラザー・ビート』(注11)、 『あいのうた』(注 12)、『花より男子』(注13)、 『今夜ひとりのベッドで』(注14)と5本観ていたのかな? で他は全部2~3話で 切っちゃって、結局これだけ観ていた。『BLOOD+』(注15)は 1話観て切っちゃったけど(笑)。 原作は出た直後に読んでいて、まあアイデアは面白いけ ど「よくできた青春コメディ」くらいの評価でしたね。山崎ナオコーラ(注16)の 方が純文学好きには受けるだろうなって思った。 でも、このドラマ版の1話は衝撃的でしたね。 原作はせいぜい修二→その他の無自覚な高校生ってレイ ヤーが2つしかないんですけど、このドラマ版は何重も複雑なんですよ。 無自覚なクラスメートたちを馬鹿にしている修二がい て、更にその上から見守っているキャサリン教頭がいて……みたいな感じで。重なり方も一方向ではなくて、ゴーヨク堂や修二の家族とか、ひとつの物語にたく さんのゲーム空間が渦巻いている。 そんな世界観を第1話でほぼ表現しきっているじゃないですか。それがとにかくすごい、脱帽でした。 飛行機事故や世界平和をネタに大状況への微妙な距離感 まで丁寧に表現している。ああ、この脚本書いている人はよくわかっているなって、すごく共感したんですよ。 で、ここで重要なのはこれが第1話だってことなんです よね。こういうのって大抵「平坦な戦場で強く生きていこう」って世界観を提示して終わっちゃうものなんですよ。『リバーズ・エッジ』だったらここで終わっ ちゃう。最近だったら『平成マシンガンズ』(注17)な んかもそう。それはそれでいいんだけど、もう10年以上前から言われていたことなんだから、もうそこで終わる話はいいんじゃないかって思うんですよ。でも 『野ブタ。』は最初の話でこれだけの世界観を表現していながら、これから「じゃ、どうするの?」って第2話以降ある。これは期待しましたね。 ●中川大地 うん、第1話を僕は5話くらいまで進んだ時点で初めて 観たんですが、最初に観ておかなかったのをホント後悔した。 「週刊野ブタ。」では、2~3話から観出して「ファン タジーとしての『律』が不明確」「リアリティ表現が中途半端」とかいう感想を書いたんですが、1話を観てれば全然そんなことなかったから。例えば「猿の 手」で願い事をすると、実は全部かなってしまうかもしれない、というのがこのドラマの世界観なんですよね。でもそれを、世界平和にしてもバンドーいなくな れ、にしても、あえておいちゃんや信子自身が、願いによる安易な超越的解決をキャンセルしてしまうというのがスゴイと思った。「私は、バンドーのいる世界 で生きていきます」という選択がいきなり初回ですからね。 要は修二がモノローグで「この世のすべてはゲームだ」 と言っているのに対応して、噂や評判が支配する学校内の空間だけでなく、このドラマの世界全体が奇妙な超常現象やフォークロアや怪人が跋扈するジャンクな 嘘っぽさに満ちているわけだけど、でも基本はそういうのに頼らず、地に足つけた方法で各回の事件に臨んでゆく。 そのへん、1話を観ただけで原作とはまったく違うこと をやろうとしているのがわかりますもん。 ●narima01 野ブタの1話に関して俺がすごいなぁって思ったの は、全体に漂う喪失感の気配ですよね。一番わかりやすいのは柳の木の挿話と飛行機事故の話なんですけど、昨日まで当たり前にあると思ってたものが明日には 簡単に消えてるんじゃないか?って不安感ってみんな言わないけどどっかであると思うんですよ。 で、これって実は岡崎京子が一貫して描いてる主題で もあるんですよ。『PINK(注 18)』でも「世の中たしかなものなんて何もないんだわ」みたいな台詞が出るし、ただ野ブタの場合「確かなものは何もな い」ってのが希望でもあり不安でもあるんですよね。 市民さんは希望を読み込んで、俺は不安を感じてたの は「週刊 野ブタ」を読んでるとよくわかるんですけど(笑) ●中川大地 なるほど、二人の受けとめ方が希望と不 安のそれぞれに分かれてた、ってのは面白いですね。もちろん両方とも表裏一体のものとしてある、というのが正解なわけですが。 成馬さんの感じた不安、刹那感や喪失感というのは、 エピソードの意味合いもさることながら、画面の絵作りや色遣いのレベルからして意識して演出されてますよね。これ全編通じてずっと気になってたんですけ ど、修二や野ブタたちが語らう屋上や川を眺めるシーンって、だいたいデフォルトで黄昏のオレンジ色のフィルターで撮られてることとか。 ●成馬01 同じようなところを狙っていたドラマだと、『木更津 キャッツアイ(注 19)』が挙げられると思うんです。 で、木更津は「ぶっさんの死」っていう具体的な現象 を前面に出すことでその刹那感をうまく出せてたけど、野ブタって結構ダイレクトにやって、それって今の子には伝わってたんですかね?そこら辺よくわかんな いんですけど。 ●中川大地 そのへんは、「ぶっさんの死」よりも無意識レベルで 訴えかけてくところなので、明確に伝わってたかどうかというのは難しいところだと思います。ただ、『木更津』の「終わりが見えているからこその躁状態のハ シャギの切なさ」が、ある種のサブカル感度のある若者にしか伝わらなかったのに対して、より間口の広い普遍性があったと思いますよ、『野ブタ。』の方が。 世代限定のサブカルジャーゴンを早口でまくし立てた り、スラップスティックなギャグが基調だった『木更津』ではノイズが大きすぎて、熱心なファンにすら、時代の画期になるようなテーマ的な意義はかなり低い オーダーでしか伝わってなかったですからね。 ●善良な市民 第1話では「週刊 野ブタ。」で解説したように、まず 小さな世界(タコツボ)が乱立していて、タコツボごとに別のルール(価値観)に基づいて動いているゲームがある、という基本的な世界観が説明されるんで す。 詳しいことは「週刊 野ブタ。」を参考にして欲しいん ですが、主人公の修二はそんなゲームのうちのひとつ、「教室のキャラ売りゲーム」に滅法強い人間として登場するわけです。けれど、彼はどこがで「キャラ売 りゲームが強いだけの自分」に疑問を持っていて、それが画面全体に漂うどこがニヒリスティックな雰囲気や、数々の小道具で表現されている。「柳の木」とか ですね。 一方で、そういう「キャラ売りゲーム」に弱くて絶望的 な日常を送っている野ブタが登場して、こっちにはどんなに絶望的な日常でも、それを支配しているのは所詮小さな世界のローカルルールでしかないので、いく らでも書き換え可能だよ、という可能性が提示される。「お前が居られる世界を俺がつくってやるよ」という修二の台詞に象徴的ですね。 この認識が最終回まで「野ブタ。」世界の基調になって いくんです。 ■プロデュース作戦を振り返る 2話~8話 ●善良な市民 ここで大事なのは『野ブタ。』がそんな喪失感の表現だ けで終わっていないところなんですよ。 ここで「汚れたセカイで強く生きていきます、ウット リ」で終わると『リバーズ・エッジ』の縮小再生産になっちゃう。やっぱり具体的に踏み出さないといけない。でも焦って踏み出したはいいけど、サリンをま いっちゃったり、女の子の首を絞めちゃったり、無理矢理歴史にアクセスしておかしくなったり、引きこもりナルシシストになったりしたのがこの10年だった わけじゃないですか。 じゃあ、どうすればいいのかってところをドラマ版『野 ブタ。』はオーソドックスだけど深い理解で、慎重に描いている。 それが喪失感の裏側にある希望なんですよ、世界の豊かさへの確信と言ってもいいけど。 ●中川大地 うん、そのどうすればいいのか、というのが2~6話で 描かれた修二の各プロデュース作戦ってわけですね。すなわち、教室内でのサバイバル巧者である修二が、いかにくだらない儀式に見えても、与えられた環境の 中のローカルルールをひとまずは受け入れて地位向上の努力をしてみせよ、と信子に様々なチャレンジをさせる1話完結型メインプロットの積み重ねです。 外見のイメチェン(2)、文化祭でのクラス貢献 (3)、告白イベントを逆手に取ってのいじめグループとの和解(4)、恋愛修行(5)、キャラクターグッズ販売による意外な才能のアピール(6)、と。 こうしたストーリーが、『電車男』や『電波男』を引き 金に一部で「モテー非モテ」論争が盛り上がったり、『下流社会』がベストセラー化したように、社会の格差拡大が誰の目にもはっきりしてきた2005年の状 況下で展開されたのはものすごく重要な気がします。 でもそれは、決して世知辛い格差社会のローカルルール を無批判に受け入れての這い上がり競争に順応するだけには終始しない。学校内格差の最下層にある野ブタが努力して変わっていくのと同時に、ローカルルール 内での強者である修二もまた、野ブタから逆に小社会の外側にある価値を教えられて変わってゆく。 その後者の度合が(2)から(6)にかけてどんどん上 がっていくんですよね。詳しくみると、(2)ではアフリカの子供の体操着を見た野ブタからの示唆をさらに修二がアレンジして新流行を作った。(3)では生 霊をバイトに雇うまでは修二主導だけど文化祭の企画成果そのものは野ブタと彰の努力。(4)ではほぼ野ブタの独力での状況突破プラス修二に変貌の準備が あったという案配。(5)では修二企画のWデートを実行はするけど、野ブタの決断でシッタカとの付き合いは拒絶、逆に修二の側が大事なことを気づかされる という対等な「キャッチボール」関係にシフト。(6)では修二のグッズ販売のエスカレートが完全に破綻、野ブタから最初の手作り人形が誰かの宝物になって いることを知らされ「次に行く」ように導いてもらう側にはっきり逆転している。 終わってみると、そういう段階を経た変化の軌跡がよくわかります。 この2~6話までの1話完結プロデュースの中で、二人 が特に好きなエピソードとか、印象的なこととかってどうですか? ●narima01 1~6話の中で好きなのはやっぱ6話かなぁ。 野ブタって人間ドラマとしての側面という一段上の教 室とか学校もしくは群としてのクラスメイトっていうシステムを描こうとしてる側面があったと思うんですよ。それが6話は一番意欲的にやってたかなぁって気 がします。 木皿泉の脚本って見立て遊びの世界だと思うんです よ、砂場でお城作って戦争ごっこするみたいな。それでこの話って学校を情報と経済で回る社会ってトコまで見立ててるんですよ。と同時に野ブタグッズを売 るって行為がそのままドラマを作って普通のお客さんに見せるっていう視聴者との関係にまで踏み込んでるように思えて、作り手の側の世界観が明確に出てて凄 いと思いましたね。 ●中川大地 そうですね、僕はやっぱり修二のアイディアと機転が利 いてた2話の構成がいちばん、どんでん返しのカタルシスが大きくて好きだったかな。外見がイケてない子が奮起してキレイになる、ってだけの話だとただの 『電車男』ですけど、同じ年のうちにそのレベルを一気に乗り越える水準の発想だったわけで、改めてそういう文脈で考え直すと凄いですよ。 あと、野ブタの私服登校を妬む、クラスの同調圧力の陰 湿さがいちばん出ていた回でもありますからね。「ローカルルール」「外部の示唆」「プロデュース」の絡み方が最も理想的で秀逸だったと思います。 それから、4話での「114の日」の恋愛強制的なルー ルを読み替えてバンドーとの和解に使う野ブタの選択も、それに次いで良かった。まさに「ノリつつシラけ、シラけつつノる」(注20)と いう、ローカルゲームの脱臼が最も典型的で小気味よかったので。あと、彰がいちばんカッコ良かった回だったし(笑)。 ●善良な市民 僕が好きなのは3話ですね。 『野ブタ。』全編を通してのモチーフに、「楽しい時間は すぐに終わる」→「すぐに終わるからこそ、その時間が入れ替え不可能な素晴らしいものになる」って発想があるじゃないですか。 これがはじめて明確に打ち出されて、かつ綺麗にまと まっているのが文化祭の3話なんですよね。 「生霊」というアイデアも素晴らしいし(笑)。 あと、野ブタが義理の父親に「お父さん」って言えない エピソードがあるじゃないですが。「真夜中のギター」(注21)が BGMにかかっているシーン。あそこで彰が「今すぐにはできなくてもいい」「ゆっくり少しずつやっていけばいい」っていうじゃないですか。 このスタンスが『野ブタ。』のポイントだと思うんです よね。 ●中川大地 文化祭は学園青春ものの永遠のテーマですしね。これを どう描くかでその作品の特色が出てくる試金石みたいな部分もある。それから週刊でも指摘されていたけど、押井守の『ビューティフルドリーマー』(注22) 以来、ちょっと難しい言い方になっちゃうけど「高度消費社会における文化モラトリアム空間」の象徴という意味合いも文化祭にはありますんで、その日本サブ カルチャーの宿命的モチーフに真正面から挑んだ点も市民さんイチオシの理由でしょうか(笑)。 でも、たいていの学園ものでクライマックスに近いイベ ントになる文化祭が序盤の3話で済まされちゃうのもこれまた凄いですけど。 で、「終わる」ことの意味が示されたこの3話から彰と野ブタの接近 が始まり、4・5話で恋愛絡みのエピソードがあり、6話でのプロデュース作戦の初めての破綻があって、7話での彰の申し出で本格的にプロデュースの「終わ り」が描かれるわけです。終盤では7話は彰の恋の諦め、8話は修二の転落、9話はかすみの自滅というように、一題噺のアイディア勝負というよりは、次々と 物語の基盤になっていた何かが終わっていく、各キャラクターの葛藤劇がドラマの焦点に上がってきますよね。 このへんの終盤を振り返って好きだったところや印象的 だったところはどうでしょう? ●善良な市民 演出的に一番決まっていたのは7話ですね。 脚本的には携帯電話を使わせたくないばかりにやたらと 「偶然通りかかる」ちょっと技術的に脇が甘い話なんですが、修二の撮影したビデオで語られる「諦める」というモチーフの使い方、終盤の彰の放送室での絶叫 告白から、修二とまり子の別れ、そしてラストの修二の独白「俺は、寂しい人間だ」までのたたみかけるような展開はシリーズで一番緊張感があったところだと 思います。 ●narima01 終盤だと8話ですね。最初は修二の転落の理由を作り 込みすぎだと思ったけど蒼井が出てきてからが異常な展開で、彰が糠味噌に写真を封印するくだりで泣きました(笑) それで三人が紐でつながるっていうラストの絵の見せ 方もすばらしくて。今振り返るとあそこが修二たちの話はクライマックスだったんだなぁって思いますね。 ●中川大地 7話はホント画面の演出が凝ってて、気持ちの持ってかれ度がいちばん高かった。プロデュース組3人以外に、まり子の存在感がグッと増した回でもあった し。あと、3~6話ではなんとなく段取り的だった(笑)ネガティブプロデューサーの嫌がらせが一番えげつないのに加えて、まだ蒼井が犯人だとわかっていな い段階なんだけど、彼女の映し方がものすごく暗示的なの。野ブタにピントが合ってる絵のアウトフォーカスで笑っていたりとか、ビデオが切り刻まれてる直後 のカットで野ブタと一緒に走って放送室に向かっていたりとか。8話や9話でのかすみの笑顔が強烈に怖いのは、7話での絵作りの無意識の刷り込みがあるから かもしれない(笑)。 8話での修二は、確かに「誤解さるイイやつ」に描かれすぎて白けてしまった面はありますよね(いや、脳内乙女的にはキュンときてたんだけどw)。クール なように見せかけて家族との関係とかで垣間見せる、本人でさえ気づいてない素の「苦労性」気質の描写が良かったんですが、クライマックスだからしょうがな いかなって。ただ、この回は1話以外では原作小説のエピソードを具体的に継承した唯一の話でもあって、その対比が際立ってた点も面白かったです。 で、一番の対比点は修二像の違いなわけなんですが、話が進むにつれて市民さんが修二派、成馬さんが彰派っていうふうに分かれていきましたよね。各キャラ クターについての感想とか、萌えポイント(笑)とか、自分に照らし合わせての共感点や違和感なんかはいかがでしたでしょうか? ■器用貧乏なプロデューサー ~桐谷修二 ●善良な市民 修二のやっていることって、僕らが多かれ少なかれ普段 やっていることじゃないですか。程度の差こそあれ、みんなキャラを作って生きているという大前提がある。 基本的にはみんなみみっちい見栄の張り合いから逃げて 生きていけないわけです。だからこそ安易な「本当の自分」「個性」幻想みたいなものがはびこるわけで。 でもその一方で、こういうキャラ売りゲームを「くだら ない」と言って切り捨てて、アウトロー気取って生きるのもやっぱりものすごく安易なわけです。ただのナルシシストですからね。 そんな中で修二という人間は、一言で言うと器用貧乏な んです。キャラ売りゲームには滅法強い。でも、心のどこかではそれだけでは辛いことに気付き始めていて、話数を追うごとに自覚的になっていくんです。 やっぱり『野ブタ。』の主人公は修二なんですよ。彰と 野ブタだけだったら、クラスの隅っこの方で「あいつ等ってわかってないよな」と多数派を軽蔑することで自分を守っている(「酸っぱい葡萄」状態になってい る)一番どうしようもない連中を甘やかすような内容になりかねなかったと思うんですよ。 キャラ売りゲームの限界を知りつつも、ゲームへの参加 自体はやめない修二が好きなんです。最終回、転校直前の修二のモノローグはまさに、中川さんが週刊で書いたように『リバーズ・エッジ』から10年経って川 から海へたどり着いたんだなあって感じで感慨深かったですね。 こういう話って、大体修二みたいな器用な人間は悪役に されるか、卑小な存在に描かれるかのどっちかじゃないですか。「野ブタ。」の原作もどちらかというとそれに近い。でも、ドラマ版の「野ブタ。」はそこで 「多数派=悪、少数派=善」みたいなところにはいかないんですね。修二が言ってみれば器用貧乏な自分に気付いていくドラマの一方で、なんとかゲームを巧く 回していく「プロデューサー」の役割も大切だと訴えていく。だから野ブタが好きなのは修二の方(?)なんですよ。修二と彰は「ふたりでひとつ」の所以です (笑)。 「俺はゲームから降りたよ」ってパフォーマンスでナルシ シズムに逃げる、そうやって「酸っぱい葡萄」状態になるっていうのは一番安易な道なんです。無自覚にゲームを戦っているほうがまだ辛いし、修二みたいに自 覚的に(その限界を知りつつ)ゲームにコミットするのは一番辛い。それでも、ゲームに参加し続けるのは、やっぱり修二が「人を好きだから」、もっと言って しまえば世界の豊かさを知っているからですよ。 ●中川大地 僕からはもうちと萌えポイント的に補足していくと、 第1話で「この世のすべては無意味だ、ゲームだ」とかスカしたモノローグを飛ばした端から、柳の木をタッチするなんていう最高に「無意味」な儀式に癒しを 感じていたり、第3話で自分の素の姿を知る弟が学校に来るのをビビってたり、原作版になかったそういう可愛げを加えることで、当初からキャラ売りゲームを 「苦行」としてやっているあたりは指摘しておきたい。 たぶんこの子は生い立ちの過程で父や弟のようにはス トレートに「人を好き」という感情の起伏を実感・表現できなくて、観察力があるゆえに周囲の粗なんかもよく見えてつい見下したりしてしまったり、心にもな い処世ができてしまう自分にどこかで負い目を感じてたんでしょうね。だから、キャラ売りゲームで生きていくしかない「まともでない自分」(=父や弟のよう に素直に生きられない自分)を、いくぶん内罰的・偽悪的な開き直りで自己規定してたんだと思います。そのへん、1話でキャサリン教頭の「こいつをまともな 人間に教育してやって」という台詞が自分に対してのものだったことも理解してて、6話の進路希望書や10話でのまり子への約束で「まともな人間になる」と 応える場面にもつながるわけです。 個人的な話で恐縮ながら、僕も結構「好き」という気 持ちがわからなくて、親とか知人から「人非人」とか「本気で人を好きになったことないでしょ?」とか言われて育った覚えがあるんで(笑)、修二の屈折の仕 方はあまり他人事だと思えなかった。だから野ブタに、7話で自分が撮ったビデオに「人が好きなんだ」という感想もらったりとかして、「好きっていうのはこ ういうことでオッケーなんだ」と気づかせてもらい、最終回でその感謝を述べるときの救われた気持ちが、すごくよくわかる。 そういう手助けを受けながら、キャラ売りゲームと 「人を好きになる」こと・「世界の豊かさ」にアクセスすることが相反するものではなく、前者が「他者への気配り」とか「洞察」という意味では後者への正し い経路だったり、後者を安っぽく退廃させないためにこそ前者のような現実マネジメントのスキルが必要だったりする関係がわかるようになっていく皮の剥け方 がよかった。 週刊でも書いたけど、9話でのかすみとの対決での 「いいよ、子供で。俺はただのガキです」という台詞は、そんな修二の一皮剥けぶりを示す会心の一撃でしたね。 ●善良な市民 ドラマ版修二は原作よりもずっと自覚的でセンシティブ (笑)なんですよ。ちゃんと、自分が過剰適応の「まとじゃない人間」だって自覚がある。とどめは7話の「俺は寂しい人間だ」で(笑)。 第1話の柳の木、家庭でのイイコちゃんぶり、6話での 進路を決められない所は僕も萌えましたね。ラストのサラリーマンたちの背中を見送るシーンも良かった。こういう話って、ここ10年やるのが難しかったんで すよ。日常を受け入れて成熟するより厭世的なパフォーマンスでやり過ごす方が流行っていたから。こういう成長物語を、押しつけがましくなくやれたのはすご かったですよね。 9話の「いいよ、俺はただのガキです」はい台詞でした よね。これまでの修二の成長を知っているからこそ、ただの居直りじゃない説得力がある。「そうそう、そうやって少しずつやていけばいんだよ」ってテレビの 前で頷いていました。 ……って、ことで彰派の成馬さんに語ってもらいますか (笑) ■完成された不思議クン ~草野彰 ●narima01 最初に野ブタの1話みた時に修二に持った印象ってデ スノートの夜神月くん(注 23)なんですよね。負けず嫌いでゲームにこだわりすぎるトコも似てるし。だから逆に今の若い子にとって、こういうコ ミュニケーションスキルを武器にしてる子が一番感情移入できるヒーローなのかなぁって漠然と思いましたね。まぁ月くんは幼児的な万能感がデスノートのせい で保障されちゃったせいで行くトコまでいっちゃってるけど(笑) 逆に彰って最初はよくわかんなくてただの不思議君か なぁって思ってたけど3話で「楽しいってよくわかんないんだよなぁ」ってトコで引っかかって4話で本当おじさんに詰め寄られて「野ブタが好きだ」って言っ たトコで、あぁコイツ自分が何考えてるかよくわかってないで行動してて、これからいろいろ知るんだってわかって、そっからはカワイイのうって感じで追いか けて見てましたね。 俺が野ブタ。で好きだったのってそういうトコで最初 に自己規定してた内面の枠がどんどん外れて自分の知らない自分を発見していくじゃないですか。 ここ数年内面を描く作品は多かったけど、最初にトラ ウマとかで自己規定しすぎて狭い範囲でしか描けてなかったけど。そこら辺を野ブタは丁寧に描いててよかったなぁって思います。 まぁそれって新しいことじゃなくて一番正攻法なんだ けど。 それが一番彰に出てたかなぁって思うんですよね。 ●中川大地 そうそう、彰に関しては、最初おいしい位置づけの不思 議ちゃんなので鼻につく部分があったけど、野ブタに惚れさせてそれだけでは済まない地金がどんどん剥がれ出てくるのが良かった。 彼のああいう独特の自己演出というのは、それまで衝動 が希薄で、どこか自分の気持ちを他人事のように眺められてきたからこそ身に付いた作法なんだろうけど、いざ自分のでかい衝動に気づいてしまった後、それま での彰センスで処理しようとしながらそれができなくなって、7話でついに気持ちが暴走してしまう。 そういう彰の変化が、「終わり」に向けて物語を進める 要因になっていたのが面白かったですね。修二はひとりでは、プロデュースの発案以外は周囲の事件や人間関係の受け身でしか物語を動かせないから。 「人を好きになるのに、資格なんていらないじゃん」 と、実は気遣いが過ぎて人の心への踏み込みを避けてきたためにそういうタテマエ事を言ってしまえる修二に対して、「いるのよ~ん」と応えたり、「なんでこ んなに感情を剥き出しにできるんだろう」という戸惑いにも「できちゃうのよ~ん、切羽詰まった人間には」と、先に失敗を体験したからこその実感で「想像を 越えた人の心の中身」を伝授した彰の役割は大きかったですよね。それが、修二にまり子へ「本当のこと」を伝えさせ、自分が寂しい人間であることを思い知ら せ、8話での転落と目覚めに導いてゆく。さらにその実感が9話で蒼井に伝えられ……というふうに7~9話の彰→修二→かすみへの成長バトンの流れを追って みると見事ですよ。 反対に彰にとっては修二は、自分が意識的無意識的に 培ってきた不思議キャラだけでは制御しきれない衝動に道筋を与え、社会性への繋ぎになってくれる存在だろうし、お互いの成長のために「二人でひとつ」なの が美しいですね。だから最終回はあれで僕は大納得なんですよ。 もちろん、修二がいない学校で野ブタと一緒にいるのが いろいろな意味で気まずい、うまくやっていけるようになる独力での成長から逃げてる、という面も当然あるわけですが、そのへんの全部が全部、一気に成長で きるタマではない、というリアリティも含めて。このへん、「脱皮」型の修二や野ブタと違って彰は、トライ&エラーを繰り返しながら徐々に成長していくタイ プだろう、と週刊で書いたのが裏付けられた感じだったし。 ●善良な市民 僕も彰は恋しちゃってからが好きですね。終盤の「修二 と野ブタがいちばんなの、俺は二番でいいの」って台詞が泣かせますよね。ああ、こいつ、不思議君からこんなに急成長しちゃって(笑)って。 で、8話、9話で蒼井に対抗できているのは修二でも野 ブタでもなく彰なんですよね。 7話で彰の話が一段落しているから、あの3人の中では 一番蒼井の攻撃に強かったんですよ。「人は試すものじゃないよ、育てるものだ」って、これも会心の一撃でしたよね。これには蒼井はほとんど反論できてない (笑)。 あと、第一話から彰って木皿泉の世界観をいちばん表現 していたキャラだと思うんですよ。 世界平和を願ったり、ホワイトバンド(注24)を つけてみたり、そのくせどこか虚無感が漂っていたり。世界との微妙な距離感という面では彰を通してみるといちばんわかりやすいと思いますね。 ●中川大地 彰のホワイトバンドや世界平和の願いに関しては、市民 さんは「あえてベタな偽善をやるキャラ」だと言ったこともあったけど、あれは単純に、初期の彼の個人的な動機の希薄さを現してる描写でしょう。自分が何を したいのかがよくわかんないので、とりあえず何の切実さも実感もないけど「良いこと」とされてることを願っとけ、みたいな。ただ、個人的にはチャリティっ ていうのは、そんなふうに自分の問題が片づいちゃってるお大尽の布施として悠々とやるのが一番正しい気がするけど(笑)。 それで1話の猿の手では、おいちゃんがその後「さっき の世界平和の件ですが、なかったことにしてください」とすぐさま取り消してしまうのが良かったですよね。彰はまだ自分のリアルな問題に直面してないだけだ から、世界平和なんか願うのはまだ早いって感じで(笑)。あの願いのキャンセルがあったうえで、信子がバンドーなんかいなくなれと願った問題からの逃避を もキャンセルし、ありのままの現実に対処する意志をマクロとミクロの両方のレベルで示してみせたのが「セカイ系(注25)」 超克的な意味でも優れていたと思う。 ●善良な市民 いや、週刊で書いたのは木皿が「あえて」彰に偽善的な アイテムを装備させて、世界観を演出しているってことなんですが。 ●中川大地 そっか。そのへんは蒼井にもホワイトバンドつけさせて るのがさらに制作者の距離感が出てて面白いけど(笑)。まあ、蒼井トークはもちょっと後で。 ■野ブタパワー、注入! ●中川大地 で、次は野ブタたち女性キャラの話かな。このへん、市 民さんと成馬さんと僕で、実はキレイに好みが分かれてるんですよね(笑)。 ●善良な市民 そう、綺麗に分かれましたね(笑)。 僕が野ブタで、成馬さんが蒼井、そして中川さんがまり 子。 主役の3人組ってことで野ブタ派の僕から口火を切る と、僕はあんまり「かわいそうな女の子を助ける」って設定が好きじゃないんですよ。だからコナン系(ラピュタ、ナディア)(注26)の 話も好きじゃないし、ガンダム・エヴァからセカイ系・福井晴敏(注27)小 説に連なる強化人間萌えもかなり苦手なんですよ。オタクヘテロなマッチョ妄想がどうしても鼻について。『NHKにようこそ!(注 28)』 だって結局「岬ちゃんが佐藤君を好き」って前提だけは崩せないでしょ(笑)、滝本先生はエゴサーチ好きだから挑発しておくけど。 だから野ブタは放映前に設定だけ読んで、この系統だっ たらヤだなあ、って思ってたんですよ。でもふたを開けてみるとビックリ、第1話から「私はバンドーにいる世界で生きていきます」って宣言しちゃう。ゲーム にコミットすること、自分で戦うことを宣言するんですよ。これは強化人間や岬ちゃんには絶対に言えない台詞ですよね。 そして、修二たちの力に頼りっぱなしではなくて自分で 考えて、自分で努力していく。修二達のやり方が違うと思えばしっかり意見する。で、気が付けば修二や彰ときちんと対等の関係になっているじゃないですか。 正直、「逆境ナイン」(注 29)のときは特に堀北には萌えなかったんですが、野ブタはいいキャラでしたよね。 個人的な萌えポイントは前半の引きつった笑顔と (笑)、7話のラストで修二を抱きしめたあとたまらなくなって逃げちゃうところかなあ。 あそこで恋愛話一直線になっちゃうと、またちょっと安 直でヤだったかもしれない。 ●中川大地 それから、実はマイ・フェア・レディ型(注30)と いうのとも微妙に違ってましたよね。「暗くて不器用な女の子を人気者にする」というと、正統派の綺麗なレディに仕立て上げていく方向性がどうしても思い浮 かぶし、実際2話ではそういう路線がまず試みられたわけですが、最終的にはきちんと原作を踏襲して、むしろ不器用を逆手にとって周囲にいじられることで愛 される身の丈に合ったギャグキャラとして成功してゆく。しかもご丁寧なことに、9話でプロデュースに参加した蒼井が「正統派」路線を目指すのをわざわざ否 定したりもしているし。 「堀北みたいな美人がいじめられるなんてありえない、 これは元々美人という勝ち組資産を持った女が、その資産を開眼させて上昇していくネオリベ是認ドラマだ」なんつう、いじけたバカな感想をネットで見たりも したんですが(笑)、この物語なら別に信子の容姿が十人並みでも充分成立するわけだから、まったく的はずれですよね。 あと原作と違って、プロデュースを修二の側が持ちか け、信子が「野ブタ」の愛称を自分から買って出たという反転も、結構重要なポイントでしょう。 ゲームに参加して「周囲の目線に媚びる」という部分 と、その中にあっても「自分らしさを失わない」という部分のバランスが良かったんですよね。『電車男』対『電波男』みたいな不毛な対立(注31)に なるんでなしに。 ●善良な市民 そうですよね、このバランス感覚が大事なんですよ。 「媚びる」というと言葉が悪いですけど、「酸っぱい葡萄」状態にならず「ゲームに参加する」ことと「自分らしさを失わない」=「ゲームから降りる」勇気の 両方が大事なんですよ。ここをしっかり描いていたのは重要なポイントですよね。ここは、前者の立場におぼれた主人公が自滅して終わる原作への返歌でもある し、白岩よりおそらくずっと年長の木皿泉たちからのメッセージでもある。 ● narima01 野ブタに関して言うと、まず外見とか演技ってことに ついて考えさせられましたね。五話だっけなぁ修二が他の女子と比較して「野ブタにはキャピキャピ感がない」ってことにきづくんですけど、演出の指導がいい のか掘北の勘がいいのかわからないけど、姿勢とか動作とかから野ブタになってて、女優として凄いなぁって思いましたね。 ●善良な市民 うん、これは僕も驚いた。「逆境ナイン」や「ケータイ 刑事」(注32)の ころはこんな芸当ができる娘だとは思わなかったなあ。 ●中川大地 『ALWAYS 三丁目の夕日』(注33)も 早く観るといいよ。とにかくちゃんと「垢抜けない」役ができる子だというのがよくわかる。 ●narima01 で、このドラマでいう外見ってそういうことなんです よね。顔の造形じゃなくて雰囲気というか。だから造形が良くても活かしきれてない人はブサイクの側だし、そこそこの造形でも、雰囲気がいい子はかわいいっ ていう。それと同時にそのキャラが合ってないとダメっていう厳しさがあるというか。 その意味でいうと外見から変わって自分らしさを探 すってことでは電車男とも通じますよね。こっちの方が深いけど、やっぱ同時期に出たってのは何かあるんですね。 ただ野ブタの成長物語としては2話で終わってますよ ね。3話以降は野ブタが表面的にはオドオドしてるけど内面的にはブレてないから、むしろ野ブタと関わることで変わってく修二たちの話になってる。だから最 後の九話で野ブタが引きこもったり10話で「私笑えるよ」って言われても、なんか今更というか(笑)そこら辺ちょっと、物語的に早くやりすぎたかなぁって 気もします。もしかしたら後半は修二や蒼井の話にするために意図的にやったのかもしれないけど。 萌えポイントとしてはベタだけど野ブタパワー注入っ て奴ですね。多分あれ4話から登場して9話以外全部出てるんですよ。 これも演技による自己プロデュースで作品のテーマと リンクしてるんですよね。 ●善良な市民 ドラマの主導権カーブについてはね(笑)。救うものと 救われるものの逆転ってのはありがちな手法だから。野ブタのドラマは前半に集中していたわけで。1話~4話が野ブタ編、5話~7話が彰編、8~9話が修二 VS蒼井編、10話が総まとめ、で、全体の主人公は修二、と。 でも、1話、2話で終わっていたら『リバーズ・エッジ』と変わらなくない? それに10話できちんと修二たちと別れて、「ひとりで 笑える」ようになるのは最大のポイントのひとつだと思うけどなあ。 最初に大きな前提をつくって、小さな積み重ねをしてい くってのが僕は好きなんですよ。やっぱり日常世界のドラマなんだから、こういう小達成のつみかさねをすばらしいものとして描けていたのが「野ブタ」のポイ ントだと思うんですよね。象徴的なのは第3話で、義父に「お父さん」と言えなかったと漏らす野ブタに彰が「少しずつでいいんじゃないの?」って言うシーン で。この時点で、野ブタの成長は小達成の積み重ねになることは宣言されているんですよ。 「河よりも長くゆるやかに」じゃないけど、最近、性急に 結論をもとめて川幅の狭くて底の浅いものが多いじゃないですか、セカイ系とか。そんな中でこの「少しずつでいいんじゃないの?」と言わせ、事実最終回まで 小達成を続けたのはこのドラマの最大のポイントのひとつですよ。革命って、その後の政情を安定させる方が難しい。だから大抵の物語はクライマックスに革命 を描く。けれど、野ブタは最初に革命(世界観の表現と主人公達のスタンス決定)をやって、「それから」を描いているんです。 ●中川大地 そのへんの段階を追った成長具合は、先にプロデュース 作戦における修二と野ブタの主導権の移行でみたとおりだと思います。ただ、成長のカーブとしては比例直線ではなくて、初期にガッと上がって後はなだらかに 少しずつ上がっていく対数曲線みたいなイメージだったかも。3話くらいまでで「私なんか……」という自分のネガティブさを乗り越える内面のパラダイムシフ ト(脱皮)は完了してて、4話以降はそれを外の人間関係に向けて応用・発信する術を身につけていくんですよ。このモードが、成馬さんご指摘のように「野ブ タパワー、注入」なんですよね。外へのアクションに臨む際、既に自分の中にあるはずの内的パワーの存在を改めて確認する儀式。 そこからすると、確かに後から友達になった蒼井の動向 でああまで影響されるか?という点は僕も多少白けた部分あったけど、信子にとっては自分でも戸惑うくらい短期で劇的に自分も周囲も変わっていく中での出来 事だっただろうから、あれくらいの後退は無理からぬことかなという気もします。 ●善良な市民 あれ、描写不足ですよね。でも、あれくらいの女の子は 同姓の友達がいないと社会的に安定しないんですよ。6話で野ブタが彰に息を切らせて「友達ができた」っていうのでしょ? 修二と彰とはまた別に同姓の友達 ができるって重要ポイントなんですよ。に、してもまあ、7話で恋愛感情まで臭わせておいて、8話で「修二か蒼井か」なら問答無用で修二だろうって気はしま したけどね(笑)。オトコかよって(笑) 。 ■ネガティブロデューサー・蒼井かすみ ●中川大地 ってことで、この流れで蒼井話に行ってみましょうか。 成馬さんは女性陣の中では彼女がいちばんシンクロ率高かったんでしたっけ? ●narima01 はい。でも蒼井にスポットライト当たるのって8.9 話だから、それまでは女性陣でいうと普通に野ブタだったんですけど(笑) まぁ書きたいことは「週刊野ブタ。」で書いちゃった し、まだ整理つかないんですけど、蒼井って修二たち三人のダークサイドであり無自覚なクラスメイトの悪意の象徴でもあったんですよね。その悪の説得力にや られてしまって(笑)他の登場人物が基本の部分で善人として描いてる分、その負の部分が蒼井に全部来てて、それをどう描くか?がすごく気になりましたね。 あと柊留美の演技が凄まじいんですよ。淡々としてる のに凄みがあってなんかとんでもないことが起きるんじゃないか?って感じで8,9話は見てて蒼井自体への関心ってのもあるけど木皿泉がどんな形で悪役を描 くか、どう落とし前をつけるか?っていう興味がありましたね。 で、多分お二人共9話についてはいろいろ意見あると 思うんですけど、どうなんですかね(笑)。 ●善良な市民 いやあ、僕は選ぶなら野ブタだけど、キャラ的には蒼井 も同じくらい好きですよ(笑)。 あの柊留美の笑顔(笑)がすごすぎる。完全に役者とし て主役3人組より3段くらい上なんですよ。野ブタってまあ、終盤構成がちょっと……な作品なんですけど、これって蒼井という強烈なキャラを完全には御せな かったのが原因でしょうね。蒼井に食われちゃっている。 蒼井って、野ブタたちが向き合ってきた「集団の悪意」 の象徴であり、かつ裏修二(ネガティブプロデューサー)じゃないですか。つまり野ブタにとってのラスボスでもあり、修二にとってのラスボスでもある。 更に言ってしまうと、本編でも触れたように蒼井は修二 たち3人組みたいな「美しい青春をやっている仲良しグループ」をねたましく思っているわけですが、これはこういう青春ドラマを素直に見れない視聴者たちの 化身でもあるわけですよね。 僕はこの気持ち、分かるんですよ。僕自身、高校生の頃 はこういう青春ドラマには、たぶん反発していたと思うんですよね。「こんな美しい青春、ありえない」って。蒼井じゃないけど「3人仲良しグループなんて、 嘘くさい」って。二十歳ごろからかなあ、自分の高校時代のことも、こういう青春物語も素直に「いいな」って思えるようになったのは。まさに「本当に楽し かったことはあとになって気づく」というやつで(笑)。 でも、これが「酸っぱい葡萄」反応だと気づくのが出発 点なんで(笑)、読者のみなさんで「ジャニーズのドラマなんか特集しやがって、ケッ」って思っている人がいたらまずは素直になって欲しいですね。 ●narima01 9話って蒼井の話なんですよね。 今までの流れで考えれば修二のクラスメイトとの和解 と野ブタの復活っていう2エピソードってすごく大事な話なのに霞んじゃうくらい、蒼井の存在感がこの一話だけで大きくなっちゃってる。それで話も修二たち が何か秘策を練って蒼井を倒すって話じゃなくて蒼井が一人一人心理的に陥れようとするんだけど、全部弾き返されて逃げ場をふさがれて自爆するって構成に なってる。 で、この話をどう落とすかってのは要するに蒼井の中 の悪意にどう落とし前をつけるか?ってことなんですけど。 それが見ている人にとって説得力があるかないかって トコで評価が分かれるんでしょうね。 それで話としては不思議な力で蒼井は一端死んで野ブ タの友情の力で戻ってきたみたいな反則スレスレの見せ方で落としてるんですけど。どうなんですかね? 俺としては結果的には自殺を止めるに値する説得力を 三人は持ち得なかったって印象の方が強く残るんですよね。 だから、この回が何かモヤモヤとしたものが残る理 由って結局蒼井の中の悪意を跳ね除けることはできたけど昇華させることはできなかったからで、言っちゃえば断絶してるんですよ。 この後蒼井は10話でも抜け殻みたいになって出てき て野ブタにもやさしい言葉をかけてもらってるけど、それで元の友達に戻れましたみたいな風には描いてないんですよね。蒼井だけ、この世界観にすごく収まり が悪くなってる。だからこの子は戻ってはこれたけど多分一生この時のことを引きずるんだろうなぁってのは見てて思いますね。そういう子に対しての答えを ちゃんと出せてるか?っていうと作り手も困ってるのがよくわかるというか。 だから9話って今までの世界観で処理できること以上 の問題に踏み込んでるんですよね。それって作り手の側にしても予想外の事態だったのかなぁって邪推してます。 その軋みが面白いといえば面白いんですけど。 ●善良な市民 週刊でも書いたけど、僕も蒼井は自爆だと思う。 蒼井は自分が何をしたいのかわからなかったと思うんで すよね。自覚としては、「あの仲良し3人組をクラッシュしたかった」んでしょうけど、にしてはやり方が回りくどいし、中途半端でしょう。たぶん、自殺直前 の「自分の存在を刻みつけたかった」てのが一番近いんだろうけど……。 さっき、蒼井って「こういう青春ドラマに憧れているけ ど、それを素直に認められない視聴者の代表」って指摘したじゃないですか。だとすると、蒼井みたいな「凡庸な自分を受け入れられない卑小な人」はどうすれ ばいいのか? って問題にこの9話は踏み込んでいるんです。たとえば今ブログで誰も頼んでいないのに厭世的なこと書いてカッコつけているアレな人とかね (笑)。 そういう人が「酸っぱい葡萄」状態からどう脱却できる のか、というのがこの9話だった。 ここで木皿泉は一度殺しちゃうんですよ。殺しちゃった あとで、夢オチで回収しちゃう。で、キャサリン教頭に「友達が連れ戻してくれた」と言わせる。これってつまり「ひとりじゃ解決できないから、友達を見つけ て素直に(強く)なりなさい」ってことなんでしょうね。これはいいんですよ。でも一度殺しちゃっているのがやっぱり引っかかる。 これ、たぶん本当は殺したかったと思うんですよね。野 ブタが蒼井に「許してくれたら自殺しない」って言われて「許せない」って言うじゃないですか。こっちが本音なんですよ、たぶん(笑)。というより、こっち の方が木皿の考える「リアル」なんですよ。僕もこの方がリアルだと思う。 でも、それだどドラマ的にあんまりだから(笑)ああ やって呼び戻したって思いますね。 蒼井の強力な負のエネルギーにはさすがの木皿泉も一度 殺すしかなかったんでしょうね。 ただね、少し言わせてもらうと蒼井みたいな娘って、実 際は自殺する勇気なんかないでしょう(笑)、せいぜいリスカして「かまって」コール発信するのが関の山ですから。 世の中には、自分は「普通の生き方じゃ生きられない」 「普通のやり方では救われない」ってキャラで売ることでナルシシズムを確保する「マイノリティ気取りのマジョリティ」がたくさんいるわけでしょう。 だから蒼井みたいに「こんな美しい青春なんて、ケッ」 て人は、こういうこと思っている時点で「絶望」とはほど遠い人間なんで、安心して素直になって友達つくって欲しいですね。キャサリン教頭の言うように。 まあ、9話にはいろいろ不満もあるけど、最後の最後で は外していないなってのが感想ですね。 蒼井が自爆したのって、言ってしまえば「友達が欲し い」って感情を素直に認められなかったからじゃないですか。だからまあ、方便に近いけどキャサリン教頭のアドバイスにしたがって、ひとりで生きていこうと 思わないことですね。そのためにはまずその、ナルシシズムから脱却することからはじめないと。 ●narima01 蒼井が自殺する前に「嫌な思い出でも私のこと覚えて おいてほしい」って言うじゃないですか。なんかあの台詞で結構納得したトコあるんですよね。 あの自殺って自爆ではあるんだけど蒼井にとって最大 の攻撃なんですよね。仲良し空間を演じてる白々しいクラスメイトにも修二たちにも、仮に本当に自殺が成功してたら10話の牧歌的な展開はありえないし今ま で木皿泉が作ってきた世界自体がぶっ壊れるわけで、その意味で死ねなかったってことの方が俺は蒼井には残酷な処置だなぁって思うんですよね。精神的には死 んだわけで、それでも生きなきゃいけないわけだし。 それと蒼井って彰や野ブタと出会わなかったらなって たかも知れないもう一人の修二なんですよね。 だから最初っから外れてる彰とか苛められてた野ブタ には最終的には蒼井を理解できないんだけど修二だけが「お前許してほしいなんて思ってないんだろ」って言って「桐谷くんは何でもお見通しなんだ」って言う やりとりからもわかるように蒼井のこと理解できるんですよね。 だから蒼井って修二のこと好きだったと思うんですよね (笑) そこら辺堀りつめて、なおかつ対立せざるをえないみ たいな関係を期待してたからちょっと残念に思うトコもあるんですよね 「修二お前気付けよ!」って感じで(笑) ●善良な市民 だからそれは「バイバイ、エンジェル」の駆VSマチル ド(注34)だっ て(笑)。修二派の僕としてはこれもちょっと期待してたんですよねー。 で、話を戻すとここで蒼井まで救っちゃうと週刊でも書 いたように甘ったるい安易なドラマになるんですよ。でも、殺しちゃうと最後まで蒼井の話になっちゃう。死人まででちゃったら、最終回を修二達の話に戻せな いですよね(笑)。そのせめぎ合いでしょうね。 大分考えたんですけど、ここで木皿泉が迷いながらも蒼 井を救わなかったのは僕は正解だと思う。ここで自分からは何もしない蒼井に甘くなると、それはそれで世界観がブレてしまうし、甘いんですよ。まあ、本当は ああいう存在はダメだよ、ってのが本音なんでしょうが、ここで救ってしまうよりはよかったんでしょうね。 ●中川大地 しかし、蒼井の「悪意」ってそんなに大し たタマかいな?と思うトコあるよ。8話で修二に自分から正体バラしに行ったに近いとことか、修二に掴みかかられて「犯人だろと疑われた」みたいなむしろ自 分に嫌疑がかかるような言い訳口走ったりとか、そういう脇の甘いトコ含めて、週刊で「まだ高校生だしね、キミたち」という感想になった。まあ、要するには 面倒くさい構ってちゃんに過ぎなかったわけだから、それも当然なんだけど。 でも9話の構成は、こうして話を聞いてると、僕はかな りよくできてたんだなと思う。自殺を図った蒼井の甘えを、野ブタに決してその場では許させないこと、かといって蒼井に死ぬことでの勝利を与えないこと。二 人が論じてるその意味づけについては特に付け加えることはないけど、これまで織られてきた呪術的な超常現象もアリのこの作品の寓話的な世界観が、そういう 優しくも厳しい結末を可能にする方向にも応用できるポテンシャルを持っていたのだと思うと、「苦し紛れ」では済まない、ものすごく高度なことをやってたん だと改めて感じ入ります。蒼井の落下地点にしっかり跡が残っていたことは、「これは夢オチではなく、確かに起きた現実なのだ」という厳粛さの表明ですから ね。これで単純に蒼井を死なせてしまっていたら、ただの90年代野島伸司ドラマになっちゃう(笑)。 で、その取り返しのつかない地点からの現実回帰を可能 にした道具立てが、修二の母がプレゼントした友情のお守りだったというのもグー。『エヴァ』(注35)み たいな絶対のゼロ記号になって過剰な甘えと依存の対象になるでもなく、古典的な教養小説のようにただ成熟のための乗り越え対象になるでもなく、物語本編か ら適度に距離を置きつつ、子供たちを取り返しのつかない破綻から守りながら経験の機会を与えるという、母性のあり方のバランスが絶妙だったと思うんです よ。しかも世界各地をびゅんびゅん飛び回ってる中でのプレゼントという、実にさりげないかたちで。 ■上原まり子はなぜ「通りすがる」? ●中川大地 ところで蒼井かすみが「普通の人間」の弱さや薄ら寒さ を象徴する存在だったとしたら、逆に強さや図太さを体現してたのが上原まり子じゃないですかね? ●善良な市民 中川さんお気に入りのまり子ですか(笑)。 最初はね、ちょっと歯茎が気になるなあって思ってたん ですが、いい娘ですよね。 ネガティブプロデュサーじゃないかってミスリードされ る損な役ですけど、第5話あたりでみんな気づいたと思うんですよね、この娘は犯人じゃない!って。 修二とまり子って最初は「自覚的な修二>無自覚なまり 子」って構図なんですけど、この辺りでその構図がちょっと崩れてくる。第5話で、修二のプロデュース作戦の犠牲になってまり子の悪評が流れるんですが、ま り子は「修二にさえ信じてもらえればいい」って意に介さないんですね。ここからシナリオ上のまり子の位置づけが変わってくるんですよ。 ●narima01 通りすがりのまり子はですね(笑)この間リバーズ・ エッジ読んでて気付いたんですけど あの漫画の山田くんと田島カンナの関係ってかなり修 二とまり子の関係に似てるんですよ。 山田くんはかくれゲイでそれを隠すために田島カンナ と付き合ってるんだけど田島カンナのフリルのついた暴力(女臭さの押し付け、岡崎京子がよく使う比喩)を嫌ってて、最後にお前のことなんか好きじゃない、 自分のことばっか話してて楽しい? みたいなこと言って傷つけて結果山田の友達に気持ち 悪い手紙を送って最後にあてつけに自殺するんですけど、そのイメージがあったからまり子っておかしくなるんだろうなぁって思ってたら強かったので意外だっ たです。 (多分田島カンナの負の部分は蒼井に行ったんだろう なぁ) 好きなシーンは9話で野ブタに「あったかいで しょ」って言って焼き栗を野ブタのほっぺに当てるトコですね。 ●善良な市民 携帯電話を使わない演出方針の最大の犠牲者(笑)「通 りすがりのまり子」ですね。 たしかにあれって山田君とカンナだよね。 5話の他の萌えポイントは7話の泣き顔かなあ。あと9 話で蒼井に「桐谷君はこの女(野ブタ)とデキているんだよ」って言われても「それで?」とまったく動じないところですね。この強さにはしびれた! ここでまり子派を代表して中川先生に語っていただきた いなあ(笑)。 ●中川大地 ういっす、前フリご苦労(笑)。 いや、まり子って「通りすがりの」が枕詞になってしま う絡ませ方の強引さからもわかる通り、本来、物語設定的には修二の偽装彼女として野ブタの引き立て役でしかないはずなんだけど、そういう予想される役割設 定からの逸脱が最も甚だしかったキャラですよね。普通に少女漫画的に考えた場合、ドジで不器用なヒロインに対する、完璧だけど空虚なライバルお嬢様じゃな いですか。ちょうど同クールにそういうベタベタな構図の『花より男子』がやってたからわかりやすいけど(笑)。 第1話の「ただひとりゴーヨク堂で立ち読みできる」と いう設定も、単なる学園マドンナとしての記号のひとつかと思いきや、5話での噂に動じない姿勢などからもわかるように、実はただひとり付和雷同な教室内 ローカルルールを越えた、ちゃんとした個の確立者だったからこそという内実がさりげなく肉付けされていくあたりにグッときましたね。で、さりとて物語の本 筋に出しゃばってきすぎないところが、またイイんだわこれが(笑)。 そのへんのキャラクター性が明確化する5話以前にも、 1~4話で修二の本性に気づいていく過程はちゃんと描かれてて、5話での「気持ち、届いたかな?」なんかの台詞は、実は修二にちゃんと見てもらえていない ことを気づいていながら、それでもWデートの時間の幸福を噛みしめようとするセンシティブな前向きさが出てて、あれで僕は決定的にやられてしまいましたね (笑)。また、8話で孤立した修二の背後にそっと弁当追いてくところとか、9話の「本当のことを知るのって、辛いけど、できないことじゃないから」という 台詞とかの恋しさと切なさと心強さに、「萌え」どころじゃなくてきっちり惚れちまいましたさ! 野ブタキャラの中で、唯一まともに恋愛っぽい心の機微を感 じさせてくれた娘でもあったし。 で、ある意味、蒼井の真の対極の存在はまり子かと思う んですよ。5話でネガプロが流した噂でも、シッタカはわりと野ブタの被害者的に言われてるのに、まり子も一緒に悪く言われてるし。ただ、「弱い者がさらに 弱い者を叩く」のが世の中だから、端的に強者であるまり子はターゲットになりえないのだけど。 そのへんで最終的には、少女漫画的学園マドンナかと思 いきや、実は90年代少年漫画でいくつか見られたジョーカーキャラだったわけですね。『るろうに剣心』の比古清十郎とか『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎 みたいな、主人公たちのレベルのバトルには直接関わってこないけど、その世界観の中での「最強」の指標として鎮座しているような(笑)。 ●善良な市民 野ブタと蒼井とまり子って、ジャンケンみたいな三すく みになっていますよね(笑)。野ブタは蒼井に弱くて、蒼井はまり子には打つ手なしで弱い、で、そのまり子は修二の優先順位で野ブタには勝てない。 ●中川大地 あ~、そういう見方をすると確かに(笑)。でも最終回 で野ブタといい雰囲気で語らってるとき、修二が最後に気にしたのはまり子だよね。恋愛という感情のまだわからない修二にとって友達としての優先順位は野ブ タだけど、まり子とだけ「まともな人間」になっての再会する約束をしたのは、やっぱり将来の恋人候補はまり子だっていう決意からじゃないかな。……とかも う完全にミーハー恋話モードになっちゃいますが(笑)。 ■愛すべき大人たちの背中 ●善良な市民 あと、忘れちゃいけないのは、週刊でも触れたけど僕は このドラマ、大人の脇役が好きなんですよね。 木皿泉は男女ペアの覆面作家だけど、明らかに年齢は上 でしょう? 大人たちが少年少女を暖かく見守っているのがよく分か るんですよね。キャサリン教頭にせよ、ゴーヨク堂にせよ、修二の父親にせよ、基本的に思いやりをもって、でも甘やかすこともない優しくて厳しい視線で修二 たちを見守っている。 これ、結構難しいんですよ。例えば同時期に『仮面ライ ダー響鬼』って番組があって、細川茂樹演じる30男のライダーが、取り巻きの高校生に「男の生き方」を教えるって話なんだけど、ハッキリ言って押し付けが ましいんですよ。「俺はこんなに人格者だ、尊敬しろ!」ってスタッフの裏メッセージが鼻につきすぎる。いや、すごくいいこと言っているんですよ、29話な んて感動的で。でも、このやり方じゃ半分しかつたわらない。で、幼児向け枠でジュブナイルやったもんだから玩具が売れなくて30話で脚本とプロデューサー が入れ替わって路線変更されちゃった。 野ブタの大人たちはその辺の距離感がいいんですよね。 突き放すわけでもなく、甘やかすわけでもなく、横山なんか自分でも迷いながらたまーにいいこと言ったりするでしょ? それがいいんですよ。 ●中川大地 というか、野ブタの大人たちは基本的にしょうもない、 バカなことばっかりやってる。修二たちが深刻ぶって教室内ローカルルールに規定された「平坦な戦場」でのサバイバルに明け暮れている間、生徒たちにバカに されながらも、やたらガキっぽい騒ぎで一喜一憂して日常を楽しそうに送ってるんですよね。 で、キャサリン教頭を除いては、別に意図的に「導く」 でも「助ける」でもなく、彼らの経験からポロっと出た言動がたまたま修二たちへの示唆になって、自力で考え解決することを促すという構図が素晴らしい。 個々のキャラについても、人生練度や世界観上の影響力 にレベルの差がありますよね。 まず最強クラスが、キャサリン教頭と修二の母。この2 人は完全に超常現象もあるこの世界の法則性にまで意識的・無意識的に踏み込んでる体現者or媒介者ですから。キャサリン教頭については、ふつう学園ドラマ で「教頭」というと、話のわかる「校長」に対して頭の固い官僚的な悪役なのが定番なのに、その定型崩しをしている点も面白いし。 次のレベルが、デルフィーヌと修二の父。教室内ルール の「外」にある別ルールの社会の守り手として、修二や野ブタに安息の場を与える人。忌野清志郎は映画『恋の門』ではどうしようもないサブカル老害だったん だけど、ゴーヨク堂店主役はうまくキャラが有意義に活かせて良かったですよね。 もうすこし下がって、彰のおいちゃんとか横山先生、セ バスチャンなど。修二たちとわりと同じ目線で、それぞれ自分の人生に前向きに苦闘している姿で順面・反面教師をやってくれる。 あとは野ブタの義父や彰の父、商店会長といった、抑圧 的な「社会or心理の壁」としての大人がいるのかな。 こういう人らとの関わりが、ベタな人情劇や葛藤劇に なったり、さりとてバラバラな群像劇になるのでなく、あくまで少年たちのドラマの「環境」として良い見取り稽古の材料になったからこそ、「いいよ、子供 で。俺はただのガキです」という、ひとまわり大人になった修二の成長に説得力が生まれるんですよね。自分たちがガキであることを認め、どんなに年をとって もなくなることのない自分の中のガキっぽい部分をうまく飼い慣らしていけるようになることこそ、大人って存在の大事な特性なんですから。 ● narima01 俺はキャサリンとかゴーヨク堂の店主は大人ってより 妖怪って感じで見てましたね(笑) 野ブタって隠し味的にホラー映画のエッセンスが各所 の混じってるじゃないですか。 それが結構好きでこの作品はホラーじゃないんだけど ホラー心があるなぁって思います。 ティム・バートンの映画とか好きな人には、あの感 じって言えばわかると思うけど。 ■河から海へ ●善良な市民 まとめにもう少しテーマに突っ込んでおきましょう。 成馬さんがさっき『リバーズ・エッジ』の話を出してい たけど、僕は何もこれが「そんなものは前提だからつまらない」と言っているわけじゃないんですよ。94年でこれを描いた岡崎は天才だと思うし、作品も大好 きです。 この「平坦な戦場」(=キツめの終わりなき日常)って 不幸があるんだから、その傷を物語に生きて行こうというのは90年代前半の文脈だと思うんですよ。でも、これって90年代後半にはもう前提になっていた。 「終わりなき日常がキツイ」ので「じゃあ自傷パ フォーマンスだ」「じゃあ自己愛に引きこもれ(セカイ系)」「じゃあブログでパフォーマンスだ」「じゃあ天下国家を語って噴き上がれ(シャカイ派)」って それぞれ発泡スチロールのシヴァ神を掲げてセクト争いを続けていたのがこの10年じゃないですか。誰もが安っぽい超越性を解決策にすえて結論を急いでい た。なんで急ぐかって言うと「平坦な戦場」「終わりなき日常」って認識が前提になったからですよ。 で、「平坦な戦場」と「安易な解決策」(セカイ系& シャカイ派)のセット販売でみんなが躓いていたところで出てきたのが『木更津キャッツアイ』だったわけですよね。ここでは「死」がテーマになって「終りな き日常」って前提を壊しちゃうんです。人間死んじゃうんだから「日常」はそれだけで充分素敵なんだってひっくり返してしまう。これが出てきたおかげで 90年代が建設的に終わったなって思ったくらいです。 『野ブタ』は『木更津』ほどラディカルじゃないけど、こ の辺の意識は近いと思うんですよ。最初から最後まで、むしろ「(本当は終りのある)日常」ってモチーフが頻出して、最後は本当に終わってしまう(笑)、で も大丈夫「どこへ行っても生きていける」と背中を押して終わるんですよね。 ざっと整理すると、 第ゼロ段階 ハルマゲドン妄想、世界の終わりがやってくる 「AKIRA(注36)」 「ナウシカ(注 37)」「北斗の拳(注38)」 【冷戦終結】 世界の終わり(ハルマゲドン)は来ない 歴史が個人の人生を意味づけない →高度消費社会で「モノ」は溢れても、人生の意味が不確かになり「物語」を失った「終わりなき日常」が顕在化 (1)第一段階 平坦な戦場(終わりなき日常で唯一残る自意識戦争)で僕 等が生き延びること (シビアな世界認識+厭世的な自意識パフォーマンスで ウットリ) 「リバーズ・エッジ」「完全自殺マニュアル(注39)」 第一段階→第二段階の過渡期 終わりなき日常が煮詰まって世界が終わる(終わらないはずなのに!)=自意識戦争でのハルマゲドン 「エヴァンゲリオン」 (2)第二段階 終わりなき日常が破綻しないためのガス抜き=安易な非日常への逃避 ポスト・エヴァンゲリオン症候群 (セカイ系&シャカイ派の「安全に痛い」物語) (3)第三段階 実は「終わりなき日常」はあり得ない。 (人間はいつか死んでしまうので「終わる」。「今、ここ」はそれだけで入れ替え不可能の貴重なもの。よって日常はむしろ可能性に溢れている!) 「木更津キャッツアイ」「野ブタ。をプロデュース」 「野ブタ。」の真価は第一段階で表現 した世界観(第1話)を、安易なゴール=第二段階に依らず展開した(第2話以降)からである。つまり第三段階にいるところにあると思う。 僕が2話以降の「実践編」を重視する理由もこれできれ いに説明できるしね(笑)。 ●narima01 その3つのフェイズで言うと俺は静観はしてたけど (2)はどれも乗れなかったんですよね。 俺が思うに終わりなき日常が辛かった理由って「進むべ き未来がない」ってのと「ちまちました人間関係しかない」って感じてたからだと思うんですよ。それに対してハルマゲドンってのは全部チャラにしてやり直そ うって発想だったんですけど、エヴァやドラゴンヘッド(注40)が 何を描いてたかというと、ハルマゲドンが来ようと人間関係は終わらないしむしろキツくなるってことなんですよ。俺はあの二つが好きなのはハルマゲドンで全 部チャラになるからでなく、それでも人間関係という日常はなくならないってことを描いてるからなんですよ。 そこら辺80年代のAKIRAとかナウシカみたいな滅 亡モノと違うんですよ。 で結局(2)がうまくいかないのは人間関係のストレ スと自意識から逃げようとしてたからで、それこそ痛み止めの注射くらいにしか効かなかった。 それに対して(3)の木更津でも野ブタ。でも人間関 係と自意識から逃げないでじっくり向き合ってるんですよね。 だからテーマは昔からのものなんだけど向き合い方が 新しくて楽しかったから俺は(3)だって思ったのかなぁって思います。 ●善良な市民 『野ブタ。』の世界観の基本ってふたつあるんですよ。 ひとつは第1話で提示された「今の世の中は乱立するタ コツボ(小さな世界)ごとに異なるルールをもつゲームが渦巻いている状態で、各タコツボのローカルルールはいくらでも書き換え可能」という認識。 もうひとつが、さっき指摘した(3)第三段階の認識で す。劇中で繰り返し「楽しい時間(関係)はすぐに終わる」「楽しいことは終わってから気付く」というモチーフが強調されるわけですが、これはつまり「終わ り」をしっかり見つめるとことによって、日常の捉え方を変化させているんです。「終わりなき日常がつまらない」から「日常はいつか終わってしまう貴重なも の」への発想の転換ですね。文化祭はすぐに終わるから楽しいんです。 「終わりなき日常」の何がキツイかっていうと、無味乾燥 な繰り返しの中で自意識の問題(平坦な戦場=小さな世界の中でのキャラ売りゲーム)だけは最後まで残るところだったんですが、この作品の世界観では「終わ り」があるので、「自意識のゲーム」は「残された唯一の永遠に続くゲーム」ではなく、「タコツボごとに無数に存在する、終わりのあるゲーム」のうちの一つ でしかない。これってむしろ可能性なんですよ。唯一無二のエンドレス・ゲームは御しがたく、ただ耐えるしかない。でも、期間限定の無数にあるゲームのひと つにすぎないなら、自由に距離を取りながら楽しむことができる。 だから3人組は、試行錯誤の中でゲームとの距離を測り ながら「プロデュース作戦」というゲームを楽しんで、大切な思い出にすることができるわけです。その有限性を認識することで、日常にもゲームにも可能性が 生まれているんですね。 そしてそんな「いつか終わってしまう日常」には、その ときだけにしか味わえない貴重なもの(例えば人同士のつながり)がたくさんあるよ、と根本的なところから「終わりなき日常」という90年代的な厭世観を ひっくり返しているんです。 あと、つけ加えると僕がこの作品で好きなの はバランス感覚なんです。 「教室の中の自意識ゲーム」に勝つことにばかり夢中に なって磨り減るばかりの修二と、逆に「教室の中の自意識ゲーム」に勝てなくて絶望的な日常を送っている野ブタが出会って、修二はゲームの限界を、野ブタは ゲームの可能性を学ぶわけです。 どっちも「0か1か」ではなくて、試行錯誤の中でゲー ムとの距離を測っていけるようになっていく。 そして、ふたりともゲームの外側に自分を支えるものを 見つけて、修二は「どこへ行っても生きていけるように」、野ブタは「(日常を)笑って生きられるように」なる。 これ、どっちが欠けていてもダメだったと思うんですよ ね。 ●中川大地 まあ、そのへんの状況論みたいのを簡単に語るクセは、 作品の細部の具体的な表現の工夫を感受するより横着だからあまり若い人にはつけてほしくないんですが(笑)、90年代から現在までの若者表現の世相反映形 態としては、だいたいそんな感じでしょう。特に小泉自民党が圧勝して『下流社会』(注41)が ベストセラー化した05年のドラマは、『女王の教室』や『ドラゴン桜』みたいに、シビアな競争ゲームの必要悪を渋々でも認めて生き残りながら、内面的なメ ンタルな価値も見つけていくという、フェイズ(3)に移行した時代の変化への応答が他の表現ジャンル以上に顕著でした。 ただ、『野ブタ。』の場合は、ともすれば偏差値リアリ ズムに順応してただ階層分化していく社会の中で勝ち組を目指せ、という短絡したメッセージに誤読されかねない前二者と違って、フェイズ(1)の岡崎京子の モチーフや、蒼井によって(2)の問題意識もきちんと組み込み、作品全体が90年代の若者表現史を順を追って丁寧に(3)を体現していくような歴史性を内 包している点が、ひとつ図抜けているところですよね。 この、単なる時代の気分への埋没と短絡を避ける緊張感 を、後続の表現ではぜひ前提としていってほしいところです。……ってのが、ひとまずのまとめコメントかな。 ●善良な市民 では、そろそろお別れの時間ですね。 みなさん、言い残したことはないですか? ●narima01 特にないんですよね(笑) ちょっとまだ距離とれなくて。 まぁ楽しいことは後で気づくものだから、その時まで とっときます。 「週刊野ブタ。」とこの座談会読んで興味もったらレ ンタルになったら見てね!って感じですかね。 あと次回から市民さんの「週刊 食いタン(注 42)」 が始まるのでそちらもお楽しみに(嘘です!) ●善良な市民 って、ことでbye-bicycle! | ■夏休みの終わりに 「終わりなき日常」って言葉がある。「平坦な戦場」って言葉がある。20世紀も終りの四半世紀に生まれた僕等は、ジャスコ化 する郊外にまでモノが溢れる一方で、決して歴史が生を意味づけてくれない世界に生きてきた。モノが溢れるその一方で、物語のない「平坦な戦場」は延々と続 く。あるのはただひとつ残された自意識のゲームだけで、それはこの世界に生きる限り毎日繰り返される。そう、「終わりなき日常」は辛いのだ。 だが、本当にそうだろうか。 本当に日常は「終わらない」のだろうか。 この世界にあるものは、自意識のゲームだけが渦巻く「平坦な戦場」だけなのだろうか。 そんなわけはない。例えば人は、大人になる、老いる、そして死ぬ。「終わり」はかならずやって来る。そう、本来、「終わりなき日常」も「平坦な戦場」も 存在しないのだ。 この世界には「入れ替え可能」なものの方が実は少ない。「終わり」がある限り、「いま・ここ」は基本的に「入れ替え不可能」な唯一無二の時間なのだ。 だから「モノは溢れても物語がない」と嘆く態度は、ただの甘ったれた言い訳なのかもしれない。少なくとも、「終わりなき日常」幻想を打破する程度の可能 性は、この世界に溢れている。 テレビドラマ『野ブタ。をプロデュース』はそんな世界の豊かさを背景に、そっと背中を押してくれる優しい作品だ。 主人公の修二は、そんな「自意識のゲーム」を周囲の人間関係をメタ視することで(自分を「演じる」ことで)軽やかにクリアしている少年だ。彼は「平坦な 戦場」というゲームの有能なプレイヤーなのだ。 だが、彼は薄々だが気付いている。このゲームは、教室という狭い世界でしか通用しないルールに基づいて行われている。そして、このゲームを楽しんでいら れるのは、ほんの僅かな時間なのだ……。 修二は、ひとりの少女と出会い、彼女にゲームの楽しみ方を、世界の豊かさを教えていく。そして、やがて修二も気付いていく。このゲームの外側にこそ、本 当に自分を支えるものがあることを。それを手にいれれば、きっとどこへ行っても、どんなゲームに参加しても生きていけることを……。 「ジャニーズ主演の学園ドラマ」ってだけで「なんとなく<敵>のような気がして」嫌う人もいるだろうし、この「時間をかけてじっくりと豊かな人間関係を はぐくんでいこう」というメッセージを素直に受け取りたくない人って多いと思う。まさに、蒼井のように(笑)。 このメッセージは「身近な人間関係」っていういちばんリアルなところを突いている。だから、耳に痛くて逃げ出したくなる人の気持ちはよくわかる。 そういう人に限って「こんな処方箋じゃ俺の深い心の闇は救われないぜ」って「酸っぱい葡萄」パフォーマンスに走りがちだ。たしかにこうすると「楽」には 違いない。等身大の自分に向き合うことから逃げて、「自分たちは深い心の闇を抱えた特別な存在」みたいなナルシシズムを確保できる。でも、これって世界一 安直な道の一つだ。 だから、そんな人は胸に手を当ててじっくり考えて見て欲しい。蒼井が凡庸であったように、ここで「素直になれない人」という時点で凡庸なのだ(というよ り、「特別な欠落を抱えている自分」というキャラ売りが大流行したのが95年からのこの10年だったわけだ)。でも、それこそ「キャラ売り」をテーマにし たこの作品の手に平の上にいる証拠なのだと思う。「こんな処方箋では自分の欠落を埋められない」と思っちゃった人こそ、むしろ、この作品の射程内にある。 文化祭のクライマックス、焚き火を囲んだフォークダンスが催されている。輪に入って楽しそうにしている人もいれば、輪に入れずに寂しそうにしている人も いる。 本当はもっと他にやりたいことがあるのに無理して輪に入っているのが修二、輪に入りたくても入れずに指を加えているのが野ブタ、輪の周辺でひとり大騒ぎ しているのが彰、そして本当は輪に入りたいのに「あんなものくだらない」と「酸っぱい葡萄」反応をしているのが蒼井だ。 そして、この物語は0(無理して輪に入る)でも1(本当は入りたいくせに「酸っぱい葡萄」反応)でもなく、ほどよい距離を取れるようになっていけばいん だよ、それも時間をかけて、仲間と一緒にじっくりやっていけばいいんだよ、という優しいメッセージで背中を押してくれる。 だから、全国の「酸っぱい葡萄」反応しちゃう人はまず、この作品をきっかけに出来る範囲でいいから素直になる練習をしてみたらいいと思う。今すぐには出 来なくてもいいし、ひとりでやらなくてもいい。何年かかってもいいので、ちょっとずつ歩んでいけたらいい。 いや、今は「酸っぱい葡萄」をやっていてもいいのかもしれない。 でも、そんな自分が嫌になるときが必ず来る。 そのときにふとこの作品のことを思い出してもらえたらいいなと僕は思う。 誰にも言わなくていいのでこっそり「野ブタパワー、注入」してもらえればいいんじゃないかって、今はそう思っている。 (善良な市民) ほぼ日(注1) ほぼ日刊イトイ新聞。コピーライター・糸井重里のサイト。おそらく個人運営のものとしては日本最大のアクセス数を弾き出している。糸井の 日誌である「今日のダーリン」(「ダーリン」とは糸井のこと)をはじめ、「ほぼ毎日」何かしらの更新がなされている。鳥越俊太郎、清水ミチコなど、人脈 を生かした執筆陣も魅力。全体として全共闘世代特有のヌルく日和ったセンスでまとめられているが、絶妙な力加減で主婦から学生、OL層まで幅広くアピール している。読者を理論ではなく感情で誘導する「糸井メソッド」の威力も絶大。そのブランド力を使って物販も盛ん。ちなみに私も「ほぼ日手帳」の愛用者だっ たりする(笑)。 タイガー&ドラゴン(注2) 05年4月~7月に放映された連続ドラマ。『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『マンハッタンラブストーリー』に続き、 TBSの磯山晶プロデューサー、そして「クドカン」こと宮藤官九郎脚本の布陣で制作された。前作『マンハッタンラブストーリー』が視聴率的に苦戦した(裏 番組が『白い巨塔』)ために、まずは05年1月に2時間スペシャルを放映。DVDの高セールスを踏まえて連続ドラマを放映し、好評を得た。内容は身寄りの ないヤクザの虎二(長瀬智也)が、ふとしたことから落語の世界にハマり浅草の落語家に入門。そこに居場所をみつけていくハートフルストーリー……と、まと めるとかなり語弊のあるひとクセもふたクセもあるドラマ。実際は虎二の弟子入り先の家出息子・竜二(岡田准一)をはじめ個性的なメンバーが毎回珍騒動を起 こし、クライマックスではその過程を虎二が古典落語をアレンジした形でお客に披露するという凝った構成。かなり強引な回もあったが、若者層に落語ブームま で起こした05年上半期のスマッシュヒット作。ただ、クドカン作品にしてはひねりがなく、オーソドックスな人情話でまとまっているために従来のクドカン ファンにはやや物足りないとの声も上がっている。 山田太一(注3) 34年生まれ。代表作は『岸辺のアルバム』、『男達の旅路』、『ふぞろいの林檎たち』他多数。テレビドラマ界の生き神様、いまだに新作が 発表されているのがすごい。オーソドクスな演出による会話劇が恐ろしいくらい胸に迫る。人間の寂しさと近代化による共同体の崩壊と再生を描き続けている。 最近では野ブタの裏でリメイク版『終りに見た街』が放送された。 (成馬) 市川森一(注4) 脚本家、1941年生まれ。1966年に「快獣ブースカ」でデビュー。以降『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』『買ってきたウルトラマン』 など歴代の円谷特撮作品に参加、『ウルトラセブン』第37話「盗まれたウルトラアイ」や、メインライターを務めた『ウルトラマンA』最終話「明日のエース は君だ!」など、徹底した性悪説に基づいた後味の悪いエピソードで人気を得る。特撮以外のドラマ、映画の脚本執筆も多く、代表作はなんと言っても『傷だら けの天使』だろう。『異人たちとの夏』では日本アカデミー賞の脚本賞も取っている。 宮藤官九郎(注5) 劇団「大人計画」所属の劇作家、俳優。通称「クドカン」。1970年7月19日生まれ。『池袋ウエストゲートパーク』(2000年)から ドラマ脚本家としても注目され始める。2002年。「死」をテーマにしたTBS系ドラマ『木更津キャッツアイ』は「大きな物語」が失効し、歴史性や象徴秩 序へのアクセスが難しくなった現代社会において、「見えにくくなった社会に怯えて引きこもる」(セカイ系:ファウスト的)でも、「見えにくくなった社会に キレて噴き上がる」(シャカイ派:福井晴敏的)でもない第三の道を示したセンセーショナルな作品だった。2005年、「鈍獣」で第49回岸田國士戯曲賞を 受賞。 堤幸彦(注6) 55年生まれ。三池崇史と並んでここ数年、量と質を維持しながら 良い意味で節操なく仕事してる監督。 95年のドラマ版金田一少年の事件簿の大ヒット以降はミステリーのフォーマットと奇抜な演出で人気を博す。そして99年のケイゾクで作家性を開花。私的に はケイゾクから「愛なんていらねぇよ夏」までが、堤幸彦の暗黒黄金期、それ以降は黒い部分が若干薄れ、セカチュウやH2、電車男の舞台演出と一気に日の当 たる。世界に出てきた感があるが、まだ予断は許さない。 サブカル好きの堤初心者の君はとりあえず「ケイゾク」「池袋ウエストゲートパーク」、「溺れる魚」を押さえとけばOK。あと、この50年代前半生まれの 作家は高校の時、学生運動があり、大学に入ったら終わってたせいで、行き場のない。反権力魂が燻っている人達が多い。(例、押井守、村上龍、小林よしの り)その文脈で考えると、わりとわかりやすい作家でもある。(成馬) すいか(注7) 日本テレビ系03年放映の木更泉の前作。 成馬01による『週刊 野ブタ。』上のレ ビュー参照。 リバーズ・エッジ(注8) 94年発売。作・岡崎京子。当時の都内の高校生の閉塞した日常をモチーフに「平坦な戦場で生き延びること」を描いた傑作。説明になってい ないと思うかもしれないがストーリーを説明するタイプの作品ではないと思うので割愛。ちなみにこれを読んで偉そうなことを言うと嫌な顔をする人がいるので 注意。またこの作品は確かに岡崎京子の代表作だが岡崎初心者はpink、くちびるから散弾銃、ジオラマボーイパノラマガール等のややユルイものから入るこ とをオススメ。 ヘビーなリバーズ・エッジとへルタースケルターは、その後で。 (成馬) 女王の教室(注9) 『野ブタ。』の前に同じ日本テレビ系土曜9時からの枠で放映されていた2005年夏期クールのドラマ。「悪魔のような鬼教師」 阿久津真矢の過激なスパルタ教育に対し、反発する神田和美をはじめとする6年3組の児童が徐々に自立心に目覚め、クラスの連帯と友情を深めてゆく「一年間 の戦いの記録」。放映当初、通俗テレビドラマとしてはあまりにも冷酷でえげつない真矢の教育描写に、スポンサーや放送倫理・番組向上機構(BPO)が懸念 を表明し、視聴者にも賛否の議論を巻き起こしたが、「あえて子供たちの壁になる」真矢の真意が明らかになっていく展開が進むにつれ、視聴率はうなぎ上りに 上昇。06年春にはスペシャル版放映も決定し、映画化も取り沙汰されるヒット作となった。(中川) 岡崎京子(注10) 漫画家。1963年東京生まれ。80年代前半、美少女コミック(いわゆるエロマンガ)でデビュー。以降、80年代のバブリーな都市生活を 営む女性とその疎外感を描いて多くの読者に支持される。そのお洒落な外見からファッション的に消費されることも非常に多い。代表作に『pink』『リバー ズ・エッジ』など。 1996年に交通事故に遭い、現在療養中。 ブラザー・ビート(注11) 田中美佐子の久々のドラマ主演作として話題になった05年10月~12月放映のTBS系ドラマ。「まるでお姉さんのような」友達感覚の母 親(田中美佐子)が、真面目な長男(玉山鉄二)、ちゃらんぽらんな次男(速水もこみち)などの起こすさまざまなトラブルに巻き込まれたり、逆に巻き込んだ りする家族コメディ。オープニングがカッコ良かったが、それだけだった。 あいのうた(注12) 岡田恵和脚本のドラマ。05年10月~12月日本テレビ系列放映。余命いくばくもない警察官(玉置浩二)と、入水自殺に失敗したところを 彼に拾われた女(菅野美穂)の純愛(?)と家族の触れ合いを描いたドラマ。「これでもか」ってほどのベタベタ路線(玉置の主題歌含む)だった。せめて 『ちゅらさん』くらいギャグが入っていれば観れたのになあ。もう少し照れようよ。 花より男子(注13) 神尾葉子のベストセラーコミックが満を辞して(っていうか今更?)ドラマ化。内容は一家の期待の星として超エリート高校に通 う中流家庭出身のヒロインが、同校に通う大財閥のお坊ちゃまに見初められて……というもの。主演は『キッズ・ウォー』で人気を博した井上真央。まあ啖呵を 切るシーンを期待されての登板だったのだろう。ドラマの出来としては、原作どおりの安っぽい感じだったが、みんな似合っていたし、楽しそうだったし、明ら かに元々こういう企画なんでよろしいのではないでしょうか(笑)。 今夜、ひとりのベッドで(注14) 2005年10月~12月放映のTBSドラマ。モックンと要潤がスワッピングする話。 BLOOD+(注15) 2005年10月放映開始のTBS竹田アニメ土6枠。2000年ごろ、押井守監修でスタートしたプロダクションIGの企画会議(押井塾) の成果としてメディアミックス企画として制作された『Blood』シリーズのTV版。と、いっても世界観やキャラ名が一部共通しているだけでほぼ別物と 言っていい。IGらしいヌル目のスタイリッシュ路線と竹田アニメらしい無駄にシャカイ派な内容で話題に。 山崎ナオコーラ(注16) 白岩玄『野ブタ。をプロデュース』と同時に『人のセックスを笑うな』で2004年の文藝賞を受賞した作家。筆名の由来は「コーラが好きだ から」だとか。受賞作の『人のセックスを笑うな』は美大予備校の生徒が、40代の人妻と不倫する話。これくらいのヌルいトンガリを若い女の子が書いてくる と受賞できるのが文藝賞なんだよなあ、と実感できる一作。最近見かけないけど、何しているんだろうか。 平成マシンガンズ(注17) 2005年の文藝賞。作者はなんと当時15才、現役中学生の三並夏。内容は平凡な少女が家庭崩壊とクラスでの孤立をきっかけに夜な夜な怪 しい夢を見るようになるというもの。クロスレビューはこちら。 PINK(注18) 岡崎京子の代表作。バブル経済を背景にした「愛と資本主義の物語」。高度消費社会の楽しさをたっぷりと教授しながらもそこからこぼれおち る悲しさと閉塞感を描いた傑作。時代と寝た作品の宿命だけど、今読み返すとこれくらいの認識はすっかり前提になっている(「野ブタ」もたぶんそうなる)。 必読の基礎文献なので未読の方はぜひ! 木更津キャッツアイ(注19) 宮 藤・磯山コンビのTBSドラマ『木更津キャッツアイ』のこと。02年放映で、主演はV6の岡田君。千葉県木更津市でブラブラする、高校野球部OBの面々の 日常を描いたコメディ。大塚英志が『キャラクター小説のつくり方』で絶賛してから、評論好きのオタクたちにも知られるようになった。個人的にはいわゆるセ カイ系表現のはるか先を行く(笑)傑作だと思う。 「シラけつつノリ、ノリつつつつシラける」(注20) 浅田彰『構造と力』の「序にかえて」と題された大学論の一説。要するに過度に冷笑的になることもなく、かといって埋没することもなく、適 度に距離を取れということ。まったくもって正論だが、それができれば苦労しないよ、と今でも思う。現に、浅田自身ができていないし、浅田に憧れた当時のス ノッブが問題外だったことも既に「歴史」である。 真夜中のギター(注21) 第3話で、横山、セバスチャン、修二のバンドが演奏するのは1969年のヒット曲、千賀かほるの「真夜中のギター」。弾き語りの曲だ。 ビューティフルドリーマー(注22) 『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84)。押井守の出世作。詳しくは『週刊 野ブタ。』第3話の解説を参照。 デスノートの夜神月くん(注23) 「週刊少年ジャンプ」連載中の人気漫画『DEATH NOTE』の主人公。東大を主席で卒業する天才的な頭脳を持つ。名前を書 くだけで人を殺すことができる魔界のノートを手に入れ、「新世界の神」となることを目指す。 ホワイトバンド(注24) チャリティイベント「LIVE 8」(2005年7月2日-)とともに、全世界で展開される貧困撲滅に向けたムーブメント。白いバンドを装着することで貧困問題をアピールする運動。 日本ではPR会社サニーサイドアップが主導し「ほうっておけない、世界の貧しさ」のコピーと共に、1個300円のシリコン製「ホワイトバンド」を大量に 売りさばいた。売り上げのうち約27円が貧困問題に取り込むNGOに寄付されるのだが、そのコスト内訳には不明瞭な部分が多く、サニーサイドアップの利益 優先キャンペーンではないかという批判が集中した。まあ、こういう運動が偽善ビジネスとしてしか成立しないのは前提だと思うけどね。その上で、個人がどう するかは勝手に決めればいいと思うけど。 ちなみに私は一時期ホワイトバンダー・コレクションに凝っていて、周囲のホワイトバンダーに写真を撮らせてもらっていた。いちばん反応がよかったのは某 若社長で、彼は「やっぱ俺たちもサニーサイドアップみたいになりたいよな~。あれぐらいやんなきゃダメだよ」が当時の口癖だった。つまり同社の話がしたく てあえてホワイトバンドをつけていたのだ。 セカイ系(注25) セカイ系とは何か? それは象徴秩序が認識しづらくなり、個々の生と歴史とのつながりが把握しづらくなったこの世の中において、象徴秩序 や歴史を媒介とせずに世界像を結ぶ傾向である。噛み砕いて言えば「複雑で見えにくい世の中に向き合うことができないので、自己愛で世界像を結びます」とい う短絡思考である。いわゆる「セカイ系作品」ではオタクの妄想で塗り固められたイノセントな少女が世界を背負い、オタク少年たちのナイーブな自意識を世界 ごと全肯定する。この恐るべき身勝手さ! 「オタク男子の他者なきロマンス」の極致だと言える。オタク男子の自意識の問題を解決するために消費される少女 像……オタクマッチョな発想のかなり醜悪な形でもあるのだが、セカイ系に耽溺する若者の多くは、自分たちのこのマッチョイズムに気づいていない(例外は更 科修一郎)。 コナン系(ラピュタ、ナディア)(注26) 元気な少年が、非日常を象徴する少女との出会いで彼女を守る冒険に出る、というパターン。少年期の純粋な憧れの結晶であり、オタク男子特 有の「他者なきロマンス」の萌芽も孕む基本パターンである。誤解しないで欲しいのだけど本文中での発言は特に思い入れがないというだけで、別に悪しき思想 として嫌悪しているわけではないですよ。フツーに微笑ましく思っています。 福井晴敏(注27) 作家。1968年、東京都生まれ。1998年、「Twelve Y.O.」でデビュー。基本的に「ガンダム」のノリでテロ小説や第二次世界大戦のミリタリーものを書くので、「ガンダム世代」=第二世代オタクたちの受け が非常にいい。毎回自衛隊を擁護し、10年前に「SAPIO」に載って保守オヤジの溜飲を下げていたような陳腐な現代史総括が乗るのが特徴。 NHKにようこそ!(注28) 座談会第12回参照。 逆境ナイン(注29) 座談会第11回参照。 マイ・フェア・レディ型(注30) 音声学の教授が貧しい下町娘に上流階級のマナーや喋り方を叩き込み、一流のレディに育て上げて結婚するという、イギリスの劇作家バーナー ド・ショウ原作の古典ミュージカルに代表されるラブストーリーの類型のこと。ヒロイン側からみれば「一見冴えないけれど、素敵な旦那様が磨けば宝石のよう に光るワタシの価値を見出してくれる」というシンデレラストーリーであり、男からすれば「インテリとしての自分の優越性を承認し、己の理想の鏡として意の ままに女を育成・支配できる」というナルシスティックな願望充足のドラマである。(中川) 『電車男』対『電波男』みたいな不毛な対立(注31) 本来なら無駄にひねくれたオタクたちからは「ケッ」と反応されたであろうベタベタな「純愛物語」を、「これは2chが発祥で すからみなさんの味方の文化ですよ」とその手のアレな人たちの狭量な敵味方意識につけこんでヒットさせた『電車男』。これに対してオタク系ライター本田透 はその著書『電波男』にて、「オタクを恋愛資本主義市場に引きずり込む悪しき思想」として批判した。一方の『電車男』の方は書籍化・映画化・テレビドラマ 化であっという間に「フツーの人」のアイテムになっていき、対する本田はその後も『電波大戦』『萌える男』と次々と著作を発表。現実の恋愛ではなく二次元 の美少女との妄想恋愛を選ぶ道を説き、『電車男』的「脱オタ」を批判し続けている。 ケータイ刑事(注32) 愛(宮崎あおい)・泪(堀北真希)・舞(黒川芽以)・零(の4姉妹を主人公にしたTBS系BS―iのテレビ番組シリーズ。警視総監を祖父 に持ち、特殊な携帯電話を持つことが許された少女刑事たちの活躍を描く。21世紀の「スケバン刑事」シリーズみたいなもので、事実意識した演出も見られ る。地味にシリーズを重ね、2006年には4姉妹の従姉妹の「銭形雷」が登場するとか。 ALWAYS 三丁目の夕日(注33) 西岸良平の長寿ヒット漫画『三丁目の夕日』を原作に、05年に公開された映画。話としては、東京タワー建設中の昭和33年を舞台にした他 愛のない素朴な町内人情劇ながら、SFへの信心の強い『ジュブナイル』『リターナー』の山崎貴監督によってVFXを駆使したスペクタクル感あふれる映像作 品となり、とりわけおたく第一世代の多くから手放しの絶賛を受けた。系譜としては明らかに、01年の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝 国の逆襲』のブレイクで「昭和30年代ノスタルジー」がビジュアルコンテンツのジャンルとして求心力を持つことが証明されたのを受け、それをより通俗化・ ベタ化する方向で徹底化したものと言えるだろう。ゆえに当然、『オトナ帝国の逆襲』が持っていたノスタルジー批判のメッセージ性は霧散。『プロジェクト X』などとも通ずる、「高度経済成長期の都合のよい神話化」ないし「口当たりの良い偽史の捏造」の系列に連なる、シャカイ派的な心性退行の一症例ではある のは間違いない。(中川) 『バイバイ、エンジェル』の駆VSマチルド(注34) 「週刊 野ブタ。」第10話の解説参照。 エヴァ(注35) 座談会第17回参照。 AKIRA(注36) 大友克洋の代表作(と呼ぶには個人的に疑問があるが)、いわゆる「海外受けするジャパニメーションのビジュアルイメージ」を決定付けたア ニメ映画(大友自ら監督した)。88年公開。大友原作のマンガは90年代前半まで続いていた。確かにはじめてまともにアニメ化された大友ビジュアルは歴史 を塗り替えたのだが、ストーリー的には抜け殻になりはじめた大友の最後の爆発を見ているような気分にさせられる一作。 ナウシカ(注37) 『風の谷のナウシカ』。言わずと知れた宮崎駿の代表作。元々は徳間書店『アニメージュ』での連載漫画だったが、諸般の事情で連載途中でア ニメ化が強行。宮崎は不満だったらしいがこれがスマッシュヒットして、後に宮崎がアニメ界の頂点に君臨するきっかけになった(84年公開)。その後、連載 は94年まで続いて完結。当初はエコロジー思想を背景にはじまったのだが、思想的な行き詰まりを感じてか途中で転向。やや混乱しながらもヒューマニズムと エコロジーの中であえて立ち往生する困難な生き方を選ぶといった感じで完結した。その立場は97年公開の『ものもけ姫』で積極的に展開されることになる。 ちなみに漫画版の「ナウシカ」は漫画技術的にも非常に高い完成度(誰にも真似できないだろうけど)を誇っている。 北斗の拳(注38) 武論尊(作)、原哲夫(画)。80年代の『週刊少年ジャンプ』を支えた格闘漫画のひとつ。核戦争後の無法社会舞台に、一子相伝の暗殺拳 「北斗神拳」の伝承者ケンシロウが、天下統一に乗り出した兄弟子やライバルたちと死闘を繰り広げる。秘孔(要するにツボ)を突くと、身体が内部から破裂す るというショッキングなビジュアルで人気を博した。宿命のライバルである兄弟子を倒し、運命の恋人を取り戻したあとも、ずるずると連載が続いたあたりも含 めて、「いかにも」当時のジャンプである。 完全自殺マニュアル(注39) 著者は鶴見済。内容は首吊り、投身など具体的な自殺方法を詳細に解説したもの。だが、むしろ衝撃的だったのが鶴見が自らの出版意図を語っ た序文。宮台真治風に言うなら「終わりなき日常」を生きる知恵として、「自殺」という選択肢を常に保留しておくという立場を表明している。当時の気分を的 確に表したという意味で、文芸的に考えると名文だと思うが、少々大田出版らしいパフォーマンスが空転しているきらいもある。 ドラゴンヘッド(注40) 望月峰太郎・作。94年連載開始。当時既に「描写の天才」と呼ばれていた望月が、本腰を挙げて「世紀末」を正面から描く、ということで当 初は過剰ともいえる期待にさらされていたが、尻すぼみな展開と結末に未だに賛否両論が。ちなみにウズベキスタンロケを行った妻夫木× SAYAKAの映画版はかなりの不良債権映画。 『下流社会』(注41) 2005年のベストセラー。定職につかず、まったりスローライフ志向や夢追いモラトリアム志向の若者層を、現実を直視せず、 社会的自己実現を放棄した「下流」と規定して話題を呼んだ。折から指摘されている小泉構造改革のもたらした世間の気分を後追いでまとめた本としては悪くな いが、三浦展お得意の資料の強引な解釈にはじまり展開にかなり無理があり、まともに向き合うのはかなりためらわれる本。 喰いタン(注42) 『Mr.味っ子』や『将太の寿司』で知られる寺沢大介の人気(?)漫画。(主に現場の遺留物を)食べることで何故か推理が冴 え、事件を解決する探偵・高野の活躍を描く。02年の連載開始時からネタ漫画として注目されていたのだが、06年1月『野ブタ。』の後番組としてまさかの ドラマ化。高野役は東山紀之。 |