「平成」に続く新元号は「令和」。天皇陛下が退位し、新天皇が即位する五月一日から新元号が始まる。平和で平等で希望のもてる時代になってほしい。
日本国憲法の下で二回目の改元である。晴天の皇居内の乾通りは一般公開され、ソメイヨシノやシダレザクラなどが咲いている。
悲しみの中ではない。今上天皇がお健やかな中で、新元号が発表された。「退位」というご意向から始まった新元号の決定は、むろん憲政史上初である。
今月末に「平成」は幕を閉じ、新天皇が即位。秋には重要儀式である大嘗(だいじょう)祭が執り行われる。スムーズな皇位継承の方法には、国民の理解が得られよう。
◆中国古典はずしは初
「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ、という意味が込められている」。安倍晋三首相は新元号の「令和」の意味をそう説明した。
出典は「万葉集」。歌の序から採取した二文字の意味のつながりは、読み取れるだろうか。
それに比べ、「易経」が典拠の「大正」は、政治が正しく行われるという意味がある。「昭和」は「書経」から。皆で平和を目指すという意味だ。「平成」は「史記」と「書経」から。内外が安定し、天地とも平和になるという意味があった。
むろん「万葉集」は誇るべき日本の古典である。天皇から庶民までの膨大な古代の歌集は世界に類をみないほどである。それを大切に思う気持ちに異存はない。
日本の元号は七世紀の「大化」から数えて二百四十八ある。出典が判明しているものは、すべて中国古典である。だから、今回の「国書」を典拠とした改元は初だ。長い日本の元号の伝統からはまさに異例といえる。
◆決定過程の公開を早く
もともと日本の伝統への誇りを口にしていた安倍首相が、改元案を作成する段階で、日本古典を由来とするものを含めるよう指示していたからである。
政権を支える保守派層から、国書に典拠を求める期待があったためであろう。元号の考案を委嘱したのは漢文学や東洋史学のほかに、国文学や日本史学の学識者が加わっていた。
問題はその元号選定の考え方が国民にどう受け止められるかである。中国古典は近代に至るまで知識人が身に付ける素養の一つだった。「論語」など四書五経の暗記が勉強でもあった。江戸時代の知識人も、明治の夏目漱石も森鴎外も中国古典で育った。
これまで漢籍から採った元号を受け入れてきたのは、中国古典の素地で日本の教養が培われてきた歴史を誰もが知っているからである。国書もいいが、ことさらこの伝統を排したなら狭量すぎる。
改元という大きな出来事だっただけに、どのようなプロセスを経て新元号が決まったかは、速やかに明らかにしてほしい。だが、「平成」と決めた公文書すら、三十年を経てもまだ閲覧できない。この秘密主義は捨てるべきだ。
そもそも元号は古代中国で用いられ、皇帝の支配の象徴であった。「時」を支配し、元号を行き渡らせることが、その正統性をも象徴する仕掛けだった。日本はそれを取り入れ、改元は天皇の代替わりのほかに、慶事や凶事などで、人心一新の手段とした。
明治になり「一世一元」になると、天皇主権で「天皇の治世」を意味した。すると新憲法下では、国民主権だから矛盾をきたす。
そのため有識者懇談会をつくり、衆参両院の正副議長からの意見聴取を経て、閣議で新元号を決める-、その手続きは「国民の代表から意見を聞く」形ではある。しかし、時間はあった。もっと「国民から意見を聞く」手段を探ってもよかった。民主主義にふさわしい方法が…。
また、元号より西暦の流れがある。押しとどめがたい。とくにコンピューター化や国際化を背景に、公文書なども元号と西暦を併記する動きがある。「昭和」と「平成」と「令和」が混在した文書だと、何年前か、何年後なのか分かりにくくなるからだ。西暦併記は外国人にも理解されよう。
元号はすっかり根付いた日本の文化である。時代を思い出すとき、「昭和は…」「平成は…」と、それぞれの年代の事象と重ね合わせたりする。
◆国民生活の基層文化だ
本家の中国では既に消滅した元号だが、日本では国民生活の基層をなす文化として尊重したい。
災害が続きつつも、戦争がなかった「平成」。「令和」は果たしてどんな時代になるか。今は格差が拡大し、世界は大きく揺れ動いている。だからこそ、人々が希望をもてる時代であれ、と望む。
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