紀生磐(きのおいわ)のものがたり
紀生磐という人がいて、日本書紀の中で大活躍します。しかしどう考えてもこれは大和の人ではなく、筑紫君磐井と同じく倭国の歴史の中で動いた人です。
読み方からしてかなりいい加減で、例えばウィキペディアでは紀大磐と書いて「きの おおいわ」と読ませています。
ある方のブログでは紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)となっています。
この記事では面倒なので「生磐」(おいわ)で統一します。
この人は生年も没年も不詳ですが、400年代後半に活躍した人です。
父の名が紀小弓。
この父は雄略天皇の命を受けて朝鮮半島にわたり、新羅との闘いを率いていましたが、戦地で病死してしまいます。
これが465年5月のことです。
まぁ雄略天皇というのは嘘っぱちで、実際は倭の五王のもとで戦いに参加していたのだろうと思います。つまり倭王朝の人です。
三韓および倭国年表
http://shosuzki.blog.jp/archives/63212521.html
を見てもらえばわかりますが、このころ高句麗が南に進出し百済に盛んに侵食し始めます。
この10年後には百済の首都、漢城が陥落してしまいます。百済は国王を殺され、残党は南に逃げて国家の再建を始めます。
話は戻ります。父の死に直面した生磐は、矢も盾もたまらずに百済に向かいます。
ここまではよくある美談を予感させますが、とんでもハップン。
オヤジの威光を笠にきた横暴な振る舞いは指弾の的となってしまいます。
ついには小弓の後任の大将、小鹿火(おかい)を怒らせてしまうまでに至りました。小鹿火は蘇我韓子を唆し生磐暗殺を図りましたが、なんと韓子は返り討ちになってしまいます。
実は小鹿火みずからも、小弓の子ということになっています。つまり兄弟喧嘩をはじめたわけで、これでは戦えません。とばっちりを受けた蘇我韓子こそいい面の皮です。
どうしてこんなだらしない話になってしまったのか、それはそもそもこの戦争があまり大義のないものだったからです。
百済が高句麗に攻め込まれている間、新羅も同じように高句麗の攻撃を受けていました。だから倭国政府は半島にわたり両国を助けて高句麗を追い返したのです。
ところが、その後新羅はその恩を忘れ、どうも態度が大きい。それどころかひょっとして高句麗とつながったのではないかと思わせるような素振りです。
そこで雄略天皇は新羅親征を決意しました。ところが、宗像神社の神託は「行くな」というものでした。雄略天皇は自らの出陣を諦め、小弓ら4人の将軍に指揮を委ねました。
たしかに戦う前からなんとなく嫌な気分ですね。
そんなこんなで生磐は戦線を離れ倭国に戻ってきたのですが、一緒に小鹿火まで戻ってきてしまって、「もうやめた」と戦線離脱してしまいました。
これで当初に雄略天皇が指揮を託した4人の将軍はすべていなくなってしまいました。
諍いの元を作ったのは生磐ですから、彼が行かないわけにはいきません。ということで生磐は二度目のお勤めに出かけます。
ところが任那に赴いた生磐はとんでもないことをはじめます。なんとみずから神聖(かみ)を名乗り、任那王国を作り、高句麗と結んで百済人を攻撃し始めたのです。
時期がよくわからないのですが、475年に百済の首都が陥落したのに合わせて、百済を任那のものにしてしまえと考えたのかもしれません。
百済の側は逆に漢城を失った分を全羅道で取り返せと考えたかもしれません。全羅道はもともと任那の地であり、百済が割譲を迫ったという歴史的経過もたしかにあります。
それはともかく、激怒した百済王は生磐のこもる帯山城に猛攻撃をかけました。激しい戦いの末に任那軍の重臣300人が死亡。生磐は戦闘力を失いました。
結局、大磐は487年に倭国に帰国したそうです。これが後の筑紫君磐井だったりすると、できすぎですね。
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