7000系図上では、紀小弓の息子・大磐に該当し、顕宗3年条に出てくる人物。
http://nihonsinwa.com/page/1519.html
この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 (爾林は高麗の土地です)
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
帯山城:全羅北道南部の井邑郡泰仁に比定
東道は「やまとじ」と訓がふられている。この道は、以下によると、
参考図
水色の線は高霊土器のおおよその分布。緑の線は通説による東韓の位置
http://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/zatsuron/tkan.htm
→な感じになる。
継体朝が、清寧~武烈朝にかぶっているとすると、顕宗3年と継体7年条を読まなければならない。
この年では、紀臣が3韓の王たらんとして活躍している。恐らく、前年に、己紋・滞沙を(継体が)百済に与えてしまい、伴ロ(高霊)が神宝を献じてまで取り返そうとしたのにかなわなかったからだ。(この年代は514年)
(ここで、必然的に紀氏は高霊の後期大伽耶の盟主ではないか、という事になる。紀氏は百済系としたが、やはり最初の推測に戻さざるを得ないかな?伽耶系)
紀氏は恐らく上記地図の高霊の領土を守りたかったのだろう。が、当時日本列島の大王は継体が事実上の施政権を有していたので、新百済的な政策ばかりになった、と思われる。
以下、もう少し詳しい記事を引用。(OYASUMIPON)
=百済本記 ④ 二郡割譲
「
(略) 百済にこのような請求をなさしめるものは軍事力というより、文化力にあると言わねばならない。ここに史上はじめて登場する五経博士の到来は、それを示すものである。百済からの文化の輸入、文化人の到来は、従来すでに久しく続けて行われていたであろうが、ここに至って飛躍した。五経博士は、いわば前年の四縣割譲の代償であるといえる。百済からの文化輸入は、五経博士の到来をもって一期を画し、企画化されるのである。
百済は
全羅南道(韓半島南西部の海岸に近い地域)の西部の四縣割譲に続いて、その東部にあたる已汶・帯沙を失うと加羅には今の
(春野註・以下は書紀・継体天皇八年の條に末松氏が解釈を加味したした文章である)
514年三月、
(続いて、書紀、継体天皇九年の條を末松氏が解釈する)
515年春二月、百済の使者、
また、前後するが、爾林という場所は、以下によればhttp://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/zatsuron/nirim.htm 、
参考図
出てくる地域と勢力をもう一度確認。
子呑:
慶州南道の居昌に向かった。大伽耶時代、子呑と呼ばれた国があった地域である。居昌は全州から約100キロ離れている。開封洞(ケボントン)古墳群http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-7/sep29.htm
慶尚北道の高霊は、大伽耶と呼ばれた伴跛(高霊)という国が存在した地域である。高霊邑を屏風のように取り巻く標高311mの主山の上には、大伽耶時代の山城である主山城がある。その山城から南方に広がる稜線上に、大伽耶が繁栄を始めた400年頃から大伽耶が滅亡した562年の間に作られた大伽耶の王族や貴族たちの墓が列をなして並んでおり、池山洞古墳群(400年以降殉葬墓出現)と呼ばれている。
己汶(こもん?)=子呑(こもん)?
実は、自分の記事を見直していて、己汶て、以前出てきたんですよね。
それは、
<崇神天皇の時、任那国から「我が国は東に三己紋の地があり、地方三百里、人民は富み、 常に新羅国と争って治められないので、しかるべき将軍に治めさせるならば貴国に属そう」と云って来た。http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12071025505.html
紋はサンズイと糸偏で違いますが、恐らく同じでしょう。任那(当時狗耶韓国)の東にある地、となっています。明らかに、上での治定地と違います。何故なら、この己紋は新羅に近く、百済とはあんまり利害関係がない、からです。逆に、百済が東の己紋に進攻するなら、伽耶としてはありがたく、子呑に山城を築く必要もないような、、、。
よって、百済と高霊が争ったのは多沙と子呑と思われます。。。。?