ロシア(旧ソ連)関係諜報事件
総 論
三橋事件 | 関三次郎事件 | ラストポロフ事件 |
セドフ事件 | コノノフ事件 | クブリッキー事件 |
マチューヒン事件 | ドリュー・ゴットリーフ事件 | コズロフ事件 |
横田基地中ソスパイ事件 | ボクロフスキー事件 | シランコフ事件 |
ダヴィードフ事件 | 黒羽・ウドヴィン事件 | チェルヌィーフ事件 |
ボカチェンコフ事件 | ||
参 考
ゾルゲ事件 | レフチェンコ証言問題 |
総 論
ロシア(旧ソ連)関係諜報事件
ロシア(旧ソ連)関係諜報事件
旧ソ連(平成3年12月にロシア連邦に国名変更)関係スパイ事件は、「三橋事件」「コズロフ事件」「ポクロフスキー事件」等の諜報事件、「第18和晃丸事件」等のレポ船事件、「東芝機械ココム違反事件」等のココム違反事件と、多数にのぼっている。ソ連崩壊後は、「ダヅィードフ事件」「黒羽・ウドヴィン事件」「チェルヌィーフ事件」「ボガチョンコフ事件」等が検挙されているが、これらスパイ活動の目的は、
o 我が国の政治、経済、外交、防衛情報
o 我が国の高度科学技術情報
o 在日米軍情報
o 米国、中国等の政治、軍事等の情報
等の収集のほか、我が国の各界に対する政治工作等多岐にわたっている。
我が国におけるロシア情報機関の活動については、在日ロシア連邦大使館の外交官、在日ロシア連邦通商代表部などの政府機関員、文学新聞、タス通信、ノーボスチ通信記者などの報道関係者、アエロフロート(民間航空会社)関係者、代表団等様々な職業や身分をカバーにして我が国に合法的に入国し、日本人エージェントを利用するなどソ連崩壊後も依然として非公然・非合法活動を継続しており、質的、量的に大きな変化はみられない。むしろ経済の低迷等から地盤沈下傾向にあるロシアが、通常の外交活動だけでは自己の国際社会における地位保全が困難とみて、これまでよりも情報・諜報活動に重点を置いているものと推察される。
三橋事件 昭和27年12月10日 国家地方警察東京都本部検挙
この事件は、第二次世界大戦後ソ連に抑留され、その間にソ連情報機関に協力することを誓約させられた
T社 社員 A
が、帰国後、ソ連の情報機関員とみられるソ連代表部員の指示の下にソ連との無線連絡を行っていたスパイ事件である。
Aは、東京で出生、電機科関係の学校を卒業後、無線機組立にとして勤務し、第一次世界大戦勃発により応召し、満州の通信隊で終戦を迎えた。
終戦後、ソ連に捕虜として抑留され、マルシャンスク、モスコー、ハバロフスク、ナホトカの収容所を転々とする間、帰国を条件に在日ソ連代表部員とソ連との無線電信による諜報連絡を担当するよう強要され、掃国を熱望するAは、やむなくこれを承諾して誓約書を提出した。
所要の調律を受け、昭和22年.2月3日に帰目したAは、指示どおりソ連情報機関員とみられる人物故人と東京都内で密会し、ソ遠のエージェントとして計十回にわたり無免許無線局を運用して諜報通信連絡を行っていた。
その間、米軍に探知されてソ連との関係を自供し、米軍にソ連側との連絡の詳細を報告することを約東し、米ソ両国からそれぞれ報酬を得て活動をするところとなったが、
昭和27年12月10日、Aは国家地方警察東京都本部に自首した。Aは、昭和28年10月17日、東京高等裁判所において、電波法違反で懲役4月の判決を受けた。
関三次郎事件
●昭和28年8月2日 国家地方警察札幌管区本部検挙
この事件は、
ソ連サハリン州居住 無国籍者 A
ソ連情報機関の指令による連絡任務等を帯びて北海道に密入国したスパイ事件である。
Aは、青森県で出生、21歳のとき単身樺太に渡ったことから失そう宣告を受けて戸籍を抹消され、無国籍となった。終戦後もソ連領土となったサハリン(旧樺太)に単身残留し、日雇労働者として住居、職業ともに定まらない生活振りであったところ、ソ連情報機関員とみられる人物の働き掛けを受け、報酬と引換えに協力方を誓約させられた。
その後、重要書類隠匿方法等のスパイ訓練を受けた後、
「北海道へ渡り、旭川の適当な場所に現金を埋めて図面化するとともに、北海道の地図や労働者の制服等を買って帰ること。」
を内容とする指令を受け、ソ連巡回小艇「PK1403号」に乗船し、昭和28年8月2日、北海道宗谷郡宗谷村沖合から密入国した。
国家地方警察札幌管区本部は、同目、旭川へ向かう途中宿泊した稚内市内の旅館でAを逮捕し、さらに、8日、Aを迎えにきた「PK1403号」を捕捉し、ソ達人船長 F・P・クリコフ (当時43歳)
らのソ達人を逮捕した。昭和29年2月19日、旭川地方裁判所において、Aは、出入国管理令、外国為替及び外国貿易管理法違反で懲役1年、執行猶予2年、クリコフは、出入国管理令、船舶法違反で懲役1年、執行猶予2年の判決を受け、クリコフは強制退去となった。
ラストボロフ事件 ●昭和29年1月24日亡命
この事件は、ソ遠の情報機関員とみられる
在日ソ連通商代表部二等書記官 ユーリー・A・ラストボロフ(当時32歳)が、日本の内外政策に関する情報収集の任務を帯びて来日し、外務省、通産省事務官等多数の日本人エージェントを使って情報収集活動を行っていたスパイ事件である。
ラストボロフは、昭和39年1月14日、米国に亡命し、記者会見において、日本における情報収集活動の実態を明らかにした。ことに、終戦後のシベリア抑留中の日本人に対するエージェントエ作の実態を暴露し、昭和25年までにソ遠のエージェントとなることを誓約させられた日本人は約500人、その他の情報提供者を含めた潜在エージェントは8000人以上に達することを明らかにした。
警視庁は、ラストボロフ調書に基づき、
外務省事務官 A
を昭和29年8月19日に逮捕し、
貿易会社社長 B
ら関係者を任意で取り調べた。
Aは、昭和35年11月30日、最高萩判所において、国家公務員法、外国為替及び外国貿易管理法違反で懲役8月、罰金100万円、Bは、昭和34年8月8日、最高裁判所において、外国為替及び外国貿易管理法違反で懲役8月、執行猶予2年、罰金30万円の判決を受けた。
セドフ事件 ●昭和44年5月11日警視庁検挙
この事件は、ソ連留学中にソ連の情報機関の工作を受けて来日した
インドネシア研修生 A
が、ソ連の情報機関員とみられる在日ソ連通商代表部員に運営されて、我が国の科学技術情報を収集していたスパイ事件である。
Aは、昭和33年9月から約5年間ソ連に留学した際、ソ連の情報機関による工作を受け、情報収集活動に協力する誓約書を書かされ、いったん帰国後、昭和39年1月、政府賠償研修生として来日した。来日後、ソ連情報機関員とみられる
在日ソ連通商代表部員セドフ・V・A (当時41歳)
らと数十回にわたって密会し、研修先から盗み出した企業秘密文書等を手渡したほか、会社の製品等を提供し、報酬を受けていた。
警視庁は、昭和44年5月11日、Aを窃盗で逮捕するとともに、外務省を通じてセドフらに対する任意出頭を要請したが、セドフらは、出頭を拒否したまま急きょ帰国した。
コノノフ事件 ●昭和46年7月21日警視庁検挙
この事件は、ソ遠の情報機開員とみられる
在日ソ遠大使館付武官補佐官
ハビノフ・E・S (当時36歳)
コノノフ・L・D (当時38歳)
が、在日米空軍横田基地に出入りする
通信部品販売ブローカー A
をエージェントとして米軍機密資料の収集を企てていたスパイ事件である。
ハビノフは、米空軍機密であるF4ファントム戦闘機搭載のミサイル、レーダー等に関するテクニカル・オーダー(技術指示書)の収集を企て、米軍払い下げ通信機のブローカーとして在日米空軍横田基地に出入りしていたAに目を付け、昭和45年6月ころ、東京都内秋葉原商店街で買物中のAに言葉巧みに接近し、米軍用機器の部品を破格の対価で購入するなど急速に接近していった。
薬局を開業して安定した生活をしたいと考えていたAは、多額の金銭に目がくらみ、徐々に高度な資料を要求しばしめたハビノフや後任のコノノフと1年間に29回の密会を重ね、約600万円の報酬を得ていた。
昭和45年9月15日ころ、ハビノフは、米軍機密に属するファイヤーコントロールレーダー、空対空ミサイル関係部品等のテクニカル・オーダー43点の品目リストをAに手渡し、その人手を要求した。
要求を受けたAは、生活費に窮していた知人の在日米空軍横田基地勤務の米軍人に、この品目リストとともに現金20万円、時価14万円相当のトランシーバーを与え、更に多額の報酬を約束の上、機密文書の不法人手を働き掛けた。
ハビノフは1年後の昭和46年にソ連に帰国したが、その約1ヶ月前にAにコノノフを紹介し、引継ぎを行うとともに、スパイの誓約書に署名させた上、ソ逮との直接交信用の暗び表、乱数表、タイムテーブルのいわゆるスパイの七つ道具を手渡し、本格的スパイに仕立てヒげた。
警視庁は、昭和46年7月21日、Aを逮捕するとともに、同年7月29日、Aと密会しようと東京都内の駐車場に現れたコノノフに対し、任意出頭を求めたが、外交特権の壁に阻まれ、コノノフは現場から去り、翌日、急きょ帰国した。Aは、昭和48年1月11日、東京地方裁判所において、刑事特別法違反で懲役2年、執行猶予3年の判決を受けた。
クプリツキー事件 ●昭和49年2月11日神奈川県警察検挙
この事件は、
外国籍者
他人名義の英国旅券に自己の写真を貼付して日本に不法入国した
無国籍者 クブリッキー・L・J (当時29歳)
が、ソ逃情報機関員とみられる
在日ソ連大使他村武官補佐官 フェドロフ・G・N (当時40歳)
と数回にわたって密会し、エージェントエ作を受けていたスパイ事件である。
クブリッキーは、チェコスロバキアで出生、チェコ空軍に入隊したが、21歳のとき脱走してオーストリアに逃亡した。その後、西ドイツに亡命して定着し、NATO笑国軍警備兵として入隊した後、チェコ情報機関から、両親の安全及び脱走の免罪を条件に、チェコ情報機関の指令に服従することを内容とする誓約をさせられ、NATO欧州連合軍情報収集等のスパイ活動を行った。
その後、チェコ情報機関からの新たな指示により、米国へ移住してエージェント獲得候補者の選定等の任務を遂行していたが、日本人女性と同棲するようになってスパイ組織からの離脱を決意し、カナダに脱出した。
しかし、チェコ情報機閣員の執ような追跡を受けたクブリッキーは、生命の危険をほのめかされたヒ、「日本に偽名で入国した後、新聞に求職広告を出して、ある人物と接触しろごとの指示を受け、不正に入手した他人名義の英国旅券に自己の写真を貼付し
て偽造し、昭和48年12月27目、羽田空港から不法入国した。
我が国に入国後、指示された方法によりフェドロフと密会し、ソ遠のエージェントとして、無線機を受領し、我が国の軍需産業情報収集等のスパイ任務を指示されて現金を
受領したが、将来を考えると恐ろしくなり、昭和49年2月11日、身辺保護を求めて神奈川県警察に自首した。クブリッキーは、昭和49年7月2日、横浜地方裁判所において、出入国管理令、外国人登録法違反で懲役1年、執行猶予三年の判決を受けた。
マチェーヒン事件 ●昭和51年5月12日警視庁検挙
この事件は、ソ遠の情報被関員とみられる
ソ連ノーボスチ通信社東京支局特派員
アレクサンドル・E・マチェーヒン (当時38歳)
が、米海軍のド士官を買収して軍事被布情報を人手しようとしていたスパイ事件である『
マチェーヒンは、昭和50年5月、空母ミッドウェー乗組員の一等兵曹Aに言葉巧みに近付き、家族ぐるみの交際に成功したことにより、Aをエージェントとして獲得する工作を本格化した。以後、東京のデパート、レストラン、横浜のホテルを舞台に十数回の接触が行われた。獲得に自信をもったマチェーヒンは、米軍の被密に属する空母ミッドウェーの艦載機の電子装置、レーダー装置等に関する機密文書や暗号表の人手を要求し、報酬の支払いを持ちかけた。
警視庁は、昭和51年5月12日、マチェーヒンを逮捕し、14日、刑事特別法違反(合衆国軍隊の機密を侵す罪の未遂)で再逮捕した。22日、マチェーヒンは、起訴猶予処分となり、翌日急きょ帰国した。
ドリユー・ゴツトリーブ事件 ●昭和51年10月13・14日警視庁検挙
この事件は、いわゆる第三国人である
在日西ドイツ人 W・R・ゴットリーブ (当時62歳)
在日オーストラリア人 W・E・ドリュー (当時47歳)
が、在日米軍情報等を収集し、ソ遠に提供していたスパイ事件である。
ゴットリーブは、昭和39年9月に我が国に入国し、米兵相手の会社のセールスマンとして在日米空軍横田基地に出入りするとともに、香港在住当時の情報源を生がし、
o 中国情報
o 在日米軍情報
を収集し、ソ遠の情報機関員とみられる在日ソ遠大使館員や在日ソ達人医師に提供して報酬を得ていた。
また、ドリューは、昭和23年、連合軍兵士として我が国に入国し、除隊後は在日米軍基地の中古エンジン払下げブローカーを営みながら、米軍人等の身分証明書を偽造し
て、立川、厚木、横田等の在日米軍基地に自由に出入りし、約二〇〇人の軍人と接触して、
o 航空機のマニュアル
o 航空技術に関する資料
等の米軍情報を収集して、前記ソ達人医師らに提供していた。
警視庁は、昭和51年10月13日にゴットリーブを、翌14日にドリューをそれぞれ逮捕した。ゴットリーブは、昭和51年12月25日、東京簡易裁判所において、鉄道営業法違反で罰金3万円、ドリューは、昭和51年12月24日、東京地方裁別所において、有印私文書偽造・同行使で懲役8月、執行猶予3年の判決を受けた。
コズロフ事件 ●昭和55年1月18日警視庁検挙
この事件は、
元陸上自衛隊陸将補 A
が、ソ遠の情報機関員とみられる
在日ソ遠大使館付武官 リバルキン・P・I (当時53歳)
在日ソ遠大使館付武官補佐官 マリヤソフ・G・G (当時35歳)
在日ソ遠大使餌付武官 コズロフ・Y・N (当時46歳)
から工作を受けてソ連のスパイとなり、自衛隊在職当時の部下である
陸L自衛隊准尉 B
陸上自衛隊二等陸尉 C
の2人から防衛庁の秘密資料を人手してソ連に提供し、多額の報酬を得ていたスパイ事件である。
Aは、定年退官を間近に控えた昭和48年暮、在日ソ連大使館を訪問してリバルキンに再就職の斡旋を依頼した。リバルキンは、この好機を捉えてAに対するエージェント工作を開始し、当初は国際情勢、特に中ソ問題の話をすることが多かったが、中ソ戦争回避のためという大義名分を掲げて情報提供を要求し、その都度現金を与えるなどして要求をエスカレートさせていった。
Aがソ連に提供していた秘密文書は、軍事情報月報や公電等であり、その大半は中国の軍事情報に関するものであった。当初は新聞や公刊資料にコメントを付けて渡す程度であったが、エージェントとしての適格性が認められて現金を受け取るようになってからは、その要求に応えるため、かつての部下であるB及びCに働き掛け、現金を交付して、「秘」に指定された自衛隊の秘密文書である「軍事情報月報」等を人手して提供するようになった。
昭和53年11月、リバルキンから引き継いだマリヤソフは、Aに秘密暗号通信の方法を教え、昭和54年8月にはコズロフが来日し、本格的な運営を開始した。資料の受け渡しの際には、あらかじめ埋めてある缶を利用する「デッドドロップ」という手法が用いられ、緊急連絡の際には、決められた掲示板等にテープを貼るなどの方法がとられた。
警視庁は、昭和55年1月17日、Aが東京都内神田の紅梅坂でBから防衛庁の資料
を受け取った現場を捕捉し、翌1月28日にAら3人を逮捕しAの自宅から乱数表、換字表、タイムテーブル、受信機等を押収した。1月19日、コズロフに対しては、外務省を通じて任意出頭を要請したが、同人はこれに応じることなく急きょ帰国した。昭和55年4月14日、東京地方裁判所において、Aは懲役1年、BとCは懲役8月の判決
を受けた。
横田基地中ソスパイ事件 ●昭和62年5月19日警視庁検挙
この事件は、ソ遠の情報機関員とみられる
在日ソ遠大使館一等書記官
Y・A・エフィモフ (当時52歳)
I・A・ソコロフ (当時47歳)
在日ソ連大使館三等書記官
V・V・アクシューチン (当時32歳)
在日ソ連通商代表部員
V・B・アクショーノフ (当時35歳)
の働き掛けを受けた
中国情報ブローカー A
と中国公司関係者から働き掛けを受けた
対中国貿易商社社長、中国政経懇談会事務局長 B
が、
在日米空軍横田基地技術図書室従業員 C
軍事評論家 D
とともに、在日米空軍軍事資料の窃取・特出グループを形成し、約8年間にわたり、主として米空軍戦闘機、輸送機のテクニカル・オーダー(技術指示書)を、多額の報酬を得てソ連及び中国に売却していたスパイ事件である。
Aは、昭和54年5月ころに日ソ図書神出店で働き掛けを受けたエフィモフとその後任のソコロフ及び昭和59年2月ころに働き掛けを受けたアクショーノフから、それぞれ米空軍のテクニカル・オーダー人手を要求され、Cが在日米空軍権田基地から窃取・持ち出したテクニカル・オーダーを、Dを通じて購入し、ソ連に売却していた。
一方、Bは、Aからテクニカル・オーダー購入の話を持ち掛けられ、訪中の際に中国公司関係者にテクニカル・オーダー・リストを渡し、昭和55年ころから、訪中の都度、同公司関係者から注文を受けて、Aから買い取ったテクニカル・オーダーを中国に売却していた。
この事件では、Aの自宅から諜報通伝受信用タイムテーブルが発見されたほか、ソ連がAと緊急連絡をする際、選挙用ポスターの公営掲示板に黄色い画鋲を打ったり、歩道橋に白のチョークを引くなどの方法が用いられていたことや、本のウロ(空洞)を埋設連絡場所に設定し
ていたことなどが判明した。
警視庁は、昭和62年5月19日、東京都内井の頭公園においてアクショーノフと密会中のAを逮捕するとともに、B、C、Dを逮捕した。
アクショーノフに対しては、ぞう物故買の容疑で逮捕状を得て出頭を要請したが、同人は急きょ帰国した。当時一時帰国中のソコロフに対しては、外務省を通じて出頭を要請したが、同人はそのまま我が国に戻らなかった。また、アクシユーチンに対しては、外務省を通じて出頭を要請したところ、同人は帰国した。昭和63年て1月26日、東京高等裁判所において、Aは、ぞう物故買で懲役2年6月、罰金100万円、Dは、窃盗で懲役2年6月の判決を受けた。また、昭和63年3月22日、東京地方鉄別所において、Bは、そう物故買で懲役1年6月、執行猶予3年、罰金20万円、Cは、窃盗で懲役2年、執行猶予4年の判決を受けた。
ポクロフスキー事件 ●昭和62年7月20日警視庁検挙
この事件は、
T杜 弟一事業部輸出部長 A
が、ソ遠の情報機関員とみられる
前アエロフロートソ連太平洋地区企画開発部長 Y・A・デミドフ (当時44歳)
在日ソ連通商代表部代表代理 Y・G・ポクロフスキー (当時42歳)
から工作を受け、T杜所有の航空機技術に関する資料等を、多額の報酬を得てソ連に提供していたスパイ事件である。
デミドフは、我が国の航空機関係の高度科学技術の不正人手を企て、昭和59年末、Aに接近し、現金等を与えて、T社所有のフライト・マネージメント(飛行管理)システムに関する研究成果報告書等の産業秘密情報を提供させていた。また、外交特権を有するポクロフスキーは、昭和61年6月に離任帰国したデミドフから引継ぎを受け、Aから航空機技術に関する情報資料等多数の提供を受け、その見返りとして現金等を交付するほか、ココム規副対象品であるNC工作機械用のコンピュータソフト等の産業秘密情報の捉供を要求していた。
警視庁は、昭和62年7月20日目、Aを窃盗及び業務上横領で検挙するとともに、外務省を通じポクロフスキーの出頭を要請したが、同人は事情聴取を拒否し続けたため、外務省は出国を要請、同人は帰国した。また、警察庁は、7月22日、既に帰国していたソ連の情報機関員とみられる
元在日ソ運通商代表部員 I・N・カシャーノフ
がこの事件に関与していたことを外務省に通報した。
シランコフ事件 ●平成3年4月19日警視庁検挙
この事件は、
医科大学 中国人留学生 A
が、ソ遠の情報機関員とみられる
在日ソ遠通商代表部員 S・V・シランコフ (当時31歳)
から工作を受け、医学関係専門出版社(オランダ)発刊の癌とエイズに関する論文抄録誌等を、多額の報酬を得て無断で複写しソ遠に捉供していたスパイ事件である。
シランコフは、平成元年3月下旬ころ、中国人留学生Aが留学生向けの新聞に自己紹介の記事を載せたところ、電話で都内喫茶店に呼び出し、「医学のことは分からないので教えてほしい。」と言葉巧みに近づき、Aを協力者としてリクルートした。以後、シランコフは、都内の喫茶店やレストラン等で月1回の割合で約20回接触し、Aに対し、
o 癌とエイズに関する論文抄録誌
o 某大学電子顕微鏡室研究者の論文
o その他最新の医学関係論文
等のコピーを要求し、1回につき1万~2万円位の報酬を支払っていた。
警視庁は、平成2年12月27日、接触を終え別れようとしていたシランコフとAを近くの警察署に任意同行し事情聴取を行ったが、シランコフは人定事項以外の事情聴取を拒沓し、平成3年2月に帰国した。Aは、東京地検に著作権法違反として書類送付され、4月19日、起訴猶予処分となった。また、警察庁は、5月8日、既に帰国していたシランコフが、この事件に関与していたことを外務省に通告した。
ダヴィードフ事件 ●平成4年5月28日警視庁検挙
この事件は、
M社 取締役兼電子常業統括部長 A
が、ソ連(ロシア)の情報機関員とみられる
在日ロシア連邦通商代表部代表代理 V・N・ダヴィードフ (当時48歳)
から工作を受け、ココム規制に該当する我が国及び米国の最先端科学技術製品及び技術資料等を多額の報酬を得てソ連に提供しようと企てたスパイ事件である。
ダヴィードフは、平成2年1月ころ、Aの自宅に架電し、「私は、M社の亡き社長と親しくしていた者です。.度会っていただけませんか。」と言葉巧みに近づき、平成2年2月ころから平成3年9月ころまでの間に都内の飲食店等において、月1回の割合で
ト数回接触し、Aに対し、
o 1メガディーラムメモリ1万個の取引(時価約1000万円)
o 4メガディーラムメモリ約200個の取引(時価約140万円)
o 4メガエスラムメモリ
o 16メガディーラムメモリ
o 64メガディーラムメモリ
等の半導体製品である集積回路の現品及び技術資料の人f等を働きかけ、これに応じた謝礼として、Aに40万円等を支払っていた。
警視庁は、ダヅィードフに対し任意同行を求めたが、ダヴィードフはこれを拒否してロシア連邦大使館に避難した。警察庁は、平成4年5月、外務省を通じてロシア連邦大使館に対し、ダヴィードフを「商法第493条違反容疑で警視庁に出頭させること」を要請したが、ダヴィードフは出頭を拒否したまま、5月.7日急きょ帰国した。外務省は、警察庁の出頭要請を無視した帰国に対し、ロシア側に遺憾の意を表明した。Aは、5月て八日、東京地方検察庁に商法違反で書類送致され、ノ二月3日、起訴猶予処分と
なった。
黒羽・ウドヴィン事件 ●平成9年7月29日警視庁国際手配
この事件は、SVR(対外情報庁、旧KGB)に所属するイリーガル機関員(国籍を偽るなど身分を偽装して入国し、スパイ活動を行う者)が、福島県内から昭和40年ころに失跡した日本人男性黒羽一郎に成り済まし、我が国内外において、各種情報収集等を行っていたスパイ事件である。
このイリーガル機閣員は、昭和40年に福島県下で失跡した黒羽一郎に成りすまし、我が国内外の政治、経済、軍事情報の収集等を行っていたもので、昭和40年から50年代に活発に活動し、当時の自衛隊関係者とも接触していたとみられている。また、平成四年六月、在オーストリア日本大使館で黒羽一郎名義の旅券を取得し、「黒羽一郎」として出入国を繰り返していた。
警視庁は、平成9年7月4日、「黒羽」宅の捜索を実施し、スパイ活動を裏付ける乱数表、換字表、受信機等を発見押収した。また、「黒羽一郎」の妻の供述から、同人が受信機等を用いてSVR本部と連絡をとっていたことを確認した,さらに、警視庁では、
在日口シア連邦大使館一等書記官 V・P・ウドヴィン (当時ム七歳)
の本件への関与を把握したため、平成元年7月1巳日、外務省を通じウドヴィンに対し任意出頭を求めたが、同人は出頭を拒否したまま翌日急きょ帰国した。
警視庁は、平成元年7月29日、被疑者「黒羽一郎」について、旅券不実記載及び同行使並びに旅券法違反容疑で逮捕状を取得するとともに、警察斤を通じICPO事務総局に対して、同人に対する国際手配(国際情報照会手配)を要請した。
チェルヌィーフ事件 ●平成9年11月4日警視庁検挙
この事件は、
K杜 代表取締役 A
が、ソ連(ロシア)の情報機関員とみられる
元買付ミッション団員 V・S・チトフ (当時41歳)
により昭和62年夏ころから工作を受け、その後、
元在日ソ連通商代表部員 V・K・ガブリーロフ (当時47歳)
元在日ソ連通商代表部員 O・V・ホロッド (当時50歳)
元在日ロシア通商代表部員 A・B・チェルヌィーフ (当時39歳)
に、七年間にわたって引き継がれるなかで、Aが翻訳を請け負ったコンピュータ・ソフトウェアの仕様書や科学技術関係機関の発行する軍事関係資料等を多額の報酬を得てソ連(その後ロシア連邦)に提供していたスパイ事件である。
チトフは、昭和62年夏ころ、在日外国人と日本人の交流を図るパーティーの席上で、Aが翻訳業をしていることに着目し、新聞記事等の翻訳を目実に言葉巧みに近づき、徐々に各種資料等の調達を依頼するようになった。以後、4代にわたり、平成6年5月までの間に、都内のレストラン等で六十数回接触するなかで、チェルヌィーフがAに、「いい資料があれば金になる。貴方のコンピュータ関係のマニュアル翻訳本を持ってきてください。」と働き掛け、これに応じた謝礼として10万円を渡していた。
さらに、チェルヌィーフは、Aが翻訳の委託を受けて保管していたイスラエル製コンピュータ・エックスパート1000のマニュアルを要求し、「内容を調べる。」として預かり、返却する際に報酬を支払っていた。
チェルヌィーフが既に帰国していたことから、警察庁は、平成9年10月28日付で、外務省欧亜局ロシア課長宛てに、元在ロロシア連邦通商代表部員が絡む業務上横領事件とAの書類送致予定について通告した。Aは、11月4日、東京地方検察庁に業務L横領で書類送致され、コー月25日、起訴猶予処分となった。
ボガチョンコフ事件 ●平成12年9月8日警視庁、神
この事件は、
海上自衛隊三等海佐 A
が、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の情報機関員とみられる
在日口シア連邦大使館付海軍武官 V・Y・ボガチョンコフ大佐 (当時44歳)から工作を受け、海上自衛隊内の秘密文書の写しと数十点の内部資料を、現金等の報酬を得てロシア側に提供していたスパイ事件である。
ボガチョンコフとAは、平成11年1月中旬頃、防衛研究所主催の安全保障シンポジウムの会場で知り合い、その後、ボガチョンコフからの誘いにより、同年9月中旬頃、ミ人だけで都内の飲食店で接触する関係となった。以後、都内の居酒屋やレストラン等で月.回の割合で十数回接触していた。 ボガチョンコフは、Aに対し、我が国の防衛に関する秘密文書である
・戦術概説(改訂第三版)
・将来の海ヒ自衛隊通信のあり方(中間成果)
の写しや海上自衛隊の内部資料を要求し、その見返りとして5回にわたり現金58万円などの報酬を支払っていた。
警視庁と神奈川県警察本部の合同捜査本部は、平成コー年9月7日、ボガチョンコフとAが都内レストランで接触した直後に、職務質問を行い任意同行を求めたところ、ボガテョンコフは黙秘し、その後、外交官身分証を呈示したが、任意同行を拒否し車両で立ち去った。警察庁は、9月8日午前、外務省を通じて在日口シア連邦大使館に対し、ボガチョンコフを警視庁に出頭させるよう要請したが、同日夕刻まで出頭しなかったことから、外務省に対し、ボガチョンコフのPNG通告を含む所要の外交排気を連やかにとるよう申し入れを行い、9月9日、ボガチョンコフは帰国した。Aは、9月8日に逮捕され、9月9日、東京地方検察庁に自衛隊法違反(秘密を守る義務)で送致された。その後、Aは、公判で起訴事実を全面的に認め、平成て1年3月7日、東京地方裁判所において、懲役10月の判決を受けた(確定)。
参考
ゾルゲ事件 ●昭和16年10月18日 警視庁検挙
この事件は、ソ連の情報機関員とみられる
ドイツ新聞日本特派員 リヒアルト・ゾルゲ (ドイツ人・当時46歳)
を中心に外国人、日本人で組織された在日スパイ組織が、8年間にわたって、我が国の政治、経済、軍事等の機密情報を収集し、ソ連に報告していたスパイ事件である。
ゾルゲは、昭和8年9月、ドイツ及びオランダの新聞社日本特派員として身分を偽装するよ刀、ナチス党員の資格を持って入国し、新聞記者で後に内閣嘱託、満鉄調査部嘱託となった
中国問題評論家 A
ら日本人、外国人多数で構成するスパイ網を組織し、日本の対ソ攻撃計画に関する情報収集を任務として活動していた。
ゾルゲは、ドイツ共産党からソ遠共産党に転籍したソ遠スパイであるが、ドイツ政治学博士の学位を有し、偽装のためナチス党籍を獲得し、かつ、有数の束江迎であったことから在日ドイツ大使館の信任も厚く、口本の中枢部に入り込み、我が国の政治、経済、軍事等の機密情報を収集し、熱線電信等によりソ遠に報告していた。
ゾルゲが我が国に派遣された昭和8年から16年に至る時期は、第二次世界大戦勃発前後の最も複雑な国際情勢にあり、ゾルゲの広汎、緻密な情報は、ソ連の政策決定に大きな影響を及ぼしたとみられる。
特に、昭和16年、ゾルゲは、今まで集めた情報の分析に基づき、
「日本は南進政策をとり、ソ遠攻撃の意図はないL
と、本国へ打電し、ソ遠はこの情報により、当時我が国を警戒してソ遠シベリア四境地帯に配備していたソ遠軍の部隊をヨーロッパに移動増強することが可能となった。
警視庁は、昭和16年10月て8日、ゾルゲを、前後してAら関係者を遠捕した上ソルゲは、昭和19年1月20日、大審院において、軍機保護法等違反で死刑、Aは、昭和19年4月5日、大審院において、軍機保護法違反等で死刑の判決を受けた。
参考2 レフチエンコ証言問題 ●昭和57年12月9日米国下院情報特別委員会公表
レフチェンコ証百聞遊ば、KGB情報機関員である
ノーボェ・ブレーミヤ誌(「新時代」)東京支局長
スタニスラフ・A・レフチェンコ (当時38歳)
が米国に亡命し、米国下院情報特別委員会で、ソ遠のアクティブ・メジャーズ(政治工作)について証言を行い、多数の日本人于-ジェントを運営していた実態を明らかにした事案である。
レフテェンコは、昭和50年2月に来日し、日本の各界に対し、
o 目本・米国・中国の離間
o 親ソ遠ロビーの扶植
o 目ソ善隣協力条約の締結
o 北方領土返還運動の鎮静化
等を狙いとした政治工作を行うことを任務とし、昭和54年10月、米国に亡命するまでの間に・.人の日本人エージェントを直接運営していた。
レフチェンコは、その証言の中で、口本人エージェントのコードネームを示し、著名な政党の人物やジャーナリストが含まれていることを明らかにするとともに、これらのジャーナリストは、自民党や閣僚メンバーを含む上級政府職員とハイレベルの接触があり、日本政府の内外政策についての秘密の口頭情報や資料の提供を受けたことを証言した。
また、目本におけるKGBの実態について、レジデントと呼ばれる在日KGB機関長のドに、
o ラインX (科学技術情報収集担当)
o ラインN (イリーガル支援担当)
o ラインKR (防諜担当)
o ラインPR (政治情報担当)
と呼ばれる各ラインが組織されており、ラインPRは、
o アクティブ・メジャーズ班
o 米国を担当する胞敵班
o 中国班
から構成されていたことなどを明らかにし、1970年代のアクティブ・メジャーズの中で最も成功したケースのーつに「周恩来の遺書」のねつ遺を挙げている。「周恩来の遺書」は、日中離間を最大目的としてKGBによってねつ遺され、在日KGB機関員が、サンケイ新聞社の記者を通じてサンケイ新聞に掲載(昭和51年1月23日付朝刊)させることに成功し、その後、タス通信がこれを取り上げて大々的に世界中に伝えた背景を証言した。
日本人エージェントのなかには、接触場所をマッチの受渡しで知らされたり、フラッシユ・コンタクト(情報の人った容器を歩きながら投げ捨てるように置くと即座に後ろから来たソ達人がそれを拾う連絡方法)のやり方を実際に訓練させられたり、マーキング(玄関脇の電柱にテープを張ってソ連側に連絡をとるよう指示する方法)などを教えられた者や、金銭は受領しなかったものの金鉄を使った工作をかけられた者が存在することが明らかとなった。