それは何時もと同じく始まり、同じように過ぎようとしていたある一日。
以前よりは熱心さは失せているとは言え、幼い頃から続けた魔術師となる為の勉強を無駄にするのも気が引ける。
そんな理由で通い続けている私塾からの帰り道だった。
赤い日差しが降り注ぎ、数多くの人が行き交う路の片隅にンフィーレアの目は吸い寄せられた。
「この糞がっ、てめえのせいで俺の服が台無しじゃねえか!」
そこでは三人組の男が、一人のみすぼらしい身なりの男を地面に引き倒し、繰り返し暴行を加えている。
彼らが濁った声で喚き散らしている事を聞くと、暴行を振るう者達の内の一人に、地面に倒れている男が水たまりの泥水を跳ねさせてしまったらしい。
他人に躊躇なく暴力を振るう事といい、人を威圧する振る舞いといい、彼らが明らかに暴力を生業とする者達である事は明白。
街ゆく人々は堂々と行われる暴行にまるで気がついていないように目をそらし足早で脇を通りすぎるだけだが、ンフィーレアはそのように無関心を装うには、まだ幼すぎた。
つい足を止め、しかし直ぐに声をかける事も出来ずに立ち尽くす様子に、男達の一人が目を止める。
「あ? ………何か用でもあるのか?」
ここ最近は肉体を鍛錬し、弱いモンスターとの戦闘を数多く経験してきたンフィーレアではあるが、大人の、しかも暴力性をむき出しにした人間と対峙した事はない。
「あ、あの………」
彼らを止めようとしているのか、謝罪して関わらないようにしようとしているのか。
自分でも何を話そうとしているのか分からず、ただ意味もなく声が漏れる。
その様子を見て、ンフィーレアに話しかけてきた男が、余裕の笑みを浮かべる。
「あのな、坊主。 立派な大人になりたいなら利口にならなきゃダメだぜ? じゃねえと、こんな風に怖い目に遭うからよ」
そう言って男はベルトに括りつけた鞘から慣れた手つきで短剣を抜き、ンフィーレアの眼前に突き出そうとする。
とは言え、流石に当てるつもりはない。
通りがかりの子供を斬りつけたなど仲間内での武勇伝にもならないし、むしろ馬鹿にされるだけだろう。
怯える少年の様子を見て芽生えた、軽く脅してやろうという愚かな遊び心。
だが自分の顔に近づいてくる短剣の冷たい輝きにンフィーレアの思考は止まり、気が付けば体は本能のままに、モンスターとの戦闘で身に付いた迎撃体勢を取っていた。
アイアン・スキンのスキルにより石のような硬さを得た拳。
積み重ねた修行こそまだ少ないが、短期間で得たレベルは、その一撃に致命の威力を乗せるに十分足るもの。
そしてンフィーレアは対人戦闘の経験が無い為に、どの程度の攻撃で人は死ぬのか、をまだ知らない。
ただ短剣を退けようと突き出された拳は胸に深々と突き刺さると、重要臓器を守る骨を軽々と粉砕し、男の命を刈り取った。
腕から胸の奥まで伝わったあまりに生々しい骨が潰れる感触と、内蔵が潰れる感触。
口から夥しい量の血を吐き、地面へと転がった男はもはや微塵も動かない。
(え………)
風景が滲み、目の前に横たわる男だけが鮮明に見える。
周囲の群衆が悲鳴を上げたが、今のンフィーレアにはくぐもった雑音にしか聞こえない。
やがて都市の警護を担当している王国の兵士達がンフィーレアの元へ走ってくる。
都市内を守る兵士は平民から取り立てられた者が多く、練度も兵士としての意識も高いとは言えない。
先ほどの男達は公衆の面前で、全く臆する事無く暴力を振るっていた。
それは裏を返せば兵士達など恐れる必要がないからとも言える。
兵士達が相手に出来るのはせいぜいがスリや泥棒等、個人で活動する弱い犯罪者のみ。
男達のような明らかな暴力の匂いを漂わせた本当に厄介な悪党は、王国の裏社会を支配する八本指という組織や、それに類する犯罪集団と繋がっている可能性もあり、誰も好き好んで関わろうとしない。
ただ、事態が公衆の面前での殺人という大事に発展したこと。
その犯人は犯罪組織とは関わりのありそうもない子供だと言うことで、やっと兵士達はその重たい腰を上げたのだった。
「お……、お前。 連行する、詰所まで来い!」
初めて人を殺したという事実に茫然自失となるンフィーレアは、乱暴に腕に縄をかけられても抵抗する事なく、警備兵の詰所まで連行されていった。
縄に繋がれている自分の両手を見て、初めてンフィーレアは自らの体が震えていることに気がつく。
彼がようやく自分の身に起きた、そしてしてしまった出来事を実感したのは、取り調べを受けた後に詰所の地下にある檻の中に押し込められ、冷たく湿った石畳の感触を腰の下に感じた時だった。
兵士の話によると今夜はこの地下牢で過ごし、明日の午前中には王都の中にある拘置所に送られ、裁判を待つ身になるらしい。
「アレンとか言ったか……、ま、今夜だけはゆっくり眠りな。 ガキに拘置所はきついだろうからな……、裁判まで持つかどうか」
ンフィーレアを檻に入れた不精髭を生やした兵士が、薄ら笑いを浮かべながらそう言い捨て、地下牢を出て行く。
アレン、とはンフィーレアが王都に来てから名乗っていた名前。
自らの死を偽ってエ・ランテルからモモンガと共に飛び出してきた手前、本名を名乗るわけにも行かず、自分の名前から適当に音を拾って作った名だった。
アンデッドと手を組んで、故郷を捨てて、そして強くなる為の希望が見えた矢先に、偽りの名のままで死ぬことになるのだろうか。
静まり返り、一本のロウソクだけが壁に灯る狭い地下牢の中、今日初めてンフィーレアの目から涙が溢れた。
冷たい石畳に点々と黒い染みが作られるが、もう涙を拭ってくれる家族は居ない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
王都から遠く東に離れた場所に、トブの大森林という人類未踏の密林がある。
アゼルリシア山脈から流れる豊富な雪解け水が、豊かな植物と動物達を育んでおり、その中には人類の生活領域では見かける事のない強大なモンスターも多数存在しているという噂だ。
モモンガは今、そのトブの大森林と平原との境界近くを移動しながら、森から溢れ出したモンスターを標的に狩りを行っていた。
既にンフィーレアを残して、リ・エスティーゼを出発してから五日目。
レベルは昨日の内にやっと10まで上がり、今は狩りと同時に新しく覚えた魔法の実戦での使い方を練習している。
(トブの大森林……、草原との境界線付近だと言うのに、普通に王都周辺の平原を探し回るよりは余程モンスターが狩りやすいな)
しかも餌の豊富な森から溢れたモンスターは、大抵が生存競争に敗れた者達なのだろう。
ゴブリンやオーガ、狼等の野獣など、そこまで高レベルのモンスターは見かけた事がない。
だからといって、これまでモモンガは大森林の中にまで足を踏み入れた事はない。
視界の効かない密林では野伏のように鋭敏な探知能力を持たないモモンガは以前、ジャイアント・スネークに襲われた時のように奇襲を受ける可能性がある。
もし仲間でも居れば話は別なのだが、単独で行動する魔法詠唱者にとって敵に距離を詰められるというのは致命的な状況となりうる。
小さな森ならば兎も角、こういった何が潜んでいるか分からない場所には踏み入らずに、敵の存在に気がつきやすい草原で狩りをする。
それが現在のモモンガの基本戦略だった。
(そろそろ日も暮れるか……。 魔力も心許なくなってきたし、そろそろ狩りはやめておこう)
念の為に、急な戦闘が発生しても十分に対応出来るだけの魔力は残し、モモンガは森から離れていく。
そして道すがら、ンフィーレアに伝言の魔法を使い、連絡を入れた。
『ンフィーレア、私だ。 そちらは特に問題はないか?』
『あ……、モモンさん。 ………問題はありますね』
話す内容もそうだが、普段よりも明らかに覇気の内声にモモンガは内心、違和感を覚える。
『何だ? そちらで解決できそうならいいが、無理ならば私が直ぐに帰ろう』
『………モモンさんが帰っても多分、どうにもならないと思います。 ……今は、兵士の詰所の中にいて、明日正式な留置所に移送されるそうですから』
『は、はぁっ!? ……いや、す、済まない。 しかしどういう事だ? 明日留置所に移送って何をどうすればそうなる』
『………人を殺したら、そうなりました』
『っ!?』
その後、幾度かの問答を続けて、やっとモモンガにも事情が飲み込めてきた。
どうしようか、と一瞬悩むが、どう考えても選択肢はひとつしかない。
『逃げるぞ。 君はただ身を守ろうとしただけだし、子供をナイフで誘うとした相手の方に原因がある。 ……急いで帰っても、そちらに着くのは明日の昼頃になるだろうが、それまでに心の準備をしておけ』
モモンガにとって計り知れない値打ちのある、希少なタレントの所有者をこんな所で失う訳にはいかない。
ンフィーレアがいなければ、自分が今より高レベルになった時に、経験値を得る方法が失われてしまうかも知れないのだ。
『逃げるってどこへ……』
『どこかだ。 そうだな、他の国にでも行くか。 ………とにかく待っていろ』
モモンガは伝言の魔法を切ると、《クィックマーチ/早足》の魔法を発動させ、王都を目指して全速力で駆けていく。
(王国の兵士と言ってもンフィーレアから得られた情報によると、強力なモンスターと戦えるような存在は少ないらしいし、ゴーレムとの戦いを見ても強者は居なかった。 勿論、全てがそうではないのだろうが、今の私でもンフィーレアを連れ出して、他国まで逃げる勝算はある)
本来なら、このような一国を敵に回す行為等、絶対にしたくはない。
しかしンフィーレアには自分の未来がかかっている以上、今回ばかりはリスクを避ける事は出来そうもない、とモモンガは覚悟を決めた。