木村汎(北海道大学名誉教授)

 毎年2月7日には、北方領土の返還を求める全国大会が催される。今年は、重大な変化が起きた。同大会を主催する官民団体が採択する大会アピールから、なんと「北方四島が不法に占拠されている」という事実を述べた文章が削除されたのである。同大会で最重要の安倍首相のスピーチにも「日本固有の領土」という言葉がなかった。

 これは現在進行中の日露平和条約交渉に対する影響を考慮しての決断と推測される。もしそうだとしたら、しかしながら、とんでもない思い違いである。逆効果だろう。それは、ロシア側に向かって誤解を招く誤ったメッセージを送るばかりか、日本側にとっても致命的な外交行為にさえなりかねない。説明しよう。

 現プーチン政権は、国境線の決定問題に関して「戦争結果不動論」の立場を取っている。すなわち、国家間の国境線は国際法でなく、武力闘争の結果として決まる。現日露間の国境も第2次世界大戦でソ連が日本に対して勝利し、北方四島の軍事占拠に成功したことによって決定した。プーチン大統領は、2005年にこう宣言し、忠実な部下、ラブロフ外相はとりわけ昨年来両国間で平和条約交渉が本格化して以来、口を開くと必ず「もし交渉を進めたいのであれば、日本側は第2次大戦の結果を認めることが何よりの先決事項」と説く。

 上記のロシア指導部の主張は、事実を歪曲(わいきょく)した完全な誤りである。改めて説くまでもなかろうが、この際要旨を記しておく。

 戦争が国境線を決める。これは、野蛮、危険かつ間違った考えである。もし万一そのことを認めるならば、永久に戦争は終わらず、国際社会は闇の世界となろう。国境線を決めるのは、戦闘行為でなく、あくまで国際法であるべきだ。さもないと、際限なく戦争が起こるのを防止し得なくなる。
東方経済フォーラムの全体会合で、演説に向かうロシアのプーチン大統領(左)に拍手する安倍晋三首相=2018年9月、ロシア・ウラジオストク(古厩正樹撮影)
東方経済フォーラムの全体会合で、演説に向かうロシアのプーチン大統領(左)に拍手する安倍晋三首相=2018年9月、ロシア・ウラジオストク(古厩正樹撮影)
 そのような戦争の「負の連鎖」に終止符を打とうとして、第2次大戦終結前後に、連合国は領土不拡大の原則に同意した。「大西洋憲章」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「国連憲章」の条文がそうである。もとより、スターリン下のソ連も、これら全ての条約、協定、申し合わせに同意し、署名した。米国はこの原則を守り、軍事占領した沖縄を日本へ戻した。

 以上の協定を唯一順守しなかった国が、スターリン下のソ連だった。ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏宣言し、武力放棄した後にも対日武力攻撃を一向に止めなかった。しかも、ソ連と日本は「日ソ中立条約」を結んでいたので、ソ連の対日攻撃は明らかに同条約の違反行為に他ならなかった。なぜならば、同条約は一方が破棄を宣言しても、その後1年間は有効と定めていたからである。