この問いは、全世界のブレードランナーファンの間でも意見が分かれているところです。 「劇場公開版」と「完全版」に限って言えば、答えは「No」です。 ラストで、デッカードのナレーションが「奴らは知らなかったが、レーチェルは命の期限を与えられていなかったのだ」と言っています。 つまり、逃げ延びたふたりはその後長く一緒に暮らした、というラストが与えられていたんですから。 ただ、このバージョンで気になるのはガフの折り紙。 その意味するところは結局不明なまま、「何かを示しているんだろうなぁ」と感じる程度で映画は終わってしまいます。 それに対し、この「最終版」は全く違うラストになっています。 デッカードとレーチェルがエレベーターに乗り込んだところで映画は終わり、その後のことは一切描かれていません。 そして、劇の途中で挟まれた、デッカードが見るユニコーンの夢……。 |
デッカードの夢に現れた、ユニコーン
映画の最後で、デッカードの部屋の前にガフが置いた折り紙もユニコーンでした。 つまり、ガフは「デッカードがどんな夢を見ていたのか」知っていたのです。そう、デッカードがレーチェルの夢の中身を知っていたように。 このことは、何を意味するのでしょうか? そう、デッカード自身がレプリカントであったのだということでしょう。 「人間を遙かに凌駕するレプリカントを処理する」という行為は、人間には危険すぎます。 デッカードは、そのために造られたレプリカントだったのです。ただし、レプリカント同士だとその処理をためらいなく行えない可能性があるため、人間としての記憶を与えられ、体力なども人間のそれと大差なく設定されています。 そういえば、口をつけたらグラスの中に血が流れ込むくらい口内を出血していながら、平気で酒を飲んだり、口の中から血を思い切り吐き出したあとその水に顔をつけたり……人間としては少し不自然な行為がありました。 そして、それを見ていたレプリカントのレーチェルが彼に訊くのです。 「(レプリカントかどうかの)テスト、自分でしたことはある?」 そう、レーチェルは彼がレプリカントであることも、途中で気づいていたのです。 しかし、彼自身がそれに気づくのは、ガフの残したユニコーンの折り紙を手に取った時でした。 そしてそれは、それまで彼を支えてきていたアイデンティティが崩れた時でもありました。 そうなると、劇中でデッカードに絶えずつきまとい、その行動を絶えず監視していたガフこそが、真のブレードランナーだったということになるのでしょうか。だとすると、デッカードはガフの駒だったということになります。 自分の存在というものが、過去のない、造られた薄っぺらなものだと気がついたのです。 それでも彼は、バティーが自分に残した「生きる意味」を胸に、レーチェルとの逃避行へ旅立っていくのです。 今度は、自分が「狩られる」側に立ったことを自覚して……。 しかし、これはあくまで「最終版」でのみ可能な解釈です。 実際、リドリー・スコット監督自身が「デッカードはレプリカントだった」と発言しているようですが、「劇場公開版」ではその解釈はほぼ不可能ですし、その「劇場公開版」でファンになった観客にしてみれば、「今さら何を言う」って感じになっちゃいますよね。 いったん発表してしまったら、作り手がなんと言おうが作品は観客のもの。それぞれの観客の解釈がその映画の解釈なんです。「最終版」でだって、「デッカードは人間だった」という解釈も可能ですしね。 あなたはデッカードは「人間」だと思いますか、「レプリカント」だと思いますか? |