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【Penペン草紙】

三重の百五銀行から再出発 柔道男子100キロ超級 原沢久喜

2019年4月8日 18時0分

百五銀行への入社が決まり、上田豪会長(左)と握手する原沢

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 きっと暗く、長いトンネルをようやく抜け出した気分だっただろう。柔道男子100キロ超級で2016年リオデジャネイロ五輪銀メダルの原沢久喜(26)が、6日の全日本選抜体重別選手権で3年ぶり2度目の優勝。三重県を拠点とする百五銀行に所属先が変わって迎えた初戦を見事に飾った。

 原沢は3年前のリオ大会決勝で先に指導2つを与えられ、五輪2連覇を達成したテディ・リネール(29)=フランス=の前に優勢負け。日本柔道界が悲願とする「最重量級での五輪金メダル」をあと一歩で逃した。しかしその試合内容はというと、指導2でリードした後のリネールはまともに組もうとせず、逃げの戦術を選択。その後も世界選手権で8連覇を達成した「絶対王者」とは程遠い勝利最優先の消極的な柔道に、五輪決勝では異例の大ブーイングが場内から起こった。

 それでも五輪の大事な決勝で敗れた事実に変わりはない。金と銀の落差を思い知った原沢はリオから帰国後、「打倒リネール」を胸に刻み込み、自身にむち打ち、精進に精進を重ね続けることを誓う。しかしながら本来きまじめな性格が災いに転じたのだろうか。修行僧を想起させるその自身の追い込み方は、あまりにもストイックすぎた。リオ五輪から1年後の世界選手権ではまさかの初戦敗退。練習中に体調が優れない日々が続いていたこともあって帰国後、医師に相談すると待ち受けていたのは「オーバートレーニング症候群」の診断だった。

 これは過酷な練習を長期間続けた結果、パフォーマンスや運動機能が極端に低下し、疲労がなかなか回復しない状態だとされる。休養を余儀なくされ、国際大会への出場も半年ほど辞退した。

 にもかかわらず、自らイバラの道へと突き進む姿勢は変えようとしなかった。「五輪の銀メダルから甘えが出た部分がある。崖っぷちに身を置き、自分の力を試してみたい」と再三の慰留にも考えを変えず、柔道を引退後も身分が保障されていた日本中央競馬会(JRA)を18年4月限りで退社。これまでの貯蓄を切り崩しながら生活し、日本スポーツ振興センター(JSC)から支給される助成金を遠征費等に充てながら、フリーの立場で活動していく決断を下した。

 「JRAさんにいたころは終身雇用で将来も安定した中で柔道を続けさせていただいていた。どこかそういう部分に自分の中で甘えが出ていたと感じた。退路を断って本当に柔道に人生を懸けたいと思った」

 けれども苦難の道は続く。18年4月末の全日本選手権は3年ぶりに制したものの、9月の世界選手権は銅メダル止まり。それから半年。原沢は一人だけで突っ走ることをついに辞めた。三重県に拠点を置く百五銀行と4月1日付で3年間の嘱託社員契約を締結。栄養士やトレーナーを雇う金銭面だけでなく、グループ社員4000人を応援団とする精神的なサポートも受けることになった。

 「所属先が決まったことでいろいろなサポートをしていただける。万全な状態で臨めるのは心強いです」

 自力で頑張るのは尊いことだが、困ったときに手を差し伸べてもらうことは決して恥ではない。自身の足らないところ、そして弱さを認めつつ、頼るべきときには他人に頼る。そしてその感謝の思いを結果につなげる。重圧を背に戦う母国での五輪を前に、自分に厳しく接し続けた原沢もようやく他人の力の大きさに気付いたのではないだろうか。「応援してくれる方が増えて気が引き締まりました」。心から笑えるようになった現在を思えば、紆余(うよ)曲折の3年間は決して回り道ではない。もがき続けながらたどり着いた新たな門出。100キロ超級の世界選手権代表が正式に決まる4月29日の全日本選手権が今から待ち遠しい。(千葉亨)

 

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