倭王の叙正と韓国の前方後円墳、そして百済救援はどのような関係がありますか? ....
2012/5/705:53:43
倭王の叙正と韓国の前方後円墳、そして百済救援はどのような関係がありますか?
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A
438年 倭王珍が宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の 任命を求める。(『宋書』倭国伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』倭国伝)
451年 倭王済が宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのま ま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
477年 倭王武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭 国伝)
478年 順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、倭国 伝)
B 韓国の前方後円墳は、5世紀中葉に当時の百済の領域南部に突然出現します。
私は相互に密接な関連があるように思うのですが、どうなのでしょうか?
補足私は韓国の前方後円墳は、百済救援と半島進出を目的とした倭勢力に関係すると考えています。古墳と古墳群のあり方から、倭人だけでなく倭に同調する現地豪族も前方後円墳の被葬者である可能性があると思います。
韓国の研究者の説で、「百済が倭人を軍事力として使っていた」というのがありますが、それなら円墳になったろうし、倭王が執拗に半島に関係する叙正を宋に求めたことの説明がつきません。
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編集あり2012/5/1116:38:21
現在13基の前方後円墳が分布する全羅南道の栄山江流域は「慕韓」に比定されていますね。
倭王の官号「都督慕韓諸軍事」が示すとおり、慕韓(馬韓)は、5世紀末葉に至るまで、未だ百済に領有されずに独立を保っていた勢力でした。
その慕韓に比定される栄山江流域は、5世紀末から百済による領有化がすすめられました。当時の百済は、高句麗の攻撃による一時的滅亡からの復興期(熊津期)にあり、南方への進出に活路を見い出していたのです。
『南斉書』百済伝には、490年と495年に百済王牟大(東城王)が自らの臣下を全羅道の要地に分封したうえで、その地名を冠した王侯に除正するよう南斉の武帝に要求したとあります。そこにみえる「面中」「八中」の地名はそれぞれ全羅南道栄山江流域の武珍(光州市)、発羅(羅州市)に比定されています。
また、『三国史記』百済本紀には498年東城王が武珍まで親征してきたとありますし、『日本書紀』継体紀には512年継体天皇が「任那四県」を武寧王に下賜したという示唆的な伝承もあります。
現在、栄山江流域における前方後円墳の造営は6世紀前半代になされたと考えられており、上記のような百済の同地域に対する領有化と連動しているとみるべきです。
御存知のとおり、前方後円墳の被葬者ないし造営者については、主に、百済に抵抗した在地首長とする説、あるいは交易などの目的で集団的に移住し、勢力を扶植してきた倭人とする説、百済から派遣された倭系の官人とする説が出されていますが、通説は定まっていません。当地ならではの前方後円墳の在り方から探っていくほかないでしょう。
さて、栄山江流域における前方後円墳の特徴としては以下のことが挙げられます。
①孤立的かつ突発的な出現。
13基の前方後円墳は従来古墳が造られなかった地域に、突如として出現し、ごく短期間のうちに終息しています。なお、前方後円墳は在来の甕棺墓・石室墓にとってかわったのではなく同時期に並存しています。したがって、被葬者(造営者)は新興の勢力である可能性が高いかと。
②本格的な倭系墓制、とりわけ北部九州の墓制の導入。
13基それぞれの前方後円墳には、周濠・段築・葺石などの設置、円筒埴輪・朝顔形土器の樹立、北部九州型の横穴式石室、赤色顔料による玄室壁面の彩色などが認められ、当地の前方後円墳がにわか仕込みではないことを窺わせます。
③百済系遺物の卓越。
盗掘を免れた副葬品は、倭系、加耶系が混在するものの、とりわけ百済系の威信財が際立っています。被葬者(造営者)は百済の政治的関与を強く受けていたと言うべきでしょう。
以上の特徴からすると、前方後円墳の被葬者(造営者)は、倭系百済官人というか、倭王権と百済王権との関係を取り持ち、栄山江流域の勢力とも関わった北部九州の首長層の人々ではないでしょうか。前方後円墳の墓制を採ったのは、彼らの出自を誇示するためであり、百済王権に完全に包摂されていなかった証かと思われます。
百済と北部九州との関係では、『日本書紀』雄略紀に「筑紫国軍士五百人」を遣わして東城王を倭国から百済へ護送させたとあるのが注目されます。
そして、ここからは全くの推測ですが、「筑紫国軍士五百人」は、百済まで東城王を護送したのち、王を放置して帰郷するような薄情な真似はせず(九州男児ですから)、そのまま百済において東城王直属の外人部隊となったんじゃないでしょうか。
彼ら筑紫軍士団は、百済の南方経略に沿って、栄山江流域の各地に分かれて駐屯し、軍士団の隊長たちには駐屯地が知行地として与えられ、故国の墓制に基づく墳墓を築くのを許されたのではないかと。
そして泗比遷都(538年)の頃には、百済の南方経略も一段落したため、栄山江流域各地の筑紫軍士は任を解かれ、それゆえ次世代の前方後円墳の造営は継続しなかったのではなかったか…まあ想像に過ぎませんけど。
【参考文献】
◆朝鮮学会編 『前方後円墳と古代日朝関係』 同成社
◆朴天秀 『加耶と倭』 講談社
◆吉井秀夫 『古代朝鮮 墳墓にみる国家形成』 京都大学学術出版会
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2012/5/912:05:19
倭王・武が主張しようとした事は
「父祖の代からの宿敵である高句麗を討つために、帝の大きな裁量で討伐名義の肩書きが欲しい」という事です。
その肩書きが将軍の爵号で、天子(王・皇帝)がじきじきに任命する軍事指揮官の称号であり、つまり天子に将軍の肩書きを与えられた者は、建て前では天子の下にある諸国に号令をかけて、武器類や兵の拠出・連合軍の結成など、様々な軍事協力を求めることができる。
これが天子を頂点とした時代の作法であり、常識的な手順だったわけで、武はこれを利用したかったと理解できます。
武の「六国諸軍事安東大将軍」とは、「(表記された)6ヵ国の諸軍事を統率して、宋の京都の東方を安泰にする大将軍」という意味で、この「6ヵ国の諸軍事を任かされた」という部分こそ、武が求めんとした肩書きです。実のところこの上表書は、武(当時の倭国主脳)の国際感覚と交渉技量の程を推測するのに余りあるものがあります。
武の上表文中に「父祖自ら鎧兜を身につけて山川を跋渉し」という一節があります。 跋 は大地を踏みしめて歩くことで、跋渉とは野山を歩き川を渡ることです。またここでいう 父祖 とは、421年と425年に朝貢した 讃 あるいはその弟・ 珍 を指すと考えられます。すなわち、5世紀前半に諸国を平定して回わった倭国最強軍団の兵士は徒歩。そのリーダーの讃や珍ですら、徒歩か輿に乗っての行軍だったことになります。
また高句麗 広開土王(好太王) の碑文には、武に先立つ4世紀末(391年)の倭国軍と高句麗軍の戦いの経緯がこう記されています。「倭国軍が海を渡って、百済と新羅を破って服属させた。その後、帯方の境界に侵入した倭国軍を、高句麗が歩騎5万余(5万余りの歩兵と騎兵)を投入して破った。倭国軍を惨殺し尽くした高句麗側の戦利品は鎧兜が1万余、その他の軍資器械は数えきれなかった」
ここでも、倭国が騎馬を用いた形跡はありません。戦闘用馬を倭国から帯同したり現地で調達した様子もないことから、当時はまだ馬の大量輸送手段がなく、その理由によって、騎馬戦闘の習慣が倭国にはなかったものと思われます。オフィシャル記録として倭国の騎馬が登場するのは、大型船が活躍しだした7世紀の交流を記録した『隋書』です。
参考)
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/af061d2bdb4779162ee9585d598bbcc9
弥生の日本列島は、紀元57年の倭奴国~107年の倭国へと脈絡しながら、国家としての体制も次第に成熟していきます。そうした段階を経た3世紀末には、九州や大和に限らず、東海・関東に至る広範囲に前方後円墳(前方後方墳)が登場しはじめます。この事は、時代と倭国の国家体制が想像以上に成熟していたことを物語ります。交易・交流・資源確保などの目的で、倭人がはるばる朝鮮半島や中国へ出かけていた事は史書などからも明らかです。
「三国志」馬韓伝に続く辰韓伝には「辰韓は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人はみな従にこれ取る。倭に近いところの男女は(倭人と同じように)文身する」とあります。辰韓の鉄を入手する倭人がいたといいますが、列島から日帰りで取りに行くことはできないから、半島での活動基盤となる倭人の居住区があったことは明白です。
参考)
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/5f44b6303c19cbfb93f6815d1c2bf43b
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/d163fb01a13bd05414c6881911824972
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/564e32f490f8ff230d8e0ebfcd5d6570
百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物です。日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いています。
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀にはこう記してあります。
また『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されています。
また「三国史記」(西暦1145年に完成した高麗王朝の正史)での新羅の王は、「倭人」です。
卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。
新羅4代目の王(脱解王)も「倭種」と書いてあります。
高句麗の好太王の碑文や、これら史書の記述を総合的に考えてみると、百済・新羅などは倭国の影響下にあり、倭王は高句麗との争いの中で、百済等への影響の正当性を求めて 宋 に遣使したが、すでに百済は華夷秩序に組み込まれていたので倭国の影響下にあったが、名義上は支配が認められなかったというところだと思います。
編集あり2012/5/1115:21:28
倭王の叙正と韓国の前方後円墳、そして百済救援は大いに関連しています。
百済の歴史は3期に分かれます。
第1期は近肖古王の建国から、高句麗によって滅ぼされる475年まで。
第2期は熊津で再興する475年から、都を泗沘へ遷都する538年まで。
第3期は泗沘への遷都から、滅亡する660年までです。
倭国との係わりが大きくなるのは第1期の後半からです。
百済は高句麗に攻められ、倭国と結び王族を人質として倭国に送るようになります。
これについては好太王碑文に「399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した」とあります。
結局、第1期の百済は高句麗に攻め込まれて、首都・漢城が陥落し、蓋鹵王が戦死して事実上滅びます。
第1期の百済が滅んだことで、倭国が何をしたのかは日本書紀にこうあります。
「百済が高句麗に敗れたと聞き、雄略天皇は久麻那利(熊津)を文周王に与えて百済を復興させた」
つまり倭国が百済を復興させたのです。
熊津の土地について、「久麻那利は任那国の下哆呼利県の別邑なり」とあるので、倭国が支配していた任那国の土地の一部を与えたようです。
雄略天皇が百済の文周王に熊津を与えて、復興させたのが第2期の百済です。
この歴史の流れで叙正を見ると、雄略天皇と考えられる倭王武は477年に自らを百済を含めた安東大将軍だと主張し、しかし順帝は第1期の印象で百済を見てますから百済を含めなかったんだと思います。
もしかしたら高句麗が横槍を入れたのかもしれません。
この後、雄略天皇は文周王の次の三斤王が崩御すると、倭国にいた末多王(東城王)に兵器と筑紫の兵士500人を与えて、百済に送り届けます。
継体天皇の世になり、任那四県を百済に割譲したのも512年で第2期です。
このように第2期には、政治家や兵士など多くの倭人が海を渡り、百済の復興にかかわっています。
海を渡った倭人が拠点としてたのが前方後円墳がある全羅南道の栄山江流域ではないでしょうか。
韓国にある前方後円墳は栄山江流域の10基程度と言われてますが、ホントはもっとあると思います。
第3期は、倭国による百済の復興が果たされて、百済王家に政治が戻され安定期に入った時代だと思います。
聖王が欽明天皇に仏像や経典を贈ったとする仏教公伝は538年説と552年説があるのですが、538年説がぴったり百済の泗沘へ遷都と合致しますので、仏教による国づくりを目指して遷都し、復興に多大な力を貸した倭国に仏像と経典を贈ったんだと思います。
ちなみに白村江の戦いは663年で、第3期の百済が滅亡して3年後に起こります。
この戦いは百済を支援したのではなく、倭国の手で再び百済を建国することが目的だったと思います。
百済滅亡後、渡来人が倭国にたくさん来たわけですが、この渡来人の多くは倭国から百済に渡った倭人の子孫が帰ってきたというのが多かったと思います。
編集あり2012/5/806:06:11
簡単に御説明致します。
扶余王家で、同じ同族の王家の馬飼いの子孫が、王家に親征し、王家を滅ぼし、高句麗を建国。
扶余王家は、帯方郡で扶余再興し、烏垣(烏丸)に高句麗討伐に加わらせる為に再興地を譲り
鮮卑に加わる様に持ち掛け、拒否され軍を起こし扶余は滅亡し王は入水自殺。息子の王は中華に救援
を依頼し扶余は再興されます。
扶余の臣下が馬韓で、傀儡の王をしていましたが、烏垣(百済)に譲り高句麗征伐に加わる様に要請。
一方、南下し加羅諸国、新羅を建国させ高句麗に対する攻撃網を整え、自らは半島の倭人を介して
縄文人系土着民から東海三神山の地より傀儡の王になる為渡って来て欲しいとの要請に答え東海地方に上陸し
(徐福の渡来から技術継承の遠洋航海可能な船団に向かえに来て貰い衆3000で倭に渡る)、東海地方の倭人も集合し参戦へ。土着民に先導してもらい邪馬台国を攻め滅ぼします。倭人後裔を名乗り中華に対して朝遣し、高句麗包囲網を構築
しようとしますが、新羅王は、人民に反対され政権維持に腐心します。が、百済は建国して直ぐに高句麗と戦い、やがて新羅も追従し
扶余王族の倭の軍隊も帯方郡に進軍しますが、高句麗は扶余併合し、倭軍は徹退し高句麗征伐は、縄文人系土着民
に止められ小休止します。(倭讃御世)
再び高句麗征伐に立ち上がるのは、高句麗の南下で苦しい立場に置かれた百済で、倭王が百済王を擁立する権限があり
人民の要請に答え、倭に救援を求めた為です。
(百済は人民に対して扶余の代わりに百済が治めたのでは無く、自ら風貌の似ており扶余人と公言してましたから
扶余を公称してます)百済の王子を倭の傀儡の王(天智系天皇族)に立てる政策で、5世紀後半に倭武(百済昆支)が立ち、代々倭王として、代々百済の王(武寧王子孫)として扶余王家は、反対する葛城、蘇我(大国主、一言主、縄文人系)を騙し騙し、高句麗征伐を続けさせますが、政策変更した扶余王家(上宮家)が、王統を奪取し、遣隋使を送り中華に高句麗征伐を任せ、隋が滅亡すると扶余王家を天智系の舒(舒明)が糾弾し戦になり聖(聖徳)が敗北し(神仏戦争の実体)、政権奪取し合う状況が展開して行きます。
A・・半島進出を狙うのでは無く故地奪回目標ですが、当然乍ら密接な関連があり一致団結しようとする決意表明で、騎馬民族の伝承、金の壺(前方後円墳)から生まれたを表現してます。
編集あり2012/5/710:18:00
5世紀、雄略天皇の頃、日本が統一され、この頃にやまと朝廷が成立したことが出土した銘入り鉄剣から分かっています。倭は鉄は古くは朝鮮南部から鉄塊を輸入していたのですが、5世紀には日本で鉄は一貫生産でき、鉄製の武具が急速に発達しています。日本書紀によると、河内王朝は武断に猛る政権で、身内でも攻め滅ぼしています。終には後継者が途絶えるまで殺し合いました。河内王朝が日本を統一した後、朝鮮に出兵したことは必然であったと考えられます。朝鮮に進出したと言うのか侵略したと言うのか、その頃の倭王は武勇が猛り、あり余って朝鮮まで出かけたというところです。このとき朝鮮からの救援要請の資料は存在しません。
朝鮮から援軍の要請があったから出征した云々は、白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)、663年(天智2年 )8月のことで、時代が違います。この頃は日本はもう前方後円墳には興味がなかった、終末期古墳の時代です。
五世紀は前方後円墳全盛の時代で、伝仁徳天皇陵(大阪府堺市、大仙古墳)など、世界最大級の前方後円墳が続々と造られていた時代です。倭王は中国の宋に、倭が朝鮮を支配していることを認めるよう使者を送っています。結局宋からは認められず、倭の国王として、中国から官位を授かっただけでした。と言うことは日本の支配が一時的なものであったと考えられます。
朝鮮南部に前方後円墳があるとすれば、河内王朝(倭の五王)が築造したに違いないと考えられます。古墳から須恵器の破片が出土すれば年代が分かります。この頃の須恵器については我が国では年代標準となる須恵器が日本全国(九州鹿児島県から青森県まで)から出土します。韓国は現在お家の事情で、一時的とは言え日本の支配下に入ったことは認めたくないのだと考えます。
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