| ||||||
| ||||||
迎えた大学受験で目指したのは、地元の名古屋大学。素粒子論研究室教授の坂田昌一先生による「坂田モデル」の新聞記事を見て、自分も素粒子論の先端に加わりたいと思いました。入学試験は、5教科1,000点満点。理学部はそのうち450点あれば入れるらしいと事前に知りました。計算してみたら、英語が0点でも、理科と数学でほぼ満点を取り、あと少しだけ国語と社会で点を取れば、英語が全然ダメでも入れる。だから、また「英語、やめたー!」と(笑)。それでも、どうにか名古屋大学に進学できました。 大学院の入試のときも、英語は白紙で出したんですよ。それでも合格したのは、上田良二という先生が、合否判定会議のときに「語学は入ってから勉強すればいい。これで入学を一年遅らせる必要はない」と援護してくれていたらしい。 | ||||||
| ||||||
ぼくが英語で論文を書いたのは博士論文だけ。先輩諸氏に真っ赤になるぐらい直してもらいました。「何が言いたいんだ、日本語で言ってみろ」と言われて説明すると、上手な先生は、ぼくが使った英語で順番を入れ替えて直してくださる。しかし、別の先生は大幅に直しすぎて、ぼくの伝えたい意味から離れてしまうこともありました。人によって、英文添削のさじ加減って全然違うのだということを知りました。 その後、「この人なら任せられる」という共同研究者を見つけて、英語論文を書いてもらっています。ぼくが日本語で下書きをして、それを英訳してもらうわけです。ぼくがこれまでに発表した論文は40本弱で、決して多産ではありません。ノーベル賞受賞対象となった論文は、書いたのが1972年、雑誌に掲載されたのが1973年の2月でした(タイトルはCP-Violation in the Renormalizable Theory of Weak Interaction)。ぼくが日本語で下書きをして、小林誠くんが英文にしました。そしたら、ぼくの渡した原稿より半分ぐらいの長さになってしまった。「これはいらん」「これはいらん」とはしょられちゃった。CP-Violationは、日本語で「対称性の破れ」として知られるようになりましたが、研究者の間では通常、「symmetry breaking」と言っています。英語ですね。 | ||||||
| ||||||
研究者になってから、英語をしゃべらなければならない機会が何回かありました。一番おもしろかったのは、1978年、東京で開催された素粒子物理の千人規模の国際会議で、ぼくも発表があって、しゃべる内容を共同研究者と相談して文章にしました。問題は質疑応答です。想定問答集はいちおう考えたけれど、自分のプレゼンが終わったとたんに、質問を待つまでもなく、さっさと降壇した。だって、質問が出たら困るじゃない(爆笑)。ぼくは逃げたよ。脱兎のごとく。みんな笑っていましたね。英語ができなくて困ったことはあまりないけれど、国際会議のときは困りました。ぼくが国際会議で発表したのは、このときを含めて3回だけです。 ぼくはノーベル賞授賞式のときが初めての海外渡航で、留学経験もありません。われわれの時代は就職難で、日本で職が得られないから海外へ渡る研究者も多かったですが、ぼくはなんとか国内で採用してもらって、事なきを得ました。 英語はしゃべれるに越したことはないけど、なんとかなるもんです。読むことができれば、なんとか生きていけます。わたしはそれで生きてきたから。 | ||||||
| ||||||
| ||||||
1953年、東京都生まれ。上智大学文学部心理学科卒業後、1983年、東京外国語大学大学院日本語学専攻を修了。1983年中国大連外語学院、1983年〜85年イエール大学、1986年コロンビア大学にて日本語の教鞭をとる。1994年ハーバード大学客員研究員を経て、現在、杏林大学外国語学部教授、政策研究大学院大学客員教授。祖父で言語学・民俗学者の金田一京助、父で国語学者の金田一春彦に続き、日本語学を専門とする。親しみやすいキャラクターでテレビ出演も多く、日本語の魅力を広く伝えている。主な著書に、『適当な日本語』(アスキー新書)、『「汚い」日本語講座』(新潮社)、『ことばのことばっかし』(マガジンハウス)、『お食辞解』(清流出版)、『オツな日本語』(日本文芸社)『金田一家、日本語百年のひみつ』(朝日新聞出版)など。 |