母の嫉妬
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
大学に入学して暫く経った頃、私は父のところにあの絵を取りに行った。父が家にいて、新しい女も遊びに来ているだろう、日曜日に。
玄関を開けると、今まで聞いたことのないような父の笑い声が聞こえた。チリチリチリ……、女の笑い声は高い。そして、余り若くないようだ。
玄関先に揃えられた黒いパンプスと、学生しか履かないような汚いスニーカー。父の女性遍歴からすれば、今度の女はちょっとタイプが違うようだ。ドスドス……、わざと足音を響かせてキッチンへ向かった。
「繭美どうしたんだ?連絡も無しに」
父が困惑した顔で、私を見つめる。
「私もパパの歯科医院のように、予約してここに来なくちゃならないの?」
悲しそうな顔で言ってやったら、父は何かモゴモゴと言いかけて、結局止めてしまった。ふん、情けない男。
「誰?この人達」
「お嬢さんですね?」
小太りの中年女が、台所で母のエプロンを掛けて立っていた。その横で、冷蔵庫からビールを取り出す若い男が振り返った。
「初めまして、柏木祥子と言います。この子は、息子の聡です」
「こんにちは。初めまして」
彼が勢い良く頭を下げるから、私もつられてしまった。
「娘の繭美だ。大学に入学したばっかりなんだ」
「初めまして……、聡さん……」
聡?思わず反応してしまうほど、母の日記の世界に私はどっぷり浸かっていた。反射的に、母の日記の聡に関する情報が頭に浮かぶ。黒目がちな目、クシャクシャの髪……。私の険しい視線を受けると、聡は困惑したような顔で髪を掻きむしった。
「お前、何か用があって来たんじゃないか?」
「玄関の絵、ママのお気に入りだったみたいだから、お祖母ちゃんの家に持って行こうと思って」
玄関の絵。と、態とらしく声を張り上げる。そして聡の表情を盗み見た。彼は素知らぬ顔で、ビールを飲んでいる。
「じゃ、あれ取って帰るから」
「分かった、お義母さんに宜しく言って」
父は私の大学のことも聞かず、サッサと帰って欲しいようだ。まるでこの女と聡が、本当の家族みたいじゃないか。父のその態度が、私を一層意地悪くさせる。
「お祖母ちゃんには、パパとご飯を食べて来るから夕飯はいらないって言って来たんだけど。邪魔みたいだから、帰るね」
「あらあらお嬢さん!お口に合うか分からないけど、私が夕飯をこさえてますから。どうぞ、一緒に。ねえ先生?」
女がエプロンで手を拭き拭き、台所から飛び出して来た。如何にも家庭的、と言った雰囲気を漂わせて。
「食べて行けよ」ぶっきらぼうに言う父。いい気味だ。
「じゃあ、ご馳走になります」
私はムカムカしながら答えた。ここは私の家だ。ご馳走になるもへったくれもない。
台所から、甘辛い香ばしい匂いが漂って来る。私は聡にビールを注ぎながら、ずっと観察していた。もし聡が、母の日記に登場する「あの聡」なら、玄関に入った途端にここが誰の家なのか分かった筈だ。分かってながらこんなに淡々と父と語れるのなら、日記に登場する聡ではなのか。そもそも、名前が同じだけでそう思ってしまう、私がおかしいのか。
「聡さんは、お仕事は何してらっしゃるんですか?」
「この子はフリーターなんて言って、定職にも就かず困ったもんなんです。何かやりたいことがあるみたいで……」
母親が台所から助け船を出した。でもその声のトーンには困っている感じはなく、それどころか、夢を追っている息子を誇りにさえ思ってる節がある。
「やりたいこと?」
「絵を描いてるらしいよ」
今度は父が、代わりに答えた。
「今時、自分のやりたいことを貫ける男なんて珍しい。頼もしいじゃないか」
「そうでしょうかねぇ?」
母親のわざとらしい困惑顔に、 私は苛つきながらビールを煽る。
「お前未成年だろ?調子に乗るなよ」
「少しくらいだったら大丈夫ですよね、繭美さん」
「ママに似て、私はアルコールに強いんです」
気まずい沈黙。自分の言葉の影響力を確認すると、私は更に饒舌になる。
「聡さん、玄関に飾ってある絵。どう思いますか?」
「え?」
「プロからみてどうなんですか?ママは、気に入ってたみたいですけど」
「参ったなあプロなんで。あれ、僕の絵なんです。昔、駅前や商店街で売ってまして。ここの奥さんに買って貰ってたなんて……。恐縮しちゃいます」
そう言って髪をクシャクシャに掻きむしるから、私は興奮を周りに悟られないように唇を噛む。ビンゴ?
「そうだったのか…。こりゃ、面白い偶然だなぁ」
父はすっかり忘れてる。
「お友達の息子さんの絵」と、母が嘘をついてたことを。つまり父は、聡が母と関係があったことを知らずに、その母親と付き合っているのか?なんて間抜けな男。そしてなんて悲劇で、喜劇。
「まあ。こんな立派なお宅に、飾って貰うような絵なんでしょうか?」
「母にはそれだけの価値が、あったんじゃないですか?理由は分からないけど」
いちいちしゃしゃり出てくる母親に苛ついて、思わず大きな声が出た。そう、一つの大きな理由が、母にはあったのだから。
女の料理は、味の濃い田舎の料理を思い出させた。母の手の込んだお洒落な料理に比べると、大雑把で不味い。でも父も聡も、美味しそうに食べている。父なんか今まで見たことない食欲を見せて、里芋の煮物を掻っ込んでいた。
「こんな家庭料理、お嬢さんの口には合わないんでしょ?」
「我が儘に育ってるから……」
父が憎々しげに呟くから、私は苦手な魚の煮付けを食べ始める。赤い鱗と白っぽい目玉が気持ち悪い。どんどん口に詰め込む私を、女は心配そうに、聡は面白そうに見ている。父は、私のことなど全く気にしてない。自分の家なのに、お客さん扱いされるなんて……、なんか笑える。
「――大学の方は、どうなんだ?」
気まずい沈黙に堪えかねた父が、今更どうでも良い質問をする。
「順調だよ」
「専攻は何なの?」
急に聡が、子供を相手にするような話し方になった。私は自尊心を傷付けられて腹が立った。
「英文科です。特に、夢や信念が無いもんで」
つい、嫌味が出た。しかし、善良で鈍感な彼等は、その部分を静かに無視した。
「あら聡も高校の時一年、ロンドンに留学してたのよ。主人が亡くならなければ、大学も行かせてあげられたんだけど」
「まだ若いんだ。聡君がしたいことには、私がサポートするから」
父がいきなりいい人に変身したので、びっくりした。この人も優しく思いやりのある言葉を、他人に掛けたりできるんだ。それもこれも、この女を愛してるからか?確かに母より穏やかで、明るくて、抱擁力がある。男はこんな女といると、癒やされるんだろうか?
「僕が送って行きます」
私が帰ると腰を上げると、聡がそう言って当然のように言った。
「僕、ビール殆ど飲んでないから、車運転できるし」
「聡、大丈夫?」
「アルコールは、もう醒めたよ」
「聡君すまない。そうしてくれるかい?」
「タクシー拾って帰るから、いいです」
私は慌ててその申し出を拒否した。気まずいドライブをしたい気分ではない。
「この辺はタクシーが通らないから。聡、送って差し上げて」
この辺はタクシーが通らないから……、と、反射的に口に出すこの女は、母が亡くなってからどれだけここに通っているんだろうか?
「無理して魚を食べたんでしょ?」
玄関を出た途端、聡が悪戯っぽく聞いて来た。私はあの魚の気持ち悪さを思い出して、吐きそうになる。
「大丈夫です」
「本当に?」
真新しいジープのドアを開けて、聡が私を恭しく中に促す。このジープは、汚いスニーカーを履くフリーターの聡には立派過ぎる。私の顔色を読み取った聡が、先回りして答えた。
「中古だよ。金貯めてやっと買えた」
嬉しそうな笑顔。母はこの笑顔を愛したのか?私は強張った顔で、視線を逸らした。
「繭美ちゃん、お袋とお父さんのこと嫌なのは分かるよ。だって君のママが亡くなってまだ二ヶ月位だし。家に上がり込むのは良くないって、俺もお袋にも言ったんだ」
「でも関係ないんでしょ?貴方のお袋さんには」
「君のパパも、寂しいんだよ」
「寂しいのはあの人だけじゃない。あの人はまた妻を持てるけど、私は二度とママを持てない。お祖母ちゃんも二度と娘を持てない。あの人だけが、特別みたいに話すのは止めて下さい」
「ごめん、無神経なこと言って」
「それに、あの人はママをずっと裏切って来たんですから」
「そのことについては、何も言えないけど……」
私は呆れた顔で、聡を見た。自分だって同じことしてた癖に、と。だけど聡の顔が余りにも真剣で同情に溢れていたから、その尖った言葉の先が折れてしまう。
「その、お袋も色々苦労して、今回の男、いや、君のパパは良さそうな人だから。その、親不孝な息子としては、幸せになって貰いたい訳で」
「だからその幸せを妨害する私を、何とかしたいんですね」
「まあね」
「正直なんですね」
ムカムカした。どいつもこいつも自分のことしか考えちゃいない。苦労した母親なら、不倫も許されるのか?相手の奥さんが死んだら図々しく家に上がり込んで、ベタベタ母の物に触りまくって。そんなことが許されるのか?不幸な経験した人は、何でもありなのか?私の頬が怒りで膨らむのを見ると、聡はそれ以上話さなかった。
「でっかい家だなあ」
祖母の家を見上げた聡が、無神経な声を上げた。それに他意はなかったかも知れないが、その夜の私は悪意の塊だった。
「裕福で不幸なんて知らない私は、我慢しろって訳ね」
大きな音を立てて車のドアを閉めると、聡が面白そうに笑った。
「君って綺麗なのに、そんな意地悪なことよく言えるねえ」
容姿のことを言われて、益々イライラして来る。
「さようなら」
「じゃ携帯の番号を教えとくから、連絡してよ」
「要りません」
そう言う私の手にメモを握らせて、彼は去って行った。
母の日記には、段々と深い関係になって行く聡との関係が赤裸々に書かれていた。私は嫌悪感を感じながらも、それを読み進むのを止められなかった。
二人の関係に少し変化が見られたのは、二年目に入ってからだった。それは自然な成り行きにも思えたし、そんな風にしてしまったのは母のせいのように思えた