体の中で、熱を持った気体が流動するような感覚。
心臓から肩へ、肩から腕へ、腕から指先へ。
その何かを意識に従い移動させながら、同時に拳を前へと打ち出す。
一ヶ月程前に、モモンガに本を渡され、それを消滅させた後。
ンフィーレアの意識と体に直ぐには気づけなかった程に僅かな、しかし明確な変化があった。
家から外に出て朝日を浴びたとき、少し激しい運動をして息をきらせたとき、ただ街中を歩いているとき。
自身の内側に今までなかった何かの存在を感じる。
そして、その正体と、どうすればそれを利用する事が出来るのかも、自分は知っている事に気づくのだ。
新しく知覚したエネルギー、モモンによると気というものかも知れない、という事だが……、を体内で循環させて自分の動きに同調させる。
日常のふとした空き時間や、夜、寝る前に繰り返し鍛錬を行い一ヶ月。
始めは興味から魔法の勉強の合間に行っていただけだったが、少しずつ何かに近づきつつある手応えを感じるに従い、日々の日課として取り入れた。
今日も家の前の路地で、既に一時間程、エネルギーの流れと拳をつき出す動きを同調させる訓練をしている。
既に季節は秋、夜は肌寒く鳥肌が立つ程だが、ンフィーレアの額は汗に濡れている。
(もうすぐ何かに届く気がする。 あと少しで……)
そしてもう一度息を整え、エネルギーを移動させ、全身を連動させて拳をつき出す。
腕が伸びきり、全ての動作が完了した瞬間。
ンフィーレアの中で何かが嵌る感覚がした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(なる程、この世界の人間が転職アイテムを使うとこうなるのか……。 いや、無論、使えればの話だが。 この前ゴブリンに転職アイテムの本を無理やり見せても、何も変化はなかったしな)
修験の門を渡してから一ヶ月。
ンフィーレアは本人曰く、何となくこうすれば強くなれるような気がする、という行動を毎日のように繰り返していた。
家の前での正拳突きを始め、走り込みや床に座り込んでの瞑想等、様々な修行をし続け、ついに今日モンクとしての技能を手に入れたようだ。
家の前で修行をしていたンフィーレアが興奮した様子で家の中に飛び込んできて、見せてくれたのは自分の中のエネルギーを利用して肌を硬化させる能力。
モモンガが触ってみると、確かに硬い木のように指を弾き返す感触がした。
「すごいな……、恐らくモンクのスキル、アイアン・スキンだと思うが……」
モンクの職業レベルを獲得すると、最初に習得するのが気の力で肌を硬化させるアイアン・スキンだった筈。
だとすればンフィーレアは、あの修行によってモンクの職業レベルを獲得出来たという事になる。
この世界の住人にもレベルが存在する可能性が高い、という情報はモモンガにとっては大きな収穫だった。
「あの本の件があってからですよ……、何故かモンクとして強くなる為の手段が頭の中に浮かんでくるんです。 ……どうして、そうすれば強くなれるか、といった理論的な事は分かりませんけど」
「ふむ……」
話を聞いてモモンガは暫し、考え込む。
(転職アイテムを使用する事によって、その職業のレベルを上げる為の知識を得られる……、いや、知識では無く方法だけ理解出来ると考えたほうがいいか。 ただ、モンスターを倒す事無くレベルアップが出来るというのもユグドラシルとは違うな。 …………しかし、例えそうだとしても一レベル上がるまで一ヶ月も掛かるというのは遅すぎる。 第一位階魔法や技能を何も使えないなら、他に職業レベルを保有しているとは思えないし……。 今度はモンスターを倒す事で経験値を得ることが出来るのか、の情報も欲しいな)
「モ、モモンさん。 もっと強くなれるアイテムは無いですか!?」
ンフィーレアが目を輝かせて、モモンガに迫り寄ってくる。
地道に魔法を学んでいるときは感じられなかった明確な成果を、モモンガに貰ったアイテムによるものと思われる効果で、僅か一ヶ月で得ることが出来た。
彼の心は年相応に高揚し、更なる飛躍へと意識が向いていた。
「い、いや。 装備の効果や補助魔法で強さの底上げをするなら兎も角、流石にアイテムを使うだけでレベルア……、強くなれる手段など無い。 あのアイテムは強くなる為の手段を教えてくれるようだが、結局は地道に……、あ、いや、待てよ……」
恐らくはまだモンクの職業レベルを一レベルしか取っていないとは言え、自分の補助があれば、レベル1以下の最も弱い部類のモンスターくらいは安全に仕留められるのではないか。
「うむ……、私の前居た場所では強くなる為には実戦経験を積むことが最も有効だと言われていたんだ。 もしかしたら君の修行の効率も上がるかも知れない」
「えっ……、モンスターですか?」
ンフィーレアの表情が曇る。
モモンガと共に旅をしたことで、モンスターとの戦いは何度も見てきたが、自分がそれに参加するとなると……。
強くなりたいという意思はあるが、その為に死んでしまっては意味がない。
「安心していい。 最初は……、戦う感覚に慣れる為に弱いモンスターの相手をして貰うさ。 危なくなれば、直ぐに助けるしな」
戦わせるモンスターを調達する当ては既にある。
この王都の地下には生活排水や汚物を大きな川へと流す為の巨大な下水網があるのだ。
王都近隣の狩場を探していた時に、下水道に多数のモンスターげ生息しているという情報を得て、一度探索してみた事があるのだが、確かにジャイアント・コックローチや
だが狭い水路の所々に積もる汚物の塊や、壁に蠢く無数の名の知れぬ虫、強烈な悪臭、足を汚水に浸しながら歩くことに耐えられず、そこを狩場にする事は断念した。
この体になってから強烈な嫌悪感などは沈静化されるし、身体的な不快さにも人間の頃よりは鈍くなっている。
だがやはり、不快なものは不快なのだ。
(だけれど仕方ないか……、王都の外にンフィーレアを連れ出すのは不安が大きいし、かと言って外からモンスターを捕獲して持ってくるのも大変だ。 近場の下水道から弱いモンスターを調達してきて、知覚の空き地でも利用して戦わせてみるか……。 しかし臭いんだよなあ、下水道は)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
袋から出されたばかりで興奮したジャイアント・ラットの首を、ンフィーレアは強烈な前蹴りでへし折る。
その勢いで壁に打ち付けられたジャイアント・ラットは甲高い声を短く上げた後に、動きを止めた。
油断なく構えを取り、モンスターが息絶えた事を確認したンフィーレアはやっと体の緊張を解く。
四方を黒黴に覆われた家の壁に囲まれた、狭い空き地。
そこにはンフィーレアとモモンガ、そして地に横たわる五体のモンスターの亡骸があった。
「今日の所はこれで終わりだ。 最近は躊躇せずにモンスターに止めをさせるようになったな」
「ええ……、しかも単純な力もかなり鍛えられている気がします。 小型の弱いモンスターと戦っているだけで修行内容は前と同じなのにどうして……」
「……技を実戦で使う事で、知らず知らずの内に強さが底上げされていた、とかそんな感じじゃないか? 今日もこれを触ってみてくれ、早く強くなる為にな」
そう言ってモモンガはンフィーレアに依頼書を渡す。
最近のンフィーレアはモモンガが不思議なマジックアイテムを持ち出す事に慣れており、得体の知れないものにも当初程の警戒はない。
現在モモンガは依頼書を人間の鍛錬を促し、短期間で強くなることができるアイテムだ、と偽ってンフィーレアに触らせていた。
勿論、実際には違うが、事実としてモンスターとの戦闘訓練を始めたこの二ヶ月程でンフィーレアは、通常では考えられない速度でレベルアップを果たしている。
既にレベル1以下のモンスターなら対複数でも相手にならず、修行僧系の職業レベルに応じて成長するアイアン・スキンの強度の変化から推測してレベル5~6には達しているだろう。
だが、この方法で使用可能にした依頼書を実際に使用するつもりは今のところ無い。
モモンガの目的は、依頼書を使用可能にした時の現在地とモンスターが出現する地域の関連性を知ること。
以前の二回は、使用可能にした場所の近くの地域がモンスターの出現場所に選ばれたが、更に遠くが選ばれる事も無いとは言い切れない。
それを調べる為にこれまで五回、ンフィーレアを言いくるめて依頼書を触らせてきたが、これまでもそして今回も出現場所は王都か、遠くてもその近辺だった。
(……この検証はもうやめておくか。 これ以上は功績点の無駄遣いのような気がするし)
ちなみに使わないと決めたとは言え、依頼書はアイテムボックスに保管してある。
アイテムを使わないからといって捨てるのも勿体無く感じる、モモンガの貧乏性の為だった。
「しかし私が言うのも何だが、最近の君は渡したアイテムをすぐ使ってくれるな……。 私たちの関係を考えるともっと警戒されてもいい様な気がするが」
「……今の僕は力が得られるなら、その手段を選んでいられる余裕はないですから。 理由は分かりませんが、モモンさんは僕に力をくれた。 その事については感謝しています」
「そんな丁寧にお礼を言われると変な感じがするな。 ………全ては自分の為だ。 君が早く強くなってくれた方が、金を貯めやすくなるだろうし、私も早く報酬を受け取れる。 うん、そういう事だ」
ンフィーレアは相変わらず魔法を学ぶ為の私塾には通っているが、空いた時間は勉強よりも修行に当てている。
魔法も体術も、ンフィーレアにとってはどちらも同じ強くなる為の手段でしかない。
ならば目に見えて、驚くべき早さで成果が出ている
それどころか最近は魔法の勉強はやめて、修行に専念しようと考えているくらいだ。
(ンフィーレアも強くなってきたが、そろそろ自分の経験値稼ぎも再開しないとな。 最近はンフィーレアの修行に付き合っていて、この二ヶ月でやっとレベル9に上がっただけだし……)
今回はいつもより遠出して、集中的にレベルを上げようか。
空き地の一角に掘った穴に死体を埋めた後、家路につきながらモモンガは遠征の計画を立て始めた。