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序論4からの続き

 

 1976年初期に行った仕事が私にとって最後となりました。私は、一般にはループス/狼瘡として知られている全身性エリテマトーデスの数ある症候のひとつである厄介な若年性リューマチ性関節炎を発症していたのです。そのため私は、13歳の時に腎不全状態に陥っていました。1956年の時点では、現在の腎不全患者が治療可能な進歩した技術が利用可能ではなかったのです。実際それは奇跡でした。私は生きながらえたのです。私は左右の腎臓のおよそ半分の機能を失いながら生きながらえたのです。

 

 私にとって有利な状況が続いて、実りのある人生を送ってこられたことは非常に幸運であったと思っています。今でさえ、訓練、食事、友人および運命の助けのおかげで、私は本当に恵まれていると感じています。しかし、私の活動は限られています。

 

 これまでのドンと私の調査は高度に超常的なタイプのヒーリングに関する知識をもたらしました。このタイプのヒーリングを私たちが心から実験することになったのも私の身体的障害の故なのです。心霊手術は正統的な外科的手術や薬物療法とは何の関係もありません。それは証明不可能ではありますが、一種の信頼によってもたらされるヒーリングのようなものなのです。これは科学者たちだけでなく、この現象に関して門外漢の人からも無視と不信という当然の反応を自動的にもたらすものなのです。

 

  長年の調査を経た上でなければ、私たちもこのような超常的なヒーリングを同じように信じることができていなかったでしょう。とは言え、心霊手術を調査するほとんどの人 のように、私たちはこの可能性を調査することによって何も失うことはありませんでした。心霊手術の患者はかつて失われることはありませんでした。なぜならば、患者たちの肉体には実際には何も起きなかったからです。それは真にサイキックなヒーリングなのです。結果として私たちは、心霊手術の可能性について検証するためにいくらかの時期をフィリピンとメキシコで過ごしました。

 

 心霊手術の施術者が目の前で見せてくれることを再現するとこのようになります。フィリピンのとある寝室で、患者は慎ましさを保つために必要な最低限の衣類以外は全ての衣類を脱いでベッドに横たわっています。しばしばそこはモーテルのバスルームから借りてきたようなシンプルなシャワーカーテンで覆われています。信心深く、ヒーラーになるために10年あるいは12年の歳月をたった一人でルソン島の火山の荒野を彷徨(さまよい)い歩き祈り続けてきたヒーラーが部屋に入ってきます。彼は聖書と思わしきもの以外は何も携(たずさ)えてはいません。しばしばそのヒーラーは一人のアシスタントを従えています。そのアシスタントは私たちの慣れ親しんでいる言語へヒーラーの発する言葉を通訳する他に、片付けを担当します。

 

 ヒーラーは通常、英語をほとんど解しません。彼あるいは彼女は、患者の身体の上で手のひらを下にして手を動かすことによって施術を開始します。私たちは、X線装置でそうするように患者の身体を調べているのだと説明を受けました。このようにして“手術”の場所が決まると、ヒーラーが右利きならば左手が手術箇所の皮膚にしっかりと押し当てられます。皮膚は切り離されたようで身体の内部が見えます。この施術はとてもリアルに見えるので、本物の外科手術を見たことがあって起こっていることを注意深く見ていない人は、身体が素手で切開されたと断言することでしょう。右手が切開された場所に挿入され、その身体の中で作業が行われます。

 

 私が参加した最も印象深いケースでは、ヒーラーが私に、私が関節炎を患っていると告げたのです。彼は彼のアシスタントの助けを受けながら私の身体をスキャンしたのです。そして彼は、腹部を切開して、手際よく、優しくしかししっかりと、関節というより組織のように見える何かを取り出したのです。それは患者である私には気持ちの良いものではありませんでした。その行為は私を戸惑わせたのです。というのは、私はそのような内部組織に関節炎を患っていたわけではなかったからです。そして彼は、三つのやや小さい長い血まみれの物体のように見える何か取り出したのです。そのうちの真ん中のものは小さくて硬いものでした。このことが終わると、彼は左手を私の身体から離しました。切開部は跡形もなく消えました。このケースでは、二人の男がかなりの量の血を拭きとりました。そして手を洗った後に、ベビーオイルを手に取ってそれを私の腹部に塗りながら黙ってマッサージをしてくれました。

 

 ヒーラーが腹部で何をしていたのかを尋ねると、通訳が私の質問を取り次いでくれ、その答えを通訳してくれました。スキャンの結果、私の右側の卵巣に三つの嚢腫(訳注:読み方は“のうしゅ”。体液が溜まったある種の腫瘍。)があると分かったそうです。私が元気だったころに両方の卵巣の誤配置あるいは垂下が起こったそうです。その卵巣の誤配置が元の位置に戻されたので、私は月経期間中に不快な症状に悩まされなくなるだろうとのことでした。嚢腫の切除は同じ目的でなされたそうです。

 

 私がまだかなり若かったころに、産婦人科医は私には三つの小さな嚢腫があると診断していましたが、私はそのことをドン・エルキンスにも他の誰にも話をしていませんでした。そのような話には誰も興味がないと思ったからです。このことを私以外は私の母だけが知っていたのですが、彼女は一万二千マイル(訳注:およそ一万九千キロメートル)離れたところにいたのです。

 

 米国に帰国した後、心霊手術を受けた患部についてかかりつけの産婦人科医の診察を受けました。産婦人科医は三つの嚢腫はもはや触知できないと証言しました。それらはなくなってしまったのです。そして、これに伴って、私の月経周期ははるかに快適なものとなりました。

 

 磁気ヒーリングとしてヒーラーによって行われたベビーオイルを使ったマッサージは素っ気なく質素でした。ヒーリングを支援するためにヒーリングの影響範囲内とその周辺には保護光が照射されていました。

 

 ドンと私は患部の除去のための肉体の切開、肉体の傷口の閉鎖、血液およびその他の物質の出現は、幽霊やUFOの物質化と同じタイプの物質化だと信じています。そのため私たちは心霊手術の標本を保存しようとはしませんでした。この調査が、現代では存在している科学的手法の厳格さを満たしていないとは思いもよりませんでした。しかし、私たちは、そのような出現現象の分析の結果を見ることによっては、私たちは何も見いだすことがなかっただろうと信じています。

 

 たとえ患者がどんなに癒やされることを望んでいても、彼は肉体を切開されることに神経質にそして不安になるのであり、肉体的にも精神的にもトラウマを負うようでした。私がこの心霊手術を経験した人と話した限りでは、ヒーラーの手が患者の上に置かれるや否や、全ての人の内面において、明らかな感情的なそして精神的な態度の変化が起こりました。心霊手術医はそれを精霊の臨在と呼びました。それはこの心霊手術現象の一部と見なされるべきでしょう。

 

 1977年の後半から1978年の前半にかけて、私たちはアンドリア・プハリッチとその同僚と一緒にメキシコシティへメキシコ人の心霊手術医の調査へ行きました。その心霊手術医はパキータと呼ばれる78歳の女性でした。彼女は心霊手術を非常に長い間実践してきていました。その心霊手術の能力は、パンチョ・ビリャ(訳注:メキシコの革命家)軍の戦場で彼女に到来したのです。フィリピンでの時と同じように、彼女の患者はアメリカ人よりは原住民の方が多くいました。彼女の手術技法における違いは、彼女の育ってきた文化の違いに依るものでした。フィリピンにおける心霊手術は、ここ三百年のうちにスペイン人の宣教師によって教えられたキリスト教の信仰に文字通り従ったものでした。キリスト教の教えはほとんど全ての田舎のフィリピン人たちの生活の中心でした。大部分の人がミサへ参列しました。それでドンと私は1975年の聖週間の間そこに滞在しました。私たちはそこで実践されている残酷なキリスト教信仰の文字通りの一つのタイプの証拠を見ることができました。聖金曜日には、例えば、マニラの通りを通って大規模なカトリックの十字架のパレードがありました。そのパレードで他の十字架のパレードと異なる点は、人間が十字架に釘付けにされていることでした。多くの人々がそのような状態にありました。この試練を達成した一人は、コメントを求められて、彼はとても高められて彼らが彼を後年でもまた選んでくれることを願ったと答えてくれました。

 

 メキシコにおいては、もしキリスト教信仰が完全な形で存在しているならば、そしてしばしばそうなのですが、それは残酷で内にこもったインディオの極めて強い信仰を覆い隠しています。それはメキシコのピラミッドの急峻な階段の上で行われたマヤ族による無垢なるものの屠殺の記憶を内包しているのです。

 

 その結果として、パキータは刃渡り5インチ(訳注:およそ13センチメートル)のとても切れ味の悪いナイフを用いました。彼女はそれを調査団全体に手渡して回覧させ、私たちの反応を、特に私の反応を見ていました。というのも私は実験材料だったからです。彼女の手術が腹ばいの私に対して始まってから、私は何が起こっているかの直接的な説明を受けることができませんでした。しかし、ドンがそのナイフが4インチ(訳注:およそ10センチメートル)ほど私の背中に刺し入れられ、素早く脊髄を横切って動かされたことを教えてくれました。これが数回繰り返されました。パキータは私の腎臓を手術しているのだと言いました。今回も私たちは無駄だと分かっていたので証拠を保存しようとはしませんでした。心霊手術に関してはその手術によってもたらされた産物に関して多くの調査の試みがなされています。そして決定的ではない結果が得られるか何の結果も得られないという事態となり、心霊手術はインチキだという訴えに終わるのです。

 

 プハリッチ博士の初期の著作の中で、ジョン・フューラーによってアリゴーというニックネームで呼ばれている南アメリカ大陸のヒーラーによる心霊手術が注意深く調査されています。この超常的な主題に関心のある方々にはこの本はちょうどよい入門書となっています。私はまだこのメキシコでの経験の可能性のある帰結についてテストするために正当な医師の協力を得ることに成功したことがありません。このことは、もし腎臓がすでに障害を受けるに十分悪化しているのであれば、腎臓にテストをするという行為は、腎臓を不全状態に陥らせる危険があるため、正当な医師はこのリスクを冒すとは考えられなかったからです。プハリッチ博士はこのような処理を私に施そうとはしませんでした。

 

 このような欲求不満があるがゆえに、サイキックな現象の周辺領域での調査は最も興味深いものであり、有益であり、調査する価値があるのです。このような調査を行う調査者は、忍耐強く、主題を証明するよりむしろ単純にデータを集めるアプローチを取り、彼が調査していることに関して一歩一歩仮説を積み上げて行くのです。ラー資料において、このタイプの物質化現象の実現が議論されており、その情報は極めて興味深いものです。

 

 米国に戻ると、私はもはやタイプライターとしては働けませんでしたが、まだ毎週の瞑想は続けることができました。また、個人的な仕事として進歩的な学生を受け持つことができるようになりました。1978年にジェームス・アレン・マカーティは、土曜日の夜に集まって瞑想を行い、ケンタッキー州のマリオン郡の風物詩になっている”光のセンター”を形成し続けている多くの人々から、また、ケンタッキー州のレキシントンでドンと私が行っていた電話対話方式の二時間のラジオ番組から、私たちのグループについて聞いたのです。彼は多くの人々と一緒にマリオン郡の瞑想グループから私たちの瞑想を体験するためにやってきたのです。二回の瞑想の後、そのグループ全体としては来るのを止めてしまいましたが、ジムは1980年の春からほとんど毎週140マイルの道のりを通ったのです。ジムは長年の間、人類を援助するいくつかの方法を探し続けていました。彼は1947年生まれで、ビジネスおよび教育課程を卒業していました。更に、意識の拡張を教えるための代替手法を学んでいました。当時彼はスラム街の子供たちとともに働いて時を過ごしていました。しかし彼は、彼が探していたより明確なアイデアを発見したいという非常に強い願望を自分が抱いていることに気が付き始めたのです。

 

 1972年に彼は、コロラド州のロッキー山脈の標高一万フィートのところにある山小屋に住んでいる不愛想な年老いた山男と”脳のセルフコントロール”と呼ばれる意識の拡張を学ぶコースを予約しました。このコースの間、彼は最初に、外宇宙の進歩した文明と通信する可能性を学びました。その手法は、ラジオや電報や電化製品といった人工物を用いずに、人間の脳の前頭葉を使うものでした。

 

 中心的な経験は岩や松やセイヨウネズばかりの人里離れた荒野でなされたので、彼はこれらの脳のセルフコントロールの経験を他の人に伝えられる離れた土地でも調査しようと決心しました。ケンタッキー州中部の、道路を横切って小川が流れる132エーカーの土地に、彼はロッククリーク調査開発研究所を創設しました。そして彼が思っていることに最も近い主題である人類の進化について研究を開始したのです。彼はこの主題に関するいくつかのワークショップを開催しました。しかしこの地域ではほとんど関心を引きませんでした。そのため彼は屋敷に戻り、作物を育てながら瞑想と研究を行う孤独な生活を六年半続けたのです。彼はまだ進歩した知的生命体との双方向の通信について明らかに興味があったので、彼はルイビルグループとの瞑想を大いに楽しみました。しかし彼はまた、以前よりオレゴン州のグループが行っている仕事にも興味を抱いていました。1980年の秋に、彼はエドガー・ケイシーが深いトランス状態でチャネリングしていたのと同じ源泉とチャネリングしていたと思われていたグループとともに働くために、ケンタッキーからオレゴンへ旅をしました。

 

 とはいえ、彼が日曜日の集まりから受け取った学びと私との更なる研究からの学びを通じて、彼は内面的な探求へ向かうよう指示されたのです。そして表面上は、それは彼の考えと調和したものでした。オレゴンでのたった二か月の経験の後に彼のマインドはしっかりと確立されたのです。彼は再びルイビルへ戻ってドンと私と一緒に働く必要性を感じました。1980年の12月23日に彼はルイビルに到着しました。ケンタッキー州中部の森からオレゴン州までの五千マイルの旅を経て、かれは再びルイビルへと戻ってきたのです。

 

 ドンと私はマッカーティの援助に対して無限に感謝しています。彼の能力は並外れています。彼は大学時代から形而上学的な資料を把握していて卒業してから今日までもたくさんの文献を読んできました。ですから彼は、私たちの研究分野に関して非常に詳しい状態でこの仕事にやってきたのです。彼はこの調査の物質的な部分を担うことができました。その部分とは、資料整理、ノートの作成、テープの書き起こし、私が障害を患ってから著しく損なわれた書簡のやりとりです。

ジムはいつも徹底しており、彼の土地を売却しました。L/Lリサーチはロッククリーク調査開発研究所と合併しましたが、私という古ぼけたタイプライターをはるかに上回る新しい戦力であるジムというタイプライターのためにこの古いパートナーの名前を残すことにしたのです。そのように落ち着いたのです。どうしてかって?まあ、いいじゃないですか。

 

 私たちは新しい本の出版について議論しました。“UFOの秘密”の出版で学んだことを新たに取り込んで白紙の部分を埋めることにしたのです。ジムは私たちの膨大な調査ファイルの裏付け調査を開始しました。彼が来てから三週間後に、ラーとのコンタクトが始まったのです。

 

 この年の間中、私はいつも意識的にチャネリングをしていました。私の自由意志を使って、私自身の言葉を用いてテレパシーを使うような感じでチャネリングをしていたのです。1980年に私の古くからの友人で瞑想グループのメンバーであるエレーヌ・フラハーティが悲劇的な夭折(ようせつ)を遂げたのです。彼女は若年性糖尿病を患っており、30歳台で亡くなったのです。

 私は彼女が肉体を去る直前まで、病院で多くの日数を彼女とともに座って過ごしていました。彼女はしばしば私に話していたのです。彼女は夫であるトムに、彼女が死んだ後も彼女が元気で生きていることを確実に気づいていて欲しいと思っていたのです。というのも、彼女はもうすぐ死ぬことを分かっていたのです。彼女はトムに話しました。古くからの瞑想グループのメンバーにも話しました。彼女の葬儀後、トムが私のところにやって来て、私がエレーヌと接触できるかどうかを尋ねてきたのです。

 私はあまりにも膨大な降霊会に参加していながら、誰かが亡くなった親しかった人と交信しようとするタイプのたくさんの依頼を受けていませんでした。ですから最初は、私はそのような“霊媒”を試みることに気が進まなかったのです。

 とはいえ、彼らは私の親友でもありましたので断ることができなかったのです。トム、ドン、そして、エレーヌとトムの息子のマイクが最初の試みのために私と一緒に集まりました。

 意識的にエレーヌとのコンタクトのために私自身を捧げてしばらくの後、私は時間の経過が分からなくなってきました。私が目覚めた時、トムが、私がエレーヌの声で話しているテープ録音を聞かせてくれました。

 これが私の最初のトランス体験でした。私には分かりませんでした。現在に至っても、それがどのように起こったのか分からないのです。トムはもし私が許すならもう一度これを行って欲しいと頼んできました。私は再び非常に深いトランス状態へと向かっていったのです。全く記憶がありませんでした。このセッションの後にエレーヌのような声が録音テープから再生されるのを聞くばかりだったのです。

ドンはもし彼が私とは別の部屋で私の姿を見ることなく私の声を聞いたのであれば、彼はその声の主がエレーヌだと確信しただろうと言いました。

 

 この作業は私を極度に消耗させたので、私はトムにこの種の霊媒をやり続けることは、本当は私の本意ではないことを告げました。トムは、彼はエレーヌとの約束を果たして満足したと言ってそのことに同意しました。

しかし数日後には、進歩した瞑想の生徒であるレオナルド・セシルと一緒に作業をしている最中に、私はかつて受けたことがないような新しいコンタクトを受けました。全てのケースでそうであるように、私はこの存在にキリストの名において挑戦しました。もしそれがキリスト意識のメッセンジャーとして来たのではないのであれば、去るように要求したのです。それは留まりました。そこで私は私自身をチャンネルとして開放しました。私は再びほぼ瞬時にトランス状態になりました。

そしてその存在、それ自身をラーと呼ぶ存在は、私との一連のコンタクトを開始したのです。このコンタクトは進行中であり、魅力的ではありましたが、私にとっては不安をもたらすものでもありました。

 

 最初にある存在の声のチャンネルとなる決心をした人物は、ある人々にとっては非常に困難な段階にすでに足を踏み入れているのです。それは自分自身ではコントロールできない言葉を話す決意をするということです。自由意志によるチャネリングにおいて、チャネリングを中止するという選択も可能です。しかし、チャネラーは次にどのような概念がやって来るのかを事前に知ることができないので、このような選択は全くもってナンセンスになり得るのです。私は急いで、このようなナンセンスが私の経験上に生じなかったことをつけ加えておきます。チャネリングはいつも適切な良識の下でなされました。そして、多くのケースにおいて、極めて霊感に満ちたものでした。チャネリングで得られた言葉を一定の注意をもって評価するように教えられているグループでさえ、それが自分の考えをただ単に口外してしまうだけの無責任な振る舞いになりがちなのです。

 

 このコンタクトが生じて、トランス状態になった時、私の中にパニック状態に近い胸騒ぎが起きるのです。私はどのような手順でトランス状態になるのか分かりません。私はいつもこのセッションで何も起こらないのではないかという恐れを抱くのです。意識を保った状態であり続けたらどうしよう、コンタクトを受けなかったらどうしよう、何も起きなかったらどうしようといった不安がよぎるのです。私も、私たちのグループの他の人々もどのように私を確かなトランス状態へと導く手助けをなすべきか考えが及ばないので、何もなされることなく、事態は淡々と進行するのです。ドンは、私のトランス状態は彼が観察してきた他の例と同じようだと言いました。

 

 私は大学時代に文学を学び、長年にわたって司書を務めましたが、資料を読むといつも私は一つや二つの新しい言葉を覚え、私の学識が嘆かわしいほどに欠けている科学分野における私の知性が確実に広がりました。

 

 何よりも私に関係していることといえば、この資料を読んだ方々は私というこの人間がある種の智慧を有しておりそれは確実にラーに由来しており私に由来するものではないとみなすだろうということです。もし、あなたがこの作品に魅力を感じるのであれば、私はあなたにどうぞそこで語られている言葉とその言葉が発せられる”霊媒”とをはっきり区別して欲しいと申し上げたいのです。例えば、あなたは水の質がそれが流れてくる水道管に影響を受けないと思うことでしょう。確かにこの調査グループに関わる私たち全員は、日々の瞑想と生活を通じて、このセッションでベストを尽くそうと準備をしています。 それにも関わらず、私たちのグループからもたらされるものは私たち独自のものであり、智慧を反映したものだと言いきれないものではあります。このメンバーのいずれかのいわゆるスピリチュアルな進歩に由来するものだと言いきれないものでもあります。私たちに人気のある哲学はこのようなものなのです。「私たちはみなこのバスに乗りこんだ野暮な人間だ。」

 

 もし、あなたがこの作品を読んで疑問に思うところがあれば、お気軽にロッククリークグループにお手紙をお送りください。通信員のジムが必ず返信いたします。彼はこのセッション全てに関してシェアするだけの彼独自の経験を有しているからです。彼がこの前書きを締めくくります。

 

ジム・マッカーティ

 私たちはどのようにラーとのコンタクトが起こったのかを知り始めているばかりの初心者です。セッションを経るたびに、試行錯誤のプロセスを行っている最中なのです。私たちは精神的、肉体的、スピリチュアルな意味で私たちの霊媒であるカーラをどのようにサポートするかについてより多く学んで参りました。私たちはラーとのコンタクトについてとても興奮していました。それが最初に始まった時には、私たちは一日に二回のセッションを行っていました。しかし、私たちはその時、このやり方はカーラには消耗が大き過ぎることを学んだのです。私たちは、現在は平均して一週間から10日間に1回の割合でセッションを行っています。セッションを重ねるにつれ、各セッションに要求される最大限の注意を払っ、て各々のセッションのために準備することが可能となったのです。

 

 ドンが各々のセッションの間に尋ねた質問には膨大な量の思考がつぎ込まれました。私たち各々が質問へのアイデアを持ち寄りました。しかし、一連の質問の大部分はドンによってなされました。というのは、彼はパズルを解く時に求められる知的基礎を発達させるために必要な、UFOコンタクティーに起こった現象の調査に関する数年分の経験を有していたからです。彼はまた、直感的センスにも優れていました。この直感は、ラーの予期できない深遠な開示をもたらす回答に対し、置いていかれずについていくのに非常に重要なものです。そのラーの回答はしばしば、瞬時に新しい洞察へ至るような刺激を作り出し、更なる質問を生み出していくのです。

 

 定期的なセッションの前夜に一つのセッションを行うという意思決定がなされました。私たちはこのセッションの朝に起床して軽い朝食を摂り、このセッションが完全に成功するように私たちの助けとなる一連のステップを踏み始めました。私は各々のセッションの前にカーラの筋肉と関節をほぐすため、カーラに半時間の背中のマッサージを施すことにしています。なぜなら、彼女は一時間から一時間四十五分の間、全く動くことができないからです。その後私たちは調和をもたらすための瞑想を行います。この瞑想で私たちは日常の生命力を強め、私たちの願望はラーとのコンタクトに見(まみ)えるための一つの願望へと統合されるのです。私たちはその後、プロテクションの儀式を行い、コンタクトがなされる部屋を浄化します。そしてカーラをベッドに横たえます。彼女の体を白い毛布で覆い、彼女の目を白い布で覆い、三つのテープレコーダーのマイクロフォンを彼女の顎のすぐ下に掛けます。これは一つや二つのテープレコーダーの調子が悪くてもセッションが失敗しないようにするためです。

 

 この時、カーラの体で見えるところといえば、両肩に流れ落ちる彼女の髪と周囲を取り囲む布の海の中に飛び出た彼女の鼻だけです。彼女が心の中で聖フランシスコの平和の祈りを唱えている間、ドンはラーが勧めるように、テーブルの上に聖書、ろうそく、お香と聖杯の水を彼女の頭のところに一直線上に整えます。ドンがろうそくとお香に火をつけた後、彼と私はカーラの周りを、円を描くように回り、コンタクトを始めるための言葉を繰り返します。

 

 この儀式のある時点で、カーラは彼女の物質的身体を離れ、ラーがドンの質問に答えるための言葉を発するためにその身体を用います。このセッションの間、私は瞑想し、カーラに光を送ります。テープの片面が終わった時、テープをひっくり返す時にのみ中断時間を取ります。セッションが終わった時、ドンはカーラが自分の物質的身体に戻って来るまでしばらく待ちます。彼女が返事を返すまで数回彼女の名前を呼びます。彼女が起き上がるのを助けます。彼女の首を少しさすります。そして、ドンと私が、私たちが出来得る限りの愛の波動で満たした聖杯一杯の水をカーラに飲ませるために与えます。

 

 このセッションの間に何が起こったのかをカーラは知らないので、彼女はいつもどうなったかを非常に強く知りたがります。彼女は、私がテープからセッション内容の文字おこしを完成させるまで、断片的な又聞きの情報で我慢しなければなりません。テープおこしは非常に簡単でした。なぜなら、ラーは正確な発音で音節を明確にしながらゆっくりと話すからです。

 

 ラーとの会話への参加は、私たちにとって最も霊感を受ける経験です。なぜなら、ラーの受け答えは雄弁さと簡潔さを併せ持っているという特徴があるからです。ラー資料に含まれる情報は、創造のミステリーに関する知識を増やしてくれるという点で、また、それを通じて私たちを進化させてくれるという点で、私たちにとって最も有用です。私たちはこれがあなたにも有用であることを願っています。

 

序論終わり