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序論1からの続き

 

 UFOと念力による金属曲げの深い関係を示す一例が、私たちの“UFOの秘密”という本が出版された後の1977年の7月に起こりました。私たちは地方の番組でインタビューを受けました。それで、近くに住んでいた一人の女性がその放送を聞いて私たちが発言していることにとても興味を持ったのです。というのは、彼女のごく普通の14歳になる息子がUFOに遭遇していたのです。彼は口笛を吹くような音で目を覚まして、ドアに向かい、非常に強い光を見たのです。それは彼を一時的に盲目にしました。よくあることですが、その晩は近所の人々も空に光を見ていたのです。その女性は私たちに手紙を書きました。それでドンは、すぐに電話して彼女に彼女の息子と話をする了解を求めたのです。ドンがその少年に満足のいく質問をした後に、ドンは彼に銀食器の一つを取って、それに力を入れて触れるようなことをせずにそれを曲げるように頼んだのです。14歳の少年はフォークを取り上げて、ドンが提案したようにしたのです。すると、フォークはたちまち二つ折りになってしまったのです。

 

 その少年は、それはびっくりしてもう電話口に戻って来ようとはしませんでした。それで、彼女の母はその実験をもうこれ以上実行しなくてもよいことを納得させることができないほどびっくりしたのです。彼女は十分に予見していたのです。このような誰とも顔を合わすような小さな町では、金属曲げができるという事実は彼に損害をもたらすだろうと。というのは、このような小さな町の住人が見せる反応というのは決まりきっていたからです。(訳者補足:このような田舎町では、超能力の持ち主は白い目で見られてのけ者にされるのが関の山である)

 

 それでも、UFOと金属曲げの関連性は極めて明白なのです。ロンドンのキングスカレッジの数学科の教授であるジョン・テイラーは、スーパーマインドという本を出しました。この本は世界中に彼の金属曲げに関する注意深い研究成果を利用可能にしたのです。テイラーは実験に子供のみを用いました。そのうちのおよそ15人に対して、彼の実験の大部分において、彼はガラス吹き工によってガラス容器に封印された金属とプラスチックの物体を用いたのです。子供達はガラスを壊さなければその物体に触れることはできなかったのです。

 

 このような制限された条件においても、子供達はなお、たくさんの物体を曲げたり壊したりできたのです。あなたがラー資料を読めば、あなたはなぜほとんどの子供がこのようなことができるのかを発見することでしょう。そして、この能力がUFOのメッセージの副産物であることも発見することでしょう。

 

 私は科学者ではないので、この時点で語りをドンに戻したいと思います。かれの経歴の方がこれからの討議ではよりふさわしいでしょう。

 

ドン:

 超能力のデモンストレーションに関する根強い疑問というのは、どのようにそのような超常的な現象が起こるのかということである。その答えはオカルト理論の分野に横たわっているかもしれない。その分野では、いろいろな”界/プレーン”の存在を想定している。

 

 ある個人が死亡した後、彼はオカルト哲学において語られているようなこれらの界が存在しており、そのうちの一つに自分がいることを見いだすことになる。どの界に存在し得るかは、彼の臨終時におけるスピリチュアルな本性か個人の発達程度に左右される。このこの生命の歴史を表す決まり文句は天上的に”鳥の羽はお互いに群れる”という言葉である。幽霊が我々の現実世界に物質化してその姿を現す時、彼がこの地上に来訪するのはこのような界の一つからなのである。一般的に言って、惑星はある種のスピリチュアルな蒸留器として理論付けられる。ある個性が、彼がより高次の存在界に至ることができるほどに霊的感性を十分に発達させるまで、最早この惑星で進化のレッスンを受ける必要がなくなるまで、物質世界での転生は起こり続けるのである。

 

 この理論のほとんどは、これらの分離した現実世界の住人との接触と対話に関する報告の結果として発展してきたものである。私は、お互いにほとんど気づいてはいないが、これらの界が我々の物質界と相互に交錯しており、共存していると信じるようになった。私がかつて採用していた単純な喩えは、二つの異なったテレビ番組の俳優と見なすことである。両者は同じテレビ受像器で受信可能である。しかし、お互いは他とは別なのである。このことは、我々が自分たちの日常生活で経験していることのようである。一つのチャンネルあるいは存在の密度は、全くもって、我々の物質界の周波数とは異なった周波数を占有している他の界の無数の存在に全く気づいていないのである。全ての指摘から導き出される点は、我々の現実性は、究極でも単独でもなく、実のところ、現実というものは現在にのみ存在しているということである。

 

 

    多くのUFOに関する報告は、目撃された対象物が、物質化する幽霊のように、これらの他の現実世界か密度にその起源を持つという豊富な証拠を提示する。私が強調したいのは、このことは、どのようにしてもそれが現実ではないことを意味してはいないということである。むしろ、我々の現実世界からUFOの現実世界を置き換えるものなのである。私が話していることは、同じテレビ受像器において、テレビのチャンネル4がチャンネル3と等価でありながら置換し得ると言っているのと同じことである。

 

 もしあなたがえんどう豆を原子核の大きさとした時の原子のスケールモデルを作って欲しいと言われたならば、最も内側の電子軌道を収めるにはアメリカンフットボールスタジアムほどの面積が必要となるだろう。もしえんどう豆が50ヤードラインの中央に置かれたならば、スタンド最上部の座席に置かれた小さな綿の実を原子中の最も内側の軌道を周回する電子になぞらえることができる。物質内部には本当に物質として存在している部分は極めて少ないのである。あなたが夜空に星を見る時、あなたは、もしあなたが原子核という”物質”の上に立つことができたならば周囲に見えるであろうものと同じようなものを見ているのである。あなたに電子というものを説明するために、物理学者は恐らく、あなたに感光版の上に曲線を描く光の軌跡を見せることだろう。彼はあなたにそれが間接的な証拠に過ぎないことは恐らく話さないだろう。電子そのものは決して見ることができないのである。高密度の媒体上に現れる効果のみが記録され得るのである。もちろん、我々が電子と呼ぶものについて、正確な数学的計算をすることは可能である。そのような研究成果として、我々は磁場、電荷および運動に関するいくつかのデータについて知っているに違いない。しかし、磁場は電荷の運動の結果として現れるものであるゆえ、それは必然的に仮に観察された現象に過ぎないのである。それゆえ我々は、完全な数学的カムフラージュが、我々が本当に知っていることは荷電粒子が相互作用を及ぼし合っているということだけであるという事実をうやむやにしていることに気づくのだ。我々はいまだに荷電粒子がいかなるものかを知らない。そして、なぜそれらが遠隔作用をなすのかを知らない。

(訳者補足:中学時代に理科の授業で習ったフレミングの左手の法則を思い出していただきたい。電流と磁力線を直行させ、電流をY軸の正の方向に定位し、磁力線をX軸の正の方向に定位させるとXY平面に垂直をなすZ軸上に手前側へと向かう力(運動)が出現するというやつである。この法則をアントワインが「13のレイと界(プレーン)」という投稿(私の過去記事に翻訳がある)で言及しているメンタル界の全一的感覚でもって直感的に捉えるならば、電流(電荷)も磁力線(磁場)も力(運動)も我々には把握しがたい統一場/一なるもの(アントワインやコブラが言ういわゆるソース)から現れ出でる一なるものの三つの側面であることが理解できる。それらは元はといえば一なるものであり互いに互いを包含しているゆえ、当然の帰結として相互作用を及ぼし合うものなのである。)

 

 一流の科学者は何かに対する科学的説明に絶対的なものなどないことに即座に同意するであろう。科学とは、予測の手法もしくは道具であり、関連付けることであり、それぞれのより詳細な観察なのである。物理学においては、このことが通常、数学という言語を用いてなされる。我々の科学的あ学習は、観察と観察の分析によりなされるのである。根本的要素を見抜くという意味において、我々は本当は何も理解してはいないのである。

(訳者補足:本来科学者というものは現在通用している科学法則が仮説に過ぎないものであり、いつかは改定され得るものであることを知っている。そしてそのマインドは常に未知なるものに向かって開かれている。全てをプラズマで説明しようとし、超常現象の存在を頑なに否定する大槻教授を科学者と思ってはならない。彼は単なる”似非科学という宗教の信者”に過ぎない。もしあなたがコブラの言説に固執してコーリーその他のライトワーカーの言説を一顧だにしないならば、あるいはその逆でコーリーの言説のみを信じて他のライトワーカーの言説を頭から信じないのであれば、あなたも”信者”であって”科学者”ではない。コブラもコーリーも”科学者”たれと、”信者”にはなるなと言っているはずである。また、コブラやコーリーの言説の一部に矛盾があるからと言って、彼らの言説の全てを棄却するのも同罪である。そのような人はやはり”信者”であって”科学者”ではない。)

 

 磁場とは、電場との相対的運動を表現した数学的手法以外の何物でもない。電場とは、クーロン則と呼ばれる全くもって仮説的な観察を複雑な数学的な変換の産物なのである。言葉を変えるならば、我々の科学的知識と説明の森は、我々がその効果とその存在以外は何も理解していない木々から成っているのである。

(訳者補足:クーロン則はこの公式に集約される。F=kqq'/r2(F:荷電粒子の間に働く力すなわちクーロン力、k:比例係数、q:荷電粒子Qの電荷、q':荷電粒子Q'の電荷、r2:荷電粒子QQ'間の距離rの二乗(二乗とはこの場合、r×rのことである))。多くの方はこの式の驚くべき意味に気づいていないだろう。クーロン則は電場(これが一なるものの一つの現れであることには先ほど言及した。)における法則を表したものである。ここで、rを無限大にしてみよう。この式に無限大のrを代入しても決してFがゼロになることはない。つまり、我々が今呼吸している空気中の酸素のある一分子中の電子と、数千兆光年離れたとある惑星中のとある物質中の電子との間のクーロン力はゼロではない。すなわちこれらの電子同士はクーロン力で繋がっているのである。相互作用を及ぼし合っているのである。そして、この式には時間tというパラメーターを含まない。すなわち、クーロン力は時間に依存しない。このことはどんなに離れていようとも二つの荷電粒子間のクーロン力は瞬時に働くことを意味する。このことからクーロン則は時空を超越していることが分かるであろう。クーロン則の世界である電場は時空を超越しているということはその始原である一なるものも時空を超越しているということである。しかし、我々人類は時空という概念に囚われているのである。)

 

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 現代科学の内部で起こっていることを知らない人は、現代人は環境を上手にコントロールし、完全に理解していると思っていることだろう。それは真実とは程遠いのである。現代理論の最先端を研究している科学界のリーダーは、絶え間なく議論し合っているのである。ある理論が物理的法則を正当に説明しているという承認を獲得し始めるとすぐに、誰かが矛盾を発見するのである。そして、その理論は改変されるか完全に捨て去られることになる。恐らくは、このことの最もよく知られた例は、ニュートンの”F=ma”(訳注:F:力、m:質量、a:加速度)である。これは誤りが発見されるまでは物理則のステータスを獲得していた。この等式が極めて有用であることを証明していないということではない。我々はそれを月ロケットからテレビのディスプレイに至るすべてのものを設計するために用いてきたのである。しかし、それをサイクロトロンのような原子加速器に適用する時、その正確性は失われるのである。粒子軌道の正確な予測を行うには、アインシュタインによって公式化された相対性理論による修正がなされる必要があるのである。この修正が、光の速さはまさしく、光の発生源の速さと独立していることを示すことは興味深い。

 

 もしニュートンが動きの法則について更に深く追求していたならば、彼は自分自身でこの相対性理論による修正を行っていたことだろう。そして、速度の修正が常に最終的結論にはなり得ねいことに言及していたことだろう。というのも、光の速度は人類が到達可能な速さより遥かに高速だからである。このことはニュートンの生きていた時代ではまさしく真実であった。しかし、現代においては断じてそうではない。我々はいまだに光の速度を途方もなく達成不可能な速さとして考えがちである。しかし、宇宙飛行時代の到来とともに、速度の新秩序へと至るのである。我々は自分たちの思考の枠組みを慣れ親しんだ地上的速度論から変更しなければならない。光速の概念を一秒当たり何マイル(訳注:1マイルはおよそ1.6キロメートル)進むかという見地に換えて一秒当たり何個の地球直径を進むかという見地で捉え直さなければならない。ほとんど想像すらできない一秒当たり186,000マイルは、イメージ可能な一秒当たり23地球直径に変換されるのである。あるいは、我々は光速を我々の太陽系直径の見地から考え得る。そして、光は一日当たり2太陽系直径進むと言うことになる。

(訳者補足:ニュートン力学は上記の式F=maに集約される。一方、アインシュタインの相対性理論はこの式に集約される。E=mC2(E:エネルギー、m:光子の質量、C2:光速の二乗)。Fは物質界におけるエネルギーの現れである。そして、aは、物質界すなわちニュートン古典力学の世界においては物質の速度は微細時間の経過において無限段階に変化し得ることを示している。物質に微小な力が加えられるならば物質の速度は無限段階に変化し得ることを示している。一方、相対性理論の世界では、すなわち、光子の世界では、光子の速度は加速度aで表現し得ない。すなわち、光子にいくらエネルギーを加えたところで光速は変化しないことをこの式は表している。ドンが前段で電子軌道の話をしていたことを思い出していただきたい。太陽系の世界はニュートン力学の世界である。太陽を周回する惑星は無限段階の速度を取り得る。それゆえ、もし、惑星に何等かの外力が加えられるならば、惑星に加速度が生じ、惑星の軌道は無限段階に変化し得るのである。一方、電子は量子であり、量子力学で通用している理論に基づき、運動が規定される。電子は量子であり、粒子であるとともに波動(エネルギー)でもある。波動であるゆえに電子軌道の円周は単位波動の整数倍でなければならない。この理由ゆえに電子軌道には最も内側のK殻から始まって、L殻、M殻と断続的な軌道しか取り得ないのである。無限段階の軌道は取り得ない。電子にエネルギーを加え続けると、ある段階で電子は突然K殻からL殻へと瞬時に移動する。電子の運動速度が突然シフトするのである。これが、コブラが常々言っている量子跳躍である。アセンションである。そして、光子もまた量子である。粒子であるとともに波動である。ここまで言えばあなたは我々が唯一認識している光速C1を超える光速C2、光速C3が存在し得ることに気づくだろう。光速C1は光速C2、光速C3へと量子跳躍できる可能性を秘めている。)

 

 アインシュタインの全ては相対的であるという主張はまさしく適切であり、我々の文化の決まり文句となっている。我々の銀河の大きさの見地から自然現象のスケールを考えることで相対的であろうではないか。もしあなたが晴れた夜に空を見上げるならば、視認できるほとんど全ての星は我々の銀河に属する星に限られるのである。これらの星それぞれが我々の太陽に相当するのである。我々の銀河にある太陽の数と惑星地球上の人々の数との比率を計算するならば、我々は今日の地球において生きている人間一人当たり60個もの太陽があることを発見することになる。地球からこれらの星の最も地球から近いものへ到達するには光速で4年以上かかるのである。銀河系内の最も遠い星に至っては100,000光年かかるのである。

 

 これらの計算は、光は速さを持つとの仮定を採用することによりなされている。新しい理論に直面した時、これは誤った仮定であると判明することになるかもしれない。しかし、見かけ上の速さは有用な測定道具であり、我々はそれを何はともあれ使うことであろう。

 

 かくして我々は、我々が一秒にして地球直径を23回横切るほどの超高速移動が可能となっても我が家の裏庭を横切るために十万年を要するという事実に思い至るのである。広い裏庭ではある。最も野心的な天の建築家にとってさえ広く見えることだろう。しかし、二千億個以上の星よりなるこの銀河全体をもってしても広大な海岸のたった一粒の砂粒に過ぎないというのがまぎれもない真実なのである。数兆個をはるかに上回る銀河、数十億もの星からなる我々の銀河と同様の無数の銀河が無限とも思える宇宙空間に散在しているのである。

 

 我々の思案のぞっとするような無駄な消耗を思う時、宇宙に関する我々の幼稚極まりない知識水準を思う時、あなたはこれらの広大な宇宙を調査する我々の現在の科学的アプローチが丸太をくり抜いたカヌーのごとく原始的であるという否定しがたい可能性に思い至らざるを得ないだろう。

 

 科学における最も困惑させる問題は常に、いわゆる遠隔作用に関する満足のいく説明を発見することにあった。言葉を変えれば、もし、あなたが何かを落とした時、それが下方に落下することを皆知っている。しかし、なぜそうなるのかは誰も知らない。多くの人々は、荷電粒子が真空状態で隔離されていてもお互いに押し引きすることを知っている。しかし、やはりなぜそうなるのか誰も知らないのである。これらの現象は全く異なってはいるが、それぞれの相互作用力を記述する等式は類似している。

 

万有引力に関する等式: F=Gmm’/r2(F:万有引力、G:重力定数、m:物質Mの質量、m':物質M'の質量、r2:物質MとM'の間の距離rの二乗)

 

静電力に関する等式: F=Kqq’/r2(F:静電力、K:クーロン定数、q:荷電粒子Qの電荷、q':荷電粒子Q'の電荷、r2:荷電粒子QとQ'の間の距離rの二乗)

 

 我が惑星と我が太陽との間の引力は万有引力の等式により記載される。電子軌道上の電子と原子核との間の引力は静電力の等式により記載される。これらの等式のそれぞれは実験的に求められる。これらは見かけ上関係性があるということではない。これらは、引力というものは引力が働く対象物間の距離の二乗という本質に帰着するということを記述しているのである。

 

 遠隔作用の数学的表現は場と呼ばれる。重力場、電場といった場である。アルバート・アインシュタインの最優先の希望は、電気現象と重力現象の本質に潜む効果を統一的に説明するただ一つの関係性を発見することであった。実のところ、物理学全体を統一する理論を、統一場理論の発見を望んでいたのである。アインシュタインは、このことは総合的な秩序を創造することであると信じていた。そして、全ての物理現象はただ一つの源泉から発達してきたものであると信じていたのである。

 

 この統一場理論は、物質を純粋な場として記述しており、現代において完成を見た。その理論においては、全状態の記述は重々しい複雑な中国のパズルを解くことになぞらえられるもののようである。もしあなたが多くの間違った鍵の中に正しい鍵を見出すならば、そのパズルは簡単にばらばらになるのである。デューイー・ラーソンはこの問題への解法を見いだした。このパズルが解けただけではなく、実用的な成果に富んだエレガントで適切な統一場理論を見いだしたのである。そして、その解法は良く出来た中国のパズルのように複雑ではなかったが予期せざるものであった。五次元を仮定する替わりに、ラーソンは六次元を仮定した。そしてそれらを、空間に関する三種類の次元と時間に関する三種類の次元に適切に分類した。彼は我々が観察している空間の三種類の次元に相似をなす時間と等価の三種類の次元を仮定した。

 

 このアプローチの結果我々は、ラーソンの理論における基礎的な仮定から、亜原子から恒星に至るまでの物理的宇宙のいかなる物理量も計算できるようになった。この長く探し求められてきた統一場理論は異色である。なぜなら、我々は時間を一次元のものとして、すなわち、一方向への流れとして考えることに慣れていたからである。こつさえ掴んでしまえば、座標時間は数学的により快適な概念であり扱いやすい。ウィスコンシン大学物理学科教授のフランク・マイヤーは、ラーソンのアプローチを用いた物理理論における込み入った疑問について探求する年四回発行のニューズレターを現在配信中である。私はラーソンの理論をテストすることに興味を持っており、彼の仮定を用いて広範囲にわたる計算を行っている。私は彼の理論が実際に扱いやすい統一場理論であると確信するに至った。

 

 私はラーソンの業績を見いだす前の60年代初期に申し立てられたUFO情報によるコンタクティーを通じて伝達された興味深いいくつかの供述について思索を巡らせているところである。やり取りを通じて供述を得た人々は現代物理学の問題を全く知らないが、彼らは現代物理学の全くもって中心をなす情報を実際のところ得ているのである。最初に彼らが示唆するのは、我々の科学が十分に次元を認識していないということ、第二に、光は光動かないから光であるということである。ラーソンの理論は、四次元を想定している通例に代わって六次元の存在を仮定するとともに、純粋な場を見いだしている。アインシュタインは、その場から統一速度によって空間のあらゆる地点から外部に向かって物質が現れると、あるいは、光の速度が現れると信じていた。光子は時空すなわち場の繊維における波動的置換のゆえに現れる。さらに、コンタクティーは、意識は波動を創り出し、この波動こそ光であると言っていた。ラーソンの理論における時空の波動的置換は最初の物理学的実現、すなわち、光子あるいは光である。UFOコンタクティーによると、UFOは我々の空に突入するために、その波動を低下させるという。ラーソンによって仮定された物理的宇宙全体は、振動数と時空の純粋場の量子化された回転に左右される。

 

 コンタクティーは、時間は我々が考えているようなものではないと示唆していた。ラーソンは同じことを示唆している。UFOは我々が空間を移動するように時間を移動すると言われていた。このことはラーソンの宇宙の時空では全く普通のことである。

 

 最後に、そして恐らくは最も重要なことに、コンタクティーは、創造はシンプルであり、全ては一つなのであると言うメッセージを受け取っていた。ラーソンの理論はこの統一性の数学的な陳述なのである。

 

 ラーソンの物理学に関するより多くの情報を得たい場合には、国際統一科学学会/The International Society of Unified Science、ラーソン理論を広く普及している科学者と哲学者のグループであり、会長はフランク・H・マイヤー/Frank H. Meyer、住所は110315th Ave. S.E. Minneapolis, MN 55414にコンタクト願いたい。

 

 物理学者が以前は決して研究する価値がないと思っていたことが今や非常に速いスピードで脚光を浴びつつある。遠隔操作がある種の精神活動の結果であることが繰り返し観察されてきている。ユリ・ゲラーがテレビ番組で、念力で金属を曲げたり壊れた時計を直したりする時、しばしば多くの子供たちがユリの”トリック”を再現しようとする。そして幾人もの子供たちがそれに成功するのである。ただそう念じるだけで金属や他の物質を曲げたり壊したりできる子供たちの数が日に日に増えている。先に言及したとおり、キングズカレッジの数学科の教授であるジョン・テイラーは、彼の優れた書籍である「スーパーマインド」の中で、このような才能を持った子供たちに対して英国で行った広範囲にわたるテストについてレポートしている。もしゲラーの子供たちがその数と能力において増加し続けるならば、1980年代には”私の好きな火星人”、”私は魔神になりたい”、“魔法にかけられて”などの奇想天外なテレビ番組が現実のものとなるであろう。

 

 テイラーや米国のスタンフォード研究所で運営されたこれらのようなコントロールされた再現可能な実験に伴い、我々は研究に利用可能な良質な信頼できるデータを入手し始めている。少しずつではあるが我々は、年代を通じて魔術と呼ばれていた“魔術”の科学を創設し始める段階から、主に子供たちによって実施され、日に日にその数を増している”魔術”の科学を創設し始める段階へと移行しつつある。将来的には、我々はこの”魔術”が大学の科学のカリキュラムとして加えられるのを見ることさえあるかもしれない。実際のところ、現在の化学や物理学などは、我々にしてみれば本来は未だに”魔術”なのである。というのは、我々は未だに現象の原因に関する究極的な説明を一つだに保有していないという有様(ありさま)なのである。

 

カーラ:研究体系の最も中心をなすコンセプトの一つは、UFOとのコンタクトによってもたらされたコンタクティーのメッセージに対する調査から明らかになってきたものです。そしてそのコンセプトは私たちの個人的意識が不死であるというものです。聖書の時代を遙かに遡る長きにわたる不死の魂を前提とした神秘学の伝統があります。聖パウロは彼の使徒書簡において、人間の肉体と霊体を区別していました。聖パウロの時代の遙か以前に、エジプトの祭司はカーという概念を護持していました。そしてこのカーの存在を霊的な個性の存在を仮定していたのです。それは死後も存在し続けるのです。そしてそれは、人が人生を生きるにあたっての意識の本質の真の在処(ありか)なのです。エジプト人は当然のことながら、死後の生命のために非常に手の込んだ準備をしました。

 

 死後の生命は可能性としては考えられます。また、誕生の前の生命も仮定することができます。一人かそれ以上の子供を持ついかなる母親も、子供が環境や遺伝では説明できない個性を既に備えて生まれてきたと、転生してきたと証言することでしょう。これらの要素を考慮に入れた後においても、依然としてそれだけでは説明できないユニークな個性を持って子供は生まれてきたと想定されています。おのおのの子供は、両親が保有する恐怖では説明できないある種の恐怖を保有しています。ある子供は雷鳴が轟くとたちどころに恐れを抱きます。家族の残りの者はそのような嵐の中でもいたって平気かもしれません。別の子供は、両親あるいは遡れる限りのいかなる親戚も音楽的才能があることを思い出せないという状況にも関わらず楽器を弾きこなす異常なほどの才能に恵まれているかもしれません。

 

 このことは私たちを真剣な転生に関する考察へと再び向かわせることとなりました。申し立てられたUFOとのコンタクトに関するメッセージに従って、転生は理解されるべき最も重要な概念の一つでした。というのも、それを通じて宇宙は人類の進化を発達させるために機能するのです。この進化は物理学的にだけではなく形而上学的にも、肉体的にだけではなく霊的にも認められます。また、転生は、数々の変化に富んだ経験を通じて個我にその進化を継続させる機会を与える哲学的システムと見なされるのです。

 

 恐らくは世界人口の三分の二の人々が転生を想定した信仰体系を奉じているか慣れ親しんでいますが、私たちのようなユダヤ-キリスト教文化圏に属する人々はこの概念に必ずしも親密ではありません。それにも関わらず、ドンの初期の調査は、転生が実際に存在する可能性を示唆しました。そしてこの転生には、前回の転生において学んだ知識の光がもたらす、私たちの理解の及ばない状況、関係そして教訓を包含していることが示されました。

 

 この関係性を示す簡潔な例の一つをお示ししますが、それはある人々がカルマ呼ぶことを好むものなのですが、その一例としてある少年(この少年は匿名を希望しています)が今生において全ての生命に対して強いアレルギー症状を呈していたのです。彼は草を刈ることができませんでした。花の匂いを嗅ぐことができませんでした。花盛りの時期には屋外で時を過ごすことができませんでした。退行催眠の下で、彼は英国における長い人生を詳細に経験していました。彼は孤独な男でした。彼はいかなる人間との接触も避けるような性格だったのです。彼はとても広大な不動産を相続しました。そして、そこで彼の人生を過ごしていたのです。彼の一つの楽しみは、彼が手入れをしていたとても広大な庭園でした。彼は庭師を雇い、その庭園にあらゆる種類の花々、果樹そして野菜を植えていました。

 

 彼の人生が討議された後、その少年はまだトランス状態いあったので、催眠術師のロウレンス・アリソンは彼がしばしばそうしていたように、漠然とその少年のハイアーセルフではないかと考えられていた存在にコンタクトするために、その少年に依頼しました。彼はその少年に次のことを彼のハイアーセルフに尋ねさせたのです。まず人々に訓戒を与えてそのことによって人々に学ばせるのかと。そのハイアーセルフは、実際にその訓戒は学ばれたと答えました。その催眠術師は、今度は少年に、彼のハイアーセルフに対して、訓戒がすでに学ばれ、アレルギーはもはや必要ではないので、このアレルギーは治るものなのかと尋ねさせました。そのハイアーセルフは同意しました。そしてその催眠術師は、注意深くその少年を催眠状態から目覚めさせ、モクレンがその上に置かれている彼のピアノへと歩いて向かわせたのです。そのモクレンは花開こうとしていたので、ピアノの光沢のある表面にはその花粉が落ちていました。そして、その催眠術師は彼の手にその花粉を掻き取り、その少年のところに持って行きました。そして故意にその花粉をその少年の鼻に直接吹きかけたのでした。「何て言うことをしてくれたのですか!」その少年は抗議の声を上げました。「あなたは僕がアレルギーだって知っているでしょう?」「本当に?」その催眠術師は尋ねました。「私はあなたが鼻をぐずぐずいわせている音を聞きませんが。」その少年はアレルギーが治った状態を維持し続けたのでした。

 

 私たちが私たちと宇宙との関係を考えようとする時、私たちはほとんどの哲学が夢見て

いるよりずっと多くのことが天界と地上において分け与えられていることを見いだし始めます。宇宙は信じがたいほど巨大なのです。もし私たちがその宇宙と本当の関係を結ぶならば、私たちは私たち自身でなければならないのです。日常生活において出会うであろうものそのものであり、それ以上のものである私たち自身に。ラー資料において、私たちと宇宙との本当の関係について、たくさんの情報が議論されています。しかし、次のことを理解しておくことは良いことです。私たちは長期間にわたる伝統的な研究を所有しています。それは魔物と単純に呼ばれているものに関する研究です。

 

 魔術という言葉はもちろん、多くの場合誤って用いられています。そしてほとんどの場合、手品か幻術であると理解されてきました。ある人が魔術師を見る時、その人は自分が非常に熟達した業で演じられた手品を見ていると捉えるのです。

 

 とはいえ、いわゆる魔物に関する研究は存在しています。その研究は、私たちが認識している日常生活を通じて働いている恐れというものが存在していることを提唱します。その恐れを利用することにより、私たち自身を日々の生活から離れさせ、私たちの現実が霊体であると見なす枠組へと連れて行くのです。その霊的個我は転生から転生へと存在し続け、実際、”世界が存在する前から”存在しているのです。この魔物について研究することによって、経験を我が物にすることによって、生じていること全てに責任を負うことによって、起こっていること全てに対する私たちの反応を注意深く分析することによって、そして、結局のところは生じていること全てに対する私たちの反応のバランスを取ることによって、私たちの周辺環境に対する行動様式が個我の内に生じ、そしてそれは最早、外的刺激に対する単純反応に過ぎないと認識するに至るのです。私たちはいわゆる魔物を、私たちがある小規模な主張を保有できるようになるに至るまで強化し続けることになります。その主張と言うのは、「理由付けの手法が意識に変更を加える」というものです。これが魔術の古典的な解釈です。一人の個人が持続する各期間は不幸な状況であると考えないように、その不幸な状況に対して怒りには怒りを与えないように、悲しみには悲しみを与えないようにして、その替わりに、誰も予期し得なかった共感と快適さを提供することにより、私たちは内面的強さの糸を自分の内に強化することになるのです。そして私たちは、益々宇宙における生命の進化に自分の人生を一層近づけ関係付けることになるのです。

 

序論3へ続く