「確実性」について
ウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』五八節で次のように言っている。
「私は…を知っている」が文法命題とみなされれば、「私」にはもとより何の重 要性もありえない。この命題はもともと「この場合疑いの余地はない」とか、「< 私は知らない>という表現はここでは意味をなさない」ということを意味している。 したがって当然「私は知っている」にもまったく意味がないことになる。
「文法命題」とは、「反対のことが想像できない」命題(PU,251)であり、ここでウィトゲンシュタインが言っているのは、「私は…を知っている」と言ってみても、この場合は「私は知らない」という可能性が原理的に排除されているのだから、何も言っていないに等しいという意味である。したがってムーアが、「私にはここに私の手があるかどうかわからない」と言う懐疑主義者に対して、「私はここに私の手があることを知っている」と言って論駁しようとしても、「私は知っている」は無意味なのだから、ムーアの懐疑主義に対する論駁は成功していないことになる。「知る/知らない」という二つの可能性がなければ、「知っている」という言い方はまったく無意味になり、懐疑主義者の「わからない(知らない)」という言明に対して何の効力ももたないものとなるからである。それどころかムーアは、「知る/知らない」という二つの可能性の領域をみずから設定することによって、懐疑主義的議論の成立を逆に可能にしてしまってもいる。「私が知っている」内容は、「私が知っている」という語句をつけるまでもなく誰にとっても自明なものなのだ。この内容を「知っていたり」、「疑ったり」はできないのである。しかし、この議論を認めてしまうと、ウィトゲンシュタイン自身の『確実性の問題』における多くの文が無意味になってしまう。たとえば、
子供は大人を信じることによって学ぶ。疑うことは信じることのあとにくる。 (UG,160)
生徒は自分の先生と教科書を信じるのだ。(UG,263)
知識の究極の根拠は承認にある。(UG,378)
という文における「信じる」「承認」という言い方は、以上の議論の観点にたてば、あきらかに無意味である。つまり「疑うことは信じることのあとにくる」のだから、子供が大人を「信じない」(疑う)可能性は最初はまったくなく、したがってこれらの命題における「信じる」、「承認」という言葉は意味をなくす。たしかに、われわれは特定の共同体のなかで、大人の使う言語を習得し、大人や先生の言うことを「受け入れる」。しかし、このような場合「受け入れない」可能性はそもそもまったくなかったのであり、「承認しない」ことなどありえなかったはずだからだ。「信じる/信じない」「承認する/承認しない」という二つの可能性を、最初はどんな人間ももちえないのである。ウィトゲンシュタインは言う。
そもそも私が何を信じ、何を確信するか、それが私の思い通りになるだろうか。 (UG,173)
私の信念や確信は私の思い通りにはならない。(したがって、ほかの可能性を選ぶことはできなかったという点で、「信念」や「確信」とも呼ぶことはできない。)われわれは、自らが選んだわけではない共同体のなかに投げこまれ、何とも名づけようのない(言語化不可能な)状態である期間過ごし、「疑う」ことを覚えると同時に「信じる」可能性をももちうるのである。したがって「信じる」という言い方が意味をもつのは、「疑う/信じる」という対概念を習得したあとなのだ。あるいは、「疑う」ことを覚えたあとであれば、それ以前の状態を現時点から「信じる」と名づけることは可能かもしれない。ウィトゲンシュタインの「信じる」の使用もそのような観点からなされているように思われる。しかし、これはあくまで「疑う/信じる」を習得した時点からの言語化であり、明らかに「信じる」という語の誤用である。われわれはまず、「疑う/信じる」以前の状態から「盲目的に」始めざるをえないのである。あるいは疑ったり、信じたりするときには、それ以前にすでに何かが始まっているのだ。したがって「私は自分の意志で何かを疑うことができるだろうか。」(UG,221)ともウィトゲンシュタインが言っているように、そのような状態を基盤に「疑い」始めるのだから、疑うことさえ、自分の意のままにはなりえないのだ。疑うことも、選択不可能だった基盤をもとにして「盲目的に」なされるのである。角度を変えてみよう。
ウィトゲンシュタインは『確実性の問題』三四九節で次のように言っている。
文の意味は、その文を敷衍することによって表現でき、したがってその文の一部 にすることができる。
ここでウィトゲンシュタインは、文脈を補充し「敷衍」(Erg ■nzung )することにより、どのような文でもその意味を獲得することができると言っている。。これは「意味は用法」(PU,43 )だというウィトゲンシュタインの意味の定義からおのずと帰結する考え方である。どんな文でも、文脈を考え、特定の用法を想定すれば、その文は意味をもってくる。つまり「言語ゲーム」のなかで流通し始めるという考えである。しかしこのことを認めてしまうと、構文的な文法さえ間違っていなければ、あらゆる文が意味をもつという結果を招いてしまう。ウィトゲンシュタイン自身もそのことを実行している。「ムーア命題」(K,41)について、次のように言っている。
ムーアが問題にした「これが手であることを私は知っている」という文は、ほぼ 次のことを意味するといってよいのではないか。「この手が痛む」とか、「こちら の手のほうがもう一方より弱い」とか、「私は昔この手を怪我した」とか、そのほ かさまざまな言明を用いて、私は言語ゲームを営むが、その場合問題になっている 手の存在はいささかも疑わない。(UG,371)
「私が誰かに、あれは木であると告げるとすれば、それは決して単なる推測では ない。」これがムーアの言わんとしたことではないか。(UG,424)
私はムーアに対してこう反論した。「あれは木である」という文の意味は単独で ははっきりしない、その言明の対象である「あれ」がなんであるかが決まらないか ら、と。この反論は成立しない。われわれはたとえば、「木のように見えているあ そこの対象は、模造の木ではなく本物の木である」と言って、その文の意味をさら にはっきりさせることができるからである。(UG,451)
ウィトゲンシュタイン自身の文脈の補充による「敷衍」によって、この引用文中のムーア命題はそれぞれの文脈で意味をもち始める。それでは、このように文脈を付与されたムーア命題は、ほかの命題となんら変わりのない日常的な命題ということになるのだろうか。ウィトゲンシュタインのムーア命題にたいする批判は、繰りかえせば次の点にあった。たとえば「私はここに手があることを知っている」というムーア命題が、「ここに手がある」というあまりに自明で表明する必要のない事実を「私は知っている」と言うことにより、懐疑主義者による攻撃を可能にする点である。「知っている」と言うのであれば、「知らない」可能性もなければならない。つまり「知っている」と言うことにより、「ここに手がある」という事実を疑うことも可能になり、ムーアの意図とは逆の結果になってしまうのだ。しかしこの引用文中においては、ウィトゲンシュタイン自身が想定した文脈により、懐疑主義者による攻撃は日常のレベルにひきもどされ、今挙げた後者の例で言えば、「それは推測ではないのか」あるいは「それは模造の木ではないのか」といった日常的な疑問にすぎないものとなる。さらにクックは、自明で疑うことのできない「蝶番」(UG,343)の役割をしていると思われる多くの命題を、さまざまな文脈を想定することにより、日常使われる文とまったく変わらないものにしている。(C,272-277 )「意味は用法」であり、文の意味は文脈によって規定されるというウィトゲンシュタインの前提にたって、この「敷衍」可能性を認めれば、どのような「蝶番」命題であろうと、それに見合った文脈を考えることによって日常的に有意味な命題になることができる。「言語ゲーム一元論」という考え方からすれば、本人の「意図」はゲームの「着手」(発話文)に解消されてしまい、ほかの人間のあらゆる解釈可能性にさらされている。あるいは、この解釈可能性にさらされなければ、言語ゲームの「着手」にはならない。「着手」にたいする解釈は、その状況や言語ゲームの参加者のちがいにより多様なものとならざるをえない。したがって文脈は、そのような可能性の拡がりを視野にいれれば、ある意味で無限なのだ。「言語ゲーム一元論」を一元的なものとして原理的にとらえれば、このような帰結にならなければならないし、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという考えは、一見このような帰結を導くように思われる。しかしウィトゲンシュタインにとっては、そのような言語ゲームに現れるはずの「蝶番」命題とは、日常的な文脈に解消されるようなものではなく、次のようなものなのである。
それはまったく自明の理として受け入れられ、疑問の対象となることがなく、そ れどころか、ひょっとしたら決して表明されることもないかもしれない。(UG,87 ) 子供の頃われわれはさまざまな事実を学びそれを信じる。たとえば誰でも脳をも っているということ、オーストラリア大陸が存在し、そのかたちはしかじかである ということ、私には曾祖父母がいたということ、私の両親と称していた人たちが実 際に私の両親であったといったことなどである。こういう信念はまったく言葉に表 されず、それどころか、そうしたことについて一度も考えたことがないかもしれな い。(UG,159)
ウィトゲンシュタインにとって真の「蝶番」命題とは、「まったく言葉に表されず」、「一度も考えたことがない」ものなのだ。つまり、われわれが、言語化することもなく自明の理として「受け入れ、信じる」ものなのである。先述した言い方をすれば、「疑う/信じる」以前の名づけようのない状態で「身につけた」(むろん「身につけない」可能性はない)命題ということになる。しかしそうだとすると、これらの命題は言語化されず思考もされないのだから、当然ながら用法も特定の文脈ももたない命題ということになる。したがってクックも指摘するように(C,272 )、これらの命題はウィトゲンシュタインの定義する「意味」はもちえないものになる。そうなるとウィトゲンシュタインの考える「蝶番」命題とは、日常的な文脈を想定すれば有意味になるが、しかし「蝶番」の役割は果たせなくなり、「蝶番」の役割を果たそうとすれば、用法をもたないために無意味になる命題ということになってしまう。ところが、日常的な文脈は無限に想定可能なのだから、どんな「蝶番」命題も有意味になる可能性があり、したがって真の「蝶番」命題は、決して言表されることなく無意味なまま「存在している」のでなければならないことになる。通常の言語ゲームには一度も現れないこのような命題が、はたして「蝶番」としての役目を果たしうるのだろうか。
ウィトゲンシュタインが具体的に挙げている「蝶番」命題とは次のようなものである。
私にとって自分の用いる言葉の意味が確実なら、ある種の判断もそれとまったく 同様に確実なはずである。この色が「青」と呼ばれることを私は疑えるであろうか。 (UG,126)
私に両手があることは、正常な状況にあっては私の挙げるどんな証拠と比べても、 確実性において決して劣るものではない。(UG,250)
この机に誰も注意を向けていないときに、それは存在し続けているのかどうか。 そんなことを誰が調べようとするだろうか。(UG,163)
ひとはたとえば、水はほぼ摂氏百度で沸騰する、という命題の確実性を記述する ことができよう。それは私がかつて聞き覚えた命題ではなく、あれとこれといった 具合に枚挙できるような命題ではない。(UG,599)
ここで述べられている「この色は「青」と呼ばれる」、「私に両手がある」、「机は存在し続ける」、「水はほぼ摂氏百度で沸騰する」という四つの「蝶番」命題の位相は明らかに異なる。色名は言語的規約であり、両手の存在は「私」をめぐる問題であり、机の存在は自然の恒常性であり、最後の命題は自然科学的命題である。「青」という色の名前や「水の沸点」は日常の文脈のある時点で教えられるが、「両手の存在」や「机の恒常的存在」は誰も教えたりはしない。ただし色名は規約そのものの教示であり、沸点は自然科学の体系の一部として教育される。また両手は「私」だけの問題であり、机は誰でも確認できる問題である。ひとつひとつ見ていこう。ウィトゲンシュタインは「この色が「青」と呼ばれることを私は疑えるであろうか」と言うが、これはそもそも規約であり、疑うことなどまったくできない。規約の起源は問えないにしても、特定の色名のルールを一度決めたのであるから、それはそう呼ばれているとしか言えない。疑いは最初から排除されている。「水の沸点」は、特定の自然科学者によって発見され、それ以来その科学者の属する共同体のなかで常識となったものであり、疑うことは可能であるが、その疑いを有意味なものにするためには、自ら自然科学者になって実験し新たな発見をするしかない。したがって、通常そのような疑いが発生した場合には、「なにか私の知らない原因が働いているのではないかと思い返して、物理学者に判定をゆだねる」(UG,613)のである。したがってこの命題は疑うことが充分可能な「知識」なのであり、ただその知識が他人の手に全面的にゆだねられているというにすぎない。「両手の存在」や「机の恒常的存在」についての命題は、まさに「蝶番」命題のディレンマを象徴する命題である。「私には両手がある」という命題が有意味になるためには、戦場で爆撃され九死に一生を得るような特殊な状況か、懐疑主義者の言説か、それを論駁する文脈しかない。だが逆にそのような状況や文脈さえあれば、この命題は充分意味があり、言語ゲームのなかで一定の役割を演じる。しかしわれわれが、疑うことのありえない命題として言語ゲームの基盤にした途端に、あらゆる文脈を失い意味をもたなくなる。だが、そもそもわれわれは、「両手の存在」や「机の恒常的存在」を信じているのだろうか。「信じる」という語も、言語ゲームのなかでのみ意味をもつ以上、「両手の存在」や「机の恒常的存在」を特定の文脈で意味のある語として使わないかぎり、「信じる」ことなど不可能ではないか。それはとりもなおさず「疑う」という語も意味をもつ文脈にもなる。真の「蝶番」命題における「両手の存在」や「机の恒常的存在」は、「疑う/信じる」以前の、あの名づけようのない領域に「存在している」のではないか。
ストロールは「確実性」を、命題によるものと行動や訓練によるものとの二つに分類し(St, 146 )、ウィトゲンシュタインは、『確実性の問題』の後半においては、命題による確実性を捨て、行動や訓練という確実性を重視したと言っている(St, 155-6 )。たしかに「世界像」(Weltbild)という概念は、二六二節を最後に六七六の最終節まで二度と現れず、それにかわって「行動」にかんする考察が頻出する。「蝶番」命題がこのようなディレンマに陥り、われわれを支える「確実性」の役割をはたせないことにウィトゲンシュタインは気づいたのだろうか。しかしそれでは命題の代替策である「行動」は、われわれを支える「確実性」になりうるだろうか。ウィトゲンシュタインは次のように言う。
われわれの語る言葉は、われわれのそれ以外の行動によって意味を与えられる。 (UG,229)
これが意味しているのは、私が無条件にこの信念にしたがって行動し、決して迷 うことがないということではないか。(UG,251)
私はもちろん、ひとであれば誰でもそのように行動すべきだと言いたいわけでは ない。事実としてそのように行動すると言っているだけである。(UG,284)
われわれは、たしかに両手を使って行動し、机の存在を疑うことなく行動し、自然科学的知識を前提に行動する。しかしそれは、われわれが両手や机の存在を信じたり、自然科学的知識を信じたりしているということを意味しているわけではない。われわれはそれらを、「疑う/信じる」以前の状態で「受け入れている」(受け入れない可能性のない「受け入れ」)だけなのだ。まさに「事実としてそのように行動する」だけなのである。それを「信じる」などとことさらに言いだすのは、「疑う」可能性がでてきたときだけなのだ。いいかえれば、懐疑主義者が現れ、われわれの「疑う/信じる」以前の「受け入れている」状態を疑い始めたとき、われわれはその「疑い」に対して「信じる」と言っているだけなのである。懐疑主義者が現れなければ、われわれは「信じる」ことすらしていない。「疑う/信じる」という対概念が成立しなければ「信じる」ことはできないからである。たしかに「信じる」という語を誤用してはいるが、しかし、このことこそウィトゲンシュタインが言いたかったことではないのか。つまりムーアが「私はここに私の手があることを知っている」と懐疑主義者に言って懐疑主義者の「知らない」という攻撃を逆に招来したのは、「疑う/信じる」以前の状態を「知っている」とことさら言ったためだったのではないか。このことによってウィトゲンシュタインは、ムーアと懐疑主義者双方の誤りを浮き彫りにしていることになるのではないか。そうなるとウィトゲンシュタインの言う「確実性」とは、この「疑う/信じる」以前の状態を指摘していることになり、この状態を疑うのは疑いとは言えないとウィトゲンシュタインは言っていることになる。しかし逆に言えば、この状態を「信じる」とも言えないのだから、ムーアと懐疑主義者にたいするウィトゲンシュタインの攻撃は、同時に自分自身の誤りも指摘していることになってしまう。疑うことについてウィトゲンシュタインは次のように言う。
すべてを疑おうとするものは、疑うところまでたどりつくこともないだろう。疑 いのゲーム自身、すでに確実性を前提しているのだ。(UG,115)
すべてを疑う疑いは、疑いではない。(UG,450)
一定の根拠にもとづいてひとは疑うのである。(UG,458)
疑いえないものに支えられてこそ疑いは成立する。(UG,519)
ウィトゲンシュタインの「確実性」の立場からすると、「疑い」には二種類ある。「確実性」によって支えられている世界内部での疑いと、その世界そのものを疑う疑い、ウィトゲンシュタインの言葉で言えば「べつの疑い」(UG,19 )の二種類である。世界内部での疑いは、歴史的知識や自然科学的知識を習得したのちに、それを基盤に疑うことが可能になる。この「疑い」は、歴史的知識や自然科学の内部での言語ゲームのなかでおこなわれる正当な「疑い」である。したがって引用文中の「一定の根拠」「疑いえないもの」にも二種類あることになる。「確実性」に支えられた世界内部での言語ゲームを可能にする基盤と、そのような世界そのものを成立させている基盤の二種類である。そして最初の引用文の「確実性」は、あきらかに後者の基盤を指している。しかしウィトゲンシュタインは「蝶番」命題の諸相を明確には区別していないことからもわかるように、この二つの基盤を地続きのものとみなし、両者とも「確実性」と呼ぶ。しかし後者の「確実性」のほうは「疑う/信じる」以前の状態であり、世界内部での言語ゲームには決して登場しない。登場した場合には、ただちに文脈が想定され言語ゲームのなかで流通し始め、正当な「疑い」や「信念」になるからだ。このような観点からすると、ウィトゲンシュタインの言う「すべてを疑う疑い」とはどのようなものになるのだろうか。というのも、懐疑主義の伝統を見ればわかるように、「すべてを疑う疑い」は、いわば懐疑主義的言語ゲームにおいては日常茶飯におこなわれているからである。ウィトゲンシュタインは言う。
全体を疑うことはしないというのが、まさにわれわれの判断の仕方であり、したがってまた行為する仕方でもある。(UG,232)
しかし「判断の仕方」や「行為する仕方」は、先に述べたように「疑う/信じる」以前の次元であり、そこにはそもそも「疑い」の入りこむ余地はない。われわれは疑ったり信じたりせずに「盲目的に」行為しているのである。「疑う」ことができるのは、「疑う/信じる」の対概念を獲得したあとであり、いわば「疑う/信じる」の言語ゲームに参加したあとである。したがって「全体を疑う」というのが、言語ゲームのなかで「疑う」という言葉を使ってなされるゲームの一種であれば、このゲームにおいては決して「疑う/信じる」以前の状態を「疑う」ことなどできない。あるいは逆の言い方をすれば、「「疑う/信じる」以前の状態」を「疑う」ことはできる。ただしそれは、「「疑う/信じる」以前の状態」という語がこの「疑い」のゲームで流通するかぎりでのことだ。したがって「全体」も、それが言語ゲームのなかで流通する言葉であれば、その言語ゲームが成立するかぎりで、「疑う」ことは可能である。事実懐疑主義の伝統は懐疑主義的言語ゲームをおこなってきたし、それをわれわれは、肯定するにしろ否定するにしろ、充分理解することはできる。つまり懐疑主義的な文脈があり、「全体を疑う」はその文脈のなかで用法をもっているのだから、われわれは「全体を疑う」という言葉の意味を理解できるのである。あるいはウィトゲンシュタインは、「疑う」ということで別のことを意味しているのだろうか。たとえば
私がチェスで敵を詰めようとしているときに、駒がひとりでに配置を変えるので はないか、しかもそれに気づかないように私の記憶まで私を欺いているのではない か、などと疑うことなどありえない。(UG,346)
とウィトゲンシュタインが言うとき、この「疑う」とはどういう意味だろうか。私の内的経験、「疑う」ということに特有の内的過程を意味しているのだろうか。しかしウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の立場からすれば、このような「内的過程」は、言語ゲームから出発して「なにもないわけではない」(PU,304)と確認できるだけであって、「内的過程」そのものを特定できるわけではない(UG,42 )。つまり「疑う」という語を実際に言語ゲームのなかで使用しなければ、疑っていることにはならないのだ。そして、もし引用文中のような「疑い」を誰かが発すれば、それを聞いた相手は「疲れているんじゃないか」あるいは「いい病院を紹介しよう」などと答えるだろう。そこで一つの文脈が成立し言語ゲームが始まり、この状況に「疑う/信じる」の二項対立が現れることになる。ウィトゲンシュタインの言う「疑うことはありえない」、つまり「疑う」可能性がないというのは、「疑う/信じる」以前の状態であると言っているのである。したがって、ここには「疑い」という言葉は原理的に登場しないのだ。ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の立場に立つかぎり、「疑う/信じる」以前の行為のレベルで「疑う」ことはできないのである。しかしウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」というのは、言語のみによってなされるゲームではなく、「言語と、言語が織りこまれた諸活動との総体」(PU,7)のことであり、したがって当然「疑う/信じる」以前の行為のレベルも「言語ゲーム」のなかにふくまれていると言うだろう。たしかにふくまれているだろう。しかしそのふくまれかたは、ウィトゲンシュタインが考えるように基盤として、つまり「疑いえないもの」としてふくまれているのではなく、背景として、すなわち決して言語のレベルには登場しない名づけようのない行為としてふくまれているのだ。「疑う」という言葉の用法に着目すべきであって、その用法が成立する以前の状態に「疑う」という言葉を使用することはそもそもできないのである。そうなると「全体を疑う」という言い方も「疑う/信じる」以前の状態とは何のかかわりもない、言語によってのみなされる言語ゲームのなかでの「疑い」ということになる。それではこのような言語ゲームのなかで「全体を疑う」とはどういうことだろうか。
言語のみによってなされる言語ゲームの限界は、当然言語である。そしてウィトゲンシュタインによれば、言語ゲームこそがわれわれの「生活形式」なのだから(PU,19,23)、世界(われわれの「生活」)の限界も言語になる。したがって言語ゲームのなかで「全体を疑う」というのは、言語そのものを疑うことにほかならない。ウィトゲンシュタインはこの疑いが成立しないことを次のように言っている。
これは私の手である、ということを疑おうとするのなら、「手」という 言葉に意味があることを疑わずにすますことはできないだろう。だがどう 考えてみても、これは私が知っていることである。
もっと正確に言えばこうである。「手」という言葉やほかの言葉をその 文中で用いるとき、私はいささかもためらうことがない。試みに疑ってみ ようと思うだけで、もう途方にくれてしまう。このことは、疑いの欠如が その言語ゲームの本質に属し、「どうやって私は…知るのか」という問い かけが言語ゲームを遅滞させ、あるいは中絶させるものだということを示 している。(UG,369,370)
これが自分の手であることを私が疑う、あるいはそのことに確信がもて ないというのなら(どういう意味で言うにせよ)、なぜこれらの言葉の意 味についても疑わないのか。(UG,456)
ウィトゲンシュタインの意味の定義からすれば、語の意味は用法によって決まるのだから、「手」という言葉もそれを使う文脈によって決まる。つまり「「手」という言葉やほかの言葉をその文中で用いる」と、それらの言葉の意味が決まるのであってその逆ではない。したがって原理的に言葉の意味を疑うなどということはできない。「試みに疑う」とウィトゲンシュタインは言っているが、使用することによって意味が決まるというウィトゲンシュタインの前提からすれば、使用すれば意味が決まり使用しなければそもそも疑うべき対象も存在しないのだから、疑うことなどそもそも最初から不可能なのである。「途方にくれる」のは当然なのだ。そして言語は恣意的な規約である以上、言語ゲームに参加しながら言葉の意味を疑うというのは、自分でつくったルールをゲームをしながら自分で疑うようなもので明らかに無意味で不可能な試みなのである。したがって言語全体を疑うことは、最初からできないのである。われわれは言語ゲームに参加しているかぎり、ゲームの文脈つまりは言葉の意味の枠組のなかにいる。しかし逆に言うと、この枠組のなかにいるかぎり、あらゆるゲームは可能なのであり、それが用法として成立すればどんな文も意味をもつ。この観点からすれば、懐疑主義的言語ゲームにおける「全体を疑う」も意味をもつことになる。懐疑主義者たちの文脈で実際に使用されていて充分言語ゲームとして成立しているからである。全体を疑うことはできないかもしれないが、「全体を疑う」ことはできるのである。このような懐疑主義的言語ゲームに対して日常的用法を対置するウィトゲンシュタインの批判は、言語ゲーム内の文脈の無限想定可能性からして非常に曖昧なものにならざるをえない。伊藤も指摘しているように(I,6 )、「日常言語の使用者は誰なのか」という問題がでてくるのである。ウィトゲンシュタインは、「疑う/信じる」以前の状態を基盤にしていることを基準にして、懐疑主義的言説と日常言語を境界づけるが、もしこの状態を基準にするのであれば、境界は言語のみの「言語ゲーム」とそれ以外の領域にひかれなければならない。
さらに『確実性の問題』におけるもうひとつの問題は、「私」の処理である。先に挙げた四つの「蝶番」命題のなかの「私に両手がある」という命題の位置づけの問題である。まさに「疑う/信じる」以前の状態を直接指しているように思われるこの「私」とはどのようなものなのか。ムーア命題のなかから「私は知っている」を消去して、「ここに手がある」と言ってみても、あきらかにこの命題は、「私」を背景にした「蝶番」命題であり、通常は「表明される」ことはない。そうなると、この「疑う/信じる」以前の状態そのものである「私」は、「私」をめぐる命題の背後にかならず存在しているのだろうか。たしかにウィトゲンシュタインは次のように言っている。
それらすべてを知っているのは、あるいは信じているのは私だけではな く、ほかのひとびともそうなのだ。というより私は、ほかのひとびとがそ う信じていると信じているのである。(UG,288)
ほかのひとびとも、すべてが実際その通りであると信じている、すなわ ちそう知っていると信じていると私は確信しているのだ。(UG,289)
この引用における「私」を強調すれば、「私」をめぐる命題だけではなく、あらゆる命題の背後には「私」が存在しているように思われる。言語のみの「言語ゲーム」の背後に「私」が背景として存在していることになる。しかしそうなると「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」(TLP,5.6 )ということになるのだろうか。むろんウィトゲンシュタインはそんなことを言いたいわけではない。この引用における「私」を強調してはならないのである。この「私」は、人称代名詞の「私」があらゆる「私」によって使用されているように、すべての「私」に共有されている。つまり
それはわれわれにとって絶対に確かであるとは、ひとりひとりがそれを 確信するということだけではなく、科学と教育によって結ばれたひとつの 共同体にわれわれが属しているということなのだ。(UG,298)
このような「共同体」において「私」は、「われわれ」として形成される。しかしこの「共同体」は、「科学と教育によって結ばれたひとつの共同体」である以上、閉鎖的な「共同体」であり、つねに外部をもっている。科学的知識をもたず、教育を受けていないという性質をもつ外部である。そしてその外部とは、ウィトゲンシュタインによれば「子供」であり、「精神錯乱」であり、「未開」である。たとえばウィトゲンシュタインは次のように言う。
子供は学習によって多くの事柄を信じるようになる。つまりそういう信 念にしたがって行動することを学ぶわけである。(UG,144)
もしもムーアが、彼が確実であると宣言する命題の反対を言うとしたら、 われわれは同意しないばかりか、彼は精神錯乱に陥っているのだと考える だろう。(UG,155)
私は次のような場合を想像することができる。ムーアが未開種族に捕え られ、彼らはムーアに、地球と月の間のどこからかやってきた人間ではな いかという嫌疑をかける。ムーアは彼らに対して「私は…を知っている」 と言うが、彼の確信の根拠を示すことはできない。未開人たちは人間の飛 行能力について空想的な観念をもっており、物理学を少しも知らないから である。これはたしかに例の言明をする機会のひとつと言えるだろう。 (UG,264)
子供は「疑う/信じる」以前の状態から、その共同体での「言語ゲーム」を学ぶことによって、大人になっていく。大人になる前の子供はその共同体にとっては、まだルールをよく呑みこめていない外部的な存在者である。子供は大人の言語ゲームに参加していないのだ。精神錯乱者は、その共同体の「言語ゲーム」を習得したにもかかわらず、「正常」な反応ができなくなり、「疑う/信じる」以前の状態を懐疑主義的ゲームとしてではなく、「本気で」疑うひとのことである。だから「疑う余地のない命題に対して反論しようとするものには、「馬鹿げている」と言うだけでよいだろう。つまり答えるのではなく、正気づけてや」(UG,495)らなければならないのだ。未開の人たちは、「われわれの科学と教育によって結ばれたひとつの共同体」の言語ゲームとは異なるゲームをおこなう人たちであり、したがってわれわれの共同体のゲームを理解できない外部的存在者である。しかし、未開の言語ゲームを除く子供と精神錯乱のふたつの外部的存在者は、言語のみの言語ゲームと「疑う/信じる」以前の状態の境界を基準にすれば、あきらかにその意味は異なってくる。「疑う/信じる」以前の状態は、言語のみの言語ゲームの背景にもっとも確実な行為の領域として存在しているのだから、子供という存在は、共同体での言語ゲームに参加していない外部ではなく、逆にその共同体の言語ゲームの背景をなす言語以前の領域になる。つまり共同体内部での言語に汚染されていない確実な領域として存在していることになる。子供は自分の両手を疑ったりは決してしないし、机の存在も確信している(ただし「疑ったり」、「信じたり」する可能性以前で)からだ。精神錯乱者の言明は、言明自体としてみれば、懐疑主義的ゲームにおける命題と変わらない。したがって、言語のみに着目するのであれば、そこで精神錯乱者の言語ゲームがおこなわれているというかたちで、言語ゲームの領域にいれることは可能である(C,270 )。しかし、もしウィトゲンシュタインが『確実性の問題』一〇六節や一〇八節や二二九節で言っているような「本気で(im Ernst)」という概念を有意味なものとして導入するならば、「本気で」疑うこととそうでないこととの区別が可能になり、精神錯乱者のゲームは懐疑主義的ゲームとは異なるものになる。精神錯乱者は「本気で」自分の手を疑い、懐疑主義者の自分の手への疑いは「本気」とは言えないからである。この「本気」という概念が基準になりうるとすれば、「疑う/信じる」以前の領域まで疑うこと(これがどのような事態であるかはわからないにしても)と、単に言語ゲームのなかで「疑う」こととの区別が可能になるように思われる。だが、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』における、内的体験から出発するのではなく「言語ゲーム」からのみ出発する立場にたてば、「本気で」発話したのかそうでないのかという区別はつかず、精神錯乱の言語ゲームと懐疑主義的言語ゲームとの、この点での区別は曖昧なものとならざるをえない。そもそもウィトゲンシュタインの「言語ゲーム一元論」の立場からすれば、「本気」などという概念は排除されていなければならないはずなのである。「本気」という概念が有意味になれば、ウィトゲンシュタイン自身が批判した私的体験から出発する可能性が開かれることになるからである。
しかし、この精神錯乱という事態そのもの、あるいは精神錯乱者のもつ世界そのものは、『確実性の問題』というテクストにおいてはある決定的な役割を果たしている。なぜならウィトゲンシュタインが考える「確実性」を支えているのは、「分別ある人間」(vern■ nftiger Mensch)という概念だからだ。ウィトゲンシュタインは、「分別ある人間」について次のように言っている。
したがってわれわれは、科学的な証拠に反するようなことを信じるひと を、分別ある人間とは呼ばない。(UG,324)
だからこう言ってもいいかのかもしれない。「分別ある人間は次のよう なことを信じる。すなわち大地は彼の誕生のはるか昔から存在していたこ と、彼の生活は地球の表面か、または表面に近いところで営まれてきたこ と、彼は月などに行ったことはないということ、ほかのすべての人間と同 様に彼にも神経系とさまざまな内臓器官がそなわっていること等々を信じ ている。」(UG,327)
「分別ある」人間なら誰でもこのように行動する。(UG,254)
ウィトゲンシュタインの言う「分別ある人間」とは、ある共同体における科学的知識や「ムーア命題」の内容を「受け入れ」ている人間のことである。つまり、このような命題、すなわちウィトゲンシュタイン的な意味では(用法をもたないゆえに)無意味な「蝶番」命題を「疑う/信じる」以前の状態で「受け入れ」、「このように行動する」人間なのだ。したがって「分別ある人間」とは、知識をそなえた「子供」(「疑う/信じる」以前の状態で行為する人間)であり、行為のレベルで余計な疑いをもたない「大人」と言えよう。この「分別ある人間」こそ、先に述べた「日常言語の使用者」なのである。「しかしこの状況においては何を信じるのが分別あることなのか、誰がわれわれに教えてくれるだろうか。」(UG,326)とウィトゲンシュタインも言っているように、「分別」のあるなしに基準があるわけではない。だからこそ「「分別ある」人間なら誰でもこのように行動する。」と言わざるをえないのだ。つまり、「分別」そのものを識別する基準なしに、「分別ある」(vern■nftig )人間、すなわち「理性」(Vernunft)をもった人間の行動だけが存在しているのである。しかし「分別」つまり「理性」の有無を判定できないのであれば、誰が「分別ある人間」なのか、われわれのなかの個々人によっては知ることはできない。私自身が「分別ある人間」である保証はないし、判定基準がないかぎり、誰であっても私自身の状況と一向にかわらないからである。だからこそ、このような「分別」つまり「理性」を、「分別」や「理性」たらしめるためには、「錯乱」という境界を画定する状態が絶対に必要となるのである。あるいはクックの言うように(C,287 )、ウィトゲンシュタインは「錯乱状態」や「渾沌」に過剰に反応することによって、「確実性」を考えだしたとも言える。五一三節の「前代未聞の出来事」が象徴しているように、とてもおこりそうにない事態に脅かされているからこそ、「確実性」が、そして「理性」が必要となったのではないか。「私の名がL・Wでないとしたら、何を拠り所にして「真」や「偽」を理解すべきであろうか。」(UG,515)とウィトゲンシュタインは言うが、自分の名前の間違いは、これもクックの指摘のように(C,280 )、生まれた病院での新生児の取り違えや記憶喪失などいくらでも日常的な文脈を考えることができる。「蝶番」命題が否定されたからといって、「錯乱」や「前代未聞の出来事」に直接むすびつくわけではない。このような意味でウィトゲンシュタインの考える「確実性」には「錯乱」が必要なのであり、逆に「錯乱」という「他者」が想定されているからこそ、「確実性」が堅固なものに見えるのである。しかもこの「分別ある人間」が言語ゲームをおこなう場所は、ウィトゲンシュタインの多用する比喩によれば(UG,335,441,485,500,604-7)、「法廷」である。「分別ある人間」が「法廷」において、無意味な「蝶番」命題には言及することなく、それを前提しながら営むのが、われわれの共同体の言語ゲームということなのだ。この「法廷」そのものを「疑がっ」たり、「分別」をうしなったりした者たちは、このゲームへの参加資格を失うのである。したがってウィトゲンシュタインの言う「確実性」とは、人間に普遍的なものなどではなく、特定の教育や科学的知識をそなえ、そのことを毫も疑わない「分別ある人間」がおこなう「法廷」での言語ゲームだけを支えているものにすぎないのである。しかし、「分別」の有無には判定基準がないのと同様に、「蝶番」命題が無意味であることと無限の文脈想定性を考えあわせれば、この「法廷」の内と外との境界も明らかではない。そこには、ウィトゲンシュタインが最初から前提している、判定されなければならないはずの当の対象(「分別ある人間」)の行動やゲームがあるだけなのだ。だからこそ「錯乱」や「前代未聞の出来事」が「他者」として、その行動やゲームの領域を画定する役割を果たさざるをえないのである。
このように外部としての「他者」を不可欠の補完的要素としてもつ「分別ある人間の法廷」の内部はどのようになっているのだろうか。ウィトゲンシュタインは次のように言っている。
しかし私の世界像は、私がその正しさを納得したから私のものになった わけではない。私が現にその正しさを確信しているから、それが私の世界 像であるわけでもない。これは伝統として受け継いだ背景であり、私が真 と偽を区別するのもこれによってのことなのだ。(UG,94 )
われわれにとって確実性の根拠になるのが経験であるとすれば、それは もちろん過去の経験である。そしてそれは単なる私の経験といったもので はなく、私の知識の源泉である他人の経験なのだ。(UG,275)
これらの知識の総体は私に伝承されたものであり、私はそれを疑う理由 がなく、反対に多くの経験がそれを確証している。(UG,288)
われわれは、「疑う/信じる」以前の状態で、ある共同体にはいり、さまざまな規則や知識をその共同体を構成するほかの人々から「受け継ぐ」。それは「受け継がない」可能性のない「受け入れ」であり、「絶対的」で「盲目的」なものである。このような状態で、「他人の経験」(むろんその「他人」も別の「他人」を「受け入れ」ただけなのだが)によって「私」が形成される。このような「伝統」という「他人の連鎖」によって形成された「私」が「疑い」始めても、そのゲームはまさにその共同体の、「私」が受動的に「受け入れた」特定の言語によってなされるのであり、この「連鎖」から逃れる術はない。崎川の言うように(Sa, 34)、ウィトゲンシュタインの「言語ゲームの原初性」という主張には、このような「他者性の隠蔽」があるのであり、「言語ゲーム」とは常に「他者」のゲームなのである。言語という規約の起源が問えない以上、「言語ゲーム」とは連綿とつづく「他者」のゲームを「受け入れ」、「伝承する」営為なのだ。したがってウィトゲンシュタインの言う「そもそも私が何を信じ、何を確信するか、それが私の思い通りになるだろうか。」(UG,173)あるいは「私は自分の意志で何かを疑うことができるだろうか。」(UG,221)というのは、「私」が「他者」によって共同体のなかで構成されるものである以上、当然のことなのである。「私」の思い通りになったり、「私」の意志で何かを疑うなどということはそもそもできないのである。つまり「私」とは、いわば「他者」によって通時的に形成された伝統を受け入れる器にすぎないのだ。「疑う/信じる」以前の状態の「子供」は、「他者」である「大人」から、その共同体のさまざまな知識を「受け継ぐ」。このような仕方で「私」は、「他者」によってつくりだされるのだ。しかしこの「受け継ぐ」という事態を原理的につきつめると、あらゆる「伝統」を「受け継ぐ」ことが可能でなければならないことになる。つまり「子供」のほとんどは、たしかに「分別ある大人の法廷」の言語ゲームに参加するだろうが、なかには懐疑主義的言説のゲームに参加する「子供」がいても、当然おかしくないことになる。あるいは「分別ある大人の法廷」の言語ゲームに参加しながらも、ときとして懐疑主義的ゲームをおこなうこともあるだろう。その共同体で懐疑主義的「伝統」があれば、それを「受け入れる」可能性も充分考えられるし、当然ながらあらゆる「伝統」は、選択可能性のない「子供」には、等価値だからだ。ただそのような場合にも、背景としての「疑う/信じる」以前の状態を基層とした行為のレベルは、変化することはない。つまり懐疑主義的言語ゲーム以外のゲームをしている者たちと同じ行為をするのである。どんな言語ゲームも「疑う/信じる」以前の行為のレベルにまで影響をおよぼすことは不可能だからである。したがって「「分別ある」人間なら誰でもこのように行動する」(UG,254)のではなく、「人間なら誰でもこのように行動する」のである。このような「行動」にこそ、人間に普遍的な「確実性」があると言うべきであって、ウィトゲンシュタインのように「分別ある人間の法廷」のみに「確実性」を限定することはできない。つまりウィトゲンシュタインのように、行為のレベルを「確実性」の根拠にしようという試みは、「分別ある人間の法廷」の領域確定が明確になされないかぎり、実は何も言っていないことになるのだ。逆に言うと、だからこそ「錯乱」や「前代未聞の出来事」といった、行為のレベルにまでおよぶ可能性のある「他者」が必要になったのである。この、外部から「確実性」を領域画定する「他者」は、予想もつかない、まさに「前代未聞」の性格をもっていなければならないのであり、それゆえ「確実性」内部の「他者」、つまり「前代」から連綿とつづく「伝統」という「他者」と完全に対立する位置をしめている。したがって「確実性」というウィトゲンシュタインの概念によってえがかれた世界においては、「私」の言語の限界は、二重の意味で(外側の「他者」と内側の「他者」という)「他者」の世界の限界なのである。
* * *
伊藤は、「日常言語の使用者」の問題の裏面として、「言語ゲームの記述の視点」の問題を挙げている。伊藤は次のように言う。
そこで、言語ゲームの記述ということは、それに参加しなければそれを 行うことができず、しかも参加しているかぎり記述している余裕はない、 というディレンマを抱えているようにも見えるのである。
さらに、もう一つの問題として、言語ゲームの記述の正確さとか、その 有効さとかは、一体いかなるしかたで判断されるのか、という問題がある。 (I,6 )
『哲学的探究』におけるウィトゲンシュタインの方法は、「記述」(PU,109,124)であり、その対象は言語ゲームである。この「記述」という方法は、言語ゲームを超越論的視点から「説明」するのではなく、みずからも言語ゲームの場にあくまでも「内在」しつつ、そこでおこなわれている言語ゲームを「記述」するという方法である。このような方法をとるかぎり、伊藤の言う「ディレンマ」と「言語ゲームの記述の正確さとか、その有効さとかは、一体いかなるしかたで判断されるのか、という問題」は、必然的にでてこざるをえない。「説明」ではなく「記述」するにしても、言語ゲームが実際おこなわれている次元から離れないかぎり、「記述」したり、その「記述」の有効性を判定したりはできないからである。「記述」も現になされているほかの言語ゲームと同じひとつの言語ゲームだとすれば、『哲学的探究』というテクストに書かれている事柄は、ただの日常的な言語ゲームになるか、あるいはウィトゲンシュタインが何の根拠もないと考えるほかのさまざまな哲学の言説(形而上学的言語ゲームや懐疑主義的言語ゲーム)と同じものになってしまう。「記述」がウィトゲンシュタインの言う「記述」であるためには、ほかの哲学の言説が立っているのとは異なる、ある別の超越論的視点がどうしても必要となるのである。この「ディレンマ」を解消するためにウィトゲンシュタインがもちだす概念が、「論理学」という概念である。「論理学」について、ウィトゲンシュタインは次のように言っている。
「この計算に間違いなどあるはずはない」というのはどんな種類の命題 だろうか。論理学的な命題と言わざるをえないだろう。だがそれは使用さ れることのない論理学である。それがわれわれに教えることは、命題の連 鎖によっては教えられないからだ。(UG,51 )
言語ゲームの記述は、ことごとく論理学に属する。(UG,56 )
というのも言語ゲームの記述に属するものは、論理学に属するのだから。 (UG,628)
「この計算に間違いなどあるはずはない」という命題は、計算というわれわれの日常的なゲームが成立するための「蝶番」となる命題であり、このような命題が枠組となり基盤となっているからこそ、われわれは計算をすることができるのである。これは先に述べた「蝶番」命題の一種であり、「表明されない」無意味な命題である。それゆえウィトゲンシュタインも「使用されることのない論理学」と言っているのである。しかし「この計算に間違いなどあるはずはない」という命題が、まったく使用されず、ウィトゲンシュタインの意味の定義からして無意味であるならば、どうやって計算の「論理学」的な基盤になりうるのだろうか。何も意味していないのならば、それが計算にかかわる命題であることさえ分からないはずである。あきらかにウィトゲンシュタインは、「この計算に間違いなどあるはずはない」という命題が、「論理学」の命題としてではなく、日常の言語ゲームで通常の命題として「使用」され、「命題の連鎖」によって計算のゲームにおいて意味をもったあとで、無意味化して「論理学」の命題の領域に組みこんでいる。このような手続きをふまないかぎり、「この計算に間違いなどあるはずはない」という命題は「論理学」の命題にはなりえない。これは、あらゆる「蝶番」命題に共通の手続きであり、この手続きが隠蔽されているからこそ、「蝶番」命題はディレンマに陥るのである。ウィトゲンシュタインの言う「論理学」の領域は、日常的な言語ゲームの枠組になっているのではなく、逆に日常的な言語ゲームがなければ何の意味ももたない空虚な領域にすぎないのである。ウィトゲンシュタインは、「論理学」という概念で、いわゆる超越論的視点を解消し、日常の言語ゲームだけの一元的な次元をつくりだそうとした。しかしこの解消は、日常の言語ゲームから出発した解消であり、日常の言語ゲームからある意味で「超越」(命題を、日常の言語ゲームにおける「意味」をもったままで無意味にする)しないかぎり、できないものなのだ。「蝶番」命題は、日常の言語ゲームにおいては、特殊な状況でのみ文脈が成立し意味をもつ。したがって「論理学」の領域とは、日常の言語ゲームの特殊な状況で成立した意味を無意味化し、そのあとで日常の言語ゲーム全体の枠組にするという手続きで生まれたものになる。ウィトゲンシュタインの「意味は用法」という意味の定義と「言語ゲーム一元論」という考えに立脚すると、われわれの日常言語が正常におこなわれるためには、ウィトゲンシュタイン自身が日常言語から排除したがっている特殊な状況下でのみ意味をもつ諸命題に支えられていなければならないということになる。そしてこれらの命題は、日常言語から排除され「論理学」の領域にはいった途端に、「用法」を失い「意味」を失う。ウィトゲンシュタインは、超越論的視点を解消するために、このような奇妙な事態を出来させてしまったように思われる。さらにウィトゲンシュタイン自身が、「言語ゲームの記述」がこのような超越論的視点の隠蔽装置としての「論理学」に属すると言っている以上、「言語ゲームの記述」の視点もやはり超越論的視点であると言わざるをえない。
「言語ゲームの記述」が「論理学」の領域に属するのであれば、「論理学」という概念は、言語ゲームを可能にする「表明されることのない」無意味な枠組を意味していると同時に、「記述」の言語ゲーム(つまり『哲学的探究』や『確実性の問題』といったテクストで展開されている言語ゲーム)がおこなわれる領域をも意味していることになる。ウィトゲンシュタインは、「記述」の言語ゲームが「論理学」の領域にはいると言うことによって、この「記述」ゲームが日常的な言語ゲームには属さないことと、「記述」の視点がある特別な性質をもつこととを示そうとしている。しかしこのことは成功しているのだろうか。「言語ゲームの記述は、ことごとく論理学に属する」という言明をしているウィトゲンシュタインの視点は、「論理学」そのものを対象化しているがゆえに、「「私の手の存在」(「論理学」の命題)は分からない」という言明をすることによって、「論理学」の領域に属する命題を対象化している懐疑主義者と同じ視点にたっていることになる。『哲学的探究』における「記述」の視点は、一般の言語ゲームを支える「論理学」の領域に属し、それゆえ、もしかすると「説明」の視点とは異なるものであるかもしれないが、『確実性の問題』における「言語ゲームの記述は、ことごとく論理学に属する」という「記述」は、あきらかにウィトゲンシュタイン自身の攻撃する相手である懐疑主義者と同一の視点にたっていると思われる。そうなると「論理学」という概念は、「蝶番」命題が属する枠組としての領域と、その枠組もふくめて、すべての言語ゲームを「記述」するゲーム全体の領域との、二つの領域を指していることになるのだろうか。しかし、そのように二つの領域を設定したとしても、「言語ゲームの記述は、ことごとく論理学に属する」という命題は、無意味である。というのも、日常の言語ゲームを成立させる基盤となっているために、日常の言語ゲームでは使われない(その文脈を想定できない)命題は無意味だというウィトゲンシュタインの『確実性の問題』における方法を踏襲すれば、この「言語ゲームの記述は、ことごとく論理学に属する」という命題も、言語ゲームの「記述」そのものが「論理学」に属することは、その「記述」ゲームをささえる基盤であり、実際の「記述」ゲームにおいては「表明されない」のだから、「論理学」の領域では文脈を想定できない無意味な命題になるからである。「疑う/信じる」以前の状態と言語のみの言語ゲームとのあいだに境界を設けるのではなく、ウィトゲンシュタインのように日常言語を支える「蝶番」命題とそれを基盤にした言語ゲームのあいだに境界を設けると、このようにウィトゲンシュタイン自身が考える「論理学」の領域における「記述」ゲームに関する命題が無意味なものになってしまうのだ。
しかし、そもそも「論理学」の領域が、先に述べたように、ある意味で「超越」した領域なのであれば、「記述」ゲームも、日常の言語ゲームの文脈で成立した「意味」を「記述」ゲームでも有効なものとしながら、超越論的視点のみを回避するために無意味化するという操作をおこなっていることになる。ただし、『哲学的探究』と『確実性の問題』というテクストにはそれぞれの文脈があり、この二つの「記述」ゲームが、それ独自の「記述」ゲームとしての文脈を有しているのは、当然ながら明白である。そうなるとウィトゲンシュタインは、このような文脈をもつ(しかし、これは日常の言語ゲームとまったく同じ次元の文脈である)「記述」というゲームは、一般の言語ゲームでもなく、また懐疑主義的言語ゲームのようなものでもないと言うためだけに、「論理学に属している」と言ったのだろうか。しかし、もしそうであれば、「記述」が属する「論理学」という概念は、なんの規定もされないままに、「記述」ゲームの視点を独自のものにするためだけに提出された空虚な概念にすぎないことになる。このような観点にたてば、「記述」が属する「論理学」という概念は、「蝶番」命題の属する「論理学」という領域とは、まったく異質の領域を表すものであり、「蝶番」命題の属する「論理学」が日常の言語ゲームとは異なる領域であるという、ただ一つの理由から、「論理学」という同じ名称を強引に使用しているにすぎないことになる。ウィトゲンシュタインは言う。
哲学は、決して言語の実際の使用に抵触してはならない。それゆえ哲学 は、結局のところ言語の使用を記述できるだけである。
というのも哲学は、言語の使用を基礎づけることなどできないからであ る。
哲学はすべてのものを、そのあるがままにしておく。(PU,124)
「記述」が本当にこのようなものであれば、それは懐疑主義的言語ゲームや、その他もろもろのウィトゲンシュタインの攻撃する言語使用にも抵触してはならないことになる。それとも「日常言語」という曖昧な概念を特権化して、それだけに抵触しないとでも言うのだろうか。いずれにせよ「記述」は、少なくとも「蝶番」命題の属する「論理学」の領域には属していない。このような「記述」の属する領域が明確にならないかぎり、「記述」ゲームは、ウィトゲンシュタインの言う意味での「記述」ではなく、日常の言語ゲームと同じ次元にある単なる一つの言語ゲームにすぎないことになるだろう。『哲学的探究』の「記述」は、ウィトゲンシュタインの意図に反して、ことによると(「日常言語」の特権化がおこなわれていないならば)単なる一つの言語ゲームにすぎないのかもしれない。しかし、『確実性の問題』の「記述」は、「分別ある人間の法廷」という概念を導入し、この概念が「記述」の属する「論理学」の領域と通底することにより、あきらかに単なる一つの言語ゲームではなくなっているように思われる。むろん、ウィトゲンシュタインの意図した言語ゲームにもなっていない。この点に関しては、他日を期したい。
-引用および略記号について-
ウィトゲンシュタインの著作と二次文献の引用ならびに参照指示は、次の略記号を用い本文に挿入した。ウィトゲンシュタインの引用の数字は節番号を表し、ほかの引用は頁数を表す。引用に際し、翻訳のあるものは参考にさせていただいたが、地の文との釣り合いなどにより変更させていただいた部分もある。
<ウィトゲンシュタイン自身の著作>
Ludwig Wittgenstein,Werkausgabe in 8 B■nden,Suhrkamp Taschenbuch Wissenschaftを使用した。
PU: Philosophische Untersuchungen.1977. 邦訳…『哲学探求』藤本隆志訳、 大修館書店、『ウィトゲンシュタイン全集』第八巻、一九七六年
TLP: Tractatus logico-philosophicus.1984. 邦訳…『論理哲学論考』奥雅 博訳、大修館書店、『ウィトゲンシュタイン全集』第一巻、一九七五年 所収
UG: ■ber Gewi■heit.1984.邦訳…『確実性の問題』黒田亘訳、大修館書店、 『ウィトゲンシュタイン全集』第九巻、一九七五年 所収
<二次文献>
C :Cook John W.,Notes on Wittgenstein's On Certainty in The Philosop hy of Wittgenstein,vol.8.(ed.by John V.Canfield) Garland Publish ing,Inc.New York and London,1986
I : 伊藤邦武、「ウィトゲンシュタインの最後の言語哲学-言語ゲーム論の限界について 」 、『人間存在論』一九九八年第四号
K : 鬼界彰夫、「『確実性について』に関する一考察」、『科学哲学』三一 -一、一九九八年
Sa: 崎川修、「世界像と他者 『確実性の問題』再考」、『上智哲学誌』第一一号、一 九九八年
St: Stroll,Avrum,Moore and Wittgenstein on Certainty.New York Oxford:Oxford University Press,1994
*本稿は、中央大学大学院生岡山敬二氏との議論からいくつかの有益な示唆を得た。