この映画ってタヌキが表現の階層をもって描かれているんですよね。

まず、キャラクターとしての狸です。これは、アニメーションにおけるアニメ絵的な狸として描かれている。これでその狸のキャラクターがわかる。


ふたつめは、リアルな狸です。これは自然界に暮らしている狸を生物学的に描いたもので、このタヌキになるとキャラクターはわからなくなるけれど、ふだんわたしたちが眼にしているタヌキがこれです。


みっつめは、落書き的な狸です。非常にラフなスケッチで描かれた狸なんですが、タヌキたちがキャラクター化もできず、リアルにもなれないときはこの落書き的タヌキがでてきます。たとえば、タヌキたちが死ぬときや宝船にのってどこかにいくときなんかはこの落書き絵になるんですが、そんなふうに《どこにもゆけない》タヌキが超越的に描かれるときは、この落書き絵になります。
で、おもうんですが、『平成狸合戦ぽんぽこ』の映画って、狸が人間に変化する話じゃなくて、アニメのなかで狸の表現が変化していく話だとおもうんです。
表現にはいろんなレベルがあって、それぞれのレベルで背負えるものが決まっている。
その絵のレベルで背負えるものが決まっているということです。
たとえばこの絵だとキャラクターは背負えるけど現実は背負えないとか。この絵だと現実や社会問題は背負えるけれど、超越的な死の意味は背負えないとか。
そういう表現の階層の戦いがこの映画では描かれていたんじゃないかとおもうんですよ。
まず、キャラクターとしての狸です。これは、アニメーションにおけるアニメ絵的な狸として描かれている。これでその狸のキャラクターがわかる。
ふたつめは、リアルな狸です。これは自然界に暮らしている狸を生物学的に描いたもので、このタヌキになるとキャラクターはわからなくなるけれど、ふだんわたしたちが眼にしているタヌキがこれです。
みっつめは、落書き的な狸です。非常にラフなスケッチで描かれた狸なんですが、タヌキたちがキャラクター化もできず、リアルにもなれないときはこの落書き的タヌキがでてきます。たとえば、タヌキたちが死ぬときや宝船にのってどこかにいくときなんかはこの落書き絵になるんですが、そんなふうに《どこにもゆけない》タヌキが超越的に描かれるときは、この落書き絵になります。
で、おもうんですが、『平成狸合戦ぽんぽこ』の映画って、狸が人間に変化する話じゃなくて、アニメのなかで狸の表現が変化していく話だとおもうんです。
表現にはいろんなレベルがあって、それぞれのレベルで背負えるものが決まっている。
その絵のレベルで背負えるものが決まっているということです。
たとえばこの絵だとキャラクターは背負えるけど現実は背負えないとか。この絵だと現実や社会問題は背負えるけれど、超越的な死の意味は背負えないとか。
そういう表現の階層の戦いがこの映画では描かれていたんじゃないかとおもうんですよ。