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改元の舞台裏/1(その2止) ひっそり、元号一筋の人生 漢籍に通じ史料調査
2019年04月03日


 

 元号担当の尼子昭彦・国立公文書館公文書研究官が何度も訪れた学者は、秋山虔(けん)・東京大名誉教授だけではない。今回の改元にあたり考案を委嘱された石川忠久・元二松学舎大学長(86)=中国文学=も、尼子氏の訪問を度々受けた。

 石川氏は1989年から漢籍研究団体「斯文会(しぶんかい)」理事長を務める。江戸幕府直轄の「昌平坂学問所」があった湯島聖堂を管理する団体だ。尼子氏を理事長室に迎えるとソファを挟んで意見交換したという。石川氏は「漢籍を題材に尼子氏が質問することが多かった。年が(20歳前後も)離れているので、しゃっちょこばって(緊張して)いた」と話す。最近は2017年に訪問を受けたという。

 同様に、今回考案を委嘱された池田温・東京大名誉教授(87)=中国史=にも尼子氏が接触。池田氏の妻〓子(あやこ)さん(86)によると、天皇陛下の退位を実現する特例法が成立した後の17年秋ごろ、尼子氏から自宅に電話があり、近況を尋ねられたという。

 歴代の官房副長官補経験者によると、尼子氏は、提出された元号案が過去に中国などの王朝で使われていないかや、国内外の人名や店名と重複しないかなどを史料や電話帳で調べるチェック役を担った。

 そんな尼子氏を「吉田増蔵(ますぞう)みたいだ」と評した漢学者もいる。「吉田」とは大正から昭和前期に宮内省(当時)の図書(ずしょ)寮編修官を務めた漢学者だ。文豪・森鴎外が宮内省幹部の図書頭(ずしょのかみ)として元号の出典などをまとめた「元号考」の編集を手伝った。鴎外の死去後、中国はじめ漢字文化圏の過去の元号との重複がない「昭和」を考案した人物だ。

 ただ、尼子氏の仕事を多くの同僚は知らなかった。90年代に公文書館に勤務したOBは「何をやっているか知らなかったが、『それでオッケー』という特別扱い。本務が内閣事務官で公文書館は兼務だったのも影響したのだろう」と語る。現職の公文書館職員は「秘密の部屋があるらしく、どこで仕事をしていたかも知らなかった」と話した。

 尼子氏は時々「今日は『向こう』に行ってきます」と言って公文書館を出た。事情を知る元同僚によると、内閣官房での打ち合わせだったという。

 尼子氏は52年生まれで、知人は「山陰の戦国大名の尼子氏とゆかりがあると聞いた」と語る。専修大卒業後に二松学舎大大学院の修士・博士課程で漢籍を学んだ。平成改元の前年の88年に公文書館に採用され、副長官補室も併任。07年10月の公文書館の特別展「漢籍」では中心的役割を果たした。その後体調を崩し定年前に退官。内閣官房に「特定問題担当」として再任用され、非常勤の元号担当を続けた。

 新元号準備を30年間にわたって担った尼子氏。その行方を学会のつてなどでたどると、東京都内のマンションに住んでいるとの情報を18年10月に得た。ところが記者が訪ねると別人が住んでいた。マンションの管理人によると尼子氏は1人暮らしだった。管理人は「18年5月19日に後輩の職員が『出勤して来ない』と訪ねて来て、亡くなっているのを見つけた。警察によると病死だった」と話した。

 60代半ばで亡くなった尼子氏。取材班は中国地方に住む尼子氏の弟への取材も試みたが、会うことはかなわなかった。弟は手紙で「兄の仕事や私生活も分からない」と説明。内閣官房の職員名をあげて「勤務先の方に(遺品を)見て頂き、殆(ほとん)どの物を整理処分」したと記した。この職員によると部屋に大量の本が山積みになっていたといい、「尼子氏は『本の虫』だったみたいですね」と語った。

 尼子氏と何度も会っていた石川氏は取材班から死去を知らされると「えー」と絶句し、「二松学舎出身で親近感を持っていた。残念だな、残念だな」と繰り返した。公文書館の高山正也前館長(77)は「漢籍に生きがいを見いだしていた人だった。改元が近づき『自分でなければできない』という自負はあったと思う」と悼んだ。

 改元のまさに1年前に途切れた尼子氏の寿命。弟の名前のうちの1文字は「和」で、尼子氏の「昭」彦と合わせると「昭和」となる。「元号一筋」の人生だった。

◇肩書は「公文書研究職」 尼子氏「本務」は内閣官房

 87年成立の公文書館法の4条2は「歴史資料として重要な公文書等についての調査研究を行う専門職員その他必要な職員を置くものとする」と定める。この法律を受けて新設された「公文書研究職」として、尼子氏は国立公文書館に採用された。その前にも公文書館に漢籍の専門家はいたが、元号担当ではなかった。

 当時の事情に詳しい公文書館OBは「以前から研究職新設を求めても認められなかったが、元号専門の職員を採用するのを呼び水にして内閣官房に認めてもらった」と話す。

 一方で「本務の内閣官房に元号担当がいると目立つので、秘密にするために公文書館に机を置いて仕事をしていた」(別のOB)との証言もある。本来の元号担当は副長官補室だが、尼子氏が公文書館も兼務したのはこのためだ。

 尼子氏の採用時の公文書館長は菅野弘夫氏(09年死去)。79年の元号法成立直後に、当時の元号担当だった総務庁長官を支える事務方トップの総務副長官だった。この時期に政府は、昭和に代わる新元号の考案を学者に依頼。これに菅野氏が関与した可能性がある。

 菅野氏は公文書館長の後の89~94年に、宮内庁で皇太子さまに付く「東宮(とうぐう)職」トップの東宮大夫(だいぶ)も務め、皇室ともゆかりがあった。

 公文書館は71年開設で01年に独立行政法人化。役所から移管された重要文書を管理・保管し、一定の期間を経たものを公開する。和漢の古典籍・古文書約50万冊に、明治以降の公文書などを含めると計約140万冊を所蔵。貴重な古典籍が引き継がれている。

◇作業部屋、看板なく

 首相官邸と道路を挟んだ向かいにある内閣府本府(ほんぷ)庁舎。6階建ての建物には、内閣府だけでなく官邸に入りきらない内閣官房職員も陣取る。元号担当の古谷一之官房副長官補(63)の執務室や、副長官補室の職員らが集まる部屋があるのは、この建物の5階だ。

 内政全般の課題が集中する5階に対し、地下1階には、元号や皇室に関する業務に絞った極秘の作業部屋がある。そうした部屋に、部署名を示す看板はない。

 その地下1階に向かうある男性職員に、取材班の記者が気付いたのは昨秋だ。1階ロビーで省庁幹部の出勤を待つ日常的な取材をする中、出勤中のその職員の独特な仕草が目を引いた。

 平日の午前9時半前後。職員が庁舎1階のゲートを途切れることなく通過しエレベーターや階段に急ぐ中、その職員は通過後すぐに体を反転させ周囲をぐるりと見回していた。流れに逆らい尾行を警戒するかのような行動。その行動の後、人目につきにくいルートを選んで地下1階へと消えていく姿が連日見られた。

 取材の結果、その職員が、尼子氏から元号担当を意味する「特定問題担当」を引き継いだことが判明した。何度か取材を試みたが、職員が応じることはなかった。「副長官補室座席図」には、地下1階の作業部屋に関する記載はなく、この職員の名前も見当たらなかった。

 しかし新元号発表を翌日に控えた3月31日、首相官邸にこの職員が現
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