三国志 考察 その12 後漢の宦官は必要悪(2)のつづきです。
3.沖帝(第9代)~桓帝(第11代)時代
順帝の皇后は梁氏で、皇后の父の梁商が大将軍となり順帝を補佐します。梁商は謙虚な人物であり賢者を推薦して政府に招聘するなど善政に努め、順帝の信頼も厚いものでした。
しかし、永和6(141)年梁商は病で亡くなります。梁商の子梁冀は父とは違って極めて粗暴で驕横な男でしたが、順帝はそのまま梁冀に父の後を継がせ大将軍とします。
建康元(144)年、順帝は崩御。年はわずかに30歳でした。
順帝が崩御すると、子の劉炳が2歳で後を継ぎます。これが沖帝です。母親は虞冀人といい梁皇后の子ではありません。しかし、漢王朝では帝が幼い時は、実質的に権力を握るのは皇太后であり、梁太后とその兄の大将軍梁冀が政治の実権を握ります。ところが、この幼帝も翌年(建康元(145)年)に3歳で病死してしまいます。
このため、皇族の皇子(章帝の玄孫)である劉纘が帝として選ばれ、帝位につきます。これがのちの質帝です。年は8歳。帝は幼いながらも賢く、梁冀が驕横であることを知っていたため、朝臣らの前で梁冀を指して「此は跋扈将軍である也」と述べたといいます。
梁冀はこれを深く恨み、また将来自らを脅かすのではないかと考え、本初(145)元年、質帝を密かに毒殺します。
後継の帝を誰にするかについて朝廷ではもめることになります。
後継候補の皇族のうち、清河王劉蒜は人となりが厳重であるとされ、また年長であるため、太尉の李固ら朝臣は彼を帝に推します。
ところが、梁冀は別の皇族の皇子(章帝の曾孫)である蠡吾侯劉志(当時15歳)を推したいと考えていました。梁太后は、劉志と自分の妹(梁冀の妹ということにもなります)との婚礼を進めていました。婚礼になる前に質帝が毒殺されますが、この縁組が劉志を擁立したいと梁冀は考える大きな要因になったと思われます。また、年少の帝であれば外戚は実権を握り続けることができます。
しかし朝廷では、賢明とされる清河王劉蒜を推す声は多いため、梁冀は判断に迷います。
ここで、出てきたのが中常侍(宦官)の曹騰です。曹騰は曹操の祖父(養子曹嵩の子が曹操です)にあたります。かつて、曹騰が清河王劉蒜に面会した時に、劉蒜は宦官である曹騰を蔑み礼を為さなかったため,曹騰は劉蒜を憎みました。また曹騰は、劉蒜は宦官に対して悪意があると考え、彼が帝になると宦官の処遇が危ういものになると危惧の念をいだいたものとも思われます。
このため、曹騰は梁冀の元を訪れ、賢明で年長者である劉蒜が帝になると梁冀は実権を奪われるだろうから擁立しない方がよい、と劉志の擁立を推します。これを聞いた梁冀は、李固ら朝臣らが反対する中、強引に劉志を即位させます。これが、のちの桓帝です。梁冀は劉蒜を推していた大尉の李固を解任し、後に殺し世間を失望させます。
桓帝が即位すると、縁組が進んでいた梁太后の妹の梁女瑩が皇后に立てられ、梁冀は外戚として絶大な権力を振るうことになります。梁冀の横暴は更にひどくなり、国家の財産を私物化し、後宮は奢侈を極め、梁冀の妻の孫寿の一族まで権勢を振るうことになります。梁冀が豪邸を建てると、妻の孫寿も競って豪邸を建てて張り合うような有様でした。
和平元(150)年、梁太后は病が篤くなり、政治を19歳になった桓帝に返すように言い残し死去します。しかし、梁冀は変わらず朝廷を専権し、実権を握り続けます。
しかし、梁皇后(梁女瑩)が延熹2(159)年に死去すると、かねてより梁冀の暴虐を憎み、またその権勢に脅威を感じていた桓帝は梁冀の誅滅を考えます。
ところが、朝廷からは反梁冀派は一掃されおり、残るのは梁冀の息のかかった者ばかりです。桓帝が頼れるのは身近に使える宦官だけでした。
桓帝は密かに単超ら5人の宦官と謀議を進め、兵を発して梁冀の豪邸を囲みます。梁冀は妻と息子の梁胤と孫の梁桃と共に自害し、梁一族も悉く誅滅されました。
没収された梁冀の財産は、国家の租税の半分を占めるほどであり、梁冀に連座して死刑になった高官は数十名、免職になった者は300人余りであり朝廷は一時期空になるほどだったといいます。
梁冀の誅滅に功があった単超ら5人の宦官はそれぞれ侯に封じられ、これより帝の信任厚い宦官に政治の権限は帰すことになり、宦官の専権・横暴により朝廷は日に乱れていくことになります。
以上(1)~(3)を見ていきますと、後漢の中後期の歴史は、
○帝が若年で崩御する
⇒外戚が実権を握り専横する
⇒成人した皇帝(順帝の時は廃太子であり若年ですが)外戚の専横を憎んで、側近の宦官達と謀って外戚を誅滅する
の繰り返しだったことがわかります。朝廷に仕える士大夫達は、反外戚派は排除されてしまっているため、専横する外戚を打倒するのには役に立たず、皇帝が頼りになるのは側近の宦官だけでした。これでは、皇帝が士大夫らを役立たずと思い、頼みになるのは宦官達だけだと思うのは仕方ないでしょう。
また、現代の我々が想像する宦官像、つまり「なよなよとして、すぐめそめそ泣くような弱弱しい態度で、軍事などとは関わりもないが、一方で宮中工作のような悪知恵だけは回る」ような、柔弱で陰湿なイメージは少なくとも後漢においては誤りであることが分かります。彼らは、宮中で戦いがあった時は自ら剣を振るい、兵を率いて敵を打倒するために戦う「武闘派集団」だったのです。
桓帝・霊帝の時代の宦官の専横や士大夫に対する弾圧が、後漢滅亡の大きな要因となったのは確かですが、一方で皇帝側近の宦官達が皇帝権力を守るために戦うことがなければ、その前の段階で外戚の専横・簒奪によって後漢は滅んでいた可能性が高いといえます。皇帝が本当に信頼し頼れる存在であった宦官が、霊帝死後に袁紹らによって皆殺しにされるに及び、権勢を振るう臣下から帝を守れるものはいなくなりました。
最後には外戚の曹操・曹丕親子により帝位は簒奪されました。この頃には朝廷の周りの人物達は実質曹家の臣下に等しく、曹丕から皇帝を守る者はいませんでした。皇帝を守る宦官が根絶やしにされたことが、そのまま後漢の滅亡につながったといえます。
しかし、後漢を簒奪した最後の外戚曹操・曹丕親子が、宦官の子孫であるというのは歴史の皮肉と言えるのではないでしょうか。
参考文献
三田村泰助『宦官 側近政治の構造 改版』中公新書