| | ―― なんか話がまとまってしまいましたね(笑)。 結城 あ、そうだね。ははは。どこまで言ったっけ? ああ、『ザンボット』『ダイターン』。このあたりは金田さん、と言うか富野作品というくくりだね。『ザンボット』はかなり作画がへたれてたんで、ストーリー以外で観るべきところは、スタジオZの回と、最終回しかない。最終回は佐々門(信芳)さんなんだけど、かなり安彦さんの画に合わせてあってね。佐々門さんは安定して巧い人なんだよね。だから、作画的にかなり救われている。で、「ブッチャー最後の日」の方は、金田さんと富沢(和雄)さんの、作画の暴走が、今観ても凄いかな、と。 ―― そう言えば、最近『家なき子』のビタリスが死ぬ回を観たんですけど、「ブッチャー最後の日」への影響を強く感じましたよ。 結城 富沢さんってやっぱ杉野さんの影響が凄く強かったから。金田さんだけだと、あの味は出なかっただろうね。だからこの2人が相まって凄くいい画になってる。 で、『ダイターン』も、押すとすればこの2本。Zがらみの話では「遙かなる黄金の星」がいちばんかな。『ダイターン』って遊びの回が多くて、Zも気楽なお遊びの回をよくやってるんだけど、この話だけもの凄くシリアスな回だったじゃない。富沢さんの作画と相まって、万丈が軽いだけじゃなくて、厚みのあるキャラクターとして描かれていて、よかったなあ。最終回は、塩山(紀生)さんの作画も、タッチだけで動かすというのが、当時斬新だなあって思ったしね。 ―― 最終回は、動画まで塩山さんがやっていたそうですからね。 結城 セルをみたけど、どれも塩山さんの線だったね。お話的にも、最終回って凄く救われない話なんだけど、最後に明かりがついて……。あそこに富野さんの演出の真骨頂があるよなあ。 で、『ガンダム』は、安彦さんが何本もやっているし、どれもハイレベルな作監作業をしているから、どれか選べないんだけど、こうやって選んでいる中で『ガンダム』を外すと、安彦さんに対して申し訳が立たないから。 千羽 (笑) 結城 やっぱり安彦さんって言ったら『ガンダム』でしょう。そうなると、最終回は安彦さんやってないから、1話かなあ、って。キャラもいいけど、メカの描き方、特にレイアウトが秀逸だったでしょう。ビームサーベルでザクを貫いてる画なんて、今観ても格好いいからね。あのバランスっていうのは、今でも描ける人はなかなかいないんじゃないかなあ。あれはアニメーターの画というレベルじゃなくて、もう漫画のコマのような感じだったよね。それぐらい1話のレイアウトは決まってた。 ―― で、『ダンバイン』ですか。 結城 『イデオン』が中途半端な作品だったというのと、今回は劇場作品を入れないという基準で選んだからね。実は、『発動編』の前にTV用に作業していた時の画、あれが、湖川さんの画の中ではいちばん好きなんですよ。劇場版にも数ヶ所入っているんだけど。 ―― TVの未放映分の作画と、改めて劇場用に作画したところってそんなに違うんですか。 結城 違うんだよ。例えば、コスモとカーシャが向かい合って話してるだけの場面なんだけど、TV用として描いていたカットと、『発動編』用に描いたカットが交互に入っていて、「画が違うじゃん」みたいな感じになるんだ。 ―― なるほど。 結城 その湖川さんの作画がいちばん好きではあるんだけど、今回の20本のひとつとして選ぶには、ちょっとどうかなと思うから(苦笑)。そうなると、TVシリーズで湖川節が炸裂したのは、『ダンバイン』の1話だろう、と。で、その弟子筋の大森(英敏)さんが爆発したのが「ハイパージェリル」だろう、という事で選んでみました。特に、1話は、富野さんの演出も秀逸で、今まで誰もやった事のない事をやろうっていう意志がありありだったよね。あの頃は、ファンタジーものがほとんど日本に現れてなかった時期だったから、新鮮だった。ただ、後半は群衆劇になりすぎちゃって焦点が絞り込まれてないよね。 千羽 『ダンバイン』も後半はビルバインが主役になっちゃいますよね。あれが凄くびっくりしました。 結城 そうそう。あれも今までなかった(笑)。『ザブングル』の時に、後半でウォーカーギャリアが出てきた時に、オープニングで、ザブングルが立ってるところにバーンて上から被さってくるじゃない? これはギャグなのか、って思いましたよ。 千羽 あはは。富野さんって、そういうサービスっぽいところが多いですよね。 結城 洒落っ気って言うか、いたずら心と言うのかね。話を湖川さんに戻すけど、湖川さんの提唱した「リアルに物体を捉えよう」みたいな方法論が広くアニメ界に浸透した、という事も大きいね。 千羽 高橋(ナオヒト)さんに言われました。「安彦さんの画は上を向くと顔が伸びるけど、湖川さんの画は上を向いても変わらない。湖川さんのやった凄さというのはアニメーターは分かっているべきだな」って。 結城 うん、そうですね。勿論、元々『ガッチャマン』でも、そういう画は描かれていたわけだけど、それはまだまだアニメナイズされていなかったわけだよね。それを湖川さんは巧くアニメナイズしたんだと思います。 千羽 でも、最近の入ってきたばかりのアニメーターさんは、湖川さんを知らないですね。私は湖川さんの作画法の本は、新人アニメーターさんはみんな買うものだと思っていたから……。 ―― それを「買うものだ」と思うのは、千羽さんがスタジオジャイアンツ出身だからじゃないですか? 千羽 えっ、そうですか。 結城 ははは。 ―― 千羽さんの先輩には、湖川さんの影響を受けた人が多いような気がします。さて、ここまでで20本ですが。番外としても数本ありますよね。 結城 自分の中で好きなアニメーターを挙げていくと、やっぱり金山(明博)さんの名前が出てくるんだよね。『ダイモス』も結構好きだったんだけど、『ボルテス』の最終回がね。長浜(忠夫)さんのドラマの盛り上がりも好きだったし、作画的にも、やっぱり凄い。ハイネルが対決して死ぬあたりなんか、凄くよかったなあ。金山さんって、画に対する思い入れが人一倍あったんじゃないのかなあ。あるいは、思い入れだけで描いていると言うか(笑)。思い入れだけ、という意味では、俺に近いかもしれない。だから、画の生き生きした感じにおいては、杉野さんの『あしたのジョー』をも上回るかもしれない。 千羽 ああ、なるほど。 結城 『ボルテス』にしろ『ダイモス』にしろ、目がきらきらしていて生き生きした感じが出ていて、俺は惹かれるね。 それから、『マクロス』の「愛は流れる」は、自分がアニメーターになる最終的な決心をしたアニメであり、自分が門を叩いたアートランドの代表作。トータルとしては劇場版の方がレベルが断然高いと思うんだけど、『家なき子』もそうだけど、長いTVシリーズを経て、盛り上がった話の魅力っていうのがあるじゃないですか。そういうところでは抜群のできなんじゃないかな。それに河森さんは、この頃、まだ学生だからねえ。その頃に、このレベルの話を作れる河森さんは凄いなあ。近来まれに見る天才だろう、と思うんですよね。最近のアニメ監督さんは、バランスがよくて、そつなく作品をこなすけれど、例えば富野さんのように「作家」がアニメを作っているというタイプとしては、河森さんが最後じゃないかなあ、って。……まあ、庵野さんはそれに近いのかな。 「愛は流れる」は、作画的にも美樹本さん、庵野さん、板野さんという、夢の共演みたいな感じだったし。庵野さんも学生だったよね。 千羽 凄いですねー。 結城 板野さんも、庵野さんもアニメーターとしては天才だと思うんだけど、タイプが違うんだよね。板野さんは、自分が覚えている感じで描いたり、「こんな風にすれば格好よくなるんじゃないか」という感じで描いたり、ナチュラルに描くタイプなんですよ。なんとなくパラパラマンガ的に画を描いちゃう。 千羽 いいなあ。はー(溜息)。 結城 そういう意味では師匠がいない、天然のアニメーター。『ガンダム』以降、ロボットものの動きの基礎をあの人が全部作っちゃったでしょ。『ガンダム』劇場版に出てくる宇宙空間の爆発から、『イデオン』のTVシリーズでは速い動きと、それ対してミサイルが追ってくるという概念やミサイル全掃射まで、みんなあの人が作った動きだから。その意味では、ロボットアニメ、SFアニメで、あれを下敷きにしていない動きはない。 一方、庵野さんっていうのはもの凄く観察力がある人だよね。板野さんの影響も受けてはいるんだろうけれど、『マクロス』の劇場版の時に、全く違うアニメーターなんだなというのを認識したんだ。庵野さんは核爆発のシーンを担当しているんだけど、その時にずーっと、ビデオの「アトミック・カフェ」を観ているんだよね。1コマ1コマ送っていくのではなくて、流しっぱなしで繰り返し繰り返し。もう鬼気迫るものがあったね。「変な人だなあ」と思っていたんだけど、ラッシュで、ブワーッって爆発が広がる動きを観た時に、「ああ、こういう事がやりたかったんだ。こういうふうに動くって見極めたかったんだ」って分かって、天才だな、って思った。板野さんと違って、ものが動くっていうのを客観的な視点から再現していくんだよね。それが『(オネアミスの翼)王立宇宙軍』で開花したわけだけど。 言ってはなんだけど、僕が最初に入ったアートランドっていうスタジオは、巧い人はそんなに多くなくて。だから、この業界はこんなものなのかなっていう軽い失望感みたいなものが、自分の中であったんです。ところが、劇場版『マクロス』の班に入ったら、もの凄い人達がいて、「うわー、俺なんかミジンコのような存在だなあ」みたいに思えたの。それが自分の中の、原体験と言うか、バネになったような気がする。そういう意味でも『マクロス』というのは、俺にとって大事なタイトルですね。 ―― なるほど。 結城 で、まあ『未来少年コナン』は、宮崎作品中ではいちばん好きと言っても過言ではないので。 ―― というところで、一通り終わりましたが、いかがですか、千羽さん? 千羽 …………〈コクリコクリとうなずく〉。 ―― そんなにうなずかれても、喋っていただかないと、読者には分かりません(苦笑)。 千羽 いや、うなずいているんじゃなくて、ひたすらペコペコしています。 結城 千羽さんのリストは、プロになってから同業者として頑張ろう、という感じでしたけど、俺のはそうじゃないですよね。おたくの原体験と言うか(笑)。 千羽 私も最初はそういうものを挙げてみたんですけど、それではあまり語る事ができそうになかったんです。 結城 そのあたりが違うところですかね。俺なんか、あまりできがいいものを観ると、「チェッ」って思って、へこんじゃうから。 千羽 結城さんでもへこむ機会なんかあるんですね! 結城 いやいや、観るとへこんじゃうから、あまり観ないようにしてるんです(苦笑)。 千羽 えーっ。ほんとですか。そんな……。 結城 あまりできのいいものを観ると影響されちゃうという事もありますね。そういうものを観て勉強したい気持ちもあるんだけど、それよりも「自分の画とはなんぞや」というものを追究したい気持ちが強いんで。今のアニメ業界に対する疑問もあって、そういう部分は貫いていきたいな、と。今、デザインや絵柄について、これのいいところと、あれのいいところを組み合わせたらこうなりました、っていう傾向が強いような気がするんですよ。それをやっていくと、確かに見た目はよくなるんだけど、誰が描いても同じじゃないか、って。それはブロックの組み合わせみたいで面白くないよな、と思うんです。俺は自分が観てきた作品を大事にしたいというか、自分が観てきた作品は、みんなそれぞれに特色のある人が作っているじゃないですか。やりたい事や方向性をはっきり持っていて、ひとつのスタイルを作った人達なんで、自分もできればそうありたいなあ、って。 千羽 一時期、アニメ雑誌を見ると、みんな絵柄が同じ傾向になっていた時期がありましたよね。そう望まれるところもあるんでしょうけど。その時に周囲のみんなと話していたのは、私達が観ていた頃は、安彦さんの画だったり、杉野さんの画だったりしたわけで、それぞれ作家性が違っていて、贅沢だったね、幸せだったね、という事でしたね。 結城 そうですよね。千羽さんは、今はその頃よりはましになってる気はします? 千羽 まあ、その頃よりは。でも、メイドが流行ったら、みんなメイドみたいな動きは今でもありますよね。富野さんが、今までにないものを作りたいっておっしゃっているという話を聞くと、ああ、そうよねーって思いますね。 結城 でも、その富野さんが選ぶのが、すでにイラストレーターとして活躍している、いのまた(むつみ)さんであったり、畑が違う安田(朗)さんであったりするというところからして、もう末期なのかな、という感じもするんですよ。 千羽 でも、そうやって他の方を呼んでくることで、変わってきているようにも思えます。 結城 ただね、今はマンガ自体も、描いている人がアニメが好きだったりして、同じような画を量産してるところもありますからね。 千羽 画を見て画を描いているような感じですね。 結城 そうそう。そうすると、線の取り方や解釈が自ずと似てくるんですよね。その原因は、もしかしたら、第1次アニメブームでアニメを観た世代がアニメ業界の中心になってしまっている、下手をするとその人が作った作品を観た世代がバリバリ現役でやっているせいかもしれないなあ、って。 千羽 そうかもしれませんね。 結城 俺の画なんて、よく「濃い」って言われるんですよね。場合によっては「濃いから嫌い」とまで言われるんだけど(苦笑)。「濃い」事を目指しているわけではないんだけど、一応他とは区別されているという事で言えば、それは悪くはないだろう、と。アニメーターというのは、時に誰が描いたのか分からない画を求められることもあるんだけど、それは俺が求めるものではないから。 千羽 オリジナルでキャラを描く立場だと、そのあたりが違いますよね。 結城 でも、原作がある場合でも、原作を無視はしないですけど、作品として、原作とは別物として成り立つようにはしたいじゃないですか。 千羽 それは分かります。 結城 だから、俺は『ToHeart』の元の画はあまり好きではないんですけど、それをアニメ版でああいう風にまとめたっていう事は、凄く評価してるんですよ。 千羽 ありがとうございます。 結城 千羽さんは、例えばキャラクターをデザインするうえで、考えてらっしゃる事ってどういう事なんですか。 千羽 そうですね……。作品によって考えが変わってしまうんですけど、どんな企画であっても、身が詰まっていそうな、どこかほんとにいそうな感じに、どういう風にもっていったら見せられるんだろう、って考えますね。 結城 それはある種のリアリティっていうことですか。 千羽 はい。存在感と言うか。オリジナルを1本しかやったことないので、オリジナルの話は、ちょっと難しいんですけど、原作がある時には……。私は学生時代、自分の凄く好きだった漫画がアニメ化されるのが嫌だったんですよ。アニメとしてのできがよかろうと悪かろうと。それはこの人は本当に原作を読んだのかしら、って思うようなものが結構あったからなんですね。だから、どうやってファンに納得してもらえるかはわからないけど、私は私なりに原作を理解して扱うしかないな、と。 結城 原作ものって、元の原作ときちんと対峙していないケースが多い気がしますね。アニメーターって、修練を積んでいるから、特徴を捉えて、それを形にしていくっていう事に長けているじゃないですか。そうやって器用に描いてしまいかねない。だから、千羽さんのように原作と自分が向き合うというのは共感できますよね。 千羽 結城さんの、原作がある場合のデザインって、こういう風でありたい、こういう風になっていればいい、という感じで、お仕事してるじゃないですか。結城さんの画だけれど、原作のあのキャラクターが確かにいる、という感じに仕上がっている。ただ、表面を描いてるんじゃなくて、「このキャラクター!」っていうような描き方をされてますよね。そうした描き方が、どうしたらできるんだろう、というのは考えますね。『ToHeart』の時は、わりとそんな感じで、考えてました。だから、デザインの話で、「どこに自分らしさを出して描きましたか?」って時々訊かれるんですけど、自分らしさをだすための努力は特にしてません、とお答えするしかないんですよ。でも、出ちゃうんです、みたいな感じですかね。 結城 やっぱりそうやって滲みだしてくるみたいな感じが、いちばんいいんじゃないんですかね。 千羽 例えば、「神岸あかり」っていう人がいるとすると、なんとか原作と同じ女の子を扱っているように描きたいんですよ。原作の方からすると、「あかり」っていうキャラクターは古くからの知り合いみたいなものじゃないですか。でも、私はそのキャラクターの事をそんなには知らないから、表面的なところだけ見て優しい人だとか、元気な人だとか、簡単に納得してしまいそうになるんです。だけど、そのキャラクターについて深いところまで話を聞くと、やっぱり違うんですよね。とにかく原作サイドの方によくお話をうかがって、少しでも理解して描かなくては、と思うんです。だけど、『フィギュア17(つばさ&ヒカル)』で、オリジナルをやる事になって、そういった今まで悩んでいた事が急になくなっちゃって。どこから手をつけようかなと考えて(苦笑)。キャラクターの性格なんかを聞いて、それが本当にいる人のように想像して、頭の中に降りてくるまで待ったんです(笑)。それで、なるべく一般的な予想を外してみたりするんです。例えば、お友達のお姉さんの話を聞いていて、その本人と実際に会ってみたら、想像していたのと違う事ってあるじゃないですか。でも、前に聞かされていた事が間違ったていたわけじゃなくて。聞かされていた事も全部その人に入っているんだけど、「ああなるほど、こういう人か」と思うような。そういう感じでキャラが描ければいいなあと『フィギュア』では思っていたんです。だから「この人は気が強くて」と言われたら、「こんな髪型だと思うでしょ、でも、違うんだなー」みたいに外してみたり(笑)。 結城 自分は絵柄に固執するあまり、そういう部分をルーチンにしてキャラをつくってる気もするから、ちょっと耳の痛い話だな(苦笑)。 千羽 そ、そうですか。 結城 うん。 千羽 と、とんでもない。 結城 うーん。 千羽 思い入れでやるしかないんで、私(笑)。 結城 絵柄っていうのが固まってくるとさ、「これこれこういうキャラを」という要求に対して、それを結城信輝の画のスタイルで描くと、こういう風貌の男の子、女の子でしょう、という感じにやっぱりなっていくんだよね。それに関しては、自分はちょっと、動脈硬化を起こしていそうな気がする。 千羽 そんな。結城さんが、そんな事を! 私の場合のキャラクターデザインはそんな感じです! やっぱり体温がありそうな、情が詰まっていそうなキャラクターになればと……なにを言っているんだろう、あたし(苦笑)。 一同 (笑)。 千羽 ……ああ、なんか私、学校に挨拶にきたお母さんみたいですね。なんか先生に呼び出されて、娘が不出来で、大変申しわけありません、みたいな感じの事を言っているのかも(笑)。 結城 いやいや。いい話が聞けました。 千羽 すいません。これからも頑張ります。 一同 (笑)。 ●2002年11月4日 取材場所/東京・スタジオ雄 司会/小黒祐一郎・小川びい 構成/小川びい | | |