- 代表取締役CEO 松川 政裕
- 1970年生まれ 福岡県北九州市出身(戸畑区幸町生まれ。実際の出生地は里帰り出産で豊前市。八幡西区紅梅町、戸畑区一枝、八幡西区鉄王の新日鐵社宅育ち)
- 慶應義塾大学の創立者である福澤諭吉先生と同じ豊前国中津藩士・武士・旗本の家系の出身である。剣道初段。 武士の神様の総本山である大分・宇佐神宮で、命名いただく。新日鐵城下町の北九州で、小倉生まれの新日鐵社員の父親、エフコープ生協組合員理事の母親の家庭に育つ。両親ともに日本共産党員である。幼少期から、父親の新日鐵の労働運動、母親の新婦人(新日本婦人の会)活動、日本共産党の党活動・選挙活動を身近に見聞きし、日本共産党機関紙『赤旗』の配達を小学校から高校まで行なった。偶然にソフトバンク孫社長と同じ幼稚園、小学校、中学校に通う(ひとまわり違うので面識はない)。 小学校時代に、母親の生協活動の食品の商品企画に参加し、OEMを知った。黒崎のベスト電器パソコン館、幸神のダイイチ(今のデオデオ)で パソコンを知り、シャープのポケットコンピュータ(略してポケコン)「PC-1246」、カシオのMSX 「MX-10」に親しみ、 MSX-BASICのインタープリタ型プログラムでゲームプログラミングをなめたベーマガ(マイコンBASICマガジン、電波新聞社発行のパソコン専門誌。)世代。学校でポケコンをみせても、 誰にも何をしてるか分かってもらえず、先生にも関数電卓としか思われず、ただひたすら自分一人でプログラミングを学んだ。小学校の放送委員会で放送機器とオーディオの基礎を学んだ。 愛読書は学研の月刊誌『科学』で、ラジコン、トランシーバーを愛し、漫画を描くことを趣味とした。 中学校は剣道部での副将とマンガ研究会中心の生活だったが、趣味でオーディオビジュアル(AV)にはまり、トランジスタラジオの 組み立て(中学の技術の先生に感謝)や拾ってきたビデオデッキの分解をしたり、ステレオ(言い方が古い)でオーディオをたしなむ。 城達也のジェットストリームのファン。中学の国語の先生に俳句の学習指導で「もっと自分の頭で考えなさい」というアドバイスをもらったことがきっかけで、考えなく送っていた運動部中心の自分の人生に疑問を感じ、自分は何をなすべきか真剣に悩み始め、漫画の絵を描く基礎力をつけるために高校入学と同時にいきなり文化系の美術部に入部した。新聞と本を読むようになったのはこの頃である。自然科学部にも出入りし、チェルノブイリ原発事故で同級生の友人(現・国立大学理系学部教授)から放射能測定器(ガイガーカウンター)を学ぶ。 高校の政治・経済の全国模試でいつも全国第1位か第2位の首席だった。マルクス主義(科学的社会主義)に傾斜し、高校の管理主義・日体大式軍隊主義教育に反発しながら教育学の本も読み、大正時代に成城、玉川、和光の大正自由教育運動があったこと、教育が本来どうあるべきか知る。幸神のダイイチで取寄せを頼んでおいたワープロが店員に失念されていたのを同行した父親が激しく叱責し、「労働者は正しく厳しく職務を全うしてこそ、労働条件を資本家と闘争することができる。社会主義は決して人間を甘やかす思想ではない。共産党員であればより模範的に働かなくてはならない。」ことを父親に学び、これがのちに研究テーマ「社会主義における企業経営と企業政策」の動機となった。18歳の誕生日に両親に日本共産党への入党を決心し告げるも反対され、一旦断念する。日本民主青年同盟(民青)の発行する機関紙『われら高校生』の読者となり、教室の壁に張り出したりした。校内の弁論大会で3位入賞。校則に基づき、年1回の生徒集会で校則改正を発議し、圧倒的多数で可決したが教師に黙殺された。自らも所属する反抗グループで生徒会選挙に候補を擁立するも敗れた。高校卒業後、人生の目標が定まらず、地元の大学芸術学部に通うも、半年ほどで退学。上京して、大学通信教育で一般教育、法学、政治学、経済学、経営学を、働きながら学ぶことを計画し、実行を開始する。上京し、自ら日本民主青年同盟(民青)と日本共産党の事務所に連絡し、加盟と入党し、日本共産党機関紙『赤旗』、月刊『学習』で記事となる。水道橋の日大と専門学校に通いながら、神保町の古本屋巡りをした。仕事はマンガ家を目指すも自分は クリエイター向きでないと自覚し、政治家を志すことを決意する。 専門学校卒業後、職業革命家(日本共産党勤務員)となるが、労働者や諸々の社会経験が必要と痛感し、まずは自分を追い込み、資本主義の表も裏も知り、革命家として成長するために民間企業へ飛び込むことを決意。民青のつながりで偶然花見で知り合った人物(民青同盟員)に誘われ、コンピュータミュージック(MIDI,DTM)業界へ入る。音楽・通信カラオケ制作の コンピュータシステムの営業、マーケティングを主に行う。 坂本龍一、小室哲哉、山下達郎らによるプロデュース/通信カラオケタイアップブームにのり、音楽・カラオケ・コンピュータ・家電・楽器・ マスコミ業界でビジネスの基礎を築く。 1996年、通信カラオケにからむ仕事などの中から、「携帯電話で通信カラオケ(MIDI)データを流す」ことを思いつき、 社長に提案するも「ピンとこない」と却下された。が、納得いかず、自分で考えてサラリーマン失格な行動をするようになり、ついに起業する。 これによって生まれたのが、のちにいう「着信メロディ(着メロ)」で、携帯電話におけるコンテンツビジネスの基礎を作った。 デジタル家電では持ち前の目利き力と行動力を発揮し、デジタルオーディオプレーヤーは日本でMPMAN、Rioの次に三番手として参入し、市場創出に大きく 貢献した。
学歴
日本大学法学部政治経済学科(通信教育課程)卒業、東京アニメーター学院卒業、九州産業大学芸術学部美術学科中退、福岡県立北筑高等学校普通科(美術部)卒業、北九州市立引野中学校(剣道部)卒業、北九州市立引野小学校(水泳部)卒業、北九州市立穴生幼稚園(現 鷹の巣幼稚園)卒園、緑ヶ丘・第二幼稚園中退
尊敬する人物
チェ・ゲバラ、出光 佐三(出光興産の創業者)、油屋 熊八(別府温泉の観光開発、由布院の礎を築く)、ブラックジャック
両親から受け継いだもの
父親から高潔な思想と高い志、母親からひとを思いやる優しい心
専門分野
コンピュータ、IT、音楽著作権、広報宣伝、マーケティング、デジタル家電企画、デジタルオーディオ
業界
コンピュータ、家電、音楽、楽器、カラオケ
研究テーマ
「マルクス主義法学・平野義太郎」
「社会主義における企業経営と企業政策」
「グローバル金融資本主義、新自由主義的社会主義理論の構築」
「政府と地方自治体の役割の地位の見直しー持続可能な社会を目指してー」
「北九州における構造改革ー新日鐵後の次の100年ー」
「技術トレンドの予測によるイノベーション・生産性の向上・経済発展・幸福」
職歴
- カモンミュージック 東京営業所責任者
- カメオインタラクティブ Windowsプロダクトマネージャー
(メガチップスの子会社旧メガフュージョンとして店頭市場登録、現 イーフロンティアに吸収合併) - プラネックスコミュニケーションズ(JASDAQ上場) 営業、マーケティング、商品企画
- テルテン 執行役員
- iriver japan(現 アユート、東証マザーズ上場MCJ子会社) 製品企画室長
業界団体活動歴
- 元 社団法人音楽電子事業協会(AMEI)
- 著作権委員会業務用通信カラオケワーキンググループ委員
- ソフトウェア委員会マルチメディア研究部会副部会長
1996年6月に、当時規定のなかった業務用通信カラオケの音楽著作権使用料の団体交渉を日本音楽著作権協会(JASRAC)と行い、初めて暫定合意したカラオケメーカー系業界団体、音楽電子事業協会(AMEI)伝説の交渉団7人衆の最年少委員(当時26歳)。
この暫定合意が翌年の正式合意となり、のちのインターネット配信、ケータイコンテンツ配信における音楽著作権使用料の規定の基礎となった。
着メロの考案者
講演実績
- 三菱総合研究所・デジタルコンテンツ産業研究会
- 【ITmedia +D LifeStyle】レッドスター社長、ファイルローグを批判
メディア出演
- 日経ビジネス別冊『社長失格』著者の板倉雄一郎氏(元ハイパーネット社長) 対談記事
- フジテレビ「めざましテレビ」 VTR 携帯ゲーム機「GP2X」