〜沖縄戦シリーズ〜

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1945年 8月14日 『宮古の沖縄戦』

米軍の動向

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ハト小屋と港務監督所那覇にて。ロリンズ1等兵は、監督所の脇でハトの管理をしている。(1945年8月14日撮影)

Pigeon loft and port director, Naha, Okinawa. 14 Aug. 1945
Herbert A. Rollins, S1/c, is responsible for pigeons by the Port Directors.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/80GK-6347.jpg

ハト小屋と港務監督所。那覇にて。(1945年8月14日撮影)

Pigeon loft and port director, Naha, Okinawa. 14 Aug. 1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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今度はどこだ?--ついに戦争が終わり、荷物をまとめて出発の準備を整えた第1海兵師団の兵士。3年と1週間前、彼らは太平洋での最初の攻撃を行った。今日、東京への第1陣あるいは帰国第1陣の準備が整った。(1945年8月14日撮影)

WHERE NOW?--Marines of the First Division, now that the war has ended, are packed and ready. Three years and one week ago they made the first offensive in the Pacific war. Today, they're ready to be the first in Tokyo--or the first home.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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海軍予備役のエリス2等兵曹(掌帆長属)が手作りの洗濯機「フライング・ダッチマン」で洗濯をする様子。(1945年8月14日撮影)

Frank Ellis, BM2, USNR washing clothes with ”flying Dutchman,”home made washing machine. 14 Aug. 1945.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

〝沖縄〟という米軍基地の建設

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沖縄本島の馬天港にある海軍作戦基地指令部。下士官用兵舎、赤十字用宿舎、食堂。(1945年8月14日撮影)

NOB Headquarters at Baten Ko, Okinawa. Enlisted men's quarters, Red Cross hut and chow hall.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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くず鉄として再利用される大湾製糖工場。(1945年8月14日撮影)
Owan sugar mill now being used for scrap, Okinawa 14 Aug.1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

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工場を解体するクレーン。(1945年8月14日撮影)

Crane dismantling factory, Okinawa. 14 Aug. 1945

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 

【投稿者註】先島諸島では地上戦がなかったため、日米両軍の記録や証言、住民の体験談等が乏しいが、宮古地域に関しては、ここに集約しておく。

第32軍の動向

先島諸島の日本軍

宮古島

宮古島には納見敏朗中将を長とする先島集団傘下に第28師団 (兵員約16,000名)のほか、多賀哲四郎少将が率いる独立混成第59旅団 (兵員3,360名)と安藤忠一郎少将指揮下の独立混成第60旅団 (兵員3,320名)、第32軍直轄部隊 (兵員6,700名)、それに村上重二大佐が率いる海軍部隊 (兵員1,714名)の計約27,000名が守備に任じていた。』(230-233頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 230-233頁より》

宮古島北部の西原地区、宮古島にある数少ない山のひとつ、ピンフ嶺の中腹に、当時の島の様子を今に伝える戦跡があります。陣地壕、ピンフ嶺野戦重火器砲壕です。壕の奥行きは50メートル、アメリカ軍の艦砲射撃から日本軍の大砲を守るための要さいで、昭和19年ごろにつくられました。当時、貴重だったコンクリー卜がふんだんに使われています。
宮古島には当時、3万人の兵士らが駐屯し、島全体を要塞としていました。本土決戦までの時間を稼ぐため、アメリカ軍をくぎづけにする作戦の一環でした。

島を要さいとされた宮古島では、アメリカ軍の戦闘機による空襲にみまわれたりイギリス海軍による艦砲射撃を受けたりしました。

沖縄本島で組織的戦闘が終結した6月以降も戦争状態に置かれました。8月の戦闘停止まで、島の補給路は断たれ、住民や兵士が、極度の飢餓に苦しみました。日本軍の場合、2569人が宮古で戦死しましたが、そのほとんどが戦闘ではなく、栄養失調やマラリアなどで命を落としたということです。住民の犠牲について、正確な数字はわかっていません。』(NHK沖縄放送局)

 

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『1943(昭和18)年8月に、宮古には特設警備隊という郷土部隊が編制されるようになった。同じ頃、海軍の設営隊が宮古入りして、海軍宮古飛行場(平良・現宮古空港の建設が始まった。44年3月に沖縄本島で沖縄守備隊が編制されると、5月には第205飛行場大隊、要塞建築勤務第8中隊が宮古入りして、下地村(現宮古島市字野原では陸軍中飛行場、そして同じく字与那覇では陸軍西飛行場の建設が始まった。』(207-208頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 207-208頁より》

『防衛担当軍の視察で「宮古島は、島全体が平坦で起伏に乏しく、航空基地として最適である」と判断された宮古島には、3カ所の飛行場が建設された。土地の接収は買収の形で半強制的に行われたが、土地代は公債で支払われたり、強制的に貯金させられ、しかもこの公債や貯金は凍結されて地代は空手形であった。飛行場建設には島民の多数の老若男女や児童までも動員され、昼夜を問わない突貫作業が強行された。

昭和19(1944)年12月までに3万人の陸海軍人が宮古島にひしめいた。急激な人口増加に加えて、平坦な地形を持つ農耕地は飛行場用地として接収され、甘藷、野菜などの植え付け面積は大きく削られた。』(総務省)

 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/images/okinawa_02_002.jpg

宮古島地区防禦配備図

《 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県) より》

宮古島市の荷川取海岸に「特攻艇秘匿壕群」があります。日本軍は、アメリカ軍の本土上陸を食い止めるため、沖縄の各地に特攻艇を送り込みました。アメリカ軍が上陸しなかった宮古島にもひそかに特攻艇が配備されていました

爆弾を積んでアメリカの軍艦に体当たりして自爆する秘密の特攻兵器「マルレ」を隠すためにつくられたのが、秘匿壕群です。荷川取海岸の付近には、今も26の壕が残されています。

宮古島の特攻艇「マルレ」は、出撃することなく、太平洋戦争は終わりました。』(NHK沖縄放送局)

 

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先島諸島の学徒隊

鉄血勤皇宮古中隊: 沖縄県宮古中学校

宮古中学校の生徒たちは、1943年には主に海軍飛行場の設営作業に当たり、44年からは陸軍に中飛行場、西飛行場の設営に動員されるようになった。中飛行場の設営作業では、作業中に土砂が崩れ落ちて4名の生徒が生き埋めとなる事故が起きたりもした。

9月には、同校の校舎が海軍警備隊にの兵舎として接収された。そのため授業もほとんど行われなくなり、生徒たちは毎日のように飛行場の滑走路作りや掩体壕堀に動員されるようになった。

…1945(昭和20)年になると宮古全島は決戦態勢に入り、中等学校生入り鉄血勤皇隊を編制して同島駐留部隊の指揮下に入り、…宮古中学校の1年生から3年生までの生徒が、鉄血勤皇宮古中隊として編制されて、同師団通信隊に入隊させられた。全員二等兵であったが、とくに軍服も軍靴も武器も支給されなかった。

…隊員たちは、「無線班」と「有線班」に分けられ、軍人と起居を共にして通信業務に従事するようになった。隊員たちの業務は、電話線を敷設しての通信訓練、モールス信号・手旗信号のほか、壕堀り、敵上陸に際して爆雷を抱いての対敵戦車への突入訓練なども行われた。
しかし、…宮古島には英国軍によって激烈な空襲があったが、敵の上陸はなかったため、沖縄本島のような戦闘訓練を実践する必要はなかった。

…6月下旬には防衛隊として更竹に召集され、対敵戦車攻撃用の壕堀りや手榴弾投げの訓練などをしていた。しかし、約1か月後には生徒たちは元の部署に戻され、安全が確保されたとのことである。』(208-210頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 208-210頁より》

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沖縄戦継承事業/沖縄県

生徒の体験談 ①:

昭和18年4月、県立宮古中学校に入学しました。制服はカーキ色、ゲートルを巻き、帽子も戦闘帽です。……

当時、宮古中学校に神田某という配属将校がいました。6師団長の任命といって校長より権威がある様子でした。巾の広い革のベルトをしめ、その下には腹巻きをのぞかせて、胸を張りすぎて腹を突き出したような最大限のそっくり返りかたで歩いていました。…入学早々、教練の時間に私も頭にコブが出来るまでそのサーベルでたたかれたことがあるし、高学年の生徒は両手に持った二振りのサーベルでめちゃくちゃになぐられたりしています。

一般教練の授業が減らされ、軍事教練の時間が増えていきました。下級生は木銃、上級生は本物の小銃を使って戦闘演習をしました。夜間の外出禁止、集会をもつだけで重ければ退学、軽くても説論処分は受けるという重苦しい中学生の生活が強制されていた。運動会も一般体育よりも戦闘演習が大きな行事の一つだったし、兵隊の格好をした中学生たちに藁人形を銃剣で突かせ、運動場は小さな戦場を思わせるような硝煙の臭いが立ちこめていました。……

昭和19年4月、2年生になって一般教科の授業はほとんどなくなりました。軍事教練のない日は農業の時間が主となり、5月になると、海軍飛行場の作業に動員され、続いて下地の陸軍飛行場作りにかり出されました。

昭和19年6月、宮古島に日本軍混成旅団の進駐が始まり、宮古神社の下の坂道に、戦車がずらりと並びました。…沖縄県教育委員会沖縄県史』10 沖縄戦記録2より…)』(212-213頁)

生徒の体験談 ②:

昭和19年11月から3年生全員、師団本部の通信隊によって宮古高等女学校のスタンドの東側の松林でモールス信号の勉強をさせられました。
昭和20年2月頃、師団司令部が、女学校から野原岳の麓の戦闘司令所に移ると師団通信隊も更竹のウイヌンミに移動しました。

宮古中学校に在籍する3年生から1年生まで全員が鉄血勤皇隊として、豊部隊の師団通信隊に編制されました。

…召集されて甘藷の葉を食べながら夜間演習をするのも嫌でしたが、すべて自費で奉仕させられた上に二等兵扱いされるのはなお嫌でした。
通信隊の検閲があったある日、午後4時になっても昼食の知らせがないので許可も受けないまま食事をはじめました。しばらくすると野口上等兵が弁当を持って集まるように叫びました。

皆各自の弁当箱を持って集まると、「誰が食事をするように命じたか」と怒鳴り集まった4年生全員が弁当箱を持ったまま罰されました。
自分の親がつくり持たした弁当であり、自分勝手に食べてよい筈の弁当だと思うのにこれすらゆるされないのです。こんな馬鹿なことがあるかと方言でブツブツいいながら弁当を持って立っていました。

今度は「弁当箱を置いて集まれ」と命令されます。弁当箱を置いて集まると、2人ずつ向かい合わせて教訓を受けました。

「誰が先に戦死するかわからないが、遺骨を集めるのは戦友だ、その戦友の顔を叩くのが如何にきついか・・・」のあと向き合った友達のビンタをはらされるのです。弱くたたくと模範を示してやるといって野口上等兵がたたくので、みな仕方なく強くたたいたものでした。(平良市史編さん委員会『平良市史』第4巻資料編2より)』(211-212頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 208-210、211-212、212-213頁より》

 

宮古高女学徒隊: 沖縄県宮古高等女学校

1945年3月23日沖縄県宮古高等女学校では卒業式が行われるはずだったが、当日未明からの空襲で校舎が破壊されてしまった。卒業生たちは、防空壕で卒業証書を受け取り、在校生共々、陸軍軍属として扱われるようになった。

生徒の体験談 ①:

昭和19年5月頃から、宮古島にも、陸海軍部隊が上陸するようになり、間もなくして学校は、軍に接収され、民家の仮校舎で授業するようになったが、勉強など全く集中できるような環境ではなかった
その頃から、級友たちは、一人、二人と現地を離れ、台湾へ疎開することになり姿を見せなくなった。

…昭和20年の年明けからは、空襲も度重なり、私たち3年生と4年生は、特志看護婦として、出身地域にある病院へ配属されるようになった。
下地、城辺出身は、第1野戦病院…で看護法を受講し、終了すると4年生と組合わされ、それぞれの任務に配置された。

…4月中は空襲に明け暮れ、負傷兵は毎日のように運ばれてくる。ついに5月4日には、艦砲射撃が宮古全島を震動せしめた。防空壕の中で息をひそめ、その夜第1野戦病院は、鏡原の細竹陣地へ移動した。

防空壕の中には、手術にも手助けできる心構えと訓練がされていたので、手術器具の取渡しは看護婦の役目だった。日課は材料の準備、巡回治療、手術の手助けなどが繰返された。』(202-203頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 202-203頁より》

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沖縄戦継承事業/沖縄県

生徒の体験談 ②:

私たちは国のために殉ずる満足感でいっぱいだった

私は薬剤部に所属していた。戦況は悪くなるばかりだった。船も飛行機も輸送は困難になっていくようだった。

そんな中、私たち学徒3人、兵士4人、班長の大尉合わせて8人は毎日バッタやカエルを取っていり粉にし、栄養剤として与えていた。また木炭を砕いて粉末にし、ふるいにかけて、これも下痢止め剤として3グラムずつ使用した。野原には薬草がたくさん生えていたので煎じて胃薬として使った。毎日一生懸命だった

その日はよく晴れて爆音ひとつなく、…穏やかで優しい日であった。
…時間は午前11時頃だっただろうか。どこからか鈍い不気味な音がしたと思ったそのとき、轟音を炸裂させながら爆弾が投下されてきた。

丁度飯上げの時間帯で、当番の兵隊さんたちが集まっている、そのときだった。皆粉々だった。相思樹並木は人の内臓で覆いつくされた。放心して何の感情もなく、ただ細切れになって散乱している肉片と、臓器を26個の箱に分けて入れた。

日時は別だが、学友の1人も爆風で下半身をやられ、戦後苦しみながら亡くなった。』(201-202頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 201-202頁より》

 

 

宮古沖縄戦

空襲

宮古島

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沖縄戦の絵】「銃撃を受ける漁船」

宮古島での米軍空襲の様子。港から1キロほど沖合で、宮古の民間漁船が米軍の艦載機から銃撃を受けていた。その後、漁船の乗組員が攻撃で亡くなったと聞いた。』

宮古島 銃撃を受ける漁船 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

『昭和20(1945)年になり、3月までの宮古島の空襲は、主に軍事目標が狙われていたが、4月に入ると次第に市街地が狙われていく。時限爆弾や街を焼き尽くす焼夷弾も用いられるようになり、平良の街は廃墟と化した。』(総務省)

 

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爆撃を受ける平良の軍事施設

 

『その後の空襲は、10月13日にあって、年内はほぼ小康を保ち、明けて昭和20(1945)年正月早々から再び始まり3月以降7月までは連日のように繰り返された。4月3日延べ140機、5日延べ200機、8日延べ300機と大空襲が終日続き平良のまちはあらかた焼失した。平良に限らず、連日の無差別爆撃で民家の密集地帯は全郡的に焼けてしまった。』(総務省)

 

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廃墟と化した平良市街

《 総務省|一般戦災死没者の追悼|宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県) より》

 

艦砲射撃

宮古島

1945年5月4日、『宮古島は、H・ローリング中将の率いる英太平洋艦隊(第57任務部隊)の艦砲射撃を受けた。英軍部隊の太平洋戦線への参加は、これが最初だったが、英艦隊の主な任務は、宮古島石垣島にある六つの飛行場を攻撃し、台湾方面からの日本軍増援部隊の使用を事前に阻止することにあった。英艦隊は、空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦15隻の計26隻から成り、そのうちの戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦11の計18隻が5月4日の午前11時すぎから約40分間砲撃を浴びせたのであった。』(230頁)

宮古島の『海軍部隊は、敵襲にさいしては海上からの特攻攻撃を企図し、約50隻の震洋型特攻艇を城辺町の友利海岸に秘匿していた。英艦隊の来襲にたいしては、日本側航空隊は、約20機の特攻機を出撃させ、英空母を攻撃、11機の艦載機を破砕したほか55名を死傷せしめた。

宮古群島で戦火に倒れた兵員は陸海合わせて2600名ほどいた。しかしそのほとんどがマラリアや栄養失調によるものだった。』(233頁)

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) / 230、233頁より》

 

そのとき、宮古の住民は・・・

宮古島

『…宮古島で生まれ、19歳の時に戦争が始まりました。そのとき、…国民学校、いまの小学校で教師をしていました。…軍国主義の中で育ち、みずからも、子どもたちに「兵隊となって戦え」と教えました。軍国主義を疑うことを知らずに、戦争を生きた、男性の証言です。』(NHK沖縄放送局)

 

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そのとき、住民は・・・

遭難した疎開民 ⑫ 

1945年(昭和20) 6月30日、台湾に疎開する人々を乗せた船2隻が石垣島を出港した。数日後の7月3日疎開船は、米軍機からの機銃掃射を受けた。1隻は沈没、もう1隻は生存者を乗せて尖閣諸島魚釣島に到達した。疎開者らは、無人島でサバイバル生活を送ることになった。1カ月が経過した頃、決死隊を石垣島に送り出すことになり、難破船の廃材などを使い舟をこしらえた。8月12日魚釣島を出発した決死隊の舟は、石垣島を目指した。

手作りの小舟を漕ぎ、魚釣島を出発した決死隊。8月14日の午後7時頃、小舟は約170キロの荒波を越えて石垣島の川平地区にある底地(すくじ)の海岸にたどり着いた。上陸すると、決死隊の8人は疲れ切った体をお互いに抱きあい、しばらくの間、ただただ涙を流した

台湾行きの疎開船2隻が石垣島を離れたのは約45日前のこと。台湾に到着する予定の日に米軍機から攻撃を受け、疎開船1隻が炎上し沈没し、多くの死傷者をだした。生存者らは、残る1隻の船で魚釣島に上陸する。その後は、飢えと闘う地獄のような日々が続いた。外部との連絡を取るには、誰かが石垣島に向かう以外に方法はなかった

遭難した疎開者全員に見送られ、小舟で東シナ海を航海した決死隊は、魚釣島を出発して以来の2昼夜クバのシン芽だけで体力を支えていた。航海中、米軍機が低空でやって来たため、3回ほど舟を転覆させ遭難を偽装した

上陸した浜に座り込んだ8人は、もう、体力が尽きて動けない。そのうち1人が近くにあった野生のバンジロウグアバ)をもぎ取り、みんなのところに投げた。それをかじった時、やっと一息つくことができた

決死隊の8人は、川平の群星御嶽(ゆぶしおん)に駐屯していた陸軍部隊に遭難の報告をし、そこからは、独立混成第45旅団へと報告がされた。初めて惨状を知った旅団は、水軍隊に対し直ちに救助に向かうよう命令、また、台湾に駐留する日本軍に対し、飛行機を飛ばして魚釣島に食糧を投下するよう要請した。台湾疎開の船団を編成し、乗組員を出していた水軍隊では、全員が死亡したとして告別式も済ませていただけに、喜びはひとしおであった。島の住民も生存しているとの報に驚いた。(戦禍を掘る・尖閣諸島 /八重山の戦争)

《 「証言 沖縄戦 戦禍を掘る」(琉球新報社) 125-131頁、および 「八重山の戦争」(大田静男/南山舎) / 217頁より抜粋、一部要約》

 

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