生命の樹
ここにおいては、「魔術カバラ」における生命の樹について、書いてみたい。
生命の樹の理解は、簡単で難しい。
この矛盾した言葉の意味は、要するに、大雑把な基本概念を理解するのは、比較的簡単だ。しかし、それを完全に理解し、瞑想などの実践に使えるまでに理解するのは、おそろしく難しい、ということだ。ましてや、「極める」には、一生涯かける仕事になるだろう。この樹は、根は恐ろしく深いところまで伸びているのである。
生命の樹は、創造による流出の連続した過程を図式化したものだ。
アイン、アイン・ソフ、アイン・ソフ・アアルという3つの未顕現があり、最初の顕現ケテルが現れ、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、ティファレト、ネツァク、ホド、イエソド、マルクトと、稲妻のように連続した流出が起こる。
ビナー、ゲブラー、ホドは「竣厳の柱」。コクマー、ケセド、ネツァクは「慈悲の柱」となり、それぞれが対照となって対になる。その真ん中には、ケテル、ティファレト、イエソド、マルクトが「中央の柱」となる。ケテル、コクマー、ビナーは「至高の三角形」を形成し、その下には「深淵」があって、隔てている。ビナーとケセドの間には、ダートと呼ばれるセフィラが潜んでいる。また、テイファレトの後には「神殿の幕」があり、これも深淵のように上下を隔てている。
さらに、カバラの4世界、アツィルト界、ブリアー界、イエツィラー界、アッシャー界が、それぞれに属するセフィラを覆っている。これが大雑把な樹の形である。
ここで私は、生命の樹の概念を解説してみたい、という誘惑にかられる。しかし、私ごとき浅学な者がそんなことをしても、かえって誤解と混乱を引き起こすだけかもしれない。
そこで、W・E・バトラーの真似をして、良書を強く薦めるに留めておきたい。
それは、もちろんダイアン・フォーチュンの「神秘のカバラー」(国書刊行会)である。
これは、あまりに有名なので、「生命の樹」と聞くと、「神秘のカバラー」とすぐに出るほど、定番となっている本であろう。
フォーチュンは、この本を書くにあたって、独自の見解や自分の流派だけに属する解釈を極力避け、一般的なスタンダードな解釈を紹介すしている。魔術カバラを学ぶ者にとって、流派を問わず極めて有益な本である。
しかし、「神秘のカバラー」を読んだ後に「私は、これで生命の樹を理解した」と、もしそう思うのなら、あなたは生命の樹を殆ど理解していない 証拠である。
まずは、「パス」だ。
生命の樹において、「パス」は「セフィラ」と同じくらい重要だ。
しかし、「神秘のカバラー」には、セフィラについては詳述されていても、パスについては、殆ど記されていないことに気づくであろう。
パスを理解するのは、まずセフィラについて、ある程度の知識が無ければならない。
だから、初心者は、まず「神秘のカバラー」を読むことが求められるのだ。
では、パスについて知識を得るのに良書は何か? と問われれば・・・
ガレス・ナイトの「A Practical Guide to Qabalistic Symbolism」である。
「はじめに」で触れたように、私は、このサイトにおいて、本は極力、日本語の物に絞ることにしている。しかし、ナイトのこの本ばかりは、どうしても紹介せざるを得ない。初心者向きに、パスをここまで親切に詳述した本は、ちょっと他には無いからだ。
この本の1巻は、主にセフィラの解説だが、2巻にてパスのことが詳しく解説されている。
22本のパスを理解することは、22のヘブライ文字の象意、タロットの大アルカナのカバラ的解釈を理解することにも、直接つながるのだ。如何にパスが重要であるかが、これで分かるだろう。
そして、セフィラを真に理解するためには、パスの知識が必要だ。
まず、セフィラの基本概念を学び、それに基づいてパスを理解する。そして、もう一度セフィラに戻って、パスの知識を元にもう一度学ぶのだ。そう、パスとセフィラは相互に補完しあっているのだ。
さらに、カバラの4世界、クリフォト、「ヤコブの梯子」など、学ぶべきことは、まだまだ沢山ある。
樹の理解のために、日本語で読める良書は、他にリガルディの「石榴の園」、ウィリアム・グレイの「カバラ魔術の実践」が挙げられる。これらもまた、絶対に必読である。
さらに、樹の「万物照応表」の理解については、クロウリーの「777の書」も、必携である。
「神秘のカバラー」の知名度の高さは、カバラの知識を広めることに、大いに貢献してると思う。
しかし、同時に生命の樹を誤解させる原因をも引き起こした。
生命の樹は、いわゆる「万物照応評」の基となる。すなわち、どんな物でも、これに当てはめることが可能だ。
ゆえに、奇妙奇天烈な解釈を多く生み出した。
よくある例が、魔術以外の体系との組み合わせである。特に、仏教の宇宙論を樹に当てはめるような例である。
無論、東洋の体系を、生命の樹と合体させる思想そのものは充分に意義のあることだし、早くもパピュスの時代から、こうした研究が始められている。
しかし、「神秘のカバラー」を読んだだけの初学者が、このような考察を行うのは、あきらかに早すぎる。
もっとも、いわゆる「頭の体操」、ないし知的ゲームとして楽しむだけなら問題はないし、批判される理由も無いとは思う。私自身、アニメのキャラを樹に当てはめて遊んだことがある。
また、一見無茶な解釈でも、それが新しい発見につながることがあるやもしれない。フラター・エイカドが、「カバラの花嫁」の付録で行ったアクロバット的解釈のように。
しかし、シンボリズムが狂っているということは、魔術の実践者にとっては、やばいどころか縁起でもない話である。
パス・ワーキングを実践してる人にとっては常識であろうが、生命の樹は、瞑想において道に迷ったり、崖から転げ落ちたりしないための「地図」の役割を果たしている。
その地図が、目茶目茶になっていたとしたら……。
「神秘のカバラー」 ダイアン・フォーチュン 国書刊行会
「777の書」 アレイスター・クロウリー 国書刊行会
「石榴の園」 イスラエル・リガルディ 国書刊行会
「カバラ魔術の実践」 ウィリアム・グレイ 国書刊行会
「QBLの花嫁」 フラター・エイカド 国書刊行会
「ユダヤの秘儀」 ハレヴィ 平凡社
「A Practical Guide to Qabalistic Symbolism」 Gareth Knight WEISER
※翻訳権を買い取った出版社があるが、未だに邦訳は出ていない。