フランツ・J・モリター ~フリーメーソンとカバラ~


 しばしば、フリーメーソンはユダヤ人と結び付けられることが多い。
 無責任な陰謀論者達は、ユダヤ・フリーメーソンなどという妙な言葉を好んで使うが、ユダヤ人がフリーメーソンを陰謀のために作ったなだという事実は無い。
 しかしながら、フリーメーソンにも誤解を招く原因があったということも、また事実である。
 まず、メーソンの象徴体系には、「旧約聖書」に基づく物の方が、「新約聖書」のそれより圧倒的に多い。次に、18~19世紀にかけて、メーソン内部においてカバラの研究が大流行したことがあった。当然の如く、彼等は好んで象徴体系にヘブライ文字なども取り入れた。
 とは言うものの、メーソンリーをユダヤ起源とするのには、致命的な問題がある。
 初期のメーソンはユダヤ人の入会を認めていなかったのである。

 フリーメーソンの近代化の時期は、ユダヤ人達がゲットーから解放されて、キリスト教徒社会に同化すべく押し寄せて来た時期と重なってる。進歩派のユダヤ人達は、自ら古い慣習を捨て、キリスト教社会に溶け込もうとした。言うまでもなく、知識人の社交クラブたるメーソンへの入会を望む者も多く現れた。
 思弁的メーソンの憲法とも言うべきアンダーソン憲章では、宗教の違いによって人を差別してはいけないと明記している。だったら、ユダヤ人が入団しても、何も問題は無いはずである。
 しかし、感情が理性を押しのけることは、しばしばあることである。
 要するに、ユダヤ人差別の感情が強すぎたのである。
 各国のメーソンは、当初のうちは、この事態に統一した指針を見出せず、右往左往するはめになる。それでも、アメリカやイギリスは比較的早いうちから、ユダヤ人を受け入れた。イングランドでは早くも1731年にユダヤ人を受け入れた。
 しかし、ドイツのメーソンは悪い意味でのキリスト教色に染まっていたため、喧々諤々の大論争を引き起こし、激しい対立を呼び起こした。
 ドイツにおいても、ユダヤ人の入会を認める寛容派が1790年にベルリンにロッジを立ち上げた。とはいうものの、この結社に入会するためには、キリスト教社会に帰化したユダヤ人でなければならないという条件が付けられていた。1791年にはハンブルグに、ユダヤ人を創設者とするロッジも作られた。
 もっとも、これらは非正規メーソンとされた。
 ここで重要になって来るのが、ジギスモンド・ガイゼンハイマーである。彼は早いうちに非正規メーソンへの加入は認められたが、正規メーソンからはユダヤ人という理由で入会を拒否された。この差別に対する屈辱感が、彼を運動に駆り立てたらしい。
 フランクフルトには1789年からロンドンのスコットランド系大ロッジから認可を受けたロッジが存在した。このロッジは、本部から新ロッジを設立する許可を得ていたが、ユダヤ人に対しては頑なであった。
 そこで、ガイゼンハイマーは、パリのフランス大東社の大ロッジと交渉し、ついに新ロッジの開設許可を得る。1807年のことである。そして、1808年にガイゼンハイマーは自分を含めた12人でもって、ロッジを開くのである。彼ら12人の創立者のうち、実に11人がユダヤ人であった。
 これこそが、フランクフルトのユダヤ人ロッジこと「曙光ロッジ」である。

 フランツ・ヨーゼフ・モリターは、キリスト教徒である。それも熱心なカソリックであった。
 彼は1779年フランクフルト郊外のオーベルウルセルで生まれた。そして、1804年にはフランクフルトに移住した。
 始めは法律を学んでいたが、やがて歴史哲学の研究に進む。そしてフランクフルトのユダヤ人グループと接触を持つようになり、1808年に上記の創立間もない「曙光ロッジ」に入会した。
 モリターの入会は、メーソンの歴史に大きな変革をもたらすことになった。彼は極めて哲学的な才能を持った人材ではあった。
 彼は1812~1816年の間、この「曙光ロッジ」の大棟梁となる。まもなくロッジは存亡の危機に陥る。ナポレオンの大頭と没落により、フランスとの関係が複雑化したため、フランス大東社の下部組織という立場が微妙な結果をもたらしたのである。そこで、ドイツのスコットランド系ロッジへと鞍代えをすることによって、事態の打開を図った。しかし、スコットランド系のロッジはキリスト教色にどっぷり漬かっていたため、儀式もキリスト教的であり、位階の昇進制度についても、露骨なユダヤ人差別があった。
 ユダヤ人を嫌うドイツのスコットランド系ロッジ。そして、キリスト教化を嫌う「曙光ロッジ」の内部会員達。騒ぎが起こらないほうが不思議である。
 モリターは、こうしたトラブルの渦中にいた。
 このトラブルは、ひどく入り組んでてややこしい。「曙光ロッジ」は、ドイツ中のメーソンから、総スカンを食い、孤立してしまう。
 しかも、モリターは、そんな中、次第にキリスト教へ偏向し始め、それは極端なものになる。ロッジを強引にキリスト教化しようとしたため、ユダヤ人の会員達から反発をかった。
 ともあれ、モリターは結局のところ、「曙光ロッジ」を退会し、「日出ずるカール・ロッジ」なる独自のロッジを創設することになる。このロッジもまた、本家の「曙光ロッジ」同様、孤立してしまうことになる。理由は、カバラ主義、神秘主義色が強かったために、胡散臭い目で見られたからだ。
 もっとも、1835年から会話が始まり、1840年には正式にドイツの大ロッジから認可されることになる。
 「曙光ロッジ」もドイツの大ロッジと和解の方向で動きだす。しかし、あろうことかモリター率いる「日出ずるカール・ロッジ」は、これを妨害しようとした。挙句、モリターのロッジは追放され、代りに「曙光ロッジ」が認可されることになる。
 大ロッジは、モリターのキリスト教に偏りすぎた態度は、アンダーソン憲章と矛盾すると判断したのである。
 その後も、モリターは、こうした「キリスト教色を排除する」大ロッジの方針を批判し続けた。

 20世紀に入り、ユダヤ人への風当たりが強くなる。1920年代に悪名高き「シオン賢者の議定書」が出回ると、ドイツ中のロッジは、ユダヤ人を締め出してしまった。
 メーソンもまた、激しいユダヤ人差別の態度を復活させてしまったわけである。
 しかし、ナチスが政権を握ると、事態は悲惨な結果をもたらした。ナチスはフリーメーソンを「ユダヤ的」と決め付け、過酷な迫害を加えた。これによってドイツのメーソンリーは終戦まで壊滅状態に陥るのである。
 ユダヤ人を差別していたメーソンが、ユダヤ的であるとして迫害を受ける。皮肉な話しである。

 モリターは、入会当初はアンダーソン憲章に忠実な「キリスト教もユダヤ教も平等である」と主張する人道主義者であったが、次第にキリスト教的な思想に傾いてゆく。それも極端な方向へ。
 彼は「何者をもキリスト教的な神の恩恵による加護が無ければ、メーソンが目指す美徳を個人が得ることは出来ないであろう」と明言し、儀式においては三位一体のシンボルを重視した。
 だが、彼はユダヤ教を完全に排除したわけではなかった。
 それは、彼のカバラ重視である。
 彼は、カバラとキリスト教の合体こそが、人類の同胞愛の基礎たる思想体系であると信じていた。
 彼はヘブライ語とアラム語を学び、カバラこそがユダヤ伝統の真髄であると主張した。
 すなわち、フリーメーソンにおけるカバラ研究の台風の目の役割を彼は担ったといえる。
 少なくともモリターは、フリーメーソンには、かのサバタイ・ツヴィ運動が流れ込んでいると信じていたし、それは必ずしも無根拠とも言い切れなかった。既に不完全ながらも、カバラ研究を行うメーソン会員は18世紀後半には現れていた。
 主著である「伝統に関する歴史哲学」は、重要だ。1827年に出された1巻において、ユダヤ主義をカバラの視点に立って考察したものである。2巻以降は、清浄と穢れ、キリスト教とカバラの合一が説かれたものである。
 これらの著書は、いずれも匿名で出版され、しかも未完のまま終わってしまった。
 彼は極端なまでの禁欲主義者で、その荒行じみた生活ゆえに1820年代頃から、ほとんど全身麻痺に近い状態で生活した。彼はベッドの上から、著書を口述執筆し、部下達を指導した。
 彼は1860年に死去。
 彼の死後は、フリーメーソンを極端にキリスト教化しようとし、ユダヤ人を差別し、アンダーソン憲章に背いた背信者、狂信者としての悪名だけが残ってしまった。
 しかし、ゲオルム・ショーレムらによって、カバラの研究者として、注目される。彼は、モリターを、かのA・E・ウエイトと並べて評価している。すなわち、文献への批判的センスが欠けていたがゆえに、(残念なことに)目標には達しなかったものの、カバラを放棄した当時のユダヤ社会に代わって、壮大な直観力や自然な理解を持った学者の研究を行ったと一定の評価を加えたのである(同じ著書で、エリファス・レヴィやクロウリーに対しては、ケチョンケチョンである)。
 そして、フリーメーソンにおけるカバラ主義の重要な導入者として、再評価を受けつつある。


「秘密結社の辞典」 有澤玲 柏書房
「カバラ」 箱崎総一 青土者
「ユダヤ人とフリーメーソン」 ヤコブ・カッツ 三交社
「ユダヤ神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局