ユダヤ教における夢判断


 基本的に一神教は占いや魔術の類は建前上は排除する傾向にある。ライバル宗教である多神教の多くが占いや魔術を行っていた関係上、これを排撃するのは、布教の戦略上必要なことだったからだ(といはいうものの、ご都合主義によって、こうしたものの実践は行われて来たが、ここではおいておく)。
 特にユダヤ教はかなり厳しい。だが、そんなユダヤ教でも例外的に認められた占いがある。それは夢判断である。
 こうした夢判断は「旧約聖書」によく見られる。
 ソロモン王は全能の神が夢に現れ、お告げを受けている。
 預言者エレミヤは、出鱈目な夢判断や異教の夢判断を避難している。
 ヨセフがエジプトのファラオの夢を解釈し、預言者ダニエルが、ネブカドネザル王の夢を解釈し、未来を予言するといった記述が見られる。
 その他にも「旧約聖書」の登場人物たちが、夢によって未来を予知されたり、神のお告げを受けたという記述は枚挙にいとまがない。
 夢判断は既にエジプトやメソポタミアでも盛んに行われており、ユダヤ教のそれは、これらの強い影響下にある。
 とはいうものの、「旧約聖書」に夢の記述が多いことから、ユダヤ教徒たちは夢判断を研究し、独自の文化としてこれを築き上げて行った。ヘレニズム時代のとあるラビは、自分の見た夢を24人もの夢占い師に解釈させ、これを比較研究するようなこともしている。彼の報告によると、その24人はそれぞれ異なった解釈をしたにも関わらず、全員の予言が的中したという。

 当然のごとく「タルムード」にも、夢判断に関する記述は多く見られる。
 彼らは、夢には神や天使が見せる良い夢もあれば、悪霊が見せる悪い夢もあると考えた。あるいは夢を見る者の魂の内部から発生することもあったし、魂が一時的に肉体から分離して夢を見ることもあったという。
 ともあれ、夢は神が人間への意志疎通の手段であると考えていた。
 さらには、死者が生者に夢を通じてコンタクトしてくることもあるという記述も「タルムード」には見られる。
 ただ、こうした夢の定義付けに関しては時代によって変化する。後世になるに従って、神のお告げのような大仰な解釈よりも、個人的な予知に関わる夢解釈が重視されるようになった。

 「タルムード」では、夢判断は極めて肯定的に捉えられている。
 夢判断されない夢は、「読まれていない手紙」のようなものである。良い夢にも悪い夢にもちゃんと意味がある。不吉な夢は夢の現実化を防ぐ予防手段に使え、良い夢はそれがもたらす恩恵を得るチャンスである。ただ、夢は「麦」のようなものである。麦には実もあるが、食べられない「藁」の部分もある。だから、夢も全ての部分が予知に使えるわけでもない。
 未来予知に使える夢は3種類あるという。一つは明け方に見た夢、自分の友人が自分について見た夢、夢の中で夢が解釈される夢であるという。さらに、同じ夢が繰り返される場合も、これも夢判断に使えるという。

 夢を解釈する場合、「旧約聖書」の記述が重要になる。
 夢に登場する物は、一種の「シンボル」であり、そのシンボルが何を意味するのかは、「旧約聖書」の記述を基にする。
 例えば、「井戸」の夢は「平和」を意味すると考えられた。なぜなら、「創世記」の26章19節には「イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る泉を見つけた」とあるからである。
 同様に「河」や「鳥」も「平和」を意味する。イザヤ書66章には「見よ、わたしは彼女に向けよう。平和を大河のように」。同じく36章には「翼を広げた鳥のように万軍の主はエルサレムの上にあって守られる」といった記述があるからである。
 こうした「シンボル」の解釈は時代を経るに従って複雑化、体系化されてゆく。

 また、呪術的な意味合いをも帯びてゆく。
 見た夢は、それが解釈されないうちは何の意味もないと考えられるようになった。それが夢判断によって解釈された時、初めて意味を持ち、それが未来の予知につながるという。
 基本的に良い夢を見ればそれは吉であるし、悪い夢は凶夢だ。しかし、同じ内容の夢でも良い解釈をすればそれは吉夢となり、悪い解釈を意味すればそれは凶夢となることもあるという。
 これは逆に言うのなら、「解釈」によって凶夢も吉夢に転ずることもできる。
 悪い夢を見た人は、間違ってもそれを自分に悪意を持ってる人に話してはいけない。そのまま「凶」の解釈をされてしまったら、それがそのまま災いとなってしまうからだ。そこで、自分に好意を持っている三人の友人に話し、「私は良い夢を見た」と報告する。そして良い解釈をしてもらうのである。そして、その三人は7回に渡って夢を祝福するのである。

 夢のシンボルの解釈が「聖書」の記述を基にしているのなら、不吉な夢を見た時に、「聖書」の縁起の良い言葉を呪文のように唱えることによって、それを相殺することが出来るという。
 例えば、「葡萄」の夢は不吉である。なぜなら、「申命記」の第32章に「その葡萄は毒葡萄」という記述があるからだ。そこで、この夢を見た人は、「ホセア書」の第9章の「われイスラエルを見ること荒野の葡萄のごとく」と唱えれば良いという。

 こうした解釈次第によって、吉とも凶ともなるという考えは極端に進み、ユダヤ人の民間伝承の中では、夢占い師は人の夢の解釈を利用して、他人の運命を左右できるという伝説まで生まれた。ある悪徳占い師は、高額な占い料を払う客には良い解釈をし、安い占い料を出す気に入らない客には不吉な解釈をしてその客を不幸にしていたという(もっとも、その物語では、この悪徳占い師は最後には恐ろしい罰を受ける)。

 だが、我々がここで注目したいのは、こうした夢という漠然とした精神世界の体験を、神からもたらされるものと考え、それをシンボルでもって意味を探り解釈しようとするという伝統が存在したことである。
 カバラにおいて、瞑想時などの幻視体験の解釈に、あれほど高度にして整合性の取れたシンボリズム解釈の体系が生まれたのも、その背景に夢判断の伝統があったことと無関係ではあるまい。


「夢占い事典」 M・ポングラチェ、I・ザントナー著 種村季弘他訳 河出文庫
「タルムード入門・3」 A・コーヘン著 市川祐、藤井悦子訳 教文館
「世界占術大全」 A・S・ライオンズ著 鏡リュウジ監訳 原書房