ユダヤ教カバラの魔術と「ヘハロートの書」
一般的なユダヤ教カバリストは、魔術に対しては否定的な態度を取る。その理由としては、まず魔術は4つの世界の均衡を破壊し、事物を本来の位置から逸脱させてしまう。……つまり、神の名前という「例外的な命令書」を使って無理を通す技術なわけであるから、当然宇宙の秩序を乱しかねないというわけだ。また、魔術を使っていると霊的な進歩の障害になるとすら考えられた。なぜなら、魔術を使っていると「形成世界」に巻き込まれて、そこから上に行けなくなってしまうからだという。さらに、「「名前」を神聖な目的以外で使うことは冒涜行為にもあたるからだ。
とは言うものの、これはあくまで、物質的な願望をかなえるための俗的な目的の魔術を指している。
カバラにおいては、神の名前を使えば様々な超常的な現象を起こせると考えられた。
神の名前は、神の本質をあきらかにするものである。神の本質は絶対的な万能にして全能の力なわけであるから、その名前を使うことによって、その本質を捉え、利用することができるはずである。また、神の名前を表す個々の文字も、本質の一部分なわけであるから、当然神の力が分け与えられているはずである。ヘブライ文字に霊力があるのは、このためである。
また、天使は神の使いであり、それはすなわち神の力の出口なわけであるから、当然天使の名前にも、同様の効果があるわけである。
こうして、超常的な現象を呼び起こす神の名前のことをシェム・ハムフォラスと呼ぶが、カバラ魔術の効果については、以上を根拠にしている。
ユダヤ教の民間伝承によると、最初に魔術を用いたのはアダムの最初の妻のリリスであるといわれている。もっとも彼女は、神の名を悪用し、アダムのもとから逃げるために神の名前を使ったといわれている。
次に魔術を用いたのは、アブラハムの召使エリエゼルだといわれている。またダビデ王をアビシャイは魔術でもって危機から救ったとも言われている。こちらは魔術を善用している。
これらの伝説はともかくも、ユダヤ教カバラは、やがて占星術をも取り込み、ついには手相や人相にまで及ぶ。あの偉大なイサク・ルリアも、人相でもって弟子達を選んでいたと言われている。
ともあれ、ユダヤ教カバラの魔術が盛んに行われるようになったのは、17世紀以降の第五期(衰退期)であり、魔術の流行こそがカバラ衰退の現れである、とも批判を受ける。カバラにおいては、思弁と実践の両方が重要であり、思弁が薄れ実践に偏りすぎたときの症状が魔術である、という手厳しい非難もある。
しかし、この時代に流行した魔術は、物質的な願望をかなえるための俗的な目的の魔術が多く、こうした非難は、これらの世俗的なまじない的な魔術を指しているものと思われる。
しかし、だからといって、こうした呪術的なカバラを、堕落として単純に切り捨てることもできない。しばしば「グリモワール」とすらされる「ラティエルの書」にしてみても、「創造の書」の宇宙論的傾向から純粋な神秘主義的傾向への橋渡し的な思想を含むとして、評価も受けている。
それはともかくも、こうした世俗的な呪術は、キリスト教カバラの実践者達にも利用されたし、「グリモワール」の形をとって民間へも流布した。
さて、ユダヤ教カバラの魔術は17世紀以降の技術なのであろうか?
事実はそうではない。ユダヤ教カバラの魔術の歴史は思いのほか古いのである。
「ヘハロートの書」とは何か。
「ヘハロート」とは「神の宮殿・広間」を意味する。これはメルカバ瞑想において、非常に重要な概念である。メルカバの秘儀(別項で詳述)を実践する者は、メルカバに達するためには七つの宮殿を通過しなければならない。しかし、それらの宮殿の門には恐ろしい門番の天使がおり、それらを鎮めて突破するための秘伝が存在する。
「ヘハロートの書」とは、こうしたメルカバの秘儀を扱った文書の総称である。
こうした書の中でも最も古いものが、「エゼキエルの幻視」という書である。これは旧約聖書「エゼキエル書」の注釈であり、七つの天が開かれるのを幻視したエゼキエルの体験をカバラの秘儀から解き明かそうとした書である。とはいうものの、この書には、まだメルカバ瞑想に関わるようなヘハロートの記述は無い。しかし、七つの天界に関する解説から、広義の意味での「ヘハロートの書」とされる。
「ラジム(神秘)の書」は、それより少し後世の書である。
これは、魔術書である。PGP(ギリシャ語パピルス魔術書)的な内容で、恋愛、病気治療、敵を打ち倒す法、召喚といった内容だ。だが、この本では、七つの天界と、それぞれの天に属する天使団の体系化が成されており、魔術の実践者は目的に応じて、自分の実践する魔術と関係のある天使を召喚するわけである。これも、やはりメルカバの秘儀とは直接の関係はない。だが、この七つの天界と天使団に関する解説から、広義の意味での「ヘハロートの書」に分類される。
この書物は、実に3~4世紀に成立したらしい。最近の研究によって、6~7世紀に成立したという説もあるが、17世紀以降の第五期(衰退期)より遥か昔であることには変わりない。生命の樹の概念が完成する前に、既にカバラは魔術に応用されていたのである。
メルカバの秘儀について語る際、絶対に無視できない人物が、ベン・アキバとシメオン・ベン・ヨハイ、イシュマエルらである。特にアキバは1~2世紀頃の人物でメルカバの瞑想に関する手引書をいくつも残している。
これについては別項で詳述する。
ヘハロートの書の中で、もっとも重要といえるものが、「大ヘハロートの書」と「小ヘハロートの書」であろう。これらはイシュマエル・ベン・エリシャによって書かれたものらしい。
「小ヘハロート」ではベン・アキバが主人公となり、 「大ヘハロート」はネフニア・ハ・カナーとイシュマエルが導師として登場する。
「大ヘハロート」の実践者は、その準備段階として厳しい食事制限、沐浴を行う。そして、神の名前を含んだ呪文を唱え、神を讃える賛歌を歌い、頭を両膝の間に挟む姿勢を取らなければならない。
そして、いよいよ瞑想に入るわけである。
瞑想者は深い恍惚感の中で、天界を幻視して、そこを旅する。そして、この幻影の中で七つの天界を旅するうちに、修行者の霊魂は地上的なものから解放され、神へと近づいてゆくのだ。
この書においては、7つの天界の最高位に位置する7つの宮殿をめぐる旅が重要な位置を示している。修行者は、各宮殿(ヘハロート)の門番の天使に、護符を見せ、呪文を唱え、彼らの怒りをかわずにそこを通して貰わなければならない。そして、それぞれの門番には、それぞれの新しい護符や呪文が必要になる。
「小ヘハロート」では、こうした護符や力ある言葉の記述で埋められている。
こうした護符は主にローマ帝国時代に成立したらしい。
メルカバ瞑想は、この後も進化を続け、やがて護符の類はあまり使われなくなってゆく。
ともかくも、ユダヤ教カバラの伝統中には、儀式魔術の原型となる思想が、間違いなく含まれていたのである。
「ユダヤの秘儀 カバラの象徴学」 せヴ・ベン・シモン・ハレヴィ 平凡社
「カバラ」 箱崎総一 青土社
「カバラ」 ロラン・ゲッチェル 白水社
「カバラー」 チャールズ・ポンセ 創樹社
「カバラ Q&A」 エーリッヒ・ビショップ 三交社
「カバラーの世界」 パール・エプスタイン 青土社