にせ救世主サバタイ・ツヴィ
サバタイ・ツヴィ・ベン・モルデカイは、1626年トルコのスミルナのゲットーに生まれた。
当時スミルナは、スペインを追放されたユダヤ人達が、各地を転々としながら移住を続けたどり着いた場所で、相当数の人口を抱えていたようである。
サバタイ・ツヴィの父親は、貿易業で財を築いた富裕層の人であり、息子をラビにするべく、ユダヤ学院で学ばせる。
しかし、彼は正統的なユダヤ神学には関心が持てず、ルーリア派のカバラ思想に興味を示す。そこで、彼は厳しい禁欲と苦行、瞑想を通じて天使や神との接触を望んだ。真冬の海で沐浴をしたり、長期間に渡る断食なども敢行した。
彼が、自分を救世主だと信じ込むようになったのは、おそらく1648年のことらしい。
もともと、ユダヤ教にはメシア待望論があることは言うまでもないことだろう。一部のカバリスト達が「ゾハール」を解釈し、1648年に救世主が現れると予言していた。さらに、ウクライナで大規模なユダヤ人の大虐殺が起こり、終末論的な雰囲気がユダヤ社会を覆っていた。
そんな中、サバタイ・ツヴィは、聖四文字の名を叫びながら、我こそはメシアなり、といった内容の説教を始めた。
一部に同調者が出たものの、殆どの人々は彼を狂人とみなした。評価は殆ど得られず、彼は生まれ故郷のスミルナから追放されてしまう。
彼は、その後、各地のゲットーを旅して回る。
正式なラビの資格を持たないのに、宗教儀式を行うなどして、ほうぼうでトラブルを引き起こした。
しかしながら、その学識は本物で、多くの友人を作り、尊敬も集めていたのも事実である。
彼は1660年にカイロに辿り付く。
そこで彼はユダヤ人有力者でカバラ主義者のラフィエル・ヨゼフ・ハラビの支持を得る。
続いて彼は、聖都エルサレムへと向かう。しばらく彼は、目立った行動は行わず、祈りと修行に明け暮れる生活を送る。
しかし、ここで大きな転機が訪れる。
トルコ政府がエルサレムのユダヤ人達に無理難題を吹っかけて来たのだ。多額の税金の支払いを命じ、「支払いができないのなら、街から追放する」という命令である。この時、ツヴィは、この危機を救う。密使としてカイロに戻り、大富豪のハラビに助けを求めたのだ。ユダヤ人の富豪は、同胞の救出のためなら、喜んで財を投げ出す。ハラビは、エルサレムのユダヤ人達に代って、税金を立て替えてくれた。
これにより、ツヴィは、大きな支持を集めた。
妻のサラと出会ったのもこの頃だ。
彼女は、ユダヤ人大虐殺の生存者で、強引に入れられたキリスト教の修道院から脱出して、ポーランドからカイロまで逃げてきたという凄い経歴の持ち主。さらに、彼女もまたカバラの信望者で、自分は将来、メシアの妻になると固く信じ込んでいた。
ツヴィは、サラと結婚する。彼女も、一種のカリスマを持っており、支持者を集める大きな力となった。
さらに、彼のパプテスマのヨハネの役をすることになるカバリストの学者ナタン・ガザッティとも出会う。
ガザッテイもまた、近いうちメシアが現れると予言しており、ツヴィこそ、その人だと固く信じ込んだ。
これで、役者は揃ったことになる。
エルサレムのラビ達は、彼を危険視し始める。
するとツヴィは、自分達の本拠地をガザへと移す。
そして、彼は自分こそユダヤの救世主である、と正式に宣言した。
それと平行して、ヨーロッパ各地のゲットーに、支持を呼びかける回覧文書を送った。
信じがたいことだが、凄まじい数のユダヤ人達が、これに同調した。
もちろん、ラビ達は、これをインチキであると糾弾し、ツヴィの信望者を破門にするような強硬手段も取ったが、さして効果は無かった。
さらに、ラビ達の中からも、ツヴィに同調する者が、少なからず出始めた。その中には、ユダヤ教会の有力者も居た。
ツヴィは、続いて本拠地を、ガザから生まれ故郷のスミルナに移した。
住民達は、彼を大きな熱狂で迎え、彼はスミルナの実権を掌握する。
彼の噂は遠くイギリスにまで伝わり、多くのユダヤ人達が、彼を本物の救世主と信じたという。
1666年、ツヴィは、スミルナからコンスタンチノープルへと移動する。
そこで彼は、彼を危険視するトルコ政府によって逮捕され、城に幽閉される。
しかし、丁重な扱いを受け、贅沢な部屋を用意され、まるで王侯貴族のような生活を送った。
しかし、その数ヵ月後、彼はトルコ皇帝(スルタン)のモハメッド4世に呼び出された。
スルタンは、彼に「イスラムに改宗するか、死刑になるか?」の二者択一を強いる。
ここで、彼はあっさりとイスラム教に改宗してしまうのである。
彼のイスラム改宗のニュースは、あっという間に世界じゅうのユダヤ人達の間に広まり、このサバタイ・ツヴィ運動は、始まった時と同じように、あっという間に萎んでしまった。
そして、彼に同調した高名なラビが10人ほど処刑される。
ツヴィは、その後、ユダヤ教の祈りを行っているところを目撃され、トルコより追放された。
そして、アルバニアの小さな町で1676年に死亡した。
ここで驚くべきことだが、ツヴィがイスラム教に改宗した後も、彼を救世主とする運動は消滅はしなかったということだ。イスラム教徒の支持者すら居た。
彼らは、ツヴィのこの改宗は、一種の「秘儀」であり、イニシエーションのようなものと考えた。
こうしたサバタイ主義は、実に18世紀まで生き延びたのである。
しばしば、ユダヤ教カバラ衰退の責任の一端は、このサバタイ・ツヴィにあるとされる。
と言うのも、サバタイ主義の思想は、キリスト教に類似した所があり、多くのラビ達によって、異端とみなされた。彼はゾハールにある「父、母、子」の三原理を、キリスト教の三位一体に酷似した思想に置き換えた考え方を持っていたのである。
事実、サバタイ主義者には、キリスト教に魅力を感じ、改宗する者も多かったという。
さらに、サバタイ主義者にはカバリストが多かった。
正統派のラビ達は、サバタイ運動を批判するのに熱心な余り、カバラまでもを異端視しはじめるのである。
もちろん、全てのユダヤ人カバリストが、サバタイ運動に参加したわけではない。
ツヴィを激しく批判したカバリストも少なくなかったし、中にはポーランドの高名なカバリスト、ネヘミヤ・コーエンのように、ツヴィを批判したばっかりに、彼の信者に命を狙われた者すら居たのである。
それはともかく、ユダヤ社会では、このサバタイ・ツヴィの名は、「にせ救世主」として忌まわしいものになってしまった。
このサバタイ・ツヴィの再評価が始まったのは、20世紀に入ってからである。
そう、あのG・ショーレムによって成された。
ショーレムは、決してサバタイ運動のグノーシスもどきの思想が混入したカバラを、全面評価しているわけではない。
彼は、こんな感じのことを言う。
「凄まじい迫害、虐殺、追放を受けた来たユダヤ人の中に、激しい緊張感が生じ、それがメシア待望論を生み出すのは当然の結果ではないか? ある日、それが突然爆発する。サバタイ運動とは、そういうものではないのか?」
熱烈なシオニストたる彼は、自分の内にツヴィのそれと似たものを見たのであろう。
「カバラ」 箱崎総一 青土社
「ユダヤ教神秘主義」 G・ショーレム 法政大学出版局