偉大な師ヨセフ・カロ


 ヨセフ・カロの正確な生年は不明であるが、おそらく1488年頃であろうと思われる。生まれた場所はスペインのイベリヤ半島だったらしい。だが、彼の子供・少年時代は慌しい移住の連続だった。彼の一族はスペイン在住のスファルディ・ユダヤ人であった。それが15世紀末の大迫害を逃れて難民となり、ポルトガルを経由してトルコに亡命したらしい。1498年にオスマン・トルコ領となっていたコンスタンチノープルに移住し、さら1518年に家族ともどもエルサレムへ移住したらしい。そこからさらに、トルコ領アドリアノープルへと移住する。彼が著述活動を開始するのは、このアドリアノープルでであり、1522年頃のことのようである。そこで彼はニコポリスにも移り、活動する。
 ニコポリスにおいては、彼は主席ラビの職につき、ユダヤ難民の世話やゲットーでの訴訟の調停者として多忙な毎日を送った。
 そこからさらに、1537年にサフェドへ移住する。
 そこで彼は、その学識がユダヤ社会でも認められ、「私の師」や「偉大な師」の称号を受けていた。
 さらにそこから彼はトルコ領サロニカへと移住する。サロニカにはトルコ領最大のゲットーがあり、ユダヤ神学が非常に盛んな街でもあった。膨大なユダヤ神学の本が保存されてもいた。
 カロはそこでも活動を行った。

 カロのユダヤ神学者としての最大の業績は、ユダヤ教典礼儀式の統合、タルムードの法規の整理作業などである。
 ユダヤ神学に関する著書として、タルムードの注釈書、ユダヤ教の法規集なども残している。
 だが、彼はカバリストとしても突出した業績を残している。
 彼はソロモン・モルコーとソロモン・アルカヘズという二人のカバリストと接触し、その影響を受けたと言われている。

 ソロモン・モルコーは、いわゆる自称・救世主の一人であった。
 彼はキリスト教改宗ユダヤ人の家に生まれ、高い教育を受け、宮廷での地位を手にしたほどのインテリでもあった。
 彼はやがてユダヤ教徒に復帰し、多くのカバリストと接触し、カバラの研究を始めた。
 そして、救世主の到来予言に夢中になる。最初、彼は救世主到来の予兆を見たと主張していたが、やがて自分こそが救世主だと信じるようになった。
 彼は多くの信望者を集め、キリスト教徒の支持者すら集めた。そして、ローマ教皇クレメンス7世に気に入られ、その保護すら受けた。
 彼は1530年頃には、地震と洪水の発生を予言し、これを的中させた。
 だが、異端審問所は、常に彼の隙を伺っており、一度は彼の逮捕に失敗したものの、1532年には、とうとう火炙りにされてしまった。
 彼は、カロとも接触を持っていた。
 カロは、モルコーを殉教者とみなした。そして、ますますカバラ研究を深めることになる。

 ソロモン・アルカベズは、あの「石榴の園」の著者、モーゼス・コルドベロの義兄にあたる。彼の著書は散逸して現存しないが、ゲマトリアを用いた終末論、黙示的な思想体系だったと思われる。

 彼のカバラにおける業績は、「正しい巡回説教師(マジッド・メシャリム)」なる著書を残したことである。
 これは、「日記」である。しかし、単に彼の毎日の生き様だけではなく、神秘主義的な思索について多く書かれている。
 この「マジッド」と言う言葉は、「巡回説教師」という意味ではあるが、カバラにおいては「天使」あるいは「天界の力」を意味するとされる。
 こうした霊的な高位の存在は、人間の口や筆を通してカバラの奥義を伝えることがあるとされた。
 それは、はっきりと目を覚ました覚醒状態でも起こるし、あるいは睡眠、神がかり状態でも起こるとされた。そう、我々はこれを聞くとクロウリーの「法の書」伝授を思い出す。一種のお筆先である。
 こうした現象を、彼はマジッドと呼んだ。
 マジッドを重視した同時代のカバリストに、ヨセフ・タイタザックというラビも居た。
 タイタザックは先のモルコーとアルカベズの師匠にあたる。
 彼もまた「聖なる声」の導きにしたがって、お告げを書いていたらしい。
 カロもまた、彼の影響を受け、かの「日記」を書くことができるようになったらしい。
 しかし、彼はタイタザックのように「聖なる声」の導きをそのままマジッドであるとは考えなかった。彼にとっては、「律法」が人格化され天使となったものがマジットであると考えた。単なる神がかり的なお筆先は、マジッドの中でも低級で世俗的なものとみなした。
 また、彼は「ゾハル」にも興味を示し、これの研究をも行っている。

 彼の生涯は、成功者のそれではるが、非常に慌しく多忙なものだった。相次ぐ移住だけではなく、結婚にしてみても3回に渡っている。
 スペインで起こった迫害を逃れて、多くのユダヤ人が移住し、移住先のユダヤ人達との間に、ユダヤ教の儀式の違いが表面化し、彼らの宗教活動は混乱してしまった。彼の主な活動は、こうした混乱を収めるための教義や典礼の整理統合でもあった。 
 彼は最終的にはサフェドに戻り、1575年に87歳の天寿をまっとうした。


「カバラ」 箱崎総一 青土社