前作『けものフレンズ』はリアルタイムで視聴していなかったが、後追いで視聴して感想記事を書いたとおり、前作の作風が肌に合わなかったこととは別に、世界観・設定自体はそれなりに気に入っていたので、今期の『けものフレンズ2』はリアルタイムで追いかけて視聴している。
折り返しまで来て、ここまでの中間感想を少し書いてみたくなった。
本作は、大ヒットした作品の続編としては極めて稀なことに、前作に対する徹底したアンチテーゼにより組み立てられている。続編というものは通常は前作のファンを想定視聴者層として作られるものであるが、本作は前作とは明らかに作風が異なり、前作ファンとは相容れないものであるように思われる。
監督交代の経緯等を詳細には承知していないものの、二次創作ならともかく公式の続編でこれをすることはリスクが高く、案の定、本作は前作のファンからは総じて評判が良くないようだが、それも当然であるように思う。本作は、前作から世界観・設定そしてキャラクターの一部を引き継ぎつつも、前作の「絶対肯定の物語」とは対照的に、徹底した「否定と管理の物語」を紡いでいる。それはきっと、前作が大好きだった大多数のファンからすれば、続編として認めることすらしたくないような落差であるだろう。
けれど私は、それ故に、本作に語るべき点を見出した。
恐らく数少ないであろう、前作を視聴済み、かつ前作の作風が合わなかった身として、この「否定と管理の物語」がどこに着地するのか、興味深く視聴を続けている。前作の「優しい世界」を無残に打ち壊して、メタ的には大ヒットした作品を下敷きにして否定することでしか描けない作品があるのだとすれば、私はその作品を観てみたい。
前作の路線を踏襲する方が商業的にも容易に成功が見込めるから、ここまで大胆に前作を否定する作品は商業アニメの世界ではそうそう見られるものではない。敢えてそれを為した本作の行く末を、私は最後まで観てみたいと感じるのだ。
以下、続きで。
上記の次第であり、前作ファンからすれば、前作の否定をこそ肯定する私の感想は受け入れ難いものであることが容易に想像されるから、敢えて読み進めないことを強く勧める。
折り返しまで来て、ここまでの中間感想を少し書いてみたくなった。
本作は、大ヒットした作品の続編としては極めて稀なことに、前作に対する徹底したアンチテーゼにより組み立てられている。続編というものは通常は前作のファンを想定視聴者層として作られるものであるが、本作は前作とは明らかに作風が異なり、前作ファンとは相容れないものであるように思われる。
監督交代の経緯等を詳細には承知していないものの、二次創作ならともかく公式の続編でこれをすることはリスクが高く、案の定、本作は前作のファンからは総じて評判が良くないようだが、それも当然であるように思う。本作は、前作から世界観・設定そしてキャラクターの一部を引き継ぎつつも、前作の「絶対肯定の物語」とは対照的に、徹底した「否定と管理の物語」を紡いでいる。それはきっと、前作が大好きだった大多数のファンからすれば、続編として認めることすらしたくないような落差であるだろう。
けれど私は、それ故に、本作に語るべき点を見出した。
恐らく数少ないであろう、前作を視聴済み、かつ前作の作風が合わなかった身として、この「否定と管理の物語」がどこに着地するのか、興味深く視聴を続けている。前作の「優しい世界」を無残に打ち壊して、メタ的には大ヒットした作品を下敷きにして否定することでしか描けない作品があるのだとすれば、私はその作品を観てみたい。
前作の路線を踏襲する方が商業的にも容易に成功が見込めるから、ここまで大胆に前作を否定する作品は商業アニメの世界ではそうそう見られるものではない。敢えてそれを為した本作の行く末を、私は最後まで観てみたいと感じるのだ。
以下、続きで。
上記の次第であり、前作ファンからすれば、前作の否定をこそ肯定する私の感想は受け入れ難いものであることが容易に想像されるから、敢えて読み進めないことを強く勧める。
最初に本作の脚本に違和感を覚えたのは、1話の割れ目を飛び越えるシーンで、カルガモが、カラカルの身体能力故にカルガモを飛び越えてしまったという行動に「駄目」だと告げたことだ。
私は前作感想記事の通り、前作を「絶対肯定の物語」として理解していたし、本作もその流儀を当然継承するのだろうと想像していた。その想像は、1話の序盤から早々に打ち砕かれることになったのだ。前作なら、カラカルの身体能力を褒めることはあっても、否定することはなかっただろう。その後も本作は、ことあるごとにキャラクターの行動に「突っ込み」を入れるが、それはコメディ的ではあっても否定であることに変わりはない。この時点で、本作は明らかに前作の流儀とは異なる「否定」を軸とした物語であると感じた。
そしてもう一つ、本作は「ケモノ」に対する「ヒト」の影響を徹底的に描写する。
2話の「名付け」、3話の「調教」、5話の「支配」。それらはいずれも、本作の舞台においては前作と異なり、フレンズが自然体ではなくヒトの影響を受け、かつてヒトに管理されていた存在であることを露骨に示す。更に言えば、それらの影響が、物語にトラブルを生じさせるネガティブな影響として描写されている点に本作の特徴がある。2話、3話に顕著であるが、本作のフレンズはヒトがいなければ生まれない、ヒトの影響下にある人為的な存在であるが故に問題を引き起こす。ケモノの自然な習性をフレンズの特徴として肯定的に描いた前作とは、フレンズの存在自体が対照的であるといっていいだろう。
トラブル自体はキュルルの提示する「遊び」によって一時的に解決されるが、しかし、フレンズがヒトの影響によって本来の動物らしさを失っているという根本的な問題点は何ら解消されていない。
5話で登場した「ビースト」の存在は、フレンズがヒトに馴致されたケモノであるという本作における位置づけをより明確に描き出す。ビーストとフレンズがそれぞれ野生生物と馴致されたケモノであるとすれば、サンドスターによるフレンズ化は人による捕獲と馴致を示唆し、これに失敗した野生のままのビーストはヒトによって管理され、あるいは管理不能なビーストは道具によって排除される(本作がそこまで露骨に描くとは考えにくいが、それは間違いなく野生動物の「駆除」の暗喩であるだろう)。本作はここまで徹底してヒトの視点で描かれているから、一見するとビーストが悪であり、フレンズが善であるように描写されているが、果たしてそれは自然な在り方なのだろうか。
そう考えていくと、本作のセルリアンがいずれも人工物の模倣である点も示唆的に思われる。
1話では観客を暗示するカメラを模倣したセルリアンが登場し、6話でバスや船舶の模倣と思しきセルリアンが登場したが、セルリアンが(馴致の方法たる)サンドスターから生まれるという設定を前提とすれば、これらは絶妙に符合する。ヒトが野生生物を捕獲して馴致するためには「道具」や「機械」が不可欠だからだ。フレンズに対置される道具の暗喩たるセルリアンが作中における絶対悪であると示唆されるとすれば、それはケモノを支配するヒトという関係性に対するアンチテーゼに他ならない。
更に言えば、前作に登場したキャラクター達の変容・変質もまた、そうしたヒトの立ち位置の変化を具現化したものであるように思われる。前作の「かばんちゃん」とは似ても似つかない冷淡な「かばん」は、前作における「フレンズと対等な立場のヒト」という立ち位置を喪失して、ケモノを研究し、管理するヒトとして再登場した。前作の「かばんちゃん」の残響としての発言であった6話後半を除いて、「かばん」が基本的にヒトであるキュルルとしか言葉を交わさないのもまた、そうしたヒトの特別な立ち位置を暗示するものであるように思われる。
「博士」と「助手」の再登場もまたその分かりやすい表出であり、あるいは本作全体を象徴する立ち位置であるとさえ言えるかもしれない。前作では「かばんちゃん」と得意なことの違いこそあれども対等であった彼女たちが、本作では明確に「かばん」の助手と自ら名乗ったことの意味は大きい。ヒトとフレンズの上下関係の描写を徹底して避けていた前作と異なり、本作は明らかにフレンズをヒトの下に置く。
少しメタ的になるが、サーバルが必要以上に「すっごーい」を連呼するのも、前作において形成されたサーバルのキャラクター性が本来以上に誇張されたものと見る余地もある。本作において登場するサーバルは、前作『けものフレンズ』というヒトの創作作品において生み出され、視聴者というヒトに喜ばれたサーバルのパロディ的存在であるという見方は少し皮肉が過ぎるかもしれないが、コメディリリーフとしてテンプレート的な言動に終始する本作のサーバルを見る限り、そう的を外したものでないようにも思える。
フレンズの在り方という本稿の本線からは少し脱線するが、ヒトとラッキービーストの関係もまた、前作から変容したものの一つであるように思う。前作ではボスは明らかに旅の仲間として描写されていたし、作中キャラクターの認識としてもそれをケモノならざるモノとして区別する認識はなく、あくまでも「少し変わったフレンズ」でしかなかった。
しかし本作は、ラッキービーストは明らかに、フレンズたちにもそれと分かる形で「道具」として取り扱われている。モノレールの運転手としてのラッキービーストはモノレールを降りてキュルル達の旅についていくことはないし(それ故に、前作であれば自然に受け容れられたであろう、4話冒頭のキュルルのラッキービーストへのお礼は、むしろ本作では取って付けたような違和感があり浮いて見える描写であった)、ジャングルのラッキービーストは「バッテリー切れ」と露骨に告げる。極め付けは「かばん」が腕時計型のラッキービーストを「これ」と言ってキュルルに渡す言動であり、それが前作では決してあり得なかった「モノ扱い」であることは一目瞭然である。
そうして本作は、前作とは全く異なる冷たい「否定と管理の物語」を紡ぐ。
ここまで考えてきたとおり、フレンズがヒトによって管理され支配される存在であり、フレンズはヒトから与えられた影響ゆえにトラブルを起こして否定される存在であり、フレンズ化を実現する方法たるサンドスターから生まれるセルリアンは人工物で倒すべき敵であるならば、この世界は前作のポストアポカリプス的な世界観よりもむしろ、ディストピア的な管理社会を描き出したものという方が近いように思う。そうであれば、この物語の着地点は、フレンズによる、ヒトの支配からの脱却の物語として描かれるのが最も綺麗な着地点であるように思えるのだ。
その描き方は色々と考えられるが、1話にシルエットとして登場したキャラクターが支配者たるヒト又はヒトのかつての行動を模倣したAI等であって、これを打倒してヒトの支配しない世界を取り戻す、というのはここまでの脚本を考えると自然な流れであるように思う。
ここまで考えてきて、実に驚くべきことに、本作の構成は、「フレンズ」という作品コンセプトの否定と言えるような結論にさえも容易に達しうることに気が付く。全てのフレンズがフレンズではなくビーストとなった、自然な、ヒトの介在しない野生の世界。本作の設定を前提とすればそれは一つのあり得る結末ではあるだろうし、それが「けものフレンズ」というヒットコンテンツの幕の引き方であるというならば、あまりにも皮肉的ではあっても、一つの物語として納得はいく。
勿論、本作が実際にそこに辿り着くかと言えば、そうとは思わない。前掲のような各要素にもかかわらず、本作はキュルルの存在を徹底して肯定的に描くからだ。
この物語の中心に、ヒトであると自称するキュルルが存在しているのは構成として興味深い。本作は根本的に、フレンズを管理し支配するヒトをある種の敵役として描く構成になっている。この物語にキュルルが登場せず、フレンズが何らかの理由づけにより旅をする中でフレンズへのヒトの支配の影響を知り、最終的にヒトの支配を脱する、というのであればそれはそれで筋立てとしては自然だ。
そうだというのに、物語の視点自体はヒトを自称するキュルルに置かれていることそれ自体は一見すると違和感が著しい。
しかしこの違和感は、最終的にキュルルがヒトでありながらフレンズの側に立つ存在として、本作におけるヒトの立場を継承しない新たな上位存在(管理者:キュレーター(キュルルのネーミングはここに通ずるものであると半ば確信している))となる物語であるとすれば理解できる。
つまり、少しメタ読み的な書き方をすれば、本作の脚本はいわゆる貴種流離譚(リンクはwikipedia記事)の文法なのだ。1話のキュルルの登場シーンがサンドスター(管理するヒトの道具)が敷き詰められたカプセルからであった、ということもその設定を示唆する。キュルルはかつてパークを管理していたヒトの子供であり、楽しいパークを取り戻すために新たな管理者となる、という展開はいかにも有りそうなことであるように思う。キュルルの「おうち」探しというテーマがあるが、最終的にはパーク全部がキュルルの「おうち」であった、という結末になるだろうか。
本作は現在の支配者であるヒトを否定しながらも、旧いヒトに代わり新たな管理者となるべきヒトであるキュルルは肯定する(その肯定の方法が自然でなく、遊具の作成に終始して少し子供騙し的で稚拙である、という脚本の問題はあるが)。それは古典的な物語における「悪い王様」と王国を旅する「英雄たる王子」の関係性そのものであり、キュルルに打倒される存在として「悪い王様」であるヒトはネガティブに描かれる。
本作の特色かつ課題は、この文法が前作と正面から衝突していることだ。
前作に登場する「かばんちゃん」は、前作感想で書いた通り、ヒトという種全体を象徴する存在であった。そのため、本作でヒトを否定するには、前作の「かばんちゃん」を否定するのが一番分かりやすい。しかし、前作の「かばんちゃん」はキュルルに倒されるべき旧いヒトの特徴を有していなかった。だから、「かばん」は不自然に冷たく変容したキャラクターとして登場した。
別の観点から言えば、前作のフレンズは特段ヒトの影響を受けた存在として描かれていなかったのに、本作のフレンズは上述の通りヒトの影響を受けた存在として描かれる。全く別の世界、あるいは前作からは遠い未来の話であるとすれば何の違和感もなかったのに、前作と同じ個体を登場させてしまったがために、それらのキャラクターが変質せざるを得なくなった。
6話時点ではそれらの変質の説明が十分とは言えないから、現時点では本作は前作を否定しただけであり、『けものフレンズ』の続編であるということが大きな足枷になっていると評価されても仕方ない。
しかしこの点は逆に言えば、前作の世界観からの落差を説得的かどうかはともかく印象的に、徹底的に描けているという言い方もできる。なぜ「優しい世界」が短期間で大きく変わり果ててしまったのか、その因果と解決を説得的に描くことができたなら、本作の前作との落差は評価を下げる要因ではなくなり、むしろ前作の評判さえも利用して劇的な物語を描き出したと評すべきことになるだろう。
その意味で、本作は大きなギャンブルなのだ。
上手くいけば前作に対するアンチテーゼとしての本作世界を描いた上で否定のその先を描く作品に至れる可能性があるが、失敗すれば本作だけでは済まずに前作を巻き添えに破壊する作品とならざるを得ない。
大ヒット作品の無難な続編ではなく、前作ごと巻き込んで否定しながら作品シリーズとしての命運を賭けた挑戦的な本作の行く末を、最終話まで楽しみに見守っていこうと思う。
私は前作感想記事の通り、前作を「絶対肯定の物語」として理解していたし、本作もその流儀を当然継承するのだろうと想像していた。その想像は、1話の序盤から早々に打ち砕かれることになったのだ。前作なら、カラカルの身体能力を褒めることはあっても、否定することはなかっただろう。その後も本作は、ことあるごとにキャラクターの行動に「突っ込み」を入れるが、それはコメディ的ではあっても否定であることに変わりはない。この時点で、本作は明らかに前作の流儀とは異なる「否定」を軸とした物語であると感じた。
そしてもう一つ、本作は「ケモノ」に対する「ヒト」の影響を徹底的に描写する。
2話の「名付け」、3話の「調教」、5話の「支配」。それらはいずれも、本作の舞台においては前作と異なり、フレンズが自然体ではなくヒトの影響を受け、かつてヒトに管理されていた存在であることを露骨に示す。更に言えば、それらの影響が、物語にトラブルを生じさせるネガティブな影響として描写されている点に本作の特徴がある。2話、3話に顕著であるが、本作のフレンズはヒトがいなければ生まれない、ヒトの影響下にある人為的な存在であるが故に問題を引き起こす。ケモノの自然な習性をフレンズの特徴として肯定的に描いた前作とは、フレンズの存在自体が対照的であるといっていいだろう。
トラブル自体はキュルルの提示する「遊び」によって一時的に解決されるが、しかし、フレンズがヒトの影響によって本来の動物らしさを失っているという根本的な問題点は何ら解消されていない。
5話で登場した「ビースト」の存在は、フレンズがヒトに馴致されたケモノであるという本作における位置づけをより明確に描き出す。ビーストとフレンズがそれぞれ野生生物と馴致されたケモノであるとすれば、サンドスターによるフレンズ化は人による捕獲と馴致を示唆し、これに失敗した野生のままのビーストはヒトによって管理され、あるいは管理不能なビーストは道具によって排除される(本作がそこまで露骨に描くとは考えにくいが、それは間違いなく野生動物の「駆除」の暗喩であるだろう)。本作はここまで徹底してヒトの視点で描かれているから、一見するとビーストが悪であり、フレンズが善であるように描写されているが、果たしてそれは自然な在り方なのだろうか。
そう考えていくと、本作のセルリアンがいずれも人工物の模倣である点も示唆的に思われる。
1話では観客を暗示するカメラを模倣したセルリアンが登場し、6話でバスや船舶の模倣と思しきセルリアンが登場したが、セルリアンが(馴致の方法たる)サンドスターから生まれるという設定を前提とすれば、これらは絶妙に符合する。ヒトが野生生物を捕獲して馴致するためには「道具」や「機械」が不可欠だからだ。フレンズに対置される道具の暗喩たるセルリアンが作中における絶対悪であると示唆されるとすれば、それはケモノを支配するヒトという関係性に対するアンチテーゼに他ならない。
更に言えば、前作に登場したキャラクター達の変容・変質もまた、そうしたヒトの立ち位置の変化を具現化したものであるように思われる。前作の「かばんちゃん」とは似ても似つかない冷淡な「かばん」は、前作における「フレンズと対等な立場のヒト」という立ち位置を喪失して、ケモノを研究し、管理するヒトとして再登場した。前作の「かばんちゃん」の残響としての発言であった6話後半を除いて、「かばん」が基本的にヒトであるキュルルとしか言葉を交わさないのもまた、そうしたヒトの特別な立ち位置を暗示するものであるように思われる。
「博士」と「助手」の再登場もまたその分かりやすい表出であり、あるいは本作全体を象徴する立ち位置であるとさえ言えるかもしれない。前作では「かばんちゃん」と得意なことの違いこそあれども対等であった彼女たちが、本作では明確に「かばん」の助手と自ら名乗ったことの意味は大きい。ヒトとフレンズの上下関係の描写を徹底して避けていた前作と異なり、本作は明らかにフレンズをヒトの下に置く。
少しメタ的になるが、サーバルが必要以上に「すっごーい」を連呼するのも、前作において形成されたサーバルのキャラクター性が本来以上に誇張されたものと見る余地もある。本作において登場するサーバルは、前作『けものフレンズ』というヒトの創作作品において生み出され、視聴者というヒトに喜ばれたサーバルのパロディ的存在であるという見方は少し皮肉が過ぎるかもしれないが、コメディリリーフとしてテンプレート的な言動に終始する本作のサーバルを見る限り、そう的を外したものでないようにも思える。
フレンズの在り方という本稿の本線からは少し脱線するが、ヒトとラッキービーストの関係もまた、前作から変容したものの一つであるように思う。前作ではボスは明らかに旅の仲間として描写されていたし、作中キャラクターの認識としてもそれをケモノならざるモノとして区別する認識はなく、あくまでも「少し変わったフレンズ」でしかなかった。
しかし本作は、ラッキービーストは明らかに、フレンズたちにもそれと分かる形で「道具」として取り扱われている。モノレールの運転手としてのラッキービーストはモノレールを降りてキュルル達の旅についていくことはないし(それ故に、前作であれば自然に受け容れられたであろう、4話冒頭のキュルルのラッキービーストへのお礼は、むしろ本作では取って付けたような違和感があり浮いて見える描写であった)、ジャングルのラッキービーストは「バッテリー切れ」と露骨に告げる。極め付けは「かばん」が腕時計型のラッキービーストを「これ」と言ってキュルルに渡す言動であり、それが前作では決してあり得なかった「モノ扱い」であることは一目瞭然である。
そうして本作は、前作とは全く異なる冷たい「否定と管理の物語」を紡ぐ。
ここまで考えてきたとおり、フレンズがヒトによって管理され支配される存在であり、フレンズはヒトから与えられた影響ゆえにトラブルを起こして否定される存在であり、フレンズ化を実現する方法たるサンドスターから生まれるセルリアンは人工物で倒すべき敵であるならば、この世界は前作のポストアポカリプス的な世界観よりもむしろ、ディストピア的な管理社会を描き出したものという方が近いように思う。そうであれば、この物語の着地点は、フレンズによる、ヒトの支配からの脱却の物語として描かれるのが最も綺麗な着地点であるように思えるのだ。
その描き方は色々と考えられるが、1話にシルエットとして登場したキャラクターが支配者たるヒト又はヒトのかつての行動を模倣したAI等であって、これを打倒してヒトの支配しない世界を取り戻す、というのはここまでの脚本を考えると自然な流れであるように思う。
ここまで考えてきて、実に驚くべきことに、本作の構成は、「フレンズ」という作品コンセプトの否定と言えるような結論にさえも容易に達しうることに気が付く。全てのフレンズがフレンズではなくビーストとなった、自然な、ヒトの介在しない野生の世界。本作の設定を前提とすればそれは一つのあり得る結末ではあるだろうし、それが「けものフレンズ」というヒットコンテンツの幕の引き方であるというならば、あまりにも皮肉的ではあっても、一つの物語として納得はいく。
勿論、本作が実際にそこに辿り着くかと言えば、そうとは思わない。前掲のような各要素にもかかわらず、本作はキュルルの存在を徹底して肯定的に描くからだ。
この物語の中心に、ヒトであると自称するキュルルが存在しているのは構成として興味深い。本作は根本的に、フレンズを管理し支配するヒトをある種の敵役として描く構成になっている。この物語にキュルルが登場せず、フレンズが何らかの理由づけにより旅をする中でフレンズへのヒトの支配の影響を知り、最終的にヒトの支配を脱する、というのであればそれはそれで筋立てとしては自然だ。
そうだというのに、物語の視点自体はヒトを自称するキュルルに置かれていることそれ自体は一見すると違和感が著しい。
しかしこの違和感は、最終的にキュルルがヒトでありながらフレンズの側に立つ存在として、本作におけるヒトの立場を継承しない新たな上位存在(管理者:キュレーター(キュルルのネーミングはここに通ずるものであると半ば確信している))となる物語であるとすれば理解できる。
つまり、少しメタ読み的な書き方をすれば、本作の脚本はいわゆる貴種流離譚(リンクはwikipedia記事)の文法なのだ。1話のキュルルの登場シーンがサンドスター(管理するヒトの道具)が敷き詰められたカプセルからであった、ということもその設定を示唆する。キュルルはかつてパークを管理していたヒトの子供であり、楽しいパークを取り戻すために新たな管理者となる、という展開はいかにも有りそうなことであるように思う。キュルルの「おうち」探しというテーマがあるが、最終的にはパーク全部がキュルルの「おうち」であった、という結末になるだろうか。
本作は現在の支配者であるヒトを否定しながらも、旧いヒトに代わり新たな管理者となるべきヒトであるキュルルは肯定する(その肯定の方法が自然でなく、遊具の作成に終始して少し子供騙し的で稚拙である、という脚本の問題はあるが)。それは古典的な物語における「悪い王様」と王国を旅する「英雄たる王子」の関係性そのものであり、キュルルに打倒される存在として「悪い王様」であるヒトはネガティブに描かれる。
本作の特色かつ課題は、この文法が前作と正面から衝突していることだ。
前作に登場する「かばんちゃん」は、前作感想で書いた通り、ヒトという種全体を象徴する存在であった。そのため、本作でヒトを否定するには、前作の「かばんちゃん」を否定するのが一番分かりやすい。しかし、前作の「かばんちゃん」はキュルルに倒されるべき旧いヒトの特徴を有していなかった。だから、「かばん」は不自然に冷たく変容したキャラクターとして登場した。
別の観点から言えば、前作のフレンズは特段ヒトの影響を受けた存在として描かれていなかったのに、本作のフレンズは上述の通りヒトの影響を受けた存在として描かれる。全く別の世界、あるいは前作からは遠い未来の話であるとすれば何の違和感もなかったのに、前作と同じ個体を登場させてしまったがために、それらのキャラクターが変質せざるを得なくなった。
6話時点ではそれらの変質の説明が十分とは言えないから、現時点では本作は前作を否定しただけであり、『けものフレンズ』の続編であるということが大きな足枷になっていると評価されても仕方ない。
しかしこの点は逆に言えば、前作の世界観からの落差を説得的かどうかはともかく印象的に、徹底的に描けているという言い方もできる。なぜ「優しい世界」が短期間で大きく変わり果ててしまったのか、その因果と解決を説得的に描くことができたなら、本作の前作との落差は評価を下げる要因ではなくなり、むしろ前作の評判さえも利用して劇的な物語を描き出したと評すべきことになるだろう。
その意味で、本作は大きなギャンブルなのだ。
上手くいけば前作に対するアンチテーゼとしての本作世界を描いた上で否定のその先を描く作品に至れる可能性があるが、失敗すれば本作だけでは済まずに前作を巻き添えに破壊する作品とならざるを得ない。
大ヒット作品の無難な続編ではなく、前作ごと巻き込んで否定しながら作品シリーズとしての命運を賭けた挑戦的な本作の行く末を、最終話まで楽しみに見守っていこうと思う。
ありがとうございました