1979年、みんなが見ていた「あのテレビ番組」のすごさを語ろう

あの頃、テレビは王様だった
週刊現代 プロフィール

ツービートの登場

'79年にはテレビの世界でエポックメイキングな出来事が起こる。本体から着脱できるリモコン付きテレビが登場したのだ。

視聴者がチャンネルを頻繁に切り替えることができるようになり、視聴率争いが激しくなった。その結果、途中から見ても楽しめるバラエティやクイズ番組が増えていく。

当時のバラエティ番組の状況を、お笑い評論家で江戸川大学マスコミ学科教授の西条昇氏が語る。

「お笑い界の中心にいたのは、ザ・ドリフターズ、萩本欽一さん、堺正章さん、三波伸介さんの4組です。とりわけ東京においては四天王と言える存在でした。

一方、大阪には桂三枝さんがいた。たとえば『パンチDEデート』『新婚さんいらっしゃい!』は根強い人気がありました。

私はドリフ世代ですから、もちろん『8時だョ!全員集合』を見ていました。'79年当時でも視聴率30%は当たり前。学校に行っても、友達は皆、ドリフの真似をしていた。

ひげダンスがブームとなり、志村けんさんと加藤茶さんに脂が乗ってきた頃でしたね。

『欽ちゃんのどこまでやるの!』も楽しみでした。この時代の萩本さんはプレイングマネジャー的な立ち位置になっています。欽ちゃん自身が面白いというよりも、番組全体が面白かった。

実際、数年後には欽ちゃんの番組から見栄晴や『わらべ』など多くの人気者が生まれました」

 

前出の太田氏は三波伸介が司会を務めた『お笑いオンステージ』をこう懐かしむ。

「『減点パパ』のコーナーが名物でした。ゲストの子どもが、お父さんやお母さんの特徴を話すと、三波さんがささっと得意の似顔絵を描く。

最後は子どもが親に宛てた作文を読み上げる。当然、親は涙ぐんでしまう。いまの時代にはない、ほのぼのした番組でした」

三波は『スターどっきり㊙報告』(フジ系)の司会や紅白歌合戦の白組応援リーダーを務めるなど、この年の「顔」と言える大物芸人だった。

ほかにも常に20%前後の高視聴率をキープした『カックラキン大放送』もこの時代を代表するバラエティ番組だ。

30分間の番組でありながら、10人以上の人気芸能人が出演した。人気コーナーは「お笑いお茶の間劇場」。「めざずは和製チャップリン」と公言していた堺正章をはじめ、坂上二郎、ラビット関根(関根勤)、車だん吉、井上順らがコントを繰り広げ、視聴者はテレビに釘付けとなった。

ラビット関根が披露したカマキリ拳、ダチョウ拳、トンボ拳、ペンギン拳などの風変わりな拳法も、子どもたちを虜にした。

西条氏によれば、お笑いの歴史において、'79年は大きく流れが進化する『維新の直前』なのだという。ドリフや欽ちゃんらの横綱に挑む若手が登場し始めるのだ。そのきっかけが、10月に始まった関西テレビ制作の『花王名人劇場』(フジ系)だ。

「私がよく覚えているのは『月の家圓鏡vsツービート』の企画。初めてツービートが全国放送のゴールデンタイムに登場したんです」(西条氏)

Photo by GettyImages

ツービートの漫才は、いまの時代であればクレームが殺到するであろうネタばかりだった。

たとえば「気をつけろ、ブスが痴漢を待っている」「爺さんの頭で揉み消すタバコの火」といった具合に、ビートたけしの口からは過激なフレーズが次々と飛び出した。

「ところが、『花王名人劇場』で、ツービートが漫才をたっぷり披露したところ、これがウケた。ツービートがゴールデンで認められた瞬間であり、ブレイクのきっかけとなりました」(西条氏)

前出の藤井氏も言う。

「かつて漫才は演芸場のものでしたが、『花王名人劇場』がそれをブラウン管に引っ張り出した。同時にテレビ世代のための新しい漫才を打ち出しました。

それはスピードや、リズムを重視した、ボケの方が一人で喋りまくるスタイルです。これがツービートや紳助竜介の登場につながりました」