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2015年8月の18件の記事

2015/08/29

加害経験がもたらすトラウマ

(戦後70年)封印された「戦争神経症」:朝日新聞デジタル(2015年8月18日04時56分)

包括的で考えるきっかけをもらえる良い記事。
日本軍では精神疾患にかかった傷兵はいないことになっていたという話。
だからその療養も正面から対応することはなかったという。

東京新聞:元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷:社会(TOKYO Web)(2015年8月28日 朝刊)(魚拓

旧軍人ら精神療養、今も九州で6人 70年以上にわたって入院も (西日本新聞) - Yahoo!ニュース(8月11日(火)9時30分配信)(魚拓


心の傷は生涯癒えず、70年以上にわたって入院し続けている人がいる。

戦後70年:豊富な資料で「戦時下の小田原」を特集 箱根療養所も紹介 市郷土文化館で展示 /神奈川 - 毎日新聞(2015年08月08日 地方版)
こちらは身体の戦傷病者の療養所だったらしいが、精神を病んだ人は入っていたのだろうか。

ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その1) 語られた戦時の看護 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)
ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その2止) 染めた看護服 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)

ここでも日本軍が精神障害の存在を認めようとしなかったという話が出てくる。
元海軍軍医が「皇軍に頭のおかしいものなどいないという信念の時代」だったと回顧している。

ただ、佐賀県の嬉野海軍病院には精神病棟があったという。だから実際には精神障害に対応せざるを得なかったのだが、その存在を隠蔽したということなのだろう。

そしてここでも戦時の事実確認が壁にぶつかっている。「終戦時、機密文書、その他重要書類は全部焼却せよとの海軍省の命により、大事なものは何も残っておりません」という。

証拠書類を隠蔽したり廃棄したりするのは今の役所や企業でもよくやることだが、この膨大な悲劇を生んだ戦争指導者たちは、今もその隠蔽を恥じてはいないらしい。

占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2015年08月11日 05時20分)(魚拓

戦犯を守るために書類を焼かせたというのだが、
・これによって多くの史実が分からなくなり、今もなお歴史が伝説の域を超えず、日本の歴史観が混乱し続けている。
・多くの戦犯が裁きから逃げられた一方で、補償を受けるべき人たちが補償を受けられなくなってしまった。
・本来、責められないで良かった人たちが汚名を着せられたままになってしまった。

という副作用については、全く彼は罪の意識すらないようだ。
まあ、奥野氏は中曽根氏よりさらに過激なトンデモ右翼だからいかにも彼らしい。

ところで、産経にこの読売と類似のインタビュー記事が出ている。
戦中派から君たちへ 元法相・奥野誠亮さん、正しい歴史受け継いで (産経新聞) - Yahoo!ニュース(8月18日(火)14時49分配信)(魚拓
奥野氏がもはや同じことしか言えなくなっているのか、それとも産経が読売のコピーをやったのか。あるいは読売・産経の合同インタビューだったのだろうか(苦笑)。

閑話休題。

上の朝日新聞記事によれば、加害がトラウマになるきっかけの一つは、自分が残虐行為をした相手が自分と同じ人間だということに気づくことだという。

日本軍は、自軍招聘には戦争神経症患者がいないと誇示していたが、実際には2000名?以上の患者がいて、病院に収容されていた。終戦時に関係書類を償却するように命令されたが、病院長の諏訪氏は密かに書類を隠し保存した。戦後20年の折りに旧厚生省の人がその書類に基づいて調査研究をし、当時の患者たちを追跡調査して論文にした。このことでこの人はひどく周囲から非難され、脅迫なども受けた。諏訪氏はそれ以上の調査を認めず、またこの調査について50年間語ることも禁じた。今回戦後70年を迎えてその期間が切れたので、この人が初めて取材に応じた。
戦争神経症を病んだ人の多くは自分が人を殺した記憶、加害の記憶に苦しみ、それは長い時を経ても癒えずに、老年期になって突然現れたりもする。トラウマが癒えていないからだという。
このことに引っかけて、日本という国と日本人には、まだ加害の記憶がトラウマのまま癒されていないのではないかとアメリカの歴史学者の人が語る。だから加害に触れられると過敏な反応が生じる。トラウマに向き合うには、そのトラウマの元になった出来事を多く語ることが大切で、それが今までなされてきていないのではないか、ということだった。
加害の記憶がトラウマになるのは、心のたがを外して「敵」や「人間以下のもの」として扱ってきた相手が実は自分たちと同じ人間であったことに思いが至り、自分がしでかしてきたことの恐ろしさに苦しめられるという形で起きるのだそうだ。ということは、いわば、敵を排除してきたと思っていたら実はそれは身内であったという、差別・迫害の対象として良いはずのものが実は保護・愛情の対象であったということの落差の衝撃として解釈できるのではないか。

人を人と思わず「敵」として切断処理をして相手の立場への想像を止め、攻撃対象とする。ヒトの心理特性である、敵・味方、ウチ・ソト、仲間とそうでないものとを識別して守る対象と排除する対象とを区別する機制を巧妙に利用するのが、兵隊を残虐行為に駆り立てたり、国民を戦争支持に向かわせたりする一つの方法だという話とつながっている。

二度の大戦の惨禍を経て、普遍的人権思想が20世紀後半から世界に広がってきたことを思い起こさせる話である。

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(戦後70年)封印された「戦争神経症」:朝日新聞デジタル(2015年8月18日04時56分)

■平和のすがた〈4〉トラウマ

 大きな音が銃声に聞こえ、戦場の光景がよみがえる。悪夢にうなされ悲鳴を上げる。

特集:戦後70年
 戦場から帰った兵士らにしばしば、こんな症状が現れる。心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。

 その名がつく前にも、戦争のトラウマ、つまり心の傷で苦しむ人はいた。なのに元日本兵のトラウマに目を向けた研究は少ない。

 貴重な例外があった。のちに厚生省生活衛生局長を務める精神科医の目黒克己(82)が、戦後20年の時点で手がけた調査だ。

 日本人の精神力を強調する軍は、日中戦争開戦の翌年には、「戦争神経症」と欧米で呼ばれる病には1人もかかっていないと誇っていた。現実には対応を迫られ、国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県)をその拠点とする。敗戦時、軍は資料の焼却を命ずるが、病院長の故・諏訪敬三郎はひそかに8千冊の病床日誌を倉庫に残す。

 これを見つけた目黒は生存している元患者を捜し、郵送と面接で調査した。回答のあった104人のうち25%が治っていないと答え、治ったという人も神経症的傾向が続いていた。

 面接した患者の話で特に目黒の印象に残ったのは、軍での扱いと、加害行為でトラウマを負った例だ。たとえばこんな話である。

 「軍隊はひどいところで、まったく人間扱いされなかった。入隊9日目にひどい私的制裁(古参兵らによる暴行)を受けたのち、なにがなんだかわからなくなった」(元二等兵)

 「何度も討伐に参加し、非戦闘員の殺傷などが重なった。最も打撃を受けたのは、燃えている家に、消せるはずもないのに手桶(ておけ)で水をかける中国人の老婆が母親そっくりにみえたことだ。ある討伐のあと、なにもわからなくなり、護送されるトラックの上で気がついた」(元一等兵)

 戦争神経症で国府台に入院したのは2205人。ほかの元兵士の戦後のふるまいにも、トラウマの影は色濃い。悪夢で跳び起きる、ひたすら働く、妻を殴る。それらもPTSDの軍人によくみられる行動だ。

 年をとってから症状が現れる人もいる。トラウマとなった記憶は、時を経ても生々しい状態のまま心の中に隠れているからだ。

 当時はそんな調査をすることも、冷ややかな目でみられたと目黒は振り返る。「戦争に関することは、研究さえ悪いという風潮だった」。心を病む人への偏見も強く、諏訪は目黒に「今後50年間、論文に記した以外は口にするな」とくぎを刺す。今回取材に応じたのは50年が経ったからだ。

 日本はずっと、戦争の心の傷から目を背け、封印してきたのかもしれない。

 戦争は人の心をどう傷つけ、社会にどんな傷を残すのか。ヒントを求め、戦争を続ける米国で退役軍人らを訪ねた。

■軍命で殺し、兵は病む

 米国の退役軍人たちに、トラウマとなった体験について聞いた。

 イラクに派遣されたジェラルド・マシュー(41)の場合、彼の乗るトラックが子どもをはねたのが心の傷になり、時折よみがえる。「何があっても止まるな」という命令に従ったのだ。

 ベトナム戦争で戦ったジェームズ・マーフィー(69)はベトナム人の遺体の首に、自分が身につけているのと同じ、キリストと十字架を描いたお守りをみつけて罪の意識を感じた。アジア人は敵だとたたき込まれ、ベトナム人を「グーク」という蔑称で呼んでいた、その呪縛が解けた。

 話を聞いていると、根っこは戦争と心のメカニズムにあることに気づく。ふだんなら殺人など犯さない人が、なぜ戦争では殺せるのか。どのように心のたがを外すのか。彼らや心理学者によれば、たとえばこんなメカニズムが存在する。

 ひとつは上官の命令だ。命令する人と手を下す人を分ければ、互いに心のハードルが下がる。

 もうひとつは敵の「非人間化」。敵を「グーク」などと呼ぶことについて、退役軍人の一人は「自分たちより劣るもの、たとえばゴキブリと思えば殺せるでしょう」と説明した。

 それでも、心のたがを外してした行為に苦しむ人がでてくる。相手が子どもだったり、同じ人間だと気づいたりした時だ。心の傷になるのは加害体験だけではないが、私が聞いたのはこうした例だった。

 ベトナム戦争では帰還兵の自殺、薬物乱用、ホームレス化など問題が噴出。心に傷を受けた帰還兵の運動をきっかけに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の病名が生まれた。敗北による自信喪失も含め、社会に与えた傷痕は深く、ベトナム症候群と呼ばれた。米国社会のトラウマである。

 中には「非人間化」にあらがう人も出てくる。ベトナムで従軍したダグ・ローリングス(68)は「ベトナム人も人間だと確認する」ため度々基地を抜け出し、村人たちと交流した。それが上官にばれて降格されたが、軍の機関に不服を申し立てたら認められた。

 「それ以来、ひどい任務を与えられたよ。たとえば汚物の焼却だ」

 不利益は受けても、米軍ではぎりぎりのところで個人の判断の余地があったのか? だから苦しむのか?

 ダグの話を聞いて、私は精神科医、目黒克己の話を思い出した。

 戦後20年の調査の際、目黒は元国府台陸軍病院長、諏訪敬三郎に相談した。

 戦争神経症で戦地から国府台に送られたのは下士官と兵ばかり。将校では発症した人が少ないようだ。なぜなのか。

 2人はそんな議論を交わし、「日本は『天皇の軍隊』だからではないか」という見方で一致する。米軍より「絶対服従」の度合いが強く、自分の責任でやったという意識を持ちにくいという意味だ。将校なら兵士に比べ、軍内で暴行を受けたりみずから手を下したりすることも少ない。

 「天皇の軍隊」の象徴の一つが、上官の命令を天皇の命令と心得よという軍人勅諭だ。一橋大教授の吉田裕(60)の研究によれば、それでもかつては処分への異議申し立ての権利が定められていたが、軍は1930年代から40年代にかけて逆らう余地をなくしていく。同時期に「国軍」と称していた陸軍は「皇軍」を名乗るようになる。

 それも、心のたがを外す日本なりの手法の一つだったのだろうか。

 防衛大教授、河野仁(54)の研究によれば、道徳的葛藤から逃れられないのは「戦えない軍隊」。非人間的な軍隊こそ「精強な軍隊」。「この論理を究極的に推し進めたのが日本軍だった」(著書「〈玉砕〉の軍隊、〈生還〉の軍隊」から)

 特攻、玉砕、様々な加害行為。味方の命も敵の命も軽んじたのは、その結末だったのだろうか。

■傷残る日本、加害なお論争

 その問いを、軍事心理学を研究するドレクセル大学教授、エリック・ジルマー(59)にぶつけた。ナチスや、グアンタナモ収容所での米兵による捕虜虐待、テロリストの行動などに潜む心理を調べてきた人物だ。

 「人は集団になれば、個人ではできないことをするものです。結びつきが強ければ、仲間のために死ぬ。非人道的なこともする」

 「集団が結束するのは、その集団に愛情を、外部に憎しみをもつ時。戦わなければ殺されると思う時。だからヒトラーはユダヤ人を、米国は共産主義やテロリストを利用して国民をまとめたでしょう。人間の心理は同じです。日本は島国で歴史が長く、まとまりやすい条件はあるけれど」

 ジルマーは、日本社会を一人の人間にたとえて話し出した。「日本はまだ、戦争のトラウマを癒やすプロセスを終えていない」というのである。米国も奴隷制のトラウマが癒えないままだと、日本が特殊ではないことを強調しながら。

 言わんとするのは、こういうことだ。

 日本軍の加害に触れた時、日本では激しい論争が起きる。いまだに過去のこととして、冷静に議論するのが難しい。それは心の傷が、触れれば痛い状態のまま残っているからだ――。

 心に傷を負った人はしばしば、その体験を思い出すのを避けようとする。PTSDの治療では、あえて体験に向き合い、話す手法が用いられる。言葉にすることで気持ちが整理され、癒やしにつながる。

 それと同じように、気持ちを整理する作業が要るとジルマーは説く。

 「戦地での体験を語り、聞く。戦争とは何かを研究する。『先祖は悪いことをした。けれど先祖が悪い人なのではない。どの国でもいつの時代でも、同じ条件がそろえば同じことが起こりうる』。そう整理がつけば、過去を受け入れ、将来へと歩むことができる」

 そうしてトラウマを癒やさなければ、戦争から平和への移行は完了しないとジルマーは言った。=敬称略

■取材後記

 個人のトラウマを癒やすのに、言葉にして気持ちを整理する必要があるのはわかる。社会のトラウマを癒やすため、何をすれば「気持ち」の整理につながるのか。

 しつこく聞いていたら、ジルマー教授が例を挙げた。「あなたが書こうとしている記事をきちんと書くことが、癒やしになるんです」

 励ましてくれたのだけれど、それは問いでもあったのだろう。これまで私たちはきちんと書いてきたのか、と。(編集委員・松下秀雄)

     ◇

 まつした・ひでお 1964年生まれ。論説委員などを経て政治担当編集委員

     ◇

 次回は「平和」のイメージについて考えます

東京新聞:元兵員 残虐行為の悪夢 戦後70年 消えぬ心の傷:社会(TOKYO Web)(2015年8月28日 朝刊)

 アジア太平洋戦争の軍隊生活や軍務時に精神障害を負った元兵員のうち、今年七月末時点で少なくとも十人が入通院を続けていることが分かった。戦争、軍隊と障害者の問題を研究する埼玉大の清水寛(ひろし)名誉教授(障害児教育学)は「彼らは戦争がいかに人間の心身を深く長く傷つけるかの生き証人」と指摘している。 (辻渕智之)
 本紙は、戦傷病者特別援護法に基づき、精神障害で療養費給付を受けている元軍人軍属の有無を四十七都道府県に問い合わせた。確認分だけで、入院中の元兵員は福岡など四道県の四人。いずれも八十歳代後半以上で、多くは約七十年間にわたり入院を続けてきたとみられる。通院は東京と島根など六都県の六人。
 療養費給付を受ける元兵員は一九八〇年代には入通院各五百人以上いたが、年々減少。入院者は今春段階で長野、鹿児島両県にも一人ずついたが五、六月に死亡している。
 清水氏によると、戦時中に精神障害と診断された兵員は、精神障害に対応する基幹病院だった国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に収容され、三八~四五年で一万四百人余に上った。この数は陸軍の一部にすぎず、症状が出ても臆病者や詐病扱いで制裁を浴びて収容されなかった場合も多いとみられる。
 清水氏は同病院の「病床日誌(カルテ)」約八千人分を分析。発症や変調の要因として戦闘行動での恐怖や不安、疲労のほか、絶対服従が求められる軍隊生活への不適応、加害の罪責感などを挙げる。
 診療記録で、兵士の一人は、中国で子どもも含めて住民を虐殺した罪責感や症状をこう語っている。「住民ヲ七人殺シタ」「ソノ後恐ロシイ夢ヲ見」「又殺シタ良民ガウラメシソウニ見タリスル」「風呂ニ入ッテ居テモ廊下ヲ歩イテイテモ皆ガ叩(たた)キカカッテキハシナイカトイフヨウナ気ガスル」
 残虐行為が不意に思い出され、悪夢で現れる状態について、埼玉大の細渕富夫教授(障害児教育学)は「ベトナム、イラク戦争の帰還米兵で注目された心的外傷後ストレス障害(PTSD)に類似する症状」とみる。
 清水氏は「症状が落ち着いて入院治療までは必要のない元兵員が、偏見や家族の協力不足などで入院を強いられてきた面もある」と説明。また今後、安全保障関連法案が成立して米国の軍事行動に協力すると、「自衛隊でもおびただしい精神障害者が生じる」と懸念する。

(写真キャプション:「自殺したい」「人の顔を見るのが嫌だ」など元兵員の訴えが記録された国府台陸軍病院の病床日誌(コピー)=「資料集成戦争と障害者」(清水寛編)から)

旧軍人ら精神療養、今も九州で6人 70年以上にわたって入院も (西日本新聞) - Yahoo!ニュース(8月11日(火)9時30分配信)

 太平洋戦争中、過酷な戦場体験や軍隊生活の影響で精神障害を患い、戦後70年を迎えてなお療養中の旧軍人・軍属が、今年3月末現在で九州7県に6人おり、うち3人が入院中であることが、西日本新聞の取材で分かった。

 福岡県の98歳の男性など、70年以上にわたって入院生活を続けてきたとみられる人もいる。戦地での結核や外傷などの治療を続けている戦傷病者も7県で計43人に上る。戦争がもたらす心身の傷の深さが、あらためて浮き彫りになった。

 一定程度以上の障害や療養の必要がある旧軍人・軍属には、戦傷病者特別援護法に基づいて戦傷病者手帳が交付され、医療費給付などの援護が受けられる。

 九州各県によると、3月末現在で戦傷病者手帳を持っている人は、福岡392人▽佐賀95人▽長崎382人▽熊本270人▽大分137人▽宮崎167人▽鹿児島421人-の計1864人。このうち、医療費給付を受けている療養患者は7県で49人。精神障害で入院中の人は福岡、宮崎、鹿児島3県にそれぞれ1人ずつおり、通院中の人も3県に1人ずつ確認されているという。

 福岡県保護・援護課によると、同県内では戦地での精神障害のため98歳の男性が入院しており、90歳の男性が通院治療中。98歳の男性については「県には2000年以降の記録しか残っていないが、70年以上入院生活を続けてきたとみられる」(援護恩給係)という。

 研究者は宮崎、鹿児島の入院者も、数十年間にわたって入院生活を送ってきた可能性が高いとみる。戦後、出身地の近くにある病院などに転院したものの、精神障害に対する社会の偏見から、家族にも見放されて入院生活を余儀なくされ、一度も退院せずに亡くなった人が多いという。

 関係者によると、福岡県の98歳の男性は、戦場での体験から精神疾患を発症。国立病院などを経て、現在は筑後地区の病院に入院し、親族が看病をしている。

■奪われた社会復帰 清水寛・埼玉大名誉教授の話
「戦時中、精神に障害を負った軍人・軍属の多くは、千葉県市川市の旧国府台陸軍病院に送られた。その数は約1万450人に上るとされる。2013年3月末時点で、全国では7人が入院中と確認されており、いずれも70年近く入院したままとみられる。身体障害を負った兵士は名誉の負傷とたたえられたが、精神障害は恥とされた。国の施設で終生保護する政府方針もあり、家族とも縁が切れ、社会復帰の可能性が奪われた。社会的入院の最もひどい例だ。現在の米軍もそうだが、戦争が起きると軍隊には自殺者や精神障害者が大量に発生する。同じ過ちを繰り返さないため、忘れられている彼らの存在を掘り起こすべきだ」

九州7県で療養中の戦傷病者
精神疾患結核その他
福岡26614
佐賀0123
長崎0145
熊本0347
大分0055
宮崎23712
鹿児島2013
6142949

戦後70年:豊富な資料で「戦時下の小田原」を特集 箱根療養所も紹介 市郷土文化館で展示 /神奈川 - 毎日新聞(2015年08月08日 地方版)

 戦後70年特集展示「戦時下の小田原と箱根療養所」が小田原市城内の市郷土文化館で開かれている。戦争中の小田原について振り返るとともに、戦傷病者の療養所だった同市風祭の箱根療養所(現・国立病院機構箱根病院)についても紹介している。

 箱根療養所は戦争で手足を失うなどした傷病兵のための施設。日露戦争後に東京で開院した「廃兵院」が、1936(昭和11)年に「傷兵院」として風祭に移転、2008年まで戦傷病者が入所していた。小田原市内に残る数少ない「戦争遺跡」の一つで、市民でも存在を知る人は少なくなっているという。

 会場には焼夷(しょうい)弾の弾頭や金属不足から竹で作った防空用竹かぶと、出征旗などを展示。小田原駅頭で出征兵士を送る人たちや小田原空襲で焼け落ちた市内の様子を収めた写真パネルも並べられている。

 他にも療養所の入所者のインタビュー映像や、戦後にクッションや背もたれなどを改良した「箱根式車椅子」の実物などを見ることができる。

 8日と9月6日午前11時から担当学芸員による展示解説(20人・当日先着順)▽15日午後1時半から小田原市民会館(同市本町)で特別講演会「終戦当日の小田原空襲」(60人・当日先着順)▽29日午前10時から市立三の丸小学校(同市本町)で「終戦から70年 地域の人々と観る記録映像『戦時下の防空訓練』」−−も開かれる。

 同展は10月4日まで。無料。問い合わせは郷土文化館(0465・23・1377)。【澤晴夫】

ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その1) 語られた戦時の看護 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)

 阿蘇山の南に位置する熊本県の農村で、赤紙が来るのを待ちわびていた。戦死、戦傷した4人の兄を思うと、戦地へ赴くことは怖くなかった。「私もお国のために」。少女の心に迷いはなかった。

 福岡市で暮らす津村ミトメさん(93)が、心に深く刻み込まれた記憶の糸をゆっくりとたぐる。「さっき食べたご飯は忘れても、あの日々は覚えてるんですよ」。戦時下、海軍病院に派遣された日本赤十字社の看護婦だった。

 陸軍大臣や海軍大臣は日赤に要請し、看護婦は赤紙で召集された。1937年の日中戦争開戦から太平洋戦争にかけて、組織された救護班は計960班。延べ約3万3000人が戦地や、国内にある陸海軍の病院へ「出征」し、主に兵士の看護という任務に就いた。日赤の記録では、殉職者は1000人を超える。

 44年夏に召集された津村さんの初任地は長崎県の佐世保海軍病院。その後、長崎原爆の被爆者、精神を病んで前線から戻された兵士をみた。「治療じゃないの、何もできない。慰めるしかできなかった」

 戦時下の医療に関する公的記録は少ない。日本軍は戦後、多くの重要書類を処分した。軍医や看護婦ら個人の手記や証言が貴重な手がかりだ。津村さんは戦後、看護婦を続けようとしたが「女は家庭」の時代、思うように歩めなかった。3人の子を育て、夫の転勤で故郷を離れた。看護婦だった頃を話すことも書き残すこともなく、時は流れた。

 「私も昔、看護婦だったのよ」。病院に通ったり、訪問看護を受けたりするようになり、若い看護師を相手に昔話をし始めたのは最近のこと。点滴が終わるまで、マッサージ治療が終わるまで、少しずつ打ち明けていった。

 津村さんの話に驚いた医療関係者から、記者の元に連絡が来たのは今年初め。自宅を訪ねると、津村さんは訪問看護師と共に迎えてくれた。語られることがなかった日赤救護班「熊本第六六八」の看護婦が見た戦争である。

(写真キャプション:佐世保海軍病院の「第十一病舎」前で看護婦仲間らと撮った写真。当時、外地へ行けなかったことは「悔しかった」と言う。白い看護衣を染めていた。中列左端が津村ミトメさん=津村さん提供)

ストーリー:日赤救護班「熊本第六六八」(その2止) 染めた看護服 - 毎日新聞(2015年08月02日 東京朝刊)

<1面からつづく>

(写真キャプション:日本赤十字社(東京都港区)にほぼ同じ時期の赤紙が保管されている。「大東亜戦争救護班要員トシテ召集ス」。約15センチ四方の小さな紙=日赤提供(画像を一部加工しています))

 ◆太平洋戦争下、国内医療の現実

 ◇届いた赤紙「よし!」

 兄たちの敵をとりたい。兄たちが不幸な思いをしているのを見ていたからですね。5人の兄のうち4人が軍隊に召されていましたからですね。

 津村ミトメさん(93)=福岡市=は、右頬を隠すように体を斜めにした長兄の写真を見つめた。20歳ほど年の離れた長兄は旧満州(現中国東北部)に出征し、凍りつくほどの寒さで固まった右頬を上官に殴られた。大きな傷痕が消えなかった。

 可哀そうでたまりません。傷のせいでいつも居心地が悪そうで。四つ年上の兄は名誉の甲種合格。万歳、万歳って送り出して、生きて帰れませんでした。「霧島」だったと思います。南方の海に軍艦と沈みました。機関兵で肺浸潤(結核)になり、治療途中で帰された兄もおります。炭鉱で勤労奉仕をしていた兄もいます。

 私は女学校を卒業して、進路を決めかねていた時に、日赤が看護婦を募集しているというのを新聞で見て。16、17の頃だったと思います。私もお国のためにって受験したんです。

 京都市の日赤看護婦養成所で3年ほど学んだという。養成所を終えた津村さんは故郷の熊本へ帰り、召集を待つ。知らせが来たのは22歳の1944年6月ごろ。米軍がサイパンに上陸し、7月にはインパール作戦が中止される。だが、戦況の厳しさは国民に知らされていなかった。

 赤紙です。本当に赤い紙。よし、よし!って思いました。それはもう、うれしくて。どこへ出征するかは分からない。怖くなんかない。病気になってけがした兵隊さんが可哀そうで。慰めてあげたいというのが一番の思い。(私のことを)親戚中、喜んで送ってくれて。村中の婦人会や在郷軍人会の皆さんに送られて。万歳、万歳で。沖縄に行く準備をしておくように言われたと記憶しております。

 今は米軍施設となった長崎県の佐世保海軍病院が最初の任地だった。津村さんは熊本県出身者が多い「熊本第六六八」に所属。約20人の看護婦がいた。

 いくつも病舎があって。私は第11病舎。結核病棟でした。すぐそばにオペができるほど大きな防空壕(ごう)があって、空襲警報の度に患者さんを運ぶ。裏は兵舎。この頃は(空襲で狙われるため)白い看護衣を染めて。グレーというか緑みたいな色に。

 そのうち、どんどん患者さんが増えて。それで、熊本班は武雄温泉(佐賀県)に移りました。終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は「満州楼」っていう女郎屋さん。3階建てで、部屋に2人ずつ兵隊さんを寝かせていました。毎朝が起床ラッパ。「総員起こし、5分前」の号令で。朝6時前にね。

 帰りたがっていた兵隊さんもいましたよ。胃が痛くてたまらないって言うから、手術して開けてみたら、きれいだったんです。軍医さんが怒って、縫合もしないで行ってしまった。だから私たちが見よう見まねで縫合したんです。兵隊さんには家族がいますからね。病気ということにして帰りたかったんでしょう。

(写真キャプション:旅館「白さぎ荘」の太鼓橋は遊郭だった頃の名残。武雄温泉の一角にはかつて十数軒の遊郭が並んでいた。戦時中、海軍病院が接収した記録は市史など公的史料に見当たらない。当時を知る人は少なくなった=佐賀県武雄市で)

 「日本海軍史」(海軍歴史保存会発行)によると、海軍は入院患者の激増で病院を次々と新設。武雄の他に、湯河原、雲仙、熱海、城崎など温泉地が記されている。武雄に残る記録は少ないが、ラッパの音を覚えているお年寄りに会えた。「遊郭は10軒以上ありましたな。ガリガリの兵隊さんが哀れでねえ」

 遊郭があったという場所に建つ旅館「白さぎ荘」を訪ねると、オーナー夫妻が館内を案内してくれた。武雄で唯一、中庭に架かる太鼓橋や急な階段など遊郭の特徴的な構造を残しており、偶然にもこの旅館がかつての満州楼だった。「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わる。

 特攻に行く兵隊さんもお見舞いに来ましたですよ。佐世保から出撃前の。入院してる兵隊さん、耳なくしたり、手なくしたり、そういう人がいっぱいいましたからね。「行くから」って。特攻の兵隊さんをよく見かけました。戦況は悪くなっていたんでしょうけど、「敵の損害は甚大なり。我が方の損失は僅少なり」って、終戦直前まで新聞は書いてました。アメリカに負けるなんて思いません。いつか神風が吹くって思ってましたから……、バカみたいね。

 ◇「治療じゃない。何もできない」

 45年8月6日、広島に「新型爆弾が使われた」ことを津村さんは新聞で知る。そして9日、原爆は長崎に投下された。戦後30年近くたって取得した津村さんの被爆者手帳には「12日入市」とある。

 計り知れない爆弾が広島に落とされた、長崎にも落とされたと聞いたように思います。「長崎へ救護に向かえ」という命令が下されたんでしょうか。婦長から青酸カリを渡されたのも、この頃だったと思います。覚悟しました。アメリカ兵は何やるか分からんって言われて。

 トラックや汽車を乗り継いで、焼け野原を歩いたはずなんですけど、どうやって着いたのか覚えていません。諫早から入ったと記憶しますが、これは、何なんだと。もう、何もない。緑がない。建物がない。山の上から谷底まで何もない。

 爆心地から約3キロ。津村さんたちは救護所となっていた新興善(しんこうぜん)国民学校に入った。医療なき救護現場だった。

 窓がたくさん割れていて、ガラスをいっぱいよけて。ベッドなんてない。兵隊さんが次々と患者さんを運んできて、床に寝かせていく。ひどいやけどの部分は化膿(かのう)して、びっしりうじ虫がわく。やってあげることは、体拭くなんてどころじゃない。うじ虫取って。消毒薬もなくて、海水くんできて、じょうろで(かける)。でないとガーゼが離れない。ぴたっとくっついてしまう。しばらくしてガーゼを取り換えて。その人は明くる日は死体となっていたり。薬もないし、私たちがしたことは治療じゃない。つらい……つらかったです。さっき水をくださいって言った人が、あっという間に事切れる。亡くなるとうじ虫が生きてる人に移動していく。「うじ虫が……」ってどこからか聞こえてくる。

 夕方になると、お医者さんが回ってきて、死んだ人に印をつける。夜勤の時は、その人を死体が山積みになった校庭に運ぶ。あの光景を見て、あきらめました。もうだめだって。怖かったです。まっ暗闇の中、2人でちょうちん一つ持って担架で死体を運んで、山と積まれたその脇に置いてくる。上には乗せられない。それから兵隊さんが油をかけて焼く。最初に置かれた死体は最後まで残るから、体から脂が出てくる。その臭いと死体を焼く臭い。玉音放送なんて聞いていません。そういう中での終戦でした。

(写真キャプション:戦後も任務が続いた「熊本第六六八」の看護婦たち。嬉野海軍病院にいた頃に撮った写真には笑顔がある。看護衣は白に戻った。後列左から2人目が津村さん=津村さん提供)

 熊本班の任務は解かれず、やがて全員の体に異変が起きた。40度近い高熱に激しい頭痛、倦怠(けんたい)感。被爆した可能性があったが、当時はデング熱などと言われた。9月初旬、熊本班は「療養のため」に佐賀県の嬉野(うれしの)海軍病院へ送られ、伝染病棟に隔離された。熱も下がり、任務に戻った場所は敷地内にある精神病棟だった。心を病み、戦地から戻された兵士たちが入院していた。

 精神病棟はね、奥の方。敷地の一番奥の方でしたよ。窓には格子。2階が病棟で、3階が電気ショックの部屋。普通に平凡に暮らしていた人が戦地に行って、殺したり殺されそうになったり。発狂しますね、それは。怖かったんだろうなって思いますよ。床屋さんだった人はカミソリを持たせるとおとなしい。刃物は怖かったけど、うなじをそってくださいよって明るくお願いするの。(自分が)安心して、してもらわないと本人に伝わるから。踊りの先生は踊らせれば落ち着く。

 海軍病院跡地には今、国立病院機構嬉野医療センターが建つ。当時の資料が残っていないか訪ねると、唯一、廊下の壁に掛けられた古い配置図があった。2000年ごろに記念誌をまとめた海軍病院の元職員を捜した。既に亡くなっていたが、直筆のメモが記念誌に貼られていた。「終戦時、機密文書、その他重要書類は全部焼却せよとの海軍省の命により、大事なものは何も残っておりません」

 当時、精神を病んだ帰還兵の治療方針は、どういうものだったか。97年発行の専門誌「精神医療」に元海軍軍医の回顧が掲載されている。「海軍には精神病患者やその治療についての関心、配慮は全くありませんでした。皇軍に頭のおかしいものなどいないという信念の時代であったし……」

 治療という治療はありませんでした。暴れる人もいましたけど、いつも電気ショック。昔の治療はそれだけ。(患者は)嫌がって。3階へ上るのにだましてだまして。楽しいことしましょうねって手拍子したりとか。私は患者さんを横にして部屋を出る。通電の時以外、軍医さんの姿はほとんど見なかったですね。看護婦としての役目を果たせない。笑顔でいること以外、慰めるすべがないんです。優しくするしかなかった。

 拭いても拭いても、自分の排せつ物を壁に投げる人がいました。精いっぱいの抵抗だったんでしょう。何だ、こんちくしょう!って。普通に暮らしていたのに、いきなり召集令状で呼び出して、たたかれてたたかれて、殺し合いをさせられて。だからもう、自分の排せつ物を壁にぶっかけて。精神病棟にいたのは2カ月ぐらいです。あの人たちはどうなったのか。みんな戦争から帰ってきた20代ぐらいの若い兵隊さんです。

 心に傷を負って帰る場所を失い、病院や療養所で生涯を閉じた「未復員」の兵士は少なくないという。厚生労働省の最新の統計(13年度)では、戦傷病者手帳を交付された精神を病む7人が施設に入院している。

 熊本第六六八は嬉野海軍病院での任務を終了。46年6月に「召集解除」となり、それぞれの故郷へ帰っていった。津村さんは古い写真を大切にしまっている。仲間たちとの楽しい思い出もある看護婦時代の2年間。武雄では兵隊さんから自転車の乗り方を教わり、仕事のない日は麦畑に出かけておにぎりをほおばった。

 だが、体験を手記にした元看護婦がいる一方、六六八は何も残さなかった。日赤熊本支部が発行した支部史の記録からも、新興善国民学校で活動した事実は抜け落ちている。六六八と行動を共にした軍医の子を取材すると、「大変だったとしか聞いていません」という答えが返ってきた。

 誰にも話せなかったんです。話したい話じゃないでしょう。私たち熊本班は戦後、集まることは、ほとんどありませんでした。何も残さない、話さないまま、ほとんど死んでしまいました。

 感謝してるんです、今こうして生きていて、子供も育って、孫もいて。でもね……、悔しかったです。「原爆菌を持って帰ってきた」って言われて。

 最後のインタビューは7月中旬だった。別れ際、どちらからともなく手を伸ばした。「あなたは幸せになってね」。ベッドから身を起こした津村さんが、細い手で私の手を握った時、その強さにはっとした。津村さんには言葉にできない体験がまだあるのだろう。そんな思いが頭をよぎり、心が乱れた。

 「今まで話せなかった、つらくて。でも、もうこれ以上、私の体ももたない。この国は昔、お国のために頑張った若い子たちをぼろぼろにして、捨てたんです。戦争は誰も幸せにならない。この国がどういうふうになっていくのか、私には分かりません。でも、嫌なんです、戦争は。また苦しむ人が、きっと出るから」

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 ◆今回のストーリーの取材は

 ◇山田奈緒(やまだ・なお)(東京社会部)

 2005年入社。京都支局、阪神支局を経て10年から東京社会部。司法を担当した後、13年春から遊軍で平和取材に携わる。昨夏からはTBSテレビとの共同プロジェクト「千の証言」を担当している。今回は写真も担当した。

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占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102 : まとめ読み「NEWS通」 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2015年08月11日 05時20分)

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

役所一転「上司」はGHQ

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

 7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)

 ※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)

戦中派から君たちへ 元法相・奥野誠亮さん、正しい歴史受け継いで (産経新聞) - Yahoo!ニュース(8月18日(火)14時49分配信)

 昭和20年、内務省に新しくできた戦時業務課の事務官となり、地方財政の仕事と兼務した。「油をもっと」「米が足りない」…。軍部や各省からこういった要請を受け、知事たちに供出を頼む通達を出した。

 次第に東京の空襲もひどくなっていた。3月の東京大空襲では職員50人をつれて、遺体収容の応援にいった。竹やりに針金をつけて川に入れると必ず遺体が引っかかり、本当に痛ましかった。5月の空襲では渋谷区の自宅近くに焼夷(しょうい)弾が落ちた。恐怖心なんてなかった。いつ死んでもやむを得ないという覚悟だった。

 翌朝、歩いて内務省まで向かったが、道の両側にぽつんぽつんと人がうずくまってまだ燃えていた。体は小さく、赤銅(しゃくどう)色になっていて。表参道にある銀行のビルの裏側には熱風を避けようとした20~30人が固まって死んでいた。いまもその光景は焼き付いている。

 われわれ内務官僚の間ではもうこの戦争は負けると思っていた。でも、陸軍を抑えきれないんだよ。当時陸軍は内務省に2つの注文をしてきた。

 1つは「いずれ沖縄は放棄せざるを得ないが、降伏はしない。本土で必ず勝利を収めるから、それに対応した行政組織を作ってほしい」。2つ目は「国民も軍に協力して戦えるようにしてほしい」ということだった。

 そのとき、内務省の灘尾弘吉事務次官が私の耳元でささやいた言葉が忘れられない。「軍が国民を道連れにしようとしている。けしからん」と。戦争を終結しなきゃならんときになお無理な戦争をやっている。灘尾さんは「国民が協力しろといってもなんの武器もない。あるのは竹やりだけじゃないか」と捨てぜりふを吐いていた。全く同じ気持ちだった。

 戦争終結は天皇陛下の言葉がなければ陸軍が収まらず、日本は滅びていただろう。戦略なきまま戦争に突入してしまった。思い上がっちゃったんだ。日本全部が。

 ただあの戦争で日本だけが悪者になるのはおかしい。いいところもあれば悪いところもあった。正しい歴史を伝えて、この国のよさはしっかりと受け継いでいってほしい。

 戦前は「強きをくじき、弱きを助ける」という精神があった。いまの日本はそういう古きよきものを取り返すことが必要だ。そして自由と平等を大事にする。国民みんなで決めていく。それが理想のあるべき姿だと思う。

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差別と排外主義はヒトの認知構造に本来的に根ざすものだという指摘

ヒトの認知構造の特性とそれの社会的影響というのは昨今の差別問題や人権に関するホットイシューでもある。

我々は根っからの人種差別主義者なのか?差別と偏見、ステレオタイプに関する科学的な回答 : カラパイア

これの元になっている記事

Are We Born Racist | Nature of Prejudice | Berkeley Wellness
Berkeley WellnessはUCバークレーのお墨付きみたい。

この性質は、ヒトが社会性動物として仲間と敵とを峻別する能力を発達させた結果だという。
ということは、差別や排外主義は、仲間や身内への愛情や連帯の意識と対になっていて、それらは同じものの両面だということだ。これは考えてみるとなかなか恐ろしい事実である。

家族愛、友愛、郷土愛などが、実は差別、いじめ、排外主義と表裏一体の関係にあるという指摘につながる。

愛情と憎悪、身内意識と差別・排外主義とが背中合わせの感情なのだとしたら、愛情が深い人ほど、また憎しみも強いのだろうか。例えば、家族を殺された遺族が復讐を望む「処罰感情」は家族愛が強い人ほど抱きやすいのだろうか。自分や自分の仲間が被害を受けたときに加害者への憎しみの強度や加害者へ望む罰の厳しさは、人を愛する力が強い人ほどまた強くなるのだろうか。逆に言えば、加害者への許しと宥和が恩讐を越えた力を持つと信じる人は、人を愛し仲間を尊ぶ傾向が弱いのだろうか。

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いつも通り:外国人憎悪を擁護する自民党

ヘイト禁止法案、採決見送りへ 表現の自由で与野党に溝:朝日新聞デジタル(2015年8月28日05時00分)

 特定の人種や民族への差別をあおるヘイトスピーチを禁じる「人種差別撤廃施策推進法案」について、自民、公明の与党は今国会での採決を見送る方針を固めた。与野党はヘイトスピーチを問題視する姿勢では一致したが、「表現の自由」とどう両立させるかで折り合えなかった。国際的にみて日本は関連法の整備が遅れており、課題は先送りされた。

 与党は27日、国会内で民主党など野党が出した推進法について協議したが結論は出なかった。出席した自民党議員の一人は「何がヘイトスピーチか、誰が認定するかが難しい」と語り、今国会中は与野党合意できず、採決に至らないとの見通しを示した。

 「ヘイトスピーチは許されない」との考えは自民、公明、民主、維新の4党で19日に一致していた。しかし、憲法が保障する「表現の自由」との兼ね合いを巡り、溝は埋まらなかった。

 野党案は人種差別撤廃条約を踏まえ、ヘイトスピーチを含む「人種などを理由とする差別」全般を禁じる。条約から定義を引用することで、恣意(しい)的な適用を防ぐ狙いもある。内閣府に審議会を置き、調査や勧告の権限を与える。

 これに対して公明党は「ある表現が違法かどうかの判断を権力側に委ねるのは危険」として審議会の設置に反対した。そのうえでヘイトスピーチ防止に絞った対案を準備。「表現の自由」との両立を考え、与党合意を目指した。

 ところが、自民党は終始、後ろ向きだった。参院法務委員会などで「政治的主張に人種的な内容が含まれる時がある」「禁止する言動が明示されなければ、表現行為を萎縮させ、表現の自由を害する恐れがある」と反論した。

 ベテラン議員は「党内には排外主義的な議員もいて身動きがとれない」といい、国会前のデモも規制すべきだとの意見もあった。「現行法の適切な適用と啓発活動で、差別解消につなげる」(安倍晋三首相の今年2月の国会答弁)との基本姿勢を崩さなかった。

■なお続く差別扇動

 ヘイトスピーチは今も繰り返されている。

 「在日韓国・朝鮮人を日本からたたき出せ」。22日、名古屋駅前で「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の愛知支部などが声を張りあげた。法案については「とんでもない言論弾圧だ」と反対した。

 自分たちの言動はヘイトスピーチではない、とも訴える。2009~10年の京都朝鮮第一初級学校(当時)周辺の街宣を巡る民事訴訟でも、在特会側は「人種差別ではなく、外国人政策に関する政治的意見だ」「表現の自由で保護される」と主張した。

 これに対し大阪高裁は「表現の自由の乱用で、法的保護に値しない」と判断。この判決では初級学校が被害者と認定され、民法の不法行為を根拠に在特会に損害賠償が命じられた。だが、現行法はこのように直接被害をこうむった特定の団体や個人がいないと適用されず、不特定多数を対象とした差別扇動を抑え込むのは難しい。

 主要国は法整備を進めており、国連人種差別撤廃委員会は昨年8月、日本政府に対し、人種差別禁止法を制定するとともに、ヘイトスピーチを規制するよう勧告している。英国の外務省はホームページで「日本では時折、民族主義者によって、外国人に敵意を向けるデモが起こっている」と注意喚起している。(二階堂友紀、相原亮)

人種差別撤廃をめぐる各国の法制度
 人種差別禁止ヘイトスピーチ規制ヘイトクライム規制
日本×××
米国公民権法×ヘイトクライム予防法など
英国平等法公共秩序法など犯罪及び秩序違反法
フランス差別禁止法人種差別禁止法など人種差別処罰強化法
ドイツ一般平等待遇法刑法×
カナダ人権法刑法刑法
明戸隆浩・関東学院大非常勤講師調べ。ヘイトクライムは差別や偏見に基づく暴力などの犯罪。

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自民党は「ベテラン議員」が言うとおり、「党内には排外主義的な議員もいて身動きがとれない」状態なのだろう。ていうか、それが自民党の本質なんだけど。記事が指摘するように、「ヘイトスピーチ禁止」に引っかけてデモ規制をしようとする動きもあったし。

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2015/08/28

記事クリップ:高くなる子供の貧困率

子どもの貧困率 過去最高に NHKニュース(8月28日 14時16分)

厚生労働省によりますと、貧困状態にある17歳以下の子どもの割合を示した「子どもの貧困率」は、平成24年の時点の推計で16.3%と子どもの6人に1人に上り、調査を始めた昭和60年以降最も高くなっています。その背景には離婚などによってひとり親世帯が増えていることが指摘されています。
ひとり親世帯のおよそ9割は母子世帯で、大半が非正規で働き、年収の平均は180万円ほどと一般世帯の3割程度にとどまっています。母子世帯などのひとり親世帯の貧困率は54.6%でそのほかのすべての世帯の平均の4倍以上に上っているほか、子どもの大学などへの進学率も41.6%と全世帯の平均よりも30ポイント近く低くなっています。
このため、厚生労働省は来年度、ひとり親の就労を支援する専門の相談員を全国に配置したり、塾に通えない子どもたちへの学習支援などの対策を強化する方針です。このほか、専門家や支援団体から現金を給付するなどの直接的な支援を強化すべきだという指摘が出ていることから、厚生労働省は児童扶養手当の拡充を検討しています。
NHKスペシャル | 老人漂流社会親子共倒れを防げ(初回放送:2015年8月30日(日)午後9時00分~9時49分)
去年、放送したNHKスペシャル「老後破産の現実」では、頼れる家族のいない独居高齢者が、自分の年金収入だけでは暮らしていけず、追いつめられた末に生活保護に陥る“老後破産”ともいえる現実が広がっていることを描き、大きな反響を得た。さらに取材を続けると、働く世代の子どもがいる高齢者にも、より見えにくい形で“老後破産”が広がっている実態が浮かび上がってきた。背景には、非正規雇用の増加によって、働く世代の収入が減り続けていることがある。こうした人たちが十分な貯えがないまま失職すると、年金で暮らす親を頼らざるを得ない。こうして同居が始まった後、親の医療や介護費用の負担が重くなっていくと、「親子共倒れ」が避けられなくなるケースが相次いでいる。
番組では、共倒れに陥りそうな親子の現実をルポで描きつつ、独自のアンケート調査やデータ分析によって「親子共倒れ」の実態が水面下で広がってきた実態を明らかにする。さらに、どうすれば“老後破産”を未然にくい止めることができるのか、専門家とともに考えていく。
赤旗にこのディレクターのインタビューが載っていた。興味深かった。ワーキングプア問題の頃からの発展ということらしい。

所得格差の拡大問題では、労働者派遣の規制緩和との関連がよく指摘される。労働市場の規制緩和が貧困層の拡大、固定化を生んでいるという指摘だ。
他方、税制面での逆進性の強化、例えば消費税の増税や所得税、資産課税の減税などが所得再分配機能を低下させているという指摘もある。年金や生活保護などの弱体化、地方財政の弱体化が合わせて語られることもある。

いわゆる「リフレ」政策と「アベノミクス」とに所得再分配や貧困対策の視点が欠如しているという指摘は以前からあった。いわゆる「アベノミクス」にはイノベーション推進と労働規制緩和というサプライサイドの視点があり、そこでは労働を含めた生産資源の流動化が目指されていた。しかしそこでは、彼らの第一次政権時代の頃から民主党政権にいたる頃に強調されたワーキングプアやニート、母子家庭、低所得高齢者の孤立問題などのセーフティネットの拡充という視点は非常に希薄だった。

今、ギリシャの危機に際して、ユーロ圏の国家間所得再分配機構がないことがEU通貨統合の欠陥とされるようになっている。通貨統合によって各加盟国の金融政策が無効化されれば、地域間不均等成長による格差拡大を緩和するのは財政政策しかなく、財政負担を補填するルートがなければ早晩低成長国政府の財政は破綻する。経済統合が地域全体の経済を効率化し利益を生むとしても、収穫逓増要因を含んだ生産構造があれば、地域間・産業間で厚生水準を低下させるセクターは出現する。従って、全体の利益拡大の一部分をそうした純損失を被るセクターに再分配し損失を補償することで全てのセクターの厚生水準を向上させることができる。経済統合や自由貿易を支持する理路はそういうものであったはずだから、このギリシャ問題に端を発したEU通貨統合システムへの批判には一定の論理的整合性がある。

翻って、「アベノミクス」が支持される最大の論点と思われる「リフレ」的側面は、本来決して所得再分配やセーフティネットの強化、また労働規制強化と矛盾するものではないはずだが、しかし「異次元金融緩和」を喧伝するなかで貧困対策への目配りが不足していたことが、少なくとも、安倍政権の経済政策への不信感や失望(それは特に低所得者が成長の実感を得られないというそれとして)につながっていると言えるのではないか。マクロ経済政策の主たる関心が成長とインフレにあり、所得分配問題をいわば税や社会保障でカバーするものとして等閑視してきたことのツケではないかという気がしている。

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2015/08/26

養殖しても水産資源保護につながらないかもしれないという話

毎日新聞でこういう記事が載るのは珍しいという印象。
新聞やテレビでは、魚の取りすぎ・食べ過ぎに警鐘を鳴らす報道ってあまり見ない気がする。

水説:魚を食べ続けるなら=中村秀明 - 毎日新聞(2015年08月26日 東京朝刊)

魚の乱獲→漁獲量の減少、種の絶滅

これに対して、

養殖→資源保護、安定供給、絶滅を避けて生態系を守れる

という図式を漠然とイメージしていたのだけれども、実は養殖にも問題が大きい、いや、むしろ養殖の方が問題が大きいという話。

・養殖のために、大量の野生の魚を獲っていて、かえって水産資源の破壊になっているという問題。

「たとえば、マグロの養殖にはエサとして10倍、20倍のサバやイワシが必要になる。飢えに苦しむ世界の貧困層の食料確保からみて問題だ」という。得られる量と投入する量を比べ、養殖は非効率な魚資源の利用法なのだ。」

今はサバもイワシも「獲れない魚」になってきている。しかしそれをマグロの畜養に使っているという現状。
このシステムは持続不可能だ。

****
この記事は「ネレウスプログラム」という研究プロジェクトのレポートを元にしている。
そのレポートは下記。

ネレウスプログラムレポート: 海の未来を予測する: 気候変動、 海、 魚資源 | Nereus Program(日本財団, June 30, 2015)

PDF:「海の未来を予測する 気候変動、海、魚資源

これには、養殖の問題として、以下の5点が指摘されている。

1)飼料や資源としての野生魚の過度な利用
2)汚染物の廃棄
3)地域生態系への影響
4)生息域の破壊
5)管理また事業体制の透明性

たとえば、マグロの畜養に関しては下記のような指摘がある。

海に生きる魚の資源量への影響に関する報告義務の基準が欠如していることなども含め、不十分な管理の元で発生する過剰な開発のリスクが懸念される。
養殖全体には次のような懸念が表明されている。
養殖は、陸海全てを含めた地球食料システムにさらなる耐性をもたらすとは言いがたい。それは、養殖が野生魚だけでなく陸上の作物、特に低所得層が食料としている作物に対する依存度が高いためである。メティアン、フォルケ、オスタブロムらは、陸上作物を養殖に利用する場合、その規模が大きくなればなるほど低所得層に対する負荷が増えるのではないかと予測する。その上で、養殖が食料安全保障に寄与できる可能性は、資源の利用効率、公平な資源配分そして環境保全に対する動機付けを、政府が戦略的な政策によっていかに与えられるかによると述べた。
そういえば、環境破壊につながるとして養殖場の増設に地元住民が反対しているケースがあった。

朝日新聞デジタル:マグロ養殖場「不許可」要請 鹿児島・龍郷の住民、県に - 鹿児島 - 地域(2012年12月12日00時49分)

 奄美大島の龍郷湾で、トヨタ自動車グループの商社、豊田通商が計画しているクロマグロ養殖について、地元の龍郷町芦徳(あしとく)の住民約15人が11日、奄美市の県大島支庁を訪れ、養殖場の設置を許可しないよう求める陳情をした。

 陳情書では「巨大ないけすが並ぶ景観はきわめて不自然で、膨大な量のえさは海洋汚染を生む。ダイビングなど観光と漁業の両立には手つかずの自然が不可欠」としている。8日に集落の臨時総会を開き、投票で養殖場計画への反対を決めたという。

 計画では来年9月から直径30メートルのいけす4基(1万2千匹)で養殖を開始。瀬戸内町の近畿大学水産研究所から稚魚を仕入れ、30センチ程度に育てて別の養殖場に出荷する中間育成施設にする。5年後に最大24基(4万~6万匹)に増やす。

 応対した伊喜功支庁長は「詳しい経緯はわからないが、本庁の担当課に迅速に伝えたい」と答えた。

海ではないけれど、東南アジアのエビ養殖地の開発が地域の環境破壊を生んでいるという話は昔から知られている。
環境破壊の問題をクリアしても、そもそも養殖場の適地が少なく、新たに養殖場を増やすことも難しいという指摘が下記にある。

勝川俊雄公式サイト - 産経新聞にツッコミを入れつつ、まぐろ養殖業について、まじめに語ってみた

水温が暖かくて、マグロ用の大きな生け簀を浮かべられて、それなりに深い湾というのはそう多くない。マグロの養殖適地は、企業の争奪戦でほぼすべてが埋まっている。
これは国内のマグロ養殖に限定されているが、海外(例えば中国)での養殖にしても原理的には同様の問題をはらんでいるだろう。

結局、持続可能な生産量という上限を意識して、それを消費量が越えないような価格付けをするしかないのだろう。そうした評価を価格に織り込む仕組みはまだない。さらに、これに生産者の生活安定と環境保護を加え、さらにできるだけ自由で向上心を維持し、競争が働くような仕組みの元で実現しなければならない。しかも問題は国際的でもある。とても難しい問題だが、無関心ではいられない問題ではある。

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水説:魚を食べ続けるなら=中村秀明 - 毎日新聞(2015年08月26日 東京朝刊)

 国連食糧農業機関は、世界の水産物市場に出回る食用魚のうち、養殖ものが昨年初めて天然ものを上回ったと推計している。2000年の養殖比率が約25%だったから飛躍的な伸びだ。

 国内ではブリやマグロにとどまらずサバ養殖も始まった。世界的にはナイル川原産のティラピア(イズミダイ)をはじめコイ、ナマズ、サケなどが主な魚種だ。

 そんな中、危機的な予測が発表された。「世界の水産資源は50年までに6割減る」「魚の分布が変わり、今取れているところで取れなくなる」というのだ。

 日本財団が、米プリンストン大など7大学・研究機関の海洋科学者らと調査研究したネレウスプログラム・リポート「海の未来を予測する」の結論である。人口増加によって魚がどんどん食べられて減るうえ、地球温暖化に伴う海水温上昇で生息域が変わるためだ。今は熱帯から温帯にかけ、たくさんいる魚が、南極や北極に向けて移動し、数も減少する。

 この共同研究を統括する海洋人類学者の太田義孝さんは、身近な例としてマグロ供給の落ち込みを調べた。それによると、「現在、国内で食べられている年間総量のうち約2000万人分が減る」との結果になった。

 となると、ますます養殖が心強く思える。だが、同席したカナダのブリティッシュコロンビア大学のダニエル・ポーリー教授は首を振った。

 「たとえば、マグロの養殖にはエサとして10倍、20倍のサバやイワシが必要になる。飢えに苦しむ世界の貧困層の食料確保からみて問題だ」という。得られる量と投入する量を比べ、養殖は非効率な魚資源の利用法なのだ。

 日本ではクロマグロの完全養殖にわき、「次はウナギだ」という声もある。「天然資源に頼らず、種の保護にもつながる」と強調され、水産業の革命という受け止め方もある。

 ある魚種に限ればそう言えても、結局、自然から必要以上に多くを奪うことにならないだろうか。

 しかも、飢えをしのぐのではなく、特定の食の楽しみ、我慢できなくもない欲望を満たすためである。ビジネスとして注目できても、食の偏在、飢餓と飽食の格差を広げる心配はぬぐえない。

 温暖化を防ぎ、魚資源の国際的な管理を強め、持続可能な水産物流通の仕組みを消費者も参加して築く−−太田さんらの研究は地道な取り組みを訴えて締めくくられている。(論説委員)

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2015/08/25

これは残念だった

『団地ともお スペシャル』~夏休みの宿題は終わったのかよ?ともお~ - 法華狼の日記

「団地ともお」原作者の小田扉氏がアレな方面の人だったという話。

・韓国人慰安婦像を揶揄
・倉山満・上念司を褒める
・リベラルには政治家になってほしくないと言う
・都知事選で田母神氏の支持を表明する

ということがあったとのこと。うーん…。
上記記事で紹介されている連続ツイートの内容もアレな方面に典型的というか。

先の戦争について、
「ニッポンにだってやむを得ない事情があったんだ」
みたいな正当化を一生懸命にしてしまいたくなる感覚ってのは、分からないでもないが、認識が浅すぎる。
自省を込めて学ばずして何となく入ってくる情報だけではやはりどうしようもないことがある。

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2015/08/13

行ってみたい:足尾銅山の「赤い沼」とか「東北の軍艦島」とか

第2部<1> 永遠に続く公害対策 「宿命」年4~5億円投入|下野新聞「SOON」(2013年7月2日 05:00)

日光市足尾の中心部を見下ろす山腹に、巨大な「ダム」の堤防が横たわる。閉山後も鉱山内から排出される重金属を含んだ沈殿物を集積する「簀子橋堆積場」(幅337メートル、奥行き800メートル)だ。いわば旧足尾銅山の最終処分場。決壊という事態に陥れば、渡良瀬川に流れ、鉱毒の惨事が繰り返されかねない。
とのことで、古河機械金属足尾事業所では、
「365日24時間体制で、安全確認を徹底」、毎日の水質検査、天気予報とのにらめっこ、田中正造と同じ気持ち、「悪い水を絶対に流さない決意」だとか。

放射性廃棄物の処分場や仮置き場の担当者もきっと同じような気持ちを持つのだろう。

この記事によれば、足尾銅山の堆積場と浄水場としては、

「源五郎沢」を含む13カ所あった堆積場は、1960年までに堆積を休止し、現在は簀子橋堆積場のみが稼働する
とのこと。浄水場は他に「中才浄水場」が稼働しているそうだ。

赤茶色のダム湖が広がる光景は印象的で見に行きたいとも思うが、古河機械金属の事業所内なので当たり前だけれど無断立ち入りは禁止。周囲の山に登って眺めるぐらいがせいぜいのようだ。

検索するといくつかルポ?が出てくる。たとえば、
金龍山・簀子橋堆積場
など。

この種の鉱山跡地、鉱毒中和施設は全国のあちこちにあるそうだ。
で、「東北の軍艦島」と呼ばれる場所もあるのだそうで。当時「雲上の楽園」と呼ばれた松尾鉱山跡だそうだ。こちらも検索するといくつかルポ?が出てくる。たとえば、
『★岩手山周辺めぐり(1) -雲上の楽園だった松尾鉱山跡廃墟から松川温泉へ』 [八幡平(岩手側)]のブログ・旅行記 by SUR SHANGHAIさん
など。

原発もそうだけど、複雑な思いや利害関係なども含めつつ、「後処理」は長い時間を掛けて維持していかなければならない。こういう部分は利益を生まないばかりか損失源となる正に「負の遺産」で、表だって触れたくもないような要素もあるから、しばしば社会的に忘れられ、ないがしろにされがちになる。でも適切な管理を怠るととんでもない環境被害を起こしたりするから、こうしたものがあるのだということを知り、学ぶことが大切なのだろうと思う。いつか行ってみたい。

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2015/08/11

国が地方を麻薬漬けにする:原発と基地

本日、川内原発再稼働。

寒村の住民感情を札束で買収する方法で、国は原発を推進してきた。

鹿児島・川内原発:燃料装着 教訓学ばぬ、再稼働 親子2代、反対40年 - 毎日新聞(2015年07月08日 大阪朝刊)

約40年前、川内原発の建設に際して反対の意思を表明した人への仕打ち。

「周囲の人たちから嫌がらせを受け、『川内ではまともに職に就けない』と市外への移住を強いられ」たという。

私も薩摩川内市では原発への疑問を口に出しにくいという話を聞いたことが何度かある。こうした雰囲気の中で反対運動を続けている人たちには頭が下がる。
しかし、川内で「原発は正しいから賛成」という意見は余り聞いたことがない。川内で私が聞いた賛成意見の典型は「経済が活性化するから」、「他に産業がないから」というものばかりだった。上記の記事で、

経済団体などでつくる薩摩川内市原子力推進期成会長の山元浩義・川内商工会議所会頭は「地元経済は依然として厳しいが、再稼働が目前になったことで、地元経済も活性化する」と歓迎するコメントを出した。
とされている通りだ。
地元でも、「本当はイヤだけど、お金のために仕方ないもの」というイメージで受け止められているというのが私の実感である。

国もそのことは十分分かっている。原発立地が「迷惑施設の押しつけ」だということは初めからよく知っている。原発がイヤなものだということは知っていて、だから自分たちから遠い場所に置こうとする。

Amazon.co.jp: 東京に原発を! (集英社文庫): 広瀬 隆: 本

そして再稼働に向けて、国はいっそう利益誘導を露骨にしてきているようだ。

特集ワイド:「忘災」の原発列島 再稼働は許されるのか 露骨な優遇、国の「回帰」鮮明 - 毎日新聞(2015年01月30日 東京夕刊)(図の魚拓
1.2014年12月、経産省原子力小委員会が「稼働実績を踏まえた公平性の確保」の必要性を示す。

「これは、原発が再稼働した自治体には国の電源立地地域対策交付金を重点的に配分する一方、それ以外の自治体については減らすことを意味します」
…中略…
この「重点配分」が実施されることになれば、再稼働に対する自治体の同意を得やすくなるのは間違いない。しかし、原発の安全性に不安を抱える住民も多い中、「先に転んだところに利を与える」かのようなやり方が果たして許されるのか。吉岡氏の目には「沖縄県民が選挙で米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対の意思表示をしたのに、振興予算の削減で応じた構図と同じではないのか」と映る。

2.経産省、15年度予算案で「原発施設立地地域基盤整備支援事業」に新たな交付金制度15億円を盛り込む。
再稼働など「地域環境の変化」があった自治体に交付し、地域振興や住民への安全説明会の費用などに充てられるというが、ここにも再稼働を選んだ自治体への配慮がにじむ。
エネ庁の試算では、
・出力が最大規模の135万キロワットの原発を建設した場合、
・着工の3年前から運転開始40年までに計1384億円の交付金が立地自治体(周辺市町村や道県を含む)に落ちる
・使い道は幅広く、道路やスポーツ施設などの建設・維持費にも充てられる。固定資産税の収入、建設工事に伴う雇用拡大なども見込める。
とのこと。

また玄海町の場合歳入の約6割を原発関連が占めるという。

 規模が小さい自治体ほど電源立地地域対策交付金への依存度は高い。玄海原発を抱える佐賀県玄海町では、14年度当初予算100億8000万円のうち、同交付金からの歳入は約16億円。原発の固定資産税などを含めると予算総額の6割を超える。町は13年度までの39年間で総額331億円の原発関連交付金を受け取り、温泉などの公共施設を建設したが、原発以外の産業は育っていない。

電力会社には、廃炉1基に付き1年に約20億円ほどずつ電気料金への上乗せを認めて損失回避を促す一方、原発自治体は廃炉で交付金が減少する。玄海町の場合は1基廃炉になると約4億円、現在の16億円の4分の1が減る格好になる。

だが実は、これらのカネは地方財政をそれほど潤さないという。
高橋誠(自治労鹿児島県本部/臨時執行委員)「原発マネーの自治体財政への影響:川内市と鹿屋市の22年間の決算カードから分析

財政が一番潤うのは原発立地間もなくまでで、その後は原発関連施設の減価償却に沿って固定資産税の収入が減少していく。これが原発の新設を地元が要望する動機を形成する。
電源関連の交付金は年単位で見ると規模は小さい。しかも川内ではハコモノ建設に費やされ、それらの維持費が積立金を食いつぶす格好になっている。
ややメリットが比較的大きいのが核燃料税あるいは使用済核燃料税と九電等の寄付金で、薩摩川内市の場合、使用済み核燃料1体あたり25万円、1年ごとに3億9200万円の税収が見込まれている。
総務省報道資料「薩摩川内市「使用済核燃料税」の更新」(2013年11月13日)

結局、立地自治体は立地前後の大きな増収で一時的に潤うが、長期的には徐々に体力を削られていくような格好になっている。

しかし、たとえ短期的なカンフル剤のような役割しかないとしても、これらの定期収入が途絶えるのは地元に大きな苦痛と受け止められる。

そこで国はさらに追い込みをかけている。

クローズアップ2015:交付金減額へ 抜け出せぬ原発依存 - 毎日新聞(2015年08月11日 東京朝刊)(図の魚拓

みなし稼働率を引き下げてゆっくりと自治体の首を絞める。

毎日新聞の立地自治体アンケートによれば、

原発依存度が高いほど再稼働に前向きな傾向が浮かんだ。
泊村幹部
「村の事業を継続していくには交付金が減額されると厳しい」。
大熊町、渡辺利綱町長
「まだ原子力に頼るのかと言われるが、共生していかざるをえない」と悩ましい表情を見せる。
薩摩川内市、山元浩義・川内商工会議所会頭
「一刻も早い再稼働が疲弊した地域経済の活性化、雇用の安定化、地域創生につながるものと確信しております」。

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フクシマの事故の後、大熊町、双葉町の人々の苦難に対して、「自業自得」、「今までさんざん補助金でいい思いをしていたくせに」という声がネットにあふれた。

辺野古への基地移設反対闘争を巡っては、「基地の土地借地料で大もうけをしているくせに」という声が、百田氏など有名人からも出てきた。

札びらで頬をはたかれ、巨額のカネを注入されて迷惑施設を受け入れさせられ、国の都合に合わせてコントロールされたエサに振り回され、それでもなお「カネが切れると困る」と言い続けなければならない屈辱。
その上に、良いように嬲られている様子を都会の連中から「自業自得」と嘲笑われる。彼らのための基地、彼らのための原発を引き受けているのに。

何が「地方創生」か。何が「地方分権」か。何が「地方の自立」か。
おためごかしもほどほどにしてもらいたい。
だが国が自ら非を認めることは絶対にない。この構造を壊すためには、国を追い詰める他はないのである。

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鹿児島・川内原発:燃料装着 教訓学ばぬ、再稼働 親子2代、反対40年 - 毎日新聞(2015年07月08日 大阪朝刊)

 九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)の1号機に、核燃料を装着する作業が7日始まった。福島の原発事故から約4年4カ月。事故後につくられた新規制基準に基づく初の原発再稼働が目前に迫った。川内原発前での抗議集会の参加者には40年以上、親子2代にわたり「原発ノー」を訴えてきた住民もいた。

 原発から数百メートルで生まれ育ち、現在は鹿児島県霧島市に住む前田裕(ゆたか)さん(64)。川内原発の建設前から「子供たちのために」と反対運動に加わり、2007年に82歳で亡くなったトミさんの長男だ。

 半農半漁の古里の寒村に原発建設の話が持ち上がったのは1964年。出稼ぎなどで何とか生計を立てていた住民に、九州電力の担当者は「原発ができれば出稼ぎに行かなくてもよくなる」「村には子供があふれる」などと言って歩いたという。

 70年代以降、盛り上がりを見せた反対運動で、母親グループの中心にいたのがトミさんだった。広島、長崎への原爆投下や、アメリカの水爆実験によるマグロ漁船「第五福竜丸」の被ばくなどで「核」への不信感があったトミさんは「子供や孫のために原発を造らせない」と訴えた。

 73年に3年間在籍した海上自衛隊を除隊して故郷に戻った裕さんも、学者らを呼んだ講演会などで放射能の危険性を知り、母親とともに反対運動に身を投じるようになる。周囲の人たちから嫌がらせを受け、「川内ではまともに職に就けない」と市外への移住を強いられても「曲がったことは認めるな」という母の言葉に従った。

 昨年11月、伊藤祐一郎知事が川内原発の再稼働に同意表明した際、裕さんは40年前を思い出した。75年12月、当時の金丸三郎知事は反対住民約2000人が集まった「地元の意見を聞く会」の8日後に建設への同意を表明した。今回の伊藤知事の同意表明も地元説明会が始まってから1カ月もたっていなかった。「福島の事故があっても変わらないのか」。歯がゆさを感じた。

 「賢い国に原発はいりません」。トミさんは94年から亡くなる直前まで毎日、愛用の筆で首相ら関係3閣僚宛てにはがきを書き続けた。住民たちが「子供があふれる」と期待した裕さんの母校の小学校は少子化で12年に閉校となり、体育館は原発事故が起きた時の一時避難施設になった。

 この日、裕さんは反対運動の先頭に立つ母の写真を持ち、川内原発前で抗議の声を上げた。「建設前に反対した人たちはほとんど生きていない。お袋がもし生きていたら、今日は本当に憤っていると思う」と語った。【杣谷健太】

 ◇「活性化を期待」地元経済界

 この日、各地で賛否の声が交錯した。

 川内原発の正門前には7日朝、市民ら約100人が集まり、「核燃料装荷は事故への一歩!」と書いた横断幕などを掲げ「再稼働を許さないぞ」「九州電力は原発を放棄しろ」と声を張り上げた。

 薩摩川内市・山之口自治会長の川畑清明さん(59)は、九電による住民説明会が開かれないまま燃料の装着(九電は「装荷」と表現)作業が始まったことに「住民が説明を求めているのに無視するのは本当に許せない」と九電の姿勢を批判。鹿児島大非常勤講師の杉原洋さん(67)も「作業を中断し、再稼働を断念すべきだ」と訴えた。

 一方、経済団体などでつくる薩摩川内市原子力推進期成会長の山元浩義・川内商工会議所会頭は「地元経済は依然として厳しいが、再稼働が目前になったことで、地元経済も活性化する」と歓迎するコメントを出した。

 伊藤祐一郎知事は「引き続き安全確保を最優先に適切な対応をお願いしたい」とのコメントを発表した。【杣谷健太、宝満志郎】

 ◇「事故の苦しみ私達で最後に」 飯舘の酪農家

 東京電力福島第1原発事故で全村避難する福島県飯舘(いいたて)村の酪農家、長谷川健一さん(62)は「福島の事故で原発が安全ではないと分かったのに、なぜまた動かそうとするのか」と憤った。4世代8人暮らしだったが、分散して避難し、仕事も奪われた。生活再建には慰謝料増額が必要として村民の半数にあたる約3000人をまとめ、国の原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争解決手続き(原発ADR)を申し立てた。「原発事故で苦しむのは私たちで最後にしてほしい」

 福島県二本松市の服部浩幸さん(46)も「福島の事故の原因や責任もあいまいなまま、他の原発を再稼働させるのは理解できない」と疑問を投げかける。【土江洋範】

特集ワイド:「忘災」の原発列島 再稼働は許されるのか 露骨な優遇、国の「回帰」鮮明 - 毎日新聞(2015年01月30日 東京夕刊)

 暮れの衆院選で安倍晋三首相は原発について多くを語らなかったが、選挙後は「政権公約は進める義務がある」として着々と「原発回帰」を進めている。その姿勢は、経済産業省の原子力小委員会が昨年12月に政策の方向性を示した「中間整理」と、2015年度予算案に見て取れる。東日本大震災から間もなく4年。「原発ゼロ」は遠のくばかりなのか。

 「再稼働という国策を認める自治体は優遇し、受け入れないと冷遇する。今回の『中間整理』には、安倍政権の特徴が表れています」。原子力小委員会委員で九州大大学院教授(科学技術史)の吉岡斉(ひとし)氏は言う。批判の矛先を向けるのは、12月26日に委員会がまとめた「中間整理」という文書の中の「稼働実績を踏まえた公平性の確保」という部分だ。「これは、原発が再稼働した自治体には国の電源立地地域対策交付金を重点的に配分する一方、それ以外の自治体については減らすことを意味します」と吉岡氏。

 電源立地地域対策交付金とは本来、原発のある自治体に発電量に応じて支払われるものだ。だが福島第1原発事故が起き、現在は国内の全原発が停止しているため、国は一律に「稼働率81%」と見なして交付を続けている。14年度は総額987億円、15年度も912億円の予算を計上した。

 経産省資源エネルギー庁電力基盤整備課は「公平性確保の具体的な手段は今後、検討する」としながらも「事故前の平均原発稼働率は約70%。原発が再稼働した自治体に対し、従来のように発電量に応じた交付金を配分すると、81%で算出した額よりも減る恐れがある。原発が停止中の自治体への交付金をそれ以下に減額し、公平性を確保するのも一つの考え方です」と説明する。早ければ16年度予算から配分を見直す方針だ。

 この「重点配分」が実施されることになれば、再稼働に対する自治体の同意を得やすくなるのは間違いない。しかし、原発の安全性に不安を抱える住民も多い中、「先に転んだところに利を与える」かのようなやり方が果たして許されるのか。吉岡氏の目には「沖縄県民が選挙で米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対の意思表示をしたのに、振興予算の削減で応じた構図と同じではないのか」と映る。

 それだけではない。経産省は15年度予算案で「原発施設立地地域基盤整備支援事業」の中に新たな交付金制度を創設し、15億円を計上した。再稼働など「地域環境の変化」があった自治体に交付し、地域振興や住民への安全説明会の費用などに充てられるというが、ここにも再稼働を選んだ自治体への配慮がにじむ。

 とはいえ、交付金の魅力が大きいことは否定できない。エネ庁が示す財源効果のモデルケースによると、出力が最大規模の135万キロワットの原発を建設した場合、着工の3年前から運転開始40年までに計1384億円の交付金が立地自治体(周辺市町村や道県を含む)に落ちる=下図。使い道は幅広く、道路やスポーツ施設などの建設・維持費にも充てられる。固定資産税の収入、建設工事に伴う雇用拡大なども見込める。原発マネーが、やめることのできない「麻薬」に例えられるゆえんだ。

 だからこそ吉岡氏は「重点配分」を「自治体の同意を金で買うようなもの」と危惧するのだ。「そもそも『中間整理』は事務方が一方的に示した案に、各委員が3〜5分間ずつ述べた意見を付け加えただけ。どれほどの意味があるのでしょうか」

 経産省は「中間整理」で、電力会社が「廃炉」で生じる負担を減らせるように、会計制度の見直しも打ち出した。原発を1基廃炉にすると、電力会社には210億円程度の損失が出る。現行ルールでは損失を一括計上しなければならず、経営が悪化する恐れがある。それを10年間に分割して計上でき、さらに電気料金に上乗せして回収できるようにしようというのだ。

 改正原子炉等規制法で、運転期間は原則40年に制限(原子力規制委員会の認可で最長20年の延長が可能)され、今後は廃炉が進むとみられる。16年7月時点で40年の運転期限を超える原発は7基。うち関西電力美浜1、2号機(福井県)▽中国電力島根1号機(島根県)▽日本原電敦賀1号機(福井県)▽九州電力玄海1号機(佐賀県)の5基の廃炉が検討されている。

 エネ庁原子力政策課は、廃炉負担を軽減する方針について「電力会社が経営を優先して廃炉判断を先送りするのを避けるため」と説明する。だが、原発のコストを研究している立命館大の大島堅一教授(環境経済学)は「なぜ電力会社の損失を国民が負担するのかという議論が欠落しているうえに、損失そのものの具体的な検証もない。原発事業のリスクを国が安易に取り除けば、電力会社は原発を維持することへの抵抗感がなくなり、かえって依存度を強めかねない。本末転倒と言わざるを得ません」と憤る。

 電力会社への「優遇」ぶりは、廃炉のリスクに直面している自治体と対比すると鮮明になる。

 規模が小さい自治体ほど電源立地地域対策交付金への依存度は高い。玄海原発を抱える佐賀県玄海町では、14年度当初予算100億8000万円のうち、同交付金からの歳入は約16億円。原発の固定資産税などを含めると予算総額の6割を超える。町は13年度までの39年間で総額331億円の原発関連交付金を受け取り、温泉などの公共施設を建設したが、原発以外の産業は育っていない。

 町財政企画課の試算によると、1号機が廃炉となると、発電量の低下に伴い交付金は年間約4億円減る。危機感を抱く町は「廃炉を前提としたものではないが、新たに電力会社に対して核燃料税を課すことも検討している」(同課)という。原発作業員らの宿泊が減ることも予想されるため、地元の民宿組合は小中学生のスポーツ団体などの合宿誘致に力を入れ、町が宿泊費を助成している。

 国際環境NGO「FoE Japan」で原発・エネルギーを担当する吉田明子さんは「政府が原発依存度の低減を目指すのであれば、再稼働に同意した自治体を優遇するよりも、依存からの脱却を目指す自治体の取り組みや、再生可能エネルギーを普及させる政策にこそ予算を振り分けるべきです」と語る。

 ◇「もんじゅ」はなお延命

 「中間整理」でもう一つ見過ごせないのは、核燃料サイクル事業を推進する方針を明記したことだ。

 高速増殖原型炉「もんじゅ」は、原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを燃料とし、発電に使う以上のプルトニウムを生み出せるとして「夢の原子炉」と呼ばれてきた。建設開始から約30年の歳月と約1兆円の予算を投入したが、トラブルが相次ぎ、稼働したのはわずか約8カ月。それでも文部科学省は15年度予算案に安全対策・維持管理の名目で、前年度比2億円減ながら約197億円を計上した。

 この予算を「もんじゅの運転再開を促す金額とまでは言えないが、研究開発は続けるというメッセージだ」と読み解くのは、NPO法人・原子力資料情報室の伴英幸共同代表だ。原子力小委員会委員でもある伴氏は「もんじゅの開発や設計に携わった技術者は既にリタイアしているし、技術的なトラブルを克服できず『夢の原子炉』との当初の目的もついえた。今の職員はモチベーションを失い、『何のための研究なのか』と悩んでいるだろう。事業を諦める潮時です」と語る。

 大島氏も「核燃料サイクル事業は破綻している。政府は撤退予算を計上するのが本来の姿では」と、国の「冷静な判断」を求めるのだ。

 国会議員60人で組織する「原発ゼロの会」の事務局長を務める阿部知子衆院議員(民主党)は、国会などでこう訴えるつもりだ。「福島第1原発では作業員の労災事故が後を絶たない。先の見えない研究開発ではなく、過酷な状況下で働く作業員の待遇改善や健康管理などにこそ、予算を回すべきでしょう」

 「重要なベースロード電源」−−エネルギー基本計画(昨年4月に閣議決定)に盛り込んだこの文言を見るたび、伴氏は顔をしかめる。「脱原発の動きを進めようとしても、いつもこの言葉の力に妨害されてしまうんです」

 「中間整理」や15年度予算案を見ていると、この「ベースロード電源」に起きた事故で福島県や周辺の人々の生活が破壊されたことなど、忘れてしまったかのようだ。「忘災」政策への監視をやめてはならない。【瀬尾忠義】

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 ■原子力政策の方向性をまとめた「中間整理」の骨子

【総論】

中間整理は、政府の具体的な政策立案に生かす

【原発事故の教訓】

原発事故後、原子力を重要なベースロード電源と位置付けつつ、原発依存度を可能な限り低減させるとの基本方針を決定。これは原子力政策の大きな方向転換

【競争環境下における原子力事業】

競争が進展した環境下においても、原子力事業者が安定供給の確保や円滑な廃炉、安全対策などの課題に対応できるよう事業者の損益を平準化し、安定的な資金の回収・確保を図るなど財務・会計面のリスクを合理的な範囲とする措置を講じることが必要。廃炉に関する計画外の費用が発生する場合、一定期間をかけて償却・費用化を認める会計措置を検討する

【核燃料サイクル政策の推進】

もんじゅを含めた核燃料サイクルの研究開発は、放射性廃棄物の減容化・有害度低減や高速炉を含めた将来のエネルギーオプションを開発していくという目的の下、進めていくべきだ

【国民、自治体との信頼関係構築】

限られた国の財源の中で、電源立地地域対策交付金の制度趣旨(発電用施設の設置・運転の円滑化)や現状を認識し、稼働実績を踏まえた公平性の確保など既存の支援措置の見直しなどと併せ、立地市町村の実態に即した必要な対策について検討を進める

*中間整理の各章には、原子力小委員会で出た主な意見が掲載されている。

クローズアップ2015:交付金減額へ 抜け出せぬ原発依存 - 毎日新聞(2015年08月11日 東京朝刊)

 九州電力川内(せんだい)原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)の再稼働に合わせ、国は原発の稼働率などに応じて決まる電源立地地域対策交付金の規定を見直し、停止中でも一律81%としていた「みなしの稼働率」を引き下げる方針を固めた。今後の各地の再稼働を促進する狙いだが、国のこの手法が効果を持つのは、立地市町村の原発依存体質が根深いからだ。原発マネーで潤った自治体は、原発なしで自治体運営ができなくなる。そんな多くの立地市町村の現状が一層鮮明に浮かび上がった。【関谷俊介、宝満志郎】

 ◇国が危機感あおる

 「国が金で誘導するやり方は好ましくない」。北海道電力泊原発を抱える北海道泊村の幹部は、電源立地地域対策交付金について停止中のみなし稼働率を引き下げ、市町村の危機感をあおって再稼働の追い風とする国の手法に苦言を呈する。

 福島の事故を受けて全国の原発が長期停止し、立地市町村は当初、財政への影響を懸念した。それを吹き飛ばしたのは一律81%という高い水準のみなし稼働率の適用だった。

 毎日新聞が原発立地17市町村(福島県内除く)に尋ねたところ、みなし稼働率に基づく2013、14年度の同交付金の平均額は、事故前の稼働実績に基づく11、12年度の平均額と比べ、11市町村で0・02〜23・18%増となった。減額されたのは原発の新規立地に伴う交付金が12年度ごろまで交付されるなどした6市町村だった。

 交付額を圧縮する国の規定見直しは、ただ再稼働を促すだけでなく、浮いた財源を別の財政支援に回す狙いもある。今年廃炉になった老朽原発5基分については16年度から従来の交付金がなくなる。このため、市町村の財政に与える廃炉の影響を緩和する何らかの支援をする方針だ。再稼働が実現したとしても使用済み核燃料の貯蔵スペースに余裕がない原発は数年でストップしかねないため、貯蔵施設を新たに受け入れる市町村への財政支援を講じ「交付金の元々の目的である円滑な運転のためのインセンティブ(刺激策)」(経済産業省職員)とする考えだ。

 毎日新聞は立地17市町村に、地元の原発の(1)再稼働(2)原子炉等規制法で原則40年とされる運転期間の延長(3)新増設−−への賛否も尋ねた。いずれも原子力規制委員会の審査に合格している場合を前提にした質問で、再稼働と運転期間延長に「反対」はなかった。新増設については、宮城県石巻市、松江市、愛媛県伊方町が「反対」を選んだ。

 再稼働に「賛成」と答えた8市町村のうち、薩摩川内市を除けば、いずれも歳入総額に占める同交付金など原発関連収入の割合が20%(14年度)以上で、原発依存度が高いほど再稼働に前向きな傾向が浮かんだ。

 中でも泊村は、同交付金7億7000万円に北海道電力の固定資産税などを加えた原発関連収入が80%になる。「村の事業を継続していくには交付金が減額されると厳しい」。幹部はそう嘆いた。

 ◇地元財政・経済の要

 一度原発を受け入れた地域は、もう原発なしでは未来を描けないのか。

 昨年7月〜今年2月に開催された福島県大熊町の将来計画を策定する検討委員会。9月の第3回会合で、同県いわき市に避難している委員の一人の岩本久美(ひさみ)さん(70)は疑問をぶつけた。「大切なのは町の将来よりも、大多数の帰れない町民が新生活を送るための支援ではないか」

 東京電力福島第1原発事故で約1万人の全町民が町外に避難し、町民の96%の居住地域が帰還困難区域となった。町は、比較的線量の低い地区に住宅や商業施設を集積させる新たなまちづくり構想を進める。

 まちには、30年以上かかるとされる廃炉作業などにあたる東電社員向けの寮が造られるほか、東電関連会社2社の進出も決定。町は原発関連の人口を約2000人と見込む。一方、元々の町民で帰還を希望しているのは約1000人にとどまり、高齢者が中心だ。

 町は60〜70年代、原発を誘致するとともに関連産業を呼び込んだ。電源立地地域対策交付金は、事故があった10年度には町の歳入総額の2割を占めた。新たなまちづくりでは、国の福島再生加速化交付金のほか、事故に伴って30年間にわたり支給される交付金(年約20億円)などが財源となる。渡辺利綱町長は「まだ原子力に頼るのかと言われるが、共生していかざるをえない」と悩ましい表情を見せる。

 一方、薩摩川内市の歳入総額に占める原発関連収入(固定資産税除く)はここ数年3%程度にとどまるが、地域経済を支えてきたのは原発だ。

 「一刻も早い再稼働が疲弊した地域経済の活性化、雇用の安定化、地域創生につながるものと確信しております」。5月14日、同市に集った全国の原発立地市町村の商工団体代表を前に、地元の山元浩義・川内商工会議所会頭が訴えた。

 同商議所などによると、1984、85年に運転を始めた1、2号機の建設費計約5100億円のうち地元受注額は約690億円に達した。原発では通常時約1000人が働き、飲食などで地元に落とす金は年12億円を超す。定期検査時には作業員がさらに約1200人増え、この際の宿泊などによる経済波及効果は約6億円と試算される。福島の事故後に凍結された3号機増設計画(建設費約5400億円)への期待も根強い。

 だが、市の中心部を外れると、多くの地区で過疎高齢化が進む現実もある。川内原発から5キロ圏の峰山地区。コミュニティ協議会会長の徳田勝章さん(77)は「原発の金は偏在化しており、地区としてはほとんど恩恵を感じていない。田園都市でもあり、1次産業などを大事にしないと永続性はない」と語る。

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2015/08/09

元武雄市長の樋渡氏、CCC子会社の社長になっていた。

樋渡氏が絡む事業については、以前ちょっとメモしたことがある。
中小自治体連合で販促しようという話とその裏側?: 思いついたことをなんでも書いていくブログ

中小企業の社長的な発想で武雄市を引っかき回し、いろいろなものを瓦礫にしていった樋渡氏だが、公職から離れてまた新たな商売を始めたようだ。

スマホで地域活性化目指す「ふるさとスマホ」、CCCグループが設立 社長に前武雄市長の樋渡氏 - ITmedia ニュース(2015年07月29日 12時26分 更新)(魚拓

スマホやります! | 樋渡社中(※掲載日付が不明)
ちなみに、7月1日付で武雄市から「地方創生アドバイザー」に委嘱されたそうだ。武雄市もまだまだ食われ続けますな。

ニュースリリース|CCC カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(2015年07月28日)(魚拓

ふるさとスマホ
コンテンツが1枚の大きな画像でできている。文字情報も画像化されている。すごい違和感。(魚拓
「天下り」「露骨」との声続出! 樋渡啓祐・前武雄市長がCCC子会社ふるさとスマホ社長就任 | ガジェット通信(2015.07.29)

自治体スマホ連絡協議会というものを作らせたようだ。南砺市が中心になっているらしい。しっかり自治体に食い込んでいる。
お知らせ - 自治体におけるスマートフォン利活用をめざし自治体スマホ連絡協議会設立へ | 南砺市(2015年7月29日(水曜日) 00時00分)

近年急速に普及しているスマートフォンを利活用して、高齢化や医療費増加などの自治体共通の課題を解決するために、情報交換や相互協力をする連絡機関として、「自治体スマホ連絡協議会」を設立することとしました。
【趣旨】
○急速に普及しているスマートフォンを、地域課題解決のためのツールと捉える
○各自治体の知恵を結集することで、地域課題解決さらには地域の活性化まで見据えた具体的な取組を実践する

発起人
富山県南砺市長(代表発起人)
奈良県奈良市長
大阪府東大阪市長
香川県宇多津町長
福岡県鞍手町長

イメージ図 魚拓

ふわふわした話で自治体からカネを集めてメシを食うというビジネス。
地域振興政策に寄生する生き物のようだ。

地域振興政策には多かれ少なかれこの種の話は付きもので、怪しい事業はいろいろ見た。役所、代議士、地元の名士、地元企業、一部上場の大手企業、たいていいろいろ絡んでいる。ネタに群がる構図。

武雄市の事例は市民や有志の人たちが丹念に事実を掘り起こして、そのすさまじい悲惨さを浮き彫りにしてくれているので、この種の事業の危なさがよく分かる。また、私たち市民がしっかり監視して自分たちのこととして問題を引き受けなければ、公共部門というものはすぐに駄目になってしまうということも。

次のまとめが興味深い。
武雄市図書館にTSUTAYAの在庫が押しつけられる - Togetterまとめ

要約すると、ツタヤの不良在庫(資産価値ゼロ)の本1万冊を約1000万円(1冊千円)で引き取らされたという話。
ツタヤはおそらく1冊10円程度で引き取った不良本、つまり10万円程度を1000万円にできただけでなく、在庫コストも圧縮できた。
その本とされる一覧がものすごい。公共図書館とは思えないが、賞味期限切れのムック本などがあることが上記まとめでは指摘されている。

この図書館では以前、郷土史資料などを大量に除却したことが問題になっていたが、こうなると、これらの在庫処分のためのスペースを空けるために以前の資料を処分したのではないかという疑いが出てくる。

他に興味深い指摘も。

ぴよこ・鳥バード @piyoko99
本の内容まで詳しく見てなくていうんだけど、ディズニーランドガイドやさいたまラーメンガイド辺りはL期限(返品期限が決まっていて過ぎると返品できなくなる不良在庫)http://www.nihon-zassi.co.jp/02books.html の書籍を新品扱いで購入したんじゃないかと推測される。店員が書籍だと思ってたけど実はL期限のついたムックで返品しそこねたって事は本屋あるあるネタ…
「L期限」というルールと関係しているのではないかという指摘。
h_tsczy @tzccijah
東洋大の南学(客員教授)の経営感覚。“高給の公務員が会議を開き「どの本を買うか」と検討するだけで大きなコストがかかる。寄付を受け付けると修復などでさらに高くつく。買うほうが安い。”http://www.niji.or.jp/home/hideko/report_minami_manabu.html
南学教授は横浜市立大学で、東洋大学は間違い。しかし南氏は横浜市の中田市政を支えた人。行政を「経営する」としてコスト感覚を強調し、「サービス」を民間委託や低賃金労働者の活用に切り替えて公務員を削減すべきと主張した人。ちなみに、上山信一氏と中田横浜市政を称える共著を出しているのだが、この上山氏は維新の会の橋下氏を支えている人で、大阪府、大阪市の特別顧問になっている。元はマッキンゼー、今は慶應義塾大学の教授になっている。
話がそれた。東洋大学が出てきたのは、樋渡氏を支持して連携した松原聡教授が念頭になったのだろう。
とは言え、この南氏の議論は武雄市の図書館問題と同じ方向を向いているように見える。
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追記(2015年9月3日)

図書館の選書がひどいという問題の続報?が出ていた。

関連会社から“疑惑”の選書 武雄市TSUTAYA図書館、委託巡り住民訴訟に発展 〈週刊朝日〉|dot.ドット 朝日新聞出版(更新 2015/9/ 3 07:00)

・市の教育委員会「CCCに選書を委託、その後市が確認した。」
・CCC「ネットオフ社より調達。中古流通からの調達は事前に市から承諾を得ている」
  ネットオフ社:CCC傘下の新古書店。
・ネットオフ:本の費用や当時の単価について問い合わせ→回答なし

・ネットオフのHPから、疑惑がもたれている選書の単価を調べた
  最低価格の108円で購入できるものが多数。1万冊のうち、本誌記者が各ジャンルから抽出した計100冊の平均価格を出すと一冊あたり“272円”だった。
  「108円は最低価格なので、簿価としては0に近い。ネットの新古書店で流通し、売れなかった本が多数含まれていることになる」(市立図書館の司書)

CCCは在庫処分ではないと否定しているが、実態はそう言わざるを得ないだろう。

●そのほかの問題

・貴重な書物、視聴覚資料などが大量に廃棄された。
  これはよく知られている問題。
・蘭学資料館がツタヤのレンタルスペースに改修された。

・自動貸出機を使うと1日1回3円分のTポイントがたまるシステム。
  公共施設が特定の店での購買を誘導しており、公平性を欠いている。

●住民訴訟
武雄市に対し、樋渡啓祐前市長に1億8千万円の損害賠償を求めるよう、訴えを起こしている。
大変面倒でいろいろ消耗するだろうのに頑張っている市民の活動には敬意を表したい。

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追記(2015年8月10日)

樋渡氏は、さらに市民病院の民営化を引き受けた団体の理事に収まっているそうだ。
元佐賀県武雄市長時代に利益供与したCCCから子会社社長職と市民病院売却先の理事職を事後収賄中の樋渡啓祐狂信者政治家一覧 | Do Not Track Me !

いろいろ問題視されている樋渡氏であるが、武雄市から地方創生アドバイザーを委嘱されている。

武雄市地方創生アドバイザーをお受けしました | 樋渡社中

市長は樋渡氏を高く評価しているようである。
樋渡さんに地方創生アドバイザーを委嘱 - こまっちゃん、走ります!

また、樋渡氏に共感を示している自治体は武雄市以外にもいろいろある。

地方創生アドバイザー | 樋渡社中
こちらによれば、
南砺市、三条市、那須町、横須賀市、奈良市、柏原市、平戸市、宇多津町が「地方創生アドバイザー」を依頼しているそうだ。
ちなみに、南砺市と宇多津町は樋渡氏・武雄市が旗振り役になった地元特産品の通販事業「日本自治体等連合」にも入っている。

参考:「高い授業料だった」武雄市発自治体通販脱退の三島市長 - 高圧☆洗浄機

なお下記によれば横須賀市の「地方創生アドバイザー」については、市の公認ではなく市長の「個人的な」アドバイザーとのこと。
樋渡啓祐氏(吉田雄人市長のお友達)を「地方創生アドバイザー」として横須賀市が雇用するのか否かの問題について(その2) | 横須賀市議会・無所属・藤野英明

樋渡氏に好感を示す人の例
地方から日本をゆさぶる政治の力 | 前野智純(まえのともずみ)ブログ | 「通販型」集客支援とASEANマーケティングの、エクストラコミュニケーションズ社長Blog | エクストラコミュニケーションズ社長・前野智純のブログのブログです。excomのこと、ゴルフのこと、日々の雑感などを書いています。

政治家としての自分の役割を明確にわかっていて、ユーモアと行動力とスピードがあり、人を想い、人を恐れず、信じた道を断行する、とても尊敬すべき人です。

おそらく、このような人が、地方から日本を変えていくんだろうなと思います。私は、ビジネスという切り口で、日本を変えたいという気持ちがずっとあります。同じく地方にいる私は、樋渡さんの実行力をもっともっと見習わないといけません。

現在、樋渡さんは市長の職を辞し、佐賀県の知事選の真っ最中です。明日が投票日です。佐賀県民の皆さん、樋渡さんは将来の国政をにらんで当たらず障らずの地方政治家ではありません。本気でドラスティックに地方を変えようとしています。
地域で何かに取り組むとこういう感覚になるのは自分も経験があるから、この人の気持ちはよく理解できる。実際、産業振興には通常の役所の論理では割り切れないことがたくさんあり、民間との癒着のような要素を避けられない…というか、それが仕事の核心だったりする。そして私が知っている産業振興担当の公務員たちは、この狭間で苦労している人が多いから、この辺りの壁を易々と乗り越えたり壁自体を壊してくれる人が首長になってくれることを期待する気持ちもよく分かる。
しかし、こうした「行動力」や「スピード」の行使には常に危機感を持って臨まなければならないし、それに期待し要求する立場の「市民」や「産業」の立場の人間も際どさを自覚しなければならない。「公共」の価値や役割、その縛りの意義について、勉強しなければならない。「民間」の論理とは明らかに異質な論理が行政にはあり、それが「民間」からは桎梏に見えることもよくあるが、しかしそれは民間ではカバーできない価値を守る重要な仕組みであったりする。精密な機械である行政システムを、その仕組みも知らずに改造しようとすることは、子供が何も勉強せずに機械を修理しようとしていることに等しい。樋渡氏だけでなく、近年地方自治体において「改革派」の首長たちが引き起こしているさまざまな見苦しい事態は、この「民間」という名にあぐらをかいた無知の傲慢の一つの帰結であると思う。地域振興に関心がある者、とくに「民間」の立場の者こそ謙虚にならねばならない。
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2015/08/07

戦後70年談話に関する報告書:韓国政府から不快感を表明されそうな。

安倍首相の戦後70周年談話の文言を検討する会議。
その報告書が出た。

新聞各紙の報道は「侵略」という語を明文化したという点に焦点を合わせている。

確かにその点は「安倍政権の立場からは一歩踏み込んだかな」と思わないでもない。
けれども、もともと先の戦争が侵略戦争だったことは初めから明白だったから、こんな 1+1=2 みたいに当たり前なことが盛り込まれたからといって「スゴイ!」みたいになるのは何なのか?と言いたくなる。
こんな当たり前のことがニュースになるのは、それほどまでに安倍政権の姿勢が右翼的・歴史修正主義的だということの現れだとも思う。

で、その報告書が首相官邸のウェブページにある。
20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)

懇談会の構成メンバーがすごい。専門化じゃない人が結構いるし、見事に「保守」的な人たちで固めている。
考えようによっては、このメンバーで「侵略戦争だった」みたいな報告書が出たことの方が驚きかも……。

で、報告書本文の方なのだけれど、ざっと目を通した。以下感想。

1.戦争を始めたのは悪かった、間違っていた、とは認めている。けれども、「仕方なかったんだよ~。欧米の帝国主義的時代だったんだし~」と、弁解している。潔くない。

2.ところどころ、日本会議や安倍政権に釘を刺しているところもある。
・憲法や戦後の民主化を押しつけではないとしている(13ページ)
・先の戦争をアジア解放のための戦いではないとしている(4ページ)

3.現在の安倍政権的情勢認識に迎合している
・先の戦争が「自存自衛」のためであり、日本の戦争がアジア諸国の独立を招いたとしている(4, 31ページ)
・「積極的平和主義」が世界への貢献に必要だとし、集団的自衛権が必要だというニュアンス(11-12, 16, 33ページなど)
・9条1項は認めるが、2項には言及しない(5ページなど)
・天皇の責任には全く言及しない
・アメリカ主導の世界体制に追随するのが正しいとしている(11, 32ページなど)
・「湾岸戦争において巨額の財政援助をしたにも拘わらず、国際社会に評価されなかった」としている(16ページ)(「国際社会」って?)
・TPP推進(34, 37ページ)
・方針の反対者には「丁寧な説明」で理解を得るべき(34ページ)
・辺野古移設の推進(37ページ)

4.各国との「和解」については、アメリカが4ページ、ヨーロッパ・オーストラリアが3ページ、中国が4ページ、韓国が4ページ弱、東南アジアが2ページ。
一読して、戦争とそれ以前の侵略、植民地支配のことが完全に「他人事」のように描かれている印象。当事者・当事国の一方というよりも、無関係の第三者が「そんなこともあったよね~」「まあ、悪いのはどっちもどっちだよね」「悪いことをしたんだから、ちょっとは反省して、まあこれから頑張りなさい」という感じ。

この節の記述が他人事にとどまっているというのは、以下のようなことである。
「和解」については、とりわけ中国、韓国、東南アジアについて、日本側の「和解」への主体的努力がほとんど描かれていない。戦後補償やODA、アジア女性基金、各種の談話などへの言及はあるが、「反日感情」について、相手国側の事情や都合からの説明にとどまっていて、それらの「反日感情」をどのように理解し、どのように対応し、その結果どのような変化が起きたのか、また、この「反日感情」との対応の歴史を踏まえてそこにどのような教訓があったのかについては、全く述べられない。そもそも、教科書問題や靖国参拝、折々の「南京虐殺はなかった」などの政治家のトンデモ発言、当時を美化する動きなど、相手の心情を逆なでする事件が繰り返し起きていることが全く触れられていない。他方で、民間レベルで強制労働などの加害の史実を発掘したり、謝罪と和解の取り組みが続けられてきたり、平和教育や反差別教育が進められてきたりしたことなども全く触れられていない。つまり、「反日感情」はほとんど相手国の折々の情勢に原因があるというだけの認識しか示されない。そこに踏み込んで、関係を構築するための主体性や努力の過程を反省して将来展望を拓くという発想がないのである。

4-1. 欧米との和解については、嫌みたらしくこんな文章が。

戦争を戦った国々においては、終戦後二つの選択肢が存在する。一つは、過去について相手を批判し続け憎悪し続ける道。そしてもう一つは、和解し将来における協力を重視する道である。日本と米国、豪州、欧州は、後者の道を選択した。血みどろの戦いを繰り広げた敵との間でなぜ日本とこれらの国々は和解を遂げ、協力の道を歩むことができたのか。日本との関係で一つ目の道を選択し、和解の道を歩まなかった国々との違いはどこにあるのか。その解は、加害者、被害者双方が忍耐を持って未来志向の関係を築こうと努力することにある。加害者が、真摯な態度で被害者に償うことは大前提であるが、被害者の側もこの加害者の気持ちを寛容な心を持って受け止めることが重要である。これは、日本と米国、豪州、欧州の関係のみならず、独仏関係においてフランス側が、独・イスラエル関係においてイスラエル側がそれなりに寛大であり、ドイツとの関係改善に前向きであったことが現在の良好な関係に繋がっていることによっても証明されている。(強調は引用者)
このパラグラフが中国や韓国を標的にしているのは言うまでもないだろう。
このビジョンは本当によく日本国内で見られるわけだが、これが卑怯だと思うのは、
「被害者も考えたれや」
「お前らも寛容になったれや」
これを加害者が被害者に言うわけである。
さらにお笑いなのは、ドイツを引き合いに出していることである。立派に更生した元犯罪者が受け入れられているのを見て、全く反省の色も見せないで「被害者も~」とか言っている重罪人が、「俺らも許されてもええんとちゃうの?」とか言っているわけである。

こういう見解が堂々と公表されているのを見ると、「ああ、日本は駄目だな」というイメージを強化するばかりだと思うのだが。

4-2. 中国との和解については中国側の「許し」を評価する一方、韓国についてはひどい書き方になっている。

率直に言って、韓国を日本の属国扱いにしているし、反日感情の理由を全て韓国側に押しつけており、
「でもニッポンは寛容にも彼らの言い分を認めようと努力してるんだよ~」
という記述であふれている。
東南アジアに対する記述も傲慢だと思うが、韓国への記述が一番ひどい。
この独りよがりの記述は韓国を侮辱していて、大丈夫かと思うのだが、まあ今の安倍政権は韓国を「共通の価値観を持たない国」として敵視しているようだから、喧嘩を売ってちょうどいいのかもしれない。

あと、気になるのは北朝鮮への言葉がないことである。
日本は北朝鮮を認めていないので言及しないのは分かるのだが、しかし朝鮮半島北部でも日本はひどいことをしてきたわけで、それへの言及がないのは良くないと思うのだが。

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お役所体質があらわになった新国立競技場問題


お役所……というか、組織というもの……の体質を改めて確認させてくれる。
これは、公共のお金なら取った者勝ち、とにかく誤魔化せるだけ誤魔化せばいいという風潮の問題でもあるなあと。
毎日新聞記事から。

JSC:議事録一部削除し開示…情報公開請求に - 毎日新聞(2015年08月07日 10時01分(最終更新 08月07日 12時06分))

情報開示請求に対して、議事録を偽造して公開したという話。

いかにもありそうなことだし、おそらくこれまでも各地でこうした偽造はたくさんあっただろう。だがそれらは疑いの域を超えなかった。しかし、今回、この疑いが正当だったことが分かった。

JSC:新国立工事費、「3000億円」設計会社提示無視 - 毎日新聞(2015年08月07日 10時00分(最終更新 08月07日 12時05分))

設計会社が3000億円と見積もりを出したら、JSCが無理やり数字を書き換えたという話。
上部組織である文科省の口約束につじつまを合わせるためのウソだったらしい。

検証・新国立競技場白紙撤回:政府迷走、遅れた決断 - 毎日新聞(2015年08月07日 東京朝刊)

・無理なことがはっきりしていたにもかかわらず、森元首相など、数人のボスの欲望とメンツのために計画を止められなかった。
・最後は、ボス同士の利害調整で白紙撤回が決まった。
・「公約だから変更できない」は大嘘だった。
・無茶な計画ができたのは関係者の利権を全て盛り込んだ結果であり、彼らは誰一人コストを問題視しなかった。

******
どの記事も、

「役所ってやっぱり誤魔化すしウソをつくんだ」
「人間ってものは強力な罰則で縛らない限り平気で誤魔化しをするんだ」

というイヤな認識を強化する話である。

安保法制の騒動でもそうだけれども、今年になって改めて浮上してきた巨大なメッセージは、

・役所は信用できない
・政治家は信用できない
・大人は平気でウソをつき、それがバレバレになっても決して非を認めない

ということだったと思う。

これらは昔からいわば当たり前の常識ではあったけれども、こういう社会認識がいっそう強化されていくことは実はかなり社会運営に大きなダメージを与えるのではないか。
役所のみならず国会や裁判所など公共機関全般への不信感が、公共へのニヒリズムを生み、かつての小泉改革、民主党やみんなの党、今の維新の党などへの期待となり、そしてそれが劇場型政治や、分かりやすい敵を作ってそれを排撃する破壊型政治につながっていったという気がしてならない。


*************************:
JSC:議事録一部削除し開示…情報公開請求に - 毎日新聞(2015年08月07日 10時01分(最終更新 08月07日 12時06分))

 新国立競技場のデザインを検討した有識者会議での発言について、会議を設けた日本スポーツ振興センター(JSC)が、情報公開請求に対し議事録から一部を削除して開示したことが分かった。議事録で個人を特定する部分などは黒塗りとなっているにもかかわらず、発言そのものがなくされていた形で、情報操作とも言える手法に批判が出そうだ。

 問題の議事録は2012年11月15日に開かれた第3回有識者会議のもので、毎日新聞は情報公開請求で入手した。会議は非公開で、新国立競技場のデザイン審査について、イラク出身で英国在住のザハ・ハディド氏の作品を1位に選んだことが報告された。

 開示された文書では、審査委員長を務めた建築家の安藤忠雄氏が次点の作品を論評している部分や出席者名などが黒塗りになっていた。一方、新国立競技場計画の検証を進める自民党行政改革推進本部(河野太郎本部長)が4日、非公開部分を明らかにした文書を報道陣に公開した。

 二つを比較すると、情報公開請求で開示された文書では、森喜朗元首相がデザインについて「神宮のところに宇宙から何かがおりてきた感じだ。ほんとうにマッチするのかな。次の入選作も、神宮の森にカキフライのフライのないカキか、生ガキがいるっていう感じ」と論評した部分が削除されていた。

 安藤氏が次点の作品の方が実現性が高いと認めつつ「可能性に挑戦する、日本の技術者が向かっていく意味でいい」とザハ案を選んだ理由について述べた部分が黒塗りされていたことも分かった。

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長は「二つの議事録は削除だけでなく、言い回しが異なる部分もあり別物。複数の議事録の存在は、当初開示された方が改変されていた可能性が高く、その行為は違法の疑いがある。何らかの意図で発言を削除したと考えざるを得ない」と指摘した。【山本浩資】

JSC:新国立工事費、「3000億円」設計会社提示無視 - 毎日新聞(2015年08月07日 10時00分(最終更新 08月07日 12時05分))
 2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の建設問題で、事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)が昨年5月、基本設計の概算工事費を過少に見積もって公表していたことが、関係者の証言で分かった。設計会社側が約3000億円と提示したのに対し、JSCは資材の調達法や単価を操作するなどして1625億円と概算していた。

 ◇過少見積もり1625億円

 正確な額が公表されていれば、計画見直しが早まった可能性がある。1625億円の根拠は7日に始まる文部科学省の検証委員会でも議題となる。

 JSCは昨年5月、基本設計を発表した。8万人収容で開閉式屋根を持つ新競技場は地上6階、地下2階の鉄骨造りで延べ床面積は約21万平方メートル。概算工事費は1625億円とした。

 関係者によると、昨年1月から本格化した基本設計の作業で、設計会社側は概算工事費を約3000億円と試算した。

 しかし、JSCは「国家プロジェクトだから予算は後で何とかなる」と取り合わなかった。

 JSCは1625億円を「13年7月時点の単価。消費税5%」の条件で試算した。さらに実際には調達できないような資材単価を用いるなどして概算工事費を過少に見積もったという。

 基本設計発表の半年前の13年末、財務省と文科省は総工費を1625億円とすることで合意しており、JSCはこの「上限」に合わせた可能性がある。ある文科省幹部は「文科省の担当者が上限内で収まるよう指示したのではないか」と指摘している。

 今年2月、施工するゼネコンが総工費3000億円との見通しを示したことでJSCと文科省は総工費縮減の検討を重ね、下村博文文科相が6月29日、総工費2520億円と公表した。しかし、膨大な総工費に批判が集まり、政府は7月17日に計画を白紙撤回した。

 JSCは「政府部内の調整を経た結果、13年12月27日に示された概算工事費を超えないよう基本設計を進めた。基本設計に記載した1625億円は、設計JV(共同企業体)側とも確認のうえ算出した」と文書で回答した。【山本浩資、三木陽介】


検証・新国立競技場白紙撤回:政府迷走、遅れた決断 - 毎日新聞(2015年08月07日 東京朝刊)
 2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の建設計画は、2520億円に膨れ上がった総工費に世論の批判が高まり、白紙に戻された。なぜ全面見直しの決断に至ったのか、計画策定の経緯はどうか、本当に計画は国際公約だったのか。時間と公費を浪費した形の新国立競技場問題について検証する。

 ◇首相官邸

 「あまりにコストがかさんでしまい、国民の理解が得られない」。下村博文文部科学相は6月22日、首相官邸で安倍晋三首相と向き合い、新国立競技場の計画見直しを持ち出した。計画はイラク出身で英国在住の建築家、ザハ・ハディド氏がデザインし、「キールアーチ」と呼ばれる2本の巨大な弓状構造物が特徴だった。膨らむ総工費に批判が高まり、放置すれば五輪への期待ムードまで損ないかねなかった。

 下村氏は安倍首相に、建築家の槙文彦氏らによる見直し案の採用を提案した。開閉式屋根を外し総工費を1000億円以上カットするもので「ザハ案をやめても、これでいけます」と進言した。

 関係者によると、首相は「難しい問題はよく考えるべきだ。王道を踏み外してはいけない」と慎重姿勢を示した。2013年9月、ブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で「どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムの建設」を表明。海外にインフラ技術をPRする思惑も重なり「国際公約」と位置づけていた。

 首相の出身派閥・自民党細田派の元領袖(りょうしゅう)、森喜朗元首相の存在もあった。大会組織委員会会長として準備を指揮する一方、前日本ラグビー協会会長として19年ラグビー・ワールドカップ(W杯)の新国立競技場開催を進めていた。首相は「森会長の了解も必要だ」と述べ、面談を打ち切った。森氏も6月23日、「槙案」の打診に訪れた下村氏に対し「そんなことを軽々に言っていいのか」と一蹴した。

 首相は7月17日に表明した計画の白紙撤回を「1カ月前から検討していた」と説明した。6月22日の下村氏との面談が符合するが、政府一体で見直しに傾いていたわけではない。

 首相は当時、安全保障関連法案の審議立て直しに集中していた。衆院憲法審査会で6月4日、自民推薦を含む憲法学者3人が法案を「憲法違反」と指摘し、野党は勢いづいていた。首相周辺は「新国立でぶれれば、法案審議に逆効果だと首相は考えた」と語る。

 下村氏は6月29日、デザインは変えず総工費2520億円とする建設計画を発表した。

 ◇最後のハードルは森氏

 実際に官邸が計画見直しに踏み出すのは7月上旬だ。毎日新聞の全国世論調査(4〜5日)で支持・不支持が第2次安倍内閣発足後初めて逆転したほか、各種調査で新国立競技場を「見直すべきだ」が8〜9割にのぼる結果も出ていた。官邸は「安保関連法案より新国立が重しになっている」と判断し、首相が官邸スタッフに再検討を指示した。

 事業を所管する文科省に「あんな巨大施設の発注は経験がなかった」(自民幹部)ため、国土交通省出身の和泉洋人首相補佐官が文科省やゼネコンと協議し、「デザインは設計・施工一括方式」「工期は50カ月強まで短縮可能」との基本方針を急ピッチで策定した。

 これを受け、菅義偉官房長官は安保関連法案の衆院採決と新国立撤回表明を間髪入れず断行するため、佐藤勉自民党国対委員長に「延ばしてもいいことはない」と7月16日採決を指示した。官邸関係者は「支持率の下落幅を少しでも圧縮する狙いがあった」と語る。

 最後のネックが森氏だった。新国立競技場でのW杯開催断念となれば「組織委会長を辞任しかねない」(政府関係者)からだ。

 説得役は首相しかいなかった。採決当日の16日夜、東京・赤坂の日本料理店「津やま」に細田派幹部が集まり首相と森氏が顔を合わせた。2人は新国立の話題を避けたが、首相は店を出る直前、森氏に「明日の午後2時に官邸に来てください」とささやいた。森氏は白紙撤回の意向を悟り、受け入れざるを得ないと判断した。新国立に固執すれば、世論の反発がラグビーに向かいかねなかった。

 森氏は17日、首相との30分間の会談で突っ込んだやりとりは避けたが、その後に加わった菅氏、下村氏、遠藤利明五輪担当相を前に「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン(一人はみんなのために、みんなは一人のために)だ」と語った。ラグビーのチームプレー精神に例え、連携不足で混乱が拡大したことにくぎを刺した。

 ◇「国際公約」は理由付け

 IOCは新国立競技場の計画見直しを受け入れた。クアラルンプールで今月1日開かれた総会で、大会組織委の森会長が「率直におわびしたい」と述べると、IOCのバッハ会長は「謝罪する必要はない」と擁護した。

 従来の計画を推し進めた誰もが口をそろえた「国際公約」とは何だったのか。大会招致が決定した13年9月7日に東京都と日本オリンピック委員会(JOC)がIOCと結んだ開催都市契約書には、招致段階で提出した申請ファイル(開催計画概要)と立候補ファイル(詳細な開催計画)を「順守する」との文言がある。

 しかし、IOC理事会の承認が得られれば変更は可能だ。東京五輪の準備状況を監督するコーツ副会長も今年6月末、毎日新聞の取材に「新国立競技場のデザインは政府が決めるもの。変更したいと思えば、変えればいい」と語った。IOCが昨年12月に開催都市の財政負担を軽減する中長期改革「アジェンダ2020」を採択し、柔軟性を打ち出していたことが背景にあった。

 都と組織委は昨年6月に会場見直しに着手し、もう一つの国際公約だった「選手村から8キロ圏内に大半の会場がある」は、あっさり捨てた。新国立競技場だけ「国際公約」を盾にしたのは、計画を強行する理由付けに過ぎなかった。バッハ会長は、総会でこうも付け加えている。「質やコスト管理、工期が保証されるように(IOCも)関与すべきだ」。新たな計画は、国際的な管理下に置かれることになる。

 一方、このIOC総会では計画見直しについて、20年大会招致のライバルだったトルコが「落胆している」と批判し、スペインも「日本はまた計画を見直すのだろう」と招致の目玉を投げ出したことに強烈な皮肉を投げかけたという。

 ◇要望128項目、「陳情合戦」で 募集最終案、総工費は空白 計画検討有識者会議

 新国立競技場の事業主体・日本スポーツ振興センター(JSC)は2012年3月、計画を検討する有識者会議を設置した。情報公開請求で入手した議事録から経過をたどる。

 12年3月6日の第1回会合でJSCの河野一郎理事長が示した論点資料には、将来のサッカーW杯招致をにらみ「スタジアム規模は8万人がスタートライン」、コンサートを開けるよう開閉式屋根を備えた「全天候型スタジアム」が要件になっていた。各界の要望をとりまとめるため、有識者会議の下に「施設建築」「スポーツ」「文化」の三つの作業部会が設けられた。スポーツ団体トップ、芸能関係者、広告代理店役員など計約25人がメンバーとなり、陳情合戦の様相を呈する。要望は128項目にも及んだ。

 VIP席などホスピタリティー施設約2万5000平方メートル▽スポーツ振興の博物館・図書館や娯楽施設約2万1000平方メートル−−。「世界に誇れるスタジアム」を目指し要望を積み上げた結果、延べ床面積は旧競技場の6倍近い29万平方メートルになり、これらがコンクールの募集要項に盛り込まれた。巨大競技場の原形は、建築家、ザハ・ハディド氏のデザインより先に、有識者会議で作られていた。

 有識者会議や作業部会の議事録には、総工費に関する議論がほとんど見当たらない。

 12年5月14日の「施設建築」の会議で、当時JSC理事だった藤原誠氏(現文部科学省官房長)が「1000億円というイメージ」と発言。16年五輪の東京招致時の主会場の建設費を根拠とし「具体的な積算は全く持っていません」と話していた。

 12年7月13日の第2回有識者会議でデザインコンクール募集要項の最終案について河野理事長が説明した。ところが、資料の総工費の欄は空白。有識者会議の佐藤禎一委員長(元文部事務次官)が「私と河野理事長に一任いただいてよろしいでしょうか」と問い、了承された。1週間後の同20日に発表された募集要項には、総工費の欄に「1300億円」と記されていた。

 デザインコンクールの審査委員長は建築家の安藤忠雄氏が務めた。審査委員会の議事録によると、11点が残った2次審査で委員長を含む委員10人の投票結果は、ザハ氏の作品を含め3点が同点だった。しかし、他の委員から「委員長の1票は、2票か3票の重みがあると判断すべきかと思う」との意見が出て、安藤氏が推したザハ氏の作品が1位に選ばれた。

 12年11月15日の第3回有識者会議で安藤氏は次点の作品の方が実現性が高いと認めつつ「可能性に挑戦する、日本の技術者が向かっていく意味でいい」とザハ案を評価した。

 安藤氏は今年7月16日の記者会見で「頼まれたのはデザイン案選定まで」と述べ、その後に責任はないと主張した。しかし、12年7月13日の「施設建築」作業部会の会合では「(デザインの)コンセプトが設計者にうまく移行していくよう(助言する)権利を審査委員会に残したほうがいい」と発言していた。最終的にコンクールの募集要項には「審査委員会はデザイン監修に必要な助言を行うことができる」との一文が追加された。

 安藤氏は計画について常に関与できる立場にあった。この点について安藤氏の事務所に見解を求めたが、6日までに回答はない。

 ◇交代の舛添氏は「蚊帳の外」 東京都

 5月18日、下村博文文部科学相は東京都庁を訪れ、舛添要一知事に新国立競技場の建設費負担を要請した。この際、舛添氏の追及に下村氏が計画縮小の方針を示し、総工費に対する世論の反発が高まるきっかけになった。「国立」なのに東京都が負担を求められることになった発端は、2016年五輪招致にある。

 「主要競技施設については政府も経費の2分の1まで負担することが可能」。09年2月、都が16年大会の立候補ファイルをIOCに提出した際、文科相名義の「保証書」が作られた。主会場は中央区晴海に都が約900億円で整備する計画だった。組織委の森喜朗会長は今年6月の講演で「20年(大会)で、折半という話から、東京都が3分の1ぐらいかなという話が何となく残っている」と語っている。

 16年大会招致時の知事だった石原慎太郎氏の後を継いで就任した猪瀬直樹氏の代に20年大会の招致に成功した。下村氏は13年11月6日、猪瀬氏と都内で会談し費用の一部負担を求めた。猪瀬氏は取材に「本体は出せないけれど、周辺整備は検討すると伝えた」と語る。森氏の見解については「16年(大会招致)で消えている話」と否定する。

 猪瀬氏は5000万円裏金問題で13年12月24日に辞職した。その直前、下村氏や萩生田光一・自民党総裁特別補佐、同党ベテラン都議らが都内で対応を協議した。関係者によると、下村氏側が改めて都の負担を要請し、都議らは16年招致の経緯を踏まえて理解を示した。500億円程度を都側が負担する方向で、新知事決定後に具体的な協議をすることが確認された。

 14年2月に自民党の支援を受けて当選した舛添知事に対し「都にも負担してもらう話になっていると伝えてあった」と同党関係者は振り返る。しかし、舛添氏は「一切引き継いでいない」と繰り返した。同党幹部からは「蚊帳の外に置かれた知事の言い分も分かる」との声も漏れた。舛添氏は今年5月18日以降、文科省批判を展開した。

 6月18日の森氏との非公開の会談では、「言い過ぎだ」と叱責されていた。

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 この特集は野原大輔、藤野智成、田原和宏、武本光政、三木陽介、山本浩資、飯山太郎が担当しました。(グラフィック・立川善哉)

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2015/08/06

『原爆に遭った少女の話』と『ヒロシマを生きた少女の話』

ウェブマンガで読めるお話。面白かった。

こちらから。→Game&cG

祖母の体験談をマンガに起こしたということだが、できるだけ当時の様子を、また祖母の主観的世界を忠実に描こうとしていて、誠実さに好感を持てる。

絵が比較的シンプルで、被爆時の恐ろしい状況でも絵自体は怖くない。それだけに、凄惨な状況を頭の中で想像しなければならないが、それがいいという人とそれが物足りないという人とがいるかもしれない。

あとがきで、著者が

実際に原爆を体験したわけでもなく、戦争を知っている訳ではないので
 何を描いても嘘になってしまう…と、人物に感情を乗せることが出来ませんでした。
と書いているのは正直なところだと思う。そしてまた、この戸惑いを引き受けて作品化したことに著者の誠実さを感じる。
ジローズが「戦争を知らない子供たち」を出したのが1970年のことだから、この著者の思いは既に45年以上前から語られているわけだが、依然として我々「戦争を知らない子供たち」が何を受け止め、そして何を伝えられるのかは重い問いであり続けている。

それにしても、著者に「自分が見た光景を描いてほしい」と頼んだ祖母、そしてその祖母の思いを受け止め、聞き取りと取材を進めながら一つの物語へ結実させた著者の努力には改めて敬意を表しておきたい。

参考
【広島原爆70年】祖母は被爆電車の運転士だった。Web漫画を描いた「さすらいのカナブン」さん(2015年08月06日 11時17分)

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認知と偏見、ステレオタイプ、差別との関わりの記事

我々は根っからの人種差別主義者なのか?差別と偏見、ステレオタイプに関する科学的な回答 : カラパイア(2015年08月06日)

「米カリフォルニア大学バークレー校の心理学者ロドルフォ・メンドーサ=デントン博士」へのインタビューとのこと。
これはなかなか良い解説。

元の記事は下記。
Are We Born Racist | Nature of Prejudice | Berkeley Wellness(by PETER JARET | JUNE 25, 2015)

社会性動物として進化してきたヒトの特性として、同じヒトを敵味方・内と外に分けて識別しようとする心性があり、それが現代ではさまざまな問題を引き起こしているという話。
こうした生まれつきの心的傾向にどう対処すべきかという点まで含めて議論している。異質なグループ間の相互交流や「彼らは異物ではない」というキャンペーンの重要性についても分かりやすく説明されている。

生物進化上の適性なのだというとまるでそれが正当なことであるかのように解釈される危険もあるが、差別や偏見、いじめや村八分、他者への偏見をそのような単純化した図式で理解しないようにしたい。進化の結果として抱え込んでしまった厄介な問題というものも、またたくさんあるのだから。

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コレクション:トンデモ・レイシストの政治家さん

小坪しんやのHP~行橋市議会議員 | 行橋市議会議員 小坪慎也

憎悪をむき出しにして扇動を公言している人。

政治家にはものすごい人が多くてコレクションのしようもないほどだが……。
こういうタイプの議員らが国会で過半数を占めている……どころか閣僚の過半数を占めているという現実。


参考
『事実は事実』と言いながら入管法で事実以外を煽る小坪慎也行橋市議 | 興味乱舞に引きこもれず

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2015/08/05

現時点では元となる統計が見つからない。

政府の資料を見ると、下記の記事はちょっと変かもしれない。
今のところ、技能実習生の年次推移を統計で追えていないので判断は保留。
中国人だけに話を限るべきかという論点もあるだろうし。
とりあえず、リンクだけ置いておく。

中国人実習生が急減、日本の製造業や建築業で人材不足 破産に追い込まれる企業も|中国情報の日本語メディア―FOCUS-ASIA.COM - 中国の経済情報を中心としたニュースサイト。分析レポートや特集、調査、インタビュー記事なども豊富に配信。(2015年08月04日)

外国人技能実習制度で訪日し、日本に滞在する中国人実習生が2008年の15万1094人から14年には10万5382人と、約3分の2に急減したことが、法務省がこのほど発表した統計で分かった。劣悪な条件に加え、賃金水準が低いことなどが影響しているという。実習生が減ったことで人手不足になった日本企業が破産に追い込まれるケースも出てきた。日本新華僑報網の報道として、中国新聞網が3日伝えた。

報道によれば、長野県のあるプラスチック加工工場で働く中国人実習生は、6人が古い平屋に住み、月に残業を含め340時間も働いている。残業代は時給わずか550円で、長野県の最低賃金基準である時給728円よりはるかに安い。

こうした厳しい状況に耐えられなくなった中国人実習生が続々と日本を離れて帰国するなどし、特に日本の製造業、建築業、介護・看護の現場などで労働力不足が深刻になっている。地方都市では破産する企業も出てきているという。

(編集翻訳 恩田有紀)


日本新華僑サイト《日本新華僑報》── 日中の架け橋 在日華人の広場中国人研修生を雇うことが難しい日本企業(2013/08/26 10:36:48  文/郭桂玲)

深刻な労働力不足に対処するために、日本の企業は安価な労働力として、中国などの外国人研修生を雇ってきた。外国人技能実習生制度は、搾取の温床になると非難されている。最近は日中関係の悪化、賃金の上昇によって、企業が中国人研修生を雇うことが難しくなっていると、日本の調査機関が発表した。

伊予銀行の調査機関、いよぎん地域経済研究センター(松山市)が外国人技能実習生の雇用情況の調査を実施したと、『日本経済新聞』が報じている。企業は中国人研修生を雇うことが難しくなっている。5年前に比べると、75%の中小企業や団体が中国人研修生を確保することが難しくなっている。

中国人研修生を雇うことが難しくなっていることについて、多くの人は「中国の賃金が上がった」などの原因を挙げている。この他に72%の団体は日中の外交関係の悪化を挙げている。外国人研修生を雇用している企業に、中国以外の国または地域の実習生を受け入れるかどうかという質問を実施したところ、32%の企業は前向きな姿勢を示し、39%の企業は検討中だと答えた。78%の企業は研修生がいなくなると経営に影響がでるだろうという。

この調査は2013年4~5月に実施された。外国人研修生を雇用している205の企業と25の団体を対象に行われたものである。

(『日本新華僑報網』より)
情報元:人民日報海外版日本月刊

国の資料
厚生労働省 技能実習制度の現状
法務省:【在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表】
法務省:【在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表】

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2015/08/04

非正規雇用ジャーナリスト小林美希氏インタビューの記事

備忘録として。

失われた20年インタビュー:ジャーナリスト小林美希さん「非正規を社会全体に広げたのは大きな誤りだった」 - 毎日新聞(2015年08月04日)(魚拓)

 正社員と同じ仕事をしながら安い賃金、不安定な条件で働く非正規の労働者たちがバブル崩壊後、急激に増えていった。非正規が増え、疲弊しているのはなぜか。同じ「就職超氷河期」世代として彼らの置かれた厳しい実態や拡大していく格差に早くに気付き、2004年から「週刊エコノミスト」の特集記事でその危うさを警告し続けた労働経済ジャーナリスト、小林美希さんに話を聞いた。【聞き手・尾村洋介、荒木功/デジタル報道センター】

−−非正規で働く社員が増えている現状を書こうと思ったきっかけは何でしたか。

小林さん サービス残業だったり土日も会社に出勤したりと、長時間働く若者たちの姿は当時、業界、職種、大企業、中小企業を問わずどこでも見られました。でも、なんだか若者たちが疲れ切っていると感じるようになった。03年ごろからです。「自分たちの世代は疲れ切っている。何かがおかしい」。そう感じたことが取材の始まりでした。

−−そのころは、バブル崩壊後の不況が一服し、企業が長く続いた苦境からようやく脱した時期でしたね。

小林さん 当時、「エコノミスト」の記者だった私が決算説明会に行くと、必ずといっていいほど「当社はこれだけ人件費を引き下げました」などと財務の担当者が話していました。民間アナリストから提案された通りに人件費の圧縮を図った会社の株価が反発したなんてこともあり、「構造改革イコールリストラ」という時代でしたね。でも、営業利益の回復といっても、人件費削減で出しただけじゃないかって思っていました。

−−00年代の初めまでは不況の中で正社員切りのリストラばかりが注目されていた。

小林さん 正社員が少なくなり、契約や派遣など非正規雇用の存在が目立ってきた。正社員と同じように働いているように見えるんですけど、賃金はもちろん抑えられていて、将来の見通しは立たない。契約はいつ切れるか分からない。気になって調べてみると、労働者派遣法が度重なる規制緩和を受けて拡大し、労働基準法も改正された。派遣も非正規も二つの法律で同じ時期に3年を上限にするいわゆる「3年ルール」ができて、3年たつと契約が更新されずクビになることが起こり始めていた。この構造的な問題があったから、非正規の人たちが疲弊していたことに気付いたんです。だったら、この現実をきちんと取材して問題提起しなければいけないと思いました。

−−企画はすんなり通りましたか。

小林さん そのころ、非正規雇用の人たちは「フリーター」と呼ばれていました。フリーランスとアルバイターを掛け合わせた造語の軽いイメージから、「フリーターは何となく甘い」とか「えり好みをしているから仕事がない」など、当人の意識に問題ありと見る風潮があって、編集部でも私の企画はなかなか通らなかった。何度か出し直して、初めて記事が掲載されたのが04年5月の特集でした。

−−ルポが主体の、そのころの経済誌ではあまり見たことがない企画でした。

小林さん このころはまだ非正規労働の統計データがそろっていませんでした。現場の取材を積み重ねていくしかなくて。実証するために、いかに大勢の若者を取材できるかが重要でした。データについては民間シンクタンクのエコノミストに試算をしてもらって、たとえば税収や経済損失はどうなるのかといったマクロ経済への影響なども同時に提起していきました。それまでこの問題に気付いていなかった人にも客観的なデータで納得してもらえるように努力してきた。

−−取材でどんなことが見えてきましたか。

小林さん とにかく大勢の人から話を聞きたいと思いました。知り合いに紹介してもらったり、労働組合に相談に来た人を紹介してもらったり、ハローワークの前で職探しに来た人たちをつかまえたりと。とにかくより多くの人の話を聞いていきました。取材を進めていき、これは国全体の問題だと確信しました。現場の状況を書き示すことで、やっと国も実態調査をするなど動きだしました。

−−氷河期時代に非正規の新卒として社会に出て、待遇を改善できず職場で苦しんでいた若者たちに目を向けさせるきっかけになりましたね。

小林さん 記事が出てすぐに慶応大学教授の金子勝さんが全国紙の論壇の紙面で私の記事を評価してくれました。連合のある人からも「ようやく経済誌がこういった問題を取り上げてくれた」と声を掛けてもらった。編集部内にも、若者の労働問題を掘り下げることは大切だという雰囲気が広がっていきました。

−−小林さん自身が契約社員だったということも動機の一つでしたね。

小林さん 業界紙からエコノミストの契約記者として移り、初期のころは見習いのようなところもありました。記事を書いたり校了を待ったりして終電を逃して夜中にハイヤーで帰ったり、新聞紙をかぶって会社のソファで寝てしまったこともありました。私は夢中になってやっていたところもあったんですが、仕事に慣れてだんだん忙しくなっていくと、契約社員であることに時折不安も感じました。「同世代の非正規の若者たちはどんなふうに働いているだろう」と思うようになりました。

−−00年に大学を卒業した小林さんはいわゆる「就職氷河期」のまっただ中。就職が一番厳しい時期でしたね。

小林さん 当時はそうした認識がなかったんですが、後で調べてみると私が卒業した00年は統計上初めて大卒就職率が6割を下回ったという歴史的な年だと分かりました。就職活動では100社くらいエントリーして実際は50社くらい回りましたが、採用は1社だけ。問題がありそうな会社だったため辞退し、卒業までに就職先が決まらず、卒業した年の6月に株式の業界紙からようやく内定をもらいました。振り返ると非常に厳しかったのに、わけがわからないまま走り回っていた。

−−同世代の人たちがその時期、不本意な就職活動をし、厳しい社会人生活のスタートを切ることになりました。そうなった理由をどう考えますか。

小林さん 私がそうだったように、当時の大きな状況というものが分かっていなかった人が多かったと思います。分からなかったゆえに面接を重ねては不採用となり、人間失格の烙印(らくいん)を押されたような気持ちになっている人が非常に多かったですね。もし、今のように情報がいろいろ出てきて分かっていれば、「就職が決まらないのは自分のせいばかりではないんだ」と思ってもう少し頑張ることができた人もいただろうと思います。

−−バブルがはじけて日本が力を落としているところに中国が台頭して急速にグローバル化していった状況に対応できていなかったという事情もありましたね。

小林さん やっぱり、大きな判断ミスだったと思うんですね。間違いだった。非正規を増やして企業側の言い訳になるようなポートフォリオ(複数の雇用形態の組み合わせ)を組むというのは、工場のような生産現場などである程度はあり得る話なんですけど、それを全体に広げてしまったのは大きな間違いです。本来は、専門的な高度な技術を持つ方が派遣社員で働き、それが流動化していくということは良い意味でとらえられるわけです。だけど、それを一般労働者に当てはめたことが技術力の低下を招き、若者たちの足腰を弱めてしまった。その人たちが今となっては中高年にさしかかり、日本の弱体化につながっています。

−−短期的に景気が回復すると就職の状況も改善します。今の状況はどう思いますか。

小林さん 見せかけです。人手不足で需給バランスが動いて少し良いように見えるだけで、賃金も若干上がっているように見えるだけ。実体が伴っていない。

−−アベノミクスで景気回復といわれますが?

小林さん 結局は一部の人に行っている恩恵であり、自分はまったく何も感じないという人が多くて、ウエッジレス・リカバリー(賃金なき回復)がまだ続いている。賃金が上がったとしても数%なので、焼け石に水。100円ショップに行けば何でもそろう社会になっているから、そのデフレが目隠しになってしまっている。実際には消費税が8%に上がっただけでかなり生活が苦しくなり、買うか、買わないかを迷っている人たちが大勢います。

−−どういう形になれば良くしていけるでしょうか。

小林さん 最後は経営者の意識です。しかし、今は経営者が経営者でなくなっている。先を見通して企業を存続させていくんだというマインドがあれば、きちんと社員を教育して長く働いてもらうことを考えていくんですけれど、それがなくて目先の利益にしか経営が向いていない。経営者の話を聞くと、国内市場はだめだからどうやって逃げるかということばかりを考えていると感じる。そこに一番の問題がある。「ゴーイング・コンサーン」は企業会計の言葉で「継続企業に価値がある。倒産しない企業だから投資する価値がある」という意味ですが、それを置き換えれば、自社の社員が子供も持てないようなぎりぎりの経営しかできない企業が将来まで存続するわけがないということです。そういった企業には投資する価値もないし、経営者にはどういう経営をしているのかと問いかけたいと思います。

−−「失われた20年」では、転職が次のスキルにつながらない若者が多かった。氷河期以降は、戦後初めて「サポートされていない世代」になったといえます。

小林さん 今なお苦しい生活が続いている人たちは多いです。当時取材をした方で10年間連絡を取り続けている人もいますが、40代に入った男性でまだ非正規から脱出できなくて、今は生活保護を受けたりしている人もいますし、女性だと、結婚して労働市場から退場してしまった人も多いですね。こうした問題を解決するには、「同一労働同一賃金」を国策としてやるしかないと私は思う。企業はいくらでも抜け道を見つけようとするので、国が制度をつくって罰則のある法律を整備していかない限り難しい。

−−今後は階層の固定化や格差のさらなる拡大が心配されます。

小林さん 年を重ねて結婚し、出産に踏み切り、子供を持った女性の雇用はこの30年間くらい一貫して不利なものであり、第1子出産を機に6〜7割が無職になっているトレンドは統計を見ても変わっていない。子供を持ったときに職場で声を上げづらくて、「声なき声」「埋もれてしまっている声」になっている。しかし、出産するだけでなぜこれほど不利な状況に置かれるのかという素朴な疑問や怒りが多くの女性の間に広がっています。自分がずっと取材してきた雇用の問題の延長線上に今それらの問題があり、そこをいろんな切り口で追わなければいけないと思っています。あるときは「職場流産」を切り口にして女性の過重労働の問題、また「保育崩壊」は子を持つ働く人全般の問題として興味を持ってもらえると、すんなり分かってもらえると思います。

−−非正規の雇用問題は、そのまま小林さんのライフワークになっていきました。

小林さん これは今でもよく覚えているんですが、05年3月、国会に非正規雇用問題の審議を傍聴しに行った時のことです。非正規労働の問題をただしていた野党の議員に対し、与党議員から「だったら正社員になればいいんだ!」というヤジが飛んだんです。国会でさえ、当時その程度の認識でした。また、取材した女性の派遣社員に妊娠解雇にあった人がいたのですが、会社から「派遣は物なんだ、妊娠したら不良品」と言われたことを私に打ち明けてくれました。当時は派遣社員の人件費が会社の物品費に計上されることが問題になっていたので、それを象徴している話でした。いろんなことに「おかしい」と感じ、この問題を書いていくことが自分の役割だと強く思いました。そして取材を続けるうち、自分のテーマが定まってきて、組織にいると限界があるので思い切ってフリーになりました。

−−日本の停滞は「失われた10年」にとどまらず、20年になりましたね。

小林さん 雇用はまさに構造問題であり、法律の改正や制度の変更などによる影響がすごく大きいと思っています。エコノミストでは「非正規の問題を放置しておくとやがて企業の業績、ひいては日本経済にはね返ってくる」と繰り返し書いたつもりです。それでも、重苦しい状況が続いて「失われた20年」となってしまったことには、悔しい思いもあります。

■こばやし・みき 1975年茨城県生まれ。2000年3月、神戸大学卒業。業界紙記者となり、01年エコノミスト編集部記者。07年2月フリーの労働経済ジャーナリストに。若者たちの雇用、結婚、出産・育児などの現状を取材。著書に「ルポ 正社員になりたい−−娘・息子の悲惨な職場」(影書房、日本労働ペンクラブ賞受賞)、「ルポ “正社員”の若者たち 就職氷河期世代を追う」(岩波書店)、「ルポ 産ませない社会」(河出書房新社)、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)など。

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2015/08/03

また一つ取り戻された美しいニッポン

時事ドットコム:駅トイレに首相批判落書き=器物損壊容疑で捜査-警視庁(2015/08/03-12:25)

 JR御徒町駅(東京都台東区)構内の男子トイレに、安倍晋三首相を批判する内容の落書きがされていたことが3日、警視庁上野署への取材で分かった。同署が器物損壊容疑で調べている。

 同署によると、2日午後1時半ごろ、同駅北口にある男子トイレで清掃員が落書きを発見した。個室の壁に油性ペンで、安倍首相を批判する内容が短文で書かれていたという。
 7月19日にも、同じ男子トイレの個室の壁にスプレーで「自民党」と書かれていた。同様の落書きはJRの四ツ谷、御茶ノ水、秋葉原、西日暮里などの各駅でも確認されており、同庁は今回の書き込みとの関連も調べる。

先日来、この本
Amazon.co.jp: グラフィック・レポート 痛恨の昭和: 石川 光陽: 本
を読んでいる(というか眺めている)のだけれど、1930年代には、道を歩いていたら「服装が華美すぎる」として婦人会の人に咎められたり、パーマを当てた髪をはさみで切られたりしたそうだ。

また、たまたま防空演習に出くわしたら、全ての用事や約束を放り出してでも、その場で防空演習に参加しなければならなくて、数時間ぐらい解放してもらえないということもあったそうだ。

……まあ、国策に従わない、異論を持つ人間は非国民だってことだよね。

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アメリカ政府による日本でのスパイ行為の一端か。

米の日本盗聴、個人宅も対象か 優先度つけ分類:朝日新聞デジタル(2015年8月1日19時09分)

アメリカが日本の各所で行っている盗聴がばれたという話。

日本政府も多少は対策しているのだろうが、記事によれば、ほとんど諦めているとのこと。

経産省幹部 「やっぱりか。想像どおりで驚くことではない」
外務省幹部 「知らない」「聞いていない」
首相周辺 「お互いの信頼関係を崩すようなことはないと思っています」

……どうもやる気が見られませんな。

スパイされていることや情報が筒抜けになっていることは、前からたぶん皆が気がついていたと思う。しかし、せめて

「事実なら許し難い」
「その報道は承知している。既に関係機関を通じて米政府に照会している」
「厳正に調査して適切に対応したい」

ぐらいのことは言ってくれないのかなあ……と。
どうせ日本政府としてアメリカに何も言えないのだろうし、うやむやにして「なかったこと」にするのだろうし、「調査する」とか「抗議する」とか言っても実際には何もしないのに決まっているのだけれど、それでも一応は独立国としての体裁と建前は取り繕ってほしいんだけどな……。

こういうの、「愛国者」の皆さんとか自民党や次世代の党とか維新の党とかの人たちからしたら、憤死するぐらいの国辱ではないのだろうか。
頑張って霞ヶ関や国会や首相官邸の前を街宣車で埋め尽くしてもらいたいものだ。

*******************
※追記(2015年8月3日) 政府から一応抗議声明が出たみたい。やれやれ。
盗聴問題 官房長官「事実なら極めて遺憾」 NHKニュース(8月3日 12時09分)
ただ「機密は全く漏えいしていないと思っている」と強弁するあたり、安倍政権らしいなあという感じ。こういう態度が自分の対応を硬直させるのに…。
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機密が筒抜けなのに弱腰だとか、安保法制とか辺野古とかTPPとか、どんどんとアメリカの思惑に自ら絡め取られようとしているわけだけれども、こうなると、もうがんじがらめになってしまって、米軍駐留基地の削減だとか、地位協定の改定だとか、日米安保体制の解消だとかを政府方針に堅持して外交交渉で解決するとかはほとんど無理ではないかと思ってしまう。

まあ、与太話はともあれ、おそらく日本におけるアメリカの諜報活動は、実際上野放し状態になっているものと想像する。
そして日本政府から何らかの抵抗があるにせよ、それが一般市民への諜報活動を阻むものにはなっていないであろうことも容易に想像できる。

というわけで、我々庶民としては、まあほとんどターゲットになる心配はないにせよ、いつターゲットにされてもおかしくはないし、実際盗聴されていても気づかないまま終わってもいたりいても不思議ではない。
そして誰かが盗聴のターゲットになることを許すことは、自分がターゲットにされてもかまわないという意思表示でもある。

諜報活動へ抗議するとともに、プライバシーの漏洩への心構えが大切だというわけである。
特定機密の保護とか言っている場合じゃないわけだ、いやホント。

米の日本盗聴、個人宅も対象か 優先度つけ分類:朝日新聞デジタル(2015年8月1日19時09分)

 内部告発サイト「ウィキリークス」が、米情報機関・国家安全保障局(NSA)の盗聴対象に日本も含まれていたと公表した。機密とされる文書には、温暖化防止策や通商交渉における日本の方針がつづられ、米国が自国の国益にかかわる日本側の動きを探る様子が垣間見える。

 ウィキリークスは、NSAのデータから日本国内の盗聴対象を抽出したとする電話番号のリストを公表した。ターゲットは内閣府や経済産業省などの省庁や日本銀行、大手民間企業にも及んでいる。

 リストは2010~11年にかけてNSA内で登録された盗聴対象とみられ、計35回線が挙げられている。役所と部局の名前ごとに国番号の「+81」から日本の電話番号が記され、「日本:経済成長」「多国間:国際金融」「日本の指導者の監視」などの関心分野とともに、数字で優先度がふられている。うち1件は、個人名の名字とともに「HOME」と記され、個人宅もターゲットになっていたことがうかがえる。

■温暖化対策・通商巡り文書

 ウィキリークスは今回、NSAが盗聴した情報などに基づいて07~09年に作成した機密文書とされる五つの文書も公開した。

 温暖化対策に関する文書の一つは、第1次安倍政権で、07年4月の首相訪米を前にした日本の出方を伝える内容だ。当時、京都議定書に続く温室効果ガス削減の枠組みづくりで、各国が主導権争いを繰り広げていた。米国は数値目標の設定に消極的な一方、安倍政権は「2050年までに世界の温室効果ガスを半減させる」という野心的な目標を打ち出して、指導力を発揮しようとした。

 文書によると、外務省は当初、訪米前の時点で未発表だったこの目標について、米側の反対を警戒して事前に知らせない方針だった。しかし、首相公邸でのブリーフィングで一転、日米関係に影響はないとし、事前に知らせたうえで首脳会談で言及することにした。思惑は、米側に筒抜けだったことになる。

 07年5月、当時の安倍晋三首相は、アジア各国首脳の集まる会議で、新しい地球温暖化対策の戦略「美しい星50」を発表し、すべての主要排出国が参加して「50年までに世界の温室効果ガスを半減」の目標を掲げた。

 世界貿易機関(WTO)の通商交渉に関する文書は、09年6月に当時の石破茂農水相がカーク米通商代表と会談するのに先立ち、農水省がまとめた発言要領を伝えたとみられる内容だ。09年当時は、WTOの多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)が難航していた。日本はコメなど高関税をかけている農産品について、関税引き下げの例外となる「重要品目」にするよう主張。引き下げを求める米国と対立していた。

 文書は、石破氏が、米国が10年半ばまでに交渉を終わらせる意思があるのかを聞いてくる可能性がある、とした。

■同盟強化のさなか

 「やっぱりか。想像どおりで驚くことではない」

 米政府に盗聴されたと指摘された経済産業省。幹部からは、そんな声が上がった。通商交渉の中身が漏れていた経産省の別の幹部も「盗聴対象として狙われるのは常識。とくに米国は昔から警戒しているが、すべての会話を完璧に防ぐのは難しい」と話す。

 ただ、安倍政権は「日米同盟の深化」を前面に掲げる。安倍晋三首相は4月末の訪米で、「日米同盟の歴史に新たな一ページを開いた」と宣言。参院で審議中の安全保障関連法案も、実質的には自衛隊による米軍支援の幅を広げるものだ。

 関係が深まっているはずの同盟国の情報機関から盗聴されていたのではとの疑惑が突きつけられ、外務省幹部は31日、コメントを求める記者団に「知らない」「聞いていない」と繰り返した。

 いまは盗聴していないのか。この日、記者団に問われた首相周辺は語った。

 「お互いの信頼関係を崩すようなことはないと思っています」。機密情報の収集力ではるかに及ばない米機関の行為には諦めもうかがえる。

     ◇

 〈ウィキリークス(WikiLeaks)〉 各国政府機関の機密文書や企業の内部情報を独自に入手し、暴露する独立系ウェブサイト。イラク戦争に関する米軍の機密文書約40万点(2010年10月)や、米軍ヘリによるイラク民間人の射殺動画(同年4月)などを公表、大きな波紋が起きた。一方で、米外交公電約25万件を公表した際は、公電に書かれた情報提供者名を削らず、未編集で発表したことで批判を受けた。

 匿名を保証した情報提供窓口を持ち、世界に1200人以上いるとされるボランティアが情報を分析、編集し、公表する。活動資金の大半を寄付に頼り、これまでに120万以上の文書を保存しているとされる。

 オーストラリア生まれの元ハッカー、ジュリアン・アサンジュ氏が06年に創設。その目的を「内部告発によって世の中を良くする」といい、情報を暴露する手法が「真の民主主義を生み出す最も強力な方法である」とウェブサイト上で主張している。

     ◇

 〈米国家安全保障局(NSA)〉 国防総省の情報機関として1952年に創設され、通信情報の収集や分析を担う。2013年に米中央情報局(CIA)のスノーデン元職員の告発で、インターネット上の個人情報を極秘に集めていたことが明らかになった。メルケル独首相らの携帯電話を盗聴していた疑惑も発覚し、オバマ政権は、安全保障上やむを得ない事情がない限り、緊密な友好国や同盟国の指導者への盗聴はしないと対応を改めた。また、関連法規も修正され、不特定多数を対象にした電話通信記録の大量収集を禁じ、手続きの透明化が図られている。


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盗聴問題 官房長官「事実なら極めて遺憾」 NHKニュース(8月3日 12時09分)
菅官房長官は、午前の記者会見で、内部告発サイト「ウィキリークス」がアメリカの情報機関が日本政府などを対象に盗聴を行っていたと発表したことについて、事実なら極めて遺憾だとして、アメリカ政府に事実関係の確認を強く求めていることを明らかにしました。
内部告発サイト「ウィキリークス」は日本時間の先月31日、アメリカの情報機関NSA=国家安全保障局が、2006年の第1次安倍政権のころから日本政府や日本企業を対象に盗聴を行っていたと発表しました。
これについて、菅官房長官は、午前の記者会見で「民間である『ウィキリークス』の出所不明の文書について、コメントすることは差し控えたいが、仮に事実であれば、同盟国として極めて遺憾だ」と述べました。そのうえで菅官房長官は、「アメリカの情報機関を統括するクラッパー国家情報長官と連絡を取り合っているところであり、わが国としては、引き続き事実関係の確認を強く求めている」と述べました。また菅官房長官は、記者団が、政府として盗聴対策などの強化を検討する考えがあるか質問したのに対し、「機密の取り扱いへの対策は万全を期しており、機密は全く漏えいしていないと思っている」と述べました。

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