私が同人誌「里」をやめるまで

2019年の2月の末ごろに私、田中惣一郎は、2015年のはじめあたりから所属していた俳句同人誌「里」を退会した。

どこに入るも辞めるも個々人の自由であるし、いつまでもくだくだしく言い続ける気は毛頭ないのだが、辞め方が私にとって気分のよくないものではあったので、一つのけじめとしてその顛末を記しておきたい。

 

「里」の遅刊、関西でのトラブル

 

まず、昨年10月ごろから年が明け現在3月に至るまで、月刊誌であるはずの「里」の刊行は止まっている。これはおそらく様々な要因が絡んでいて単純ではないことだが、おそらくは発端として、一つには同人誌の代表であり誌面の入稿データ作成の一切を行なっている島田牙城氏の父君が昨年秋ごろ体調を崩され、その対応に牙城氏自身が追われていたことと、そして牙城氏が波多野爽波主宰の結社「青」にいた二十代の頃からの友人である木村蝸牛氏や小豆澤裕子氏らと牙城氏が衝突したことによる心労が原因だろうと考えられる。

この喧嘩については私も牙城氏から直接聞いた話以外に詳細は知らず、客観的なところはわかわからないのだが、かいつまんで言えば、関西で開かれている句会の名称や、活動実態について牙城氏が口を出し、様々な人たちとの軋轢を生んだ、というようなことだ。推測するに牙城氏が数年前まで活動拠点としていた長野の佐久から関西に移って来るに際して、関西の知り合いや「里」同人たちとの句会が自身主催ではうまくまとまらないことなどにも牙城氏の不満があったのではないかと思われる。 牙城氏は普段より口では句会が好きじゃない、自分は前には出たくない、などと言いながら、実際は自分が中心になって人の集まりを回していたい性格であり、元から関西で続いていたある句会に「里」の名前を使うなと申し入れたらしいのだが、その行動の裏には自分が関西で開いた句会にうまく人が集まって定着しないことへの苛立ちはあったろう。

またそれと同時に、関西に移転する前の長野の佐久の人たちと牙城氏との気持ちのずれが広がってもいたようだ。

牙城氏の事務所移転は、ほとんどの人にきちんと相談せず急に決められたことだったようで、「里」は元々は牙城氏が佐久にいた時に周りに集まった人たちに支えられて作られていたものだったから当時佐久では結構な動揺が走ったようだ。その時には牙城氏は周りに、月一は無理でもせめて隔月では佐久に来て句会などを開くから、と言って関西に移ったようだが実際は半年に一回ほどしか佐久に行くことはなくなっていた。そういったところからおそらくは心理的な断絶が生まれていっていたはずだ。

そんな状況の中、牙城氏は関西の古い友人たちと喧嘩をし、「里」が遅刊しはじめる。ただ、雑誌の刊行は滞ったもののイベントごとの準備は好きな牙城氏なので、毎年冬に開いている合宿、寒稽古の手配は別で進めようとしていたようだった。もともと長野を中心にやって来た同人誌であり、寒稽古も昔から軽井沢で開いていたので、今年も佐久の人たちに連絡を取り軽井沢で開こうとしていたようだが、同時並行して起こっていたいざこざに紛れてか寒稽古の相談もスムーズには進まなかったよう。この辺りの詳細な経過はわからないが、佐久の連絡の中心になっていたR氏からある日「寒稽古はそちらで勝手にやってください」というようなメールが送られ、牙城氏の心の中では1月に軽井沢で開くつもりでいた寒稽古の予定が流れた。この時点では佐久の人たちとは喧嘩とまでは言えない状況であったが、自分の計画が不首尾に終わった牙城氏としては内心穏やかでないものがあったと思われる。

そして相変わらず「里」の刊行が止まっているまま、年末になり、一つの事件が起こった。

 

佐久句会東京吟行を認めない

 

牙城氏からの視点で見ると問題のありかが不明瞭になるので逆の側から記しておこう。

まず、「里」の遅刊、牙城氏の不在が続いている佐久では、仲寒蟬氏が中心となって句会が開かれていたらしい。寒蟬氏は常日頃フェイスブックによく投稿しており、ある日「東京の都電荒川線に乗ってみたい」といったような内容の投稿をされた。するとそれに対して東京在住の方々などから「都電はいいぞ」「ついでに吟行したら」といったコメントが寄せられ盛り上がった。こうなると寒蟬氏としては、都電吟行か、いいね、という気分にもなり、ついでに最近佐久の人たちは定例句会以外あまり活動していないし、みんなで行くか、と考えが移っていき、佐久の人たちの東京での吟行が計画され始めた。そして決まった日取りがちょうど元は軽井沢で寒稽古を開こう、と牙城氏から話されていた連休だった。

この「佐久句会東京吟行」がフェイスブックにイベント予定として投稿されたのをたまたま牙城氏が見てしまい、事の起こりを知らない牙城氏は、あるいは、イベントごとには常に自分が絡んでいたい牙城氏はカッとなってこれにブチ切れてしまった。

佐久の奴らは向こうの勝手で寒稽古を急に潰しておきながら、その同じ日に東京で吟行を開こうとしている。これは間違いなく当て付けであり、人を馬鹿にした行為だ。と、牙城氏は義憤に駆られ、フェイスブックに怒りのままにその旨を投稿する。「里という場へのリスペクトがない」「これは里の乗っ取りだ」「この会に参加する者は里同人とは認めない」「里俳句会はもう解散します」「里俳句舎にします」と思いつくままに連投、何も事情を知らない我々のような同人はまずこれを目にすることになった。

牙城氏のフェイスブックは、彼が出版社「邑書林」の代表でもあるつながりから「里」以外の人たちも大勢見ているので、方々で「里で何か起きているのか」という話が出始め、編集長であった中山奈々さんなどは大勢の人から質問されたらしいが、もちろんこの時点で奈々さんも、私も、誰も何も知らないことだった。私はこの一連の投稿を見て「何が起こっているのかはともかく、全員が平等という建前のはずの同人誌という場所で、何の説明もなく特定の会への参加を認めない、参加したら退会させる、などと誰の了解も得ず個人が言いだすのは横暴すぎる。そのような悪い主宰誌的なふるまいはおかしいから発言を撤回すべきだ」と感じ、危機感も覚えたので奈々さんや堀下翔なども入っている里編集部のグループメッセージでその旨を伝えた。

牙城氏は一旦この私の発言を受け入れ、考え直すと言ったが、さらに悪いことに、その数日後に「里」同人と購読会員に向け「私が1月14日の東京での里佐久例会を認めない理由」というメールが牙城氏より一斉送信された。私としては、横暴で不穏な発言を取り消して欲しかっただけなのだったが、全く真逆に長文だけれど事の経緯はよくわからない、牙城氏の怒りだけが伝わってくるメールが送られ、問題は余計に拡散されることになった。

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とにかく牙城氏は怒りを出すだけ出して撒き散らしたが、真相としてはただ連休だから遠出しやすくて日にちが偶然被っただけの吟行だったので、当の吟行の参加者の人たちは「牙城さんなんか言ってるやだ……」と何となく思いつつも久しぶりの寒蟬氏が東京へ来ての吟行でもあり、色々な人が集まって盛会だったようだ。牙城氏は関西でじっと堪えてその日を過ごしたらしい。言うだけ言った後は特に何も行動は起こさなかったので、今はまあこの件は、人々の厚意によって何事もなかったようになっている。とはいえこの件で寒蟬氏や佐久の人たちの何人かは正式に連絡をよこして「里」を退会した。そのとき私が佐久の方と連絡を取ってみたところ「今まで散々牙城のわがままに付き合って来たけれども、さすがにもう付き合いきれなくなった。牙城の仕事は尊敬しているが、近くにはい続けられない」というようなことをお話しされた。どこか微妙な気持ちを抱きつつも、それでも私自身とは直接関係のないことであったし、とりあえず落ち着いたようなのでこの件は何となく落着した。

 

「里」をまともな場所にしなければいけない

 

しかしこの一連の騒動、そしてこの時点で1月半ばになってもまだ出ていない「里」11月号、という状況を改めて考えると、同人誌として非常に不安定でまずいと私は感じ、何か策を打たねばいけないと思い始めた。このような本当に初歩的な倫理のところで組織の秩序が乱れるようでは、お友だちしかまともには集まっていられない。私は「里」は本当におもしろい人たちが気軽に集まれる場所であってほしいと思っていた。

そもそも「里」の入稿データ制作は牙城氏が一人で行っており、それがために彼が手を止めると何ヶ月も同人誌が出ない、という現象にもつながっていた。加えて牙城氏としては自分がデータを作っているという自負が、佐久句会騒動のメールでの「里は僕が一人で作っています」と言った発言もさせてしまうものだった(同人誌なんだから、一人で作ってるなんて言うなよ、みんなでやってるっていう気持ちは平等だろ、という文句は浮かぶが、とりあえず黙っておいた)。

この現状から考えて、定期刊行を阻んでいるネックは二つ、「里のデータ作成の実権を牙城氏が握っている」「牙城氏の怒りがたまに爆発し何もかもが止まる」ということだ。

私は「里」という同人誌は他の様々な俳句雑誌と比べてはるかに人間的な縛りが緩やかで、平和な時は居心地がいいし、おもしろい人たちも多く在籍している貴重な同人誌だと思っていた。牙城氏が怒りっぽくても、少なくとも建前上は悪玉主宰として権力を振るっているわけではないのだし、定期刊行のペースさえ着実に維持していれば遠方の同人にはほとんど問題のない、個人の負担が少なく月一のペースで作品発表の場を持てるいい環境だと思ったので、何とかしてまず「里のデータ作成」の作業を牙城氏の手から離したいと考えた。

昨年出た「里」の若い人たちの作品集「しばかぶれ」第二集の入稿データを作ったのは私なのである程度のインデザイン操作はわかっていたし、日々の合間を縫って作業することになるので手間ではあるが、もし「里」がきちんと正常になるなら編集の仕事を買って出ようと腹をくくり、まず編集部の周りの人たちに話を通し裏から計画を固めて、牙城氏とは直に話してデータ作成の役目を譲ってもらう心づもりを決めた。ちょうど、延期になった寒稽古は2月10、11日に琵琶湖で開かれるという連絡が出ており、それでも実際、5名程度しか集まらず、牙城氏は「中止にしようかな」などとグループメッセージでぼやいていたが、私が「人を連れていくから絶対に開け」と念押しし、同い年で「街」にいる黒岩徳将と、「澤」の村越敦を誘い、黒岩が関西の若い人にも声をかけてくれ、結局十数人ほど集まり寒稽古は開かれた。

その寒稽古の晩に、牙城氏は酒を飲みながらぐずぐずと「ここにいるみんなに謝りたい」「必ず何とかするから俺を信じてくれ」などといじけていたが、私は機会を見計らって「今ここにいる人に謝っても仕方がないですよ。何より大事なのは里に所属している仲間でしょう、こういった句会に集まる人もいれば、投句だけでつながっている人もいますがみんな同じです。里の人たちを尊重するということは、きちんと毎月雑誌を出し続けるということでもあるんじゃないですか。今まで牙城さん一人きりに任せ切っていたのもよくないことだったと思います。責任も作業も一人に背負わせてしまっていて、助け合うということができていなかった。私はきちんと里を出すために手伝えることはしたいと思っています。入稿データは私が作るので牙城さんは他のことに専念できる環境を作りませんか」と思い切って提案をした。

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そういう話をされるとは牙城氏は思っていなかったようで、照れなのか自分で作りたい未練なのか、迂遠に話をぐるぐるしながら何故か「お前にサンが救えるか」の如き……、「覚悟はあるのか」のような芝居掛かった問いを投げてきたので私は内心「は? ここまでズルズル止めておいて何を……」と、怒髪、天まであと幾ばくかというところまで行きかかりはしたがそこは堪えて受け流し、そうすると牙城氏は長いトイレに立ち、戻って来ると先ほどの小芝居のやり取りで満足したようでデータ制作を譲るという話でまとまった。

作りかけの11月号、12月号は牙城氏が進めたいとのことでそれは任せ、私は1月号からの作業をすることになった。

ひとまずは安心、しかし確実にここから定期刊行の軌道に戻したいので、私はこちらで勝手に刊行スケジュールの予定表を作り、牙城氏とのすり合わせをするつもりだった。可能ならば11月号は2月中に刊行、そのタイミングで今後の刊行スケジュールと、1月号から私がデータ制作に入り、必ず刊行を安定させるという旨をまとめて同人皆に周知するつもりだった。もし11月号が2月中に出なくとも、定期刊行に必ず戻るという、事態の進展を伝える意味で月内にはメールを皆に送りたい、ということを編集部の皆に伝え、その線で進める形で決まりかけていたのがちょうど2月半ばのことだ。こうなれば必然的に牙城氏の「俺が一人で作っている」という意識も弱まっていくので、もし今後何か怒りが爆発した時にも私や編集部の中までで抑えられるのではないか、という目論見もあった。

そのような具合で、寒稽古ののち数週間は牙城氏の腰を上げさせるためにちょくちょく催促のメールを送っていたのだが、そんなさなかで問題が起こった。

 

クソDM、苦しい擁護

 

ある日、歌人のK氏がツイッターで「歌人のS氏はミューズだった」といった発言をされ、それは女性差別的な発言ではないか、と多方面から大いに批判を食らった。その中で二十代で北陸にいる俳人のC氏も発言をしていた。

C氏は「里」の購読会員で、関西での句会に何回か顔を出していた。C氏は数ある批判者の中でもかなり精力的に発信し、だいぶ気合を入れて発言している様子だった。そんな渦中のC氏に、邑書林の手伝いをされていて「里」の同人、会計管理もしている黄土眠兎氏からツイッターのDMで、つまりオープンではない形式で連絡が送られた。

するとC氏からすぐさまその画面のキャプチャ画像が送られ、里の迷惑な人物はそちらで対処してくれ、という、冗談めかしている風でもありつつ、しかしうんざりとした調子の苦情が来た。

メッセージを見ると、その内容は「S氏は昔、某有名俳人からもっとひどいセクハラやストーカーを受けていた」という情報をつたえるものだった。

本当に、他に何の説明もなく突然送られて来ており、正直全く意図がわからない、何の裏リークなんだと。一体どういう神経をしているのか、と私は思った。

この問題点をうまく説明するのは難しいが、まず、今C氏がK氏と議論している話題とそのDMの話は関係がない、ということ。

C氏が批判しているのは「K氏の発言はS氏に性別や容姿のみを根拠とした軽率なレッテル貼りをするものであり不当だ」ということだが、眠兎氏が漏らし伝えたことをもし仮に発信するならばそれは話が「S氏へのセクハラは昔からひどいものがあり、女性差別の問題は深刻だ」というものになり、K氏と議論すべきものではない、もう一つステージが上の大きな議題になる。その意味で、この二つはK氏とC氏の対話に関係がない話だ。

また、本当にそのことが重大な問題と思っていてきちんと批判をすべきだと感じているのであれば、眠兎氏が自身で発信をし批判すればいいことであり、そうではなく人と議論している最中のC氏にDMという裏の場所で送るというのは、こそこそと噂話をして人の体面の悪い行動を広める、言ってみれば非常に下世話な精神を私は感じざるを得なかった。

そもそも、そんな前提がなくとも、他人の昔の私的な、扱いの難しい問題を、句会での知り合いくらいの関係性の人物に裏で漏らす、という行為自体に私はとても卑怯で内輪的な印象を抱き嫌悪感が湧いた。これは私の性分で、物事の是非を表立てて胸を張って主張するではなく、属人的な了解のもとで仲間意識を形成し、それをもってみだりな行動をよしとする党派的なやり口は最も唾棄すべき行為だという思いがあるため、到底看過し難かった。

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眠兎氏は邑書林の中の人と公言しており、はたからみれば会社の看板を背負ってもいるわけで、また「里」の同人としても事務管理をしていることは人々に知れているので、「里」のイメージも付いている。そんな人物がこういった軽率で俗な陰口を好き勝手に言っているという状況は大変にまずいものであると思い、言葉は選んで丁寧に書いたつもりだが少しきつめに里の編集部の人たち皆が見えるようCCに入れてメールで苦言を入れた。

C氏も、うんざりしたという程度で怒っているわけではなく、謝罪を求めるのでも、公開すべきというのでもないことであるから、私としてはただ、かなり失礼なことを他人に対してしているということを自覚してもらい反省を促したい、といったつもりで批判をした。

だが、眠兎氏から返ってきたのは「若い人がそう感じたのなら謝る、けれど誤解がある。DM自体はちゃんと会話をして円満に終わった」というような、謝るようで謝っていない言い訳めいたものだった。DMの全体像の画像を見せられたが、私はそもそも、その第一通目がきた段階でC氏が直接対話を嫌がって苦情の連絡を「里」の第三者に入れてきた、ということに真実を見るべきだと思っているので、「DMでの会話は円満に終わった」という主張には何の意味もないと考える。

しかしその眠兎氏のメールを受け牙城氏が「このDMのやりとりが全てを物語っていると思います。この話は以上」と切り上げにかかったので、この人たちは何もわかっていない、と私は感じ、いやそうではないと反論した。

実際に不快感を覚えてC氏は第三者に訴えているのだ。このことからでも、明らかに他人に失礼をしたことを認めて欲しいと迫ったが、牙城氏は「なんの問題もない話、苦情があるなら直接こちらに言ってくればいいじゃないか」と、まるでハラスメント隠蔽の典型のような流れを見せられさすがに呆れ、私も少し言葉の調子が強くなり、ありえない、と「下世話な投書」ですよ、と言ったところ牙城氏に火がついたよう、「言葉を慎め」「貴方より倍生きてきた眠兎さん」「(眠兎氏は)歳下のひとたちへの「愛」が半端ない」「里の人がメールよこしたんだから里の人でなんとかして、て、あまりにも安易」と話をぐちゃぐちゃにされ、さらにはC氏の心身の不調を疑った方がいいのではないかといった、私には侮辱としか受け取れない対応をされたので、引くに引けなくなった。

私は話を曲げず主張し続けたのだが、何しろ牙城氏の返してくるメールが大変高圧的、話を逸らしまくる、しかも随分煽ってくるので対応していて激しく消耗してしまった。最終的には私に対して「正義漢ぶって愚劣」だとまで言ってくるので、もう私の付き合う力が尽きた。

全く話が通じないのは見えていたので、和解する道としては徹底的に、それこそ「里」の誌面などに出して公開で批判するしかないかとも思ったが、そうすると余計に「里」が出なくなることは目に見えている上、そんなにまでして労力を割く根気もとうになくなっていた。あるいは、私がこれを自分の中に収めて黙るか、しかなかったわけだが、ここまで散々に自分や自分以外の色々な人のことも巻き込んでいちゃもんをつけられて、それを許して引き下がるのは自分の良心が許さなかった。このような経緯で、ただ純粋に不快感でいっぱいになってしまい、私から里の退会を申し出た。

先述の通り、なんとか「里」を立て直そうとしていた矢先に、当の私が根負けして会を抜けてしまったことには様々な人に向けて申し訳ない思いがある。

牙城氏はこのような性格なので、「里」を安定して出すにはまともなブレーンが付くことが必須であろうと思われる。私がその役目を引き受けられたら、と甘い考えを抱いていたのだったが、結局はうまくあのような人物と付き合うには思考が過剰に潔癖だったのだろうかとも思う。しかしこういった人付き合いの中で明朗さを保つのは、自分にとって最も譲れない部分だった。

牙城氏は常々「今は個人誌の時代だ」と言っていた。私はそれに共感しつつ、その上で、個人で続けることにまつわる手間や金銭などの障壁も思い、だからこそ「里」ような同人誌に価値があるのだ、と考えていた。しかしこの牙城氏の発言を私は誤解していたのかもしれないと今は思う。理想は理想だったのだろう。「里」はもともと島田牙城の個人誌「肘」が元になって生まれたものである。結局のところ「里」は島田牙城の個人誌でしかなかったのか、と。

ようやく「里」は久しぶりに出ようとしているようだが、それに際して眠兎氏は、遅刊して秋の月号が今出ようとしているこんな時にさくらの句を投句している奴がいる、殺気が湧いてきた、などとフェイスブックに投稿していた。遅刊は同人の責任ではないわけだし、投句者を責めるのはお門違いだろう、意味のわからない発言である。

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しかし、里の編集部の者から聞いたところによるとどうやらこのさくらの句の投句者は牙城氏なのだという。一気に脱力した。彼の名前をきちんと出して遅刊の責を諌めるわけでもなく、公開のようで私信でしかないただのじゃれあいである。こんな茶番を見せられては、この雑誌とつきあうのをやめることにしてつくづく正解だったと思わされた。もし編集部員の選挙があったならば、私は間違いなく眠兎氏を全力で落としていた。

このようなぬるい空気になってしまうならいっそこの雑誌はもう出ない方がいいのではないかと、今やよその人となった身としてさえ思ったりもするのだった。

2019年3月31日

(田中惣一郎)

 

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