N3711FK
あらすじ | 本作において、生と死、生者と死者、可能性と不可能性といった対概念は全てフラットに配置されている。とりわけ生者と死者はSNS上に超時空的に存在している。 私は初め、この小説はキュビスムの試みた空間的実験を時間的に再試行しているのではないかと考えた。キュビスムは一つの対象を様々な角度から眺め、それらを一つのキャンバスに統合してみせた。他方、大滝瓶太氏は諸対象の諸可能性――ありえた可能性とありえなかった可能性――を吟味し、それらを一つの小説の中に共存させてみせた。要するに生の可能性と死の可能性の両方を顧慮し、双方の時間を並列させている。私はそう考えた。 恐らくそれは間違いではない。だがここで起きているのは共存・並列であると言うより、「欠落」の「距離」への置換であると言った方が正しい。時間と共に失われてゆくもの・失われたものは、『ヒア・ゼア・エブリウェア』においては、決して取り返すことのできないものとしては表現されない。それは距離的に遠い場所にあるだけであり、いつかミサイルが着弾する限りの遠方にあるに過ぎない。 もし「欠落」が「距離」に回収される概念だとすれば、つまり死ぬことが生の欠落=消失ではなく、生からの隔たりだとすれば、この世界にどのような可能性/不可能性が生じるだろうか? 『ヒア・ゼア・エブリウェア』において曖昧化している境界は生死のそれに留まらない。生の様々なあり方、死の様々なあり方の諸可能性もまた混線している。 普通、人間は生きるにしたがって可能性を欠落させてゆく。生まれ落ちた瞬間に、別の時代に生まれる可能性を失い、別の国の別の母親から生まれる可能性を失う。男/女である可能性を失う。次第に無数の才能を失い、技能を失ってゆく。そうしていずれ「死」という最終的な唯一の可能性に行き着く。 ところがこの小説では欠落したはずの(欠落するはずの)全ての可能性が空間的に並置され、距離に還元される。生と死はそれらの可能性の一つに過ぎない。 この距離の単位は、膨張を続ける宇宙を計測する単位に等しい。違う言い方をすれば、生と死とその他諸々の可能性と不可能性の欠落が宇宙を膨張させる。 頭上をミサイルが飛ぶ。現代文学の最先端を突っ切ってゆく。 (以上、さわゆき氏のとある解説より引用) |
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作者名 | 大滝瓶太 |
キーワード | 異世界転生 異世界転移 日常 青春 サイバーパンク 女主人公 シリアス 現代 パラレルワールド |
ジャンル | 異世界〔恋愛〕 |
掲載日 | 2019年 03月31日 12時51分 |
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最新部分掲載日 | 2019年 03月31日 20時01分 |
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ポイント評価 | 4pt : 3pt (文章評価:ストーリー評価) |
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文字数 | 35,220文字 |