古くは「舩山」と書いたようです。


船山郷(「長野県の地名その由来」信濃古代文化研究所 1991 より)

「和名抄」高山寺本に「舩山」と記し、「不奈夜万」と訓じ、流布本では「布奈也末」と訓じている。「ふなやま」と称していたことがわかる。

「信濃地名考」に「方に廃して小船山存す」とあり「日本地理志料」には、この説をうけて、千本柳、寂蒔、小島、打沢、鋳物師屋、中村新田をこの地域にあて「大日本地名辞書」には「今五加村に大字小船山あり、されぱ尾代の南にて、五加・杭瀬下・埴生の三村にあたるか」とし、「更級埴科地方誌」は「現在小舟山には舟山が小字として存在し、寂蒔や鋳物師屋にも舟山の小字があって、この辺りを中心とした郷であったことが知られる」とする。

いずれも、現更埴市の南部千曲川右岸を、この郷域に比定する点においては一致している。埴科郡の「延喜式」神名帳記載の五杜のうちの一つに「粟狭神杜」があるが、この郷域の北部に、粟佐という集落が現存し、近世まで、小島・桜堂・打沢・杭瀬下・新田等によって祭事が行われてきている(埴科郡誌・更級埴科地方誌)。おそらく、船山郷の郷杜として存在していたのであろう。

船山の名は「吾妻鏡」寛元二年(1244)八月三日条に「信濃国船山内青沼村」とあり、鎌倉時代末、嘉暦四年(1329)の諏訪社頭役文書にも北条基時が、船山郷の地頭となっていた記事がみえ、また市河文書の建武二年(1335)八月の軍忠状に「於当国舩山郷青沼合戦云々」とあるが、これらの舩山郷は「和名抄」に記された舩山郷の後身で、軍略上の要地であったことが想定される。







水上布奈山神社(みずかみふなやまじんじゃ)

埴科郡戸倉町大字戸倉字鎮守1990
主祭神:建御名方命

慶長八年(1608)北国街道の宿駅として下戸倉宿が設けられたときに諏訪より建御名方神を勧請して創立された。








安國御名方神社(あんこくみなかたじんじゃ)

埴科郡戸倉町内川416
主祭神:建御名方命









小船山神社(こふなやまじんじゃ)

埴科郡戸倉町大字小船山207
主祭神:猿田彦大神










舩山神社(ふなやまじんじゃ)

更埴市大字鋳物師屋字屋敷317
主祭神:建御名方命










元船山神社(もとふなやまじんじゃ)

更埴市大字桜堂水引265
主祭神:建御名方命

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