「丸に三引両」は私の実家の家紋です。
「両」は「龍」に通ずるとのことで龍神信仰が裏にあるかもしれません。

ちなみに実家は山形県東置賜郡川西町にあります。我が家の神棚には「皇大神宮」と「諏訪神社」のお札が並び、横に「建御名方神」の父とされる「大国主命」の絵が貼られています。



「ふなやま」姓の広がり
以下の分布調査は電話帳への個人名での掲載数を元に行われています。
なおデータは
「県別分布」が「1999年版ハローページ」
「山形県市町村内分布」が「2000年版ハローページ」
を使用しております。

戸籍の電子化に際し「舩」の字は人名用漢字として残ったものの、「舩山」と「船山」のいずれを使用するかを選択することが強要されました。
このため本データは必ずしも各戸の昭和後期以前の表記には適合しません。
敵対する一族を諏訪に封じ込めた後も、その強大な力に対して朝廷は高い位階を授け、たたりを避けようとしました。
これは菅原道真や平将門の場合と同様です。
さらに朝廷は新しい開拓地(特に蝦夷地)に強制的に移住させることで氏族の弱体化を図ります。
その結果東北地方にたくさんの諏訪神社が勧請されました。

信濃国舩山郷の諏訪神族の末とされる「ふなやま」姓は舩山郷の出身であることを示すものらしく、そのため現在長野県内のデータの内、旧舩山郷内に「ふなやま」姓は見あたりません。
ここでは、全戸数に対する比率が極めて高い山形県内の分布に注目します。
山形県内の「ふなやま」姓は、南部の置賜地区に集中しています。その中でも舩山郷の本来の表記である「舩山」氏については、東置賜郡川西町に際だって見受けられます。

同町には国史見在社(「三代實録」の貞観十二年=870年に記載)である諏訪神社があります。

「続日本紀」によれば、和同七年=714年から養老三年=719年にかけて、4度にわたって信濃からの移民が出羽国に送られていますが、信濃国舩山郷の出身者は、この諏訪神社を拠り所として広がっていったのではないでしょうか。

ホーム 「諏訪大社・諏訪神社」のこと 信濃国「船山郷」のこと りんく