ゲンナージー・キルケヴィチ3
現在の状況に鑑み、私たちはサリスクの左手で、シャブリエフカ村の方角を目指して包囲環を抜けることにした。すでに多数のドイツ軍がサリスク市内に集結しており、私たちの現在位置はそこからおよそ4キロ。第974連隊と我が大隊の兵士たちの生き残りは植林帯から外に出、西を目指して出発したが、ドイツ軍に見つかってしまい、戦車とオートバイにより包囲されることとなった。ほとんど全ての人員が捕虜となり、ドイツ軍から逃れて身を隠したのは、私を含む少人数のグループだけだった。私たちは2日以上も森の中に隠れ、食もなく水もないまま、現状ではこれからどう行動すべきか話し合った。ほとんどの者が家に帰ることを希望したよ。彼らの大部分は、ドイツ軍占領地域の出身者だった。私とあと何人かだけが、何とかして友軍と合体しようと試みた。だが、そのためには軍服以外の服を手に入れる必要がある。昼頃になって、サリスク市の方から中年男が馬に乗ってやって来たから、彼のところに近寄り、民間人の服を持ってきてくれないかと頼んだ。男はそうすると約束したが、その代わり私たちがもっと街へ近づくように言った。ところが、しばらくしてから現れたのは、彼ではなくドイツのオートバイ部隊だった。彼らはオートバイから降り、私たちのいる場所を掃討し始めたのだ。やっとの思いでこれから逃れ、森と森の間にある雑草の茂みに隠れることができた。ドイツ軍は私たちを探し回り、2度にわたって近くを通りすぎたのだが、どうやら幸運の女神はこちらの側についてくれていたらしい。しかしドイツ軍も捜索を諦めず、待ち伏せをすることに決め、近くで壕を掘り始めた。私たちは敵の目から逃れるため、蚊の大群に食われ続けながら、伏せたままじっとしていなければならない。ドイツ人はあまり離れていないところで壕を掘り続けた。待ち伏せをかわすには、夜まで待つ必要がある。私たちとは別のグループの兵士が待ち伏せに引っかかった。数発の銃声と叫び声が聞こえた。どうやらドイツ兵に傷つけられたらしい。辺りが暗くなってから、私たちはドイツ軍の反対側を目指してゆっくりと進み始めた。夜明け頃には喉の渇きが我慢できなくなっていた。近くに井戸もあったのだが、ドイツの短機関銃部隊が陣取り、私たちが来るのを待ち構えていたから、そちらへ行くわけにはいかない。一方、脇に逸れたところで穀物の脱穀に使うと思しき広場が見つかり、そこには樽が置いてあった。樽の底には、少しだけ水が残っていた。どうやら長い間溜まっていた水らしく、色は緑がかって、おまけに虫まで泳ぎ回っている。喉の渇きがあまりにも激しかったから、私たちはギムナスチョルカ[軍服の上衣]の端を折り、フィルター代わりに使って水を濾した。1人あたり何口かは飲むことができたよ。家に帰りたいと希望した大部分の兵士は森の中にとどまったが、私と第37軍の中尉の2人は、どうにか包囲環をくぐり抜けて友軍と合流することに決めた。そのためには地元の住民から民間人の服を手に入れ、ドイツ軍の占領地区を横切り、道路の上を歩く必要がある。軍服を着たままではすぐに捕まり、サリスク市近郊の捕虜収容所に送られてしまうだろう。
私たちは、誰か地元の住民に出会い、服を手に入れられることを期待しつつ、街の方に向かって用心しながら森の中を進んだ。このやり方では一度すでに失敗しているわけだが、他に助かる道はない。しばらくしてから、私は荷車に乗った女性を見つけた。その荷車を曳いているのが、私のものだった馬なのだ。私は森から出て、女性の真正面から歩いていった。軍服を着た人間がいきなり現れたのだから、彼女はたいそう驚いたが、私は相手を落ち着かせることができた。そして、こう言ったよ。荷車につながれている馬は私のものだが、自分にとって必要なわけではない。その代わり、私たち2人のために民間人の服を持ってきてほしい、と。女性の話によれば、サリスクにはたくさんの捕虜を抱えた収容所があるのだが、地元の人々が写真を持っていきさえすれば、該当する者は釈放してもらえるのだという。それから彼女は、収容所に捕えられた時には助けてあげるから、自分に写真を渡してはどうかと提案した。しかし私はこの申し出を断り、それよりは服がほしい。ともう一度頼んでみた。彼女はずっと左右を見回していたが、あれは私たちと一緒にいるところをドイツ人に見られるのではないか心配だったんだな。結局、彼女は服を持ってくると約束したものの、私たちが街へ近づくことがないよう注意した。しばらくしてから、女性はズボンとシャツ、そして鳥打帽を持って戻ってきた。私たちはお礼を言ったが、彼女はそそくさと帰ってしまったよ。ズボンは私がもらい、中尉はシャツを取った。私が個人の身分証として持っていたのは、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)の党員推薦状と、政治委員にもらった大隊の印章、それからその他諸々の書類だ。これらをどうするべきか?党員推薦状(1942年5月にもらったばかりのものだ)などの身分証を破棄する踏ん切りはつかなかった。路上だの森の中だのに、破り捨てられた党員証やコムソモール員証がたくさん散らばっている。そんな光景を見て、私の心は鉛のように重苦しくなっていたからね。森の中に放り棄てられた様々な品の中で、私は綿入れの上着に目をとめた。襟をもぎ取り、[綿が入っている]刺し縫いの部分に大隊の印章(ゴムだけだよ)を突っ込んだ。さらに、推薦状の1枚目と身分証明書その他の書類を折りたたんで入れた。この書類入りの上着を、下着の上に引っかけたわけだ。袋も拾い、その中にタオルや剃刀など身の回り品を入れた。出発の準備はこれで完了、私はアルマヴィル市までたどり着けば退却中の友軍に追いつくと考えていたから、そちらへ向かうことにした。道連れとなった中尉は、私が工夫して書類を隠すところを見ておらず、このやり方については知らないままだった。私たちは夜明けと共に道へ出た。サリスク市は西から迂回することにしたのだが、それというのも市内ではもう野戦憲兵や警備隊が活動を始めており、彼らが言うところの「秩序」ができあがっていたから。私たちは森から出て、トルベツコイ駅へ向かう道を歩き出した。しばらく進んだところで、大勢の捕虜の集団が橋を修理しているのを見た。短機関銃を持った兵士が彼らを見張っている。ドイツ兵はこちらをじっと見つめるし、捕虜たちは私たちが何者か見当をつけようとしているらしい。私はあらかじめ中尉に対し、自信を持って歩き、辺りをきょろきょろ見回したりしないよう、そしてドイツ兵から呼びかけられても反応しないよう言い含めておいた。あの状況の中で、私たちの神経は極度に張りつめていた。最初の試練をどう乗り切るかで今後の運命も決まってくるのだから尚更だ。しかし私たちはこれを克服し、無事に道を通ることができた。トルベツコイ駅を通過した後はゼルノソフホーズへ。オートバイに乗ったドイツの短機関銃手たちとすれ違った。彼らに対しては、さっきよりも落ち着いて対処できたよ。
ドイツ軍の中でも前線にいる部隊は、野戦憲兵や警備隊、あるいは住民の中から任命されたポリツァイ[ドイツの占領行政下で勤務した警察官のこと。対敵協力者として忌み嫌われる存在であった]などに比べ、民間人の格好をした者に関心を示すことは少なかった。だから私たちは、道路や村の中を歩く時にはドイツの前線部隊にくっついて移動し、また彼らがすでに村から立ち去っている場合、そこには長居しないよう気をつけていた。
私たちが選んだルートに沿って進むなら、スィソエフカ・アレクサンドロフカという村を通り抜けることになるわけだが、その前にエゴルルィク川を渡る必要がある。対岸にはボートに乗った男がいた。だが、彼は私たちを運んでくれようとはしなかった。ドイツ軍の短機関銃手に引率された人の群れが、川の方に向かって進んでくるのが見えたからだ。およそ300人もの捕虜がドイツ軍の護送つきで、真っ直ぐ私たちの方へやって来たので、こちらは茫然としてしまったよ。危機的な状況だった。私たちは知っていたのだが、捕虜の中に落伍者が出た場合、無関係な者を捕まえて帳尻を合わせるのがドイツ軍のやり方だからね。その捕虜たちは、水を飲むため川まで連れてこられたのだった。私たちは彼らのすぐ近くにいた。あの数分間は本当に恐ろしかったものだ。捕虜が喉の渇きをいやすと、ドイツ兵は彼らを整列させ、そして行ってしまった。その後でようやく、私たち2人は渡し守に対岸へ運んでもらった。村へ近づく途中の道すがら、地元の住民に出会ったので、村の中にドイツ軍はいるか?と聞いてみた。いないという答えだった。ところが、丘の上に出て見てみると、無線機を持ったドイツの部隊が村の入り口の道路近くに固まっているじゃないか。引き返すのにはもう遅い、彼らの脇を通りすぎるしかない、内心の動揺も悟られてはならない。ただ、私たちはこうした状況に対する免疫ができ始めていて、ドイツ兵と出会ってもあまり過剰には反応しなくなったよ。
いつも宿としていたのは、農家の周りに積んである干し草で、地元の住民から一時的に貸してもらった。彼らと話をする時には、自分たちはアルマヴィル市の住民で、塹壕掘りを終えて家に帰るところだと説明していた。私の道連れとなった中尉が、これ以上旅を続けるのは止めだ、ヴォロシーロフスク市にある家に帰りたいと言い出した。ヴォロシーロフスクは敵に占領されていたというのに。このまま進んで味方のところへたどり着くべきだ、といくら論拠を挙げて説得しても中尉は意志を変えず、結局私は1人になってしまった。道中、スターリングラードに向かう男女のグループと出会ったことがある。私は彼らに、我が軍は敵の手からカフカースを守り抜くはずだと言って、自分と同じ道を行かないかと誘ってみた。だが、彼らは私の言うことを聞かず、自らが選んだ方向に進んでいってしまった。
時はすでに1942年の8月も半ば、私はたくさんの村を通過していた。ラズヴィルィ、イヴァノフカ、ジューコフカ村、レトニク、プリヴォリノエ、ノヴォ・アレクサンドロフカ、グリゴーリエ、パヴロフスク、ゼリョーヌイ村。ドイツ軍に占領された地域を500キロ以上は歩いたよ。時には1日に50キロを踏破している。歩く時には、ヨガの行者のリズミカルな呼吸法を取り入れていた(息を吸う間に4歩、吐く間に4歩歩くのだ)。実践してみて、この方法が有効であることが分かった。当時の私の体調でも、あれほどの肉体的な負荷に耐えられたのだから。
旅の途中でドイツ軍の前線部隊に遭遇する機会があったが、その中にはルーマニア兵やイタリア兵の隊も混ざっていた。いつ正体がばれるか分からず、毎日毎時間が緊張の連続だった。その上、負傷と脳震盪の後遺症で左脚はひっきりなしに痛み、これら全てが体調に影響を与えていたのだが、何としてでも友軍と合流するという信念が私を支えてくれたのだ。
先に名を挙げた村々の多くでは、ポリツァイだの、占領軍に一生懸命取り入ろうとしている連中だのに出会っている。捕まって、問いただされて、色々と説明させられることもあった。お前は何者でどこへ行くのだ、とね。彼らへの説明を裏づけるべく、私は自分で自分に証明書を作り、塹壕掘りに従事した後で家へ帰るところだ、という一筆を入れた。さらにこの証明書に信憑性を持たせるため、手持ちの印章を押しておいたよ。印に何と書かれているか読めないよう、不鮮明な押し方ではあったけれどね。プラシナコプとクラースナヤ・ポリャーナを通りすぎた時、私は道でドイツの新聞を拾ったのだが、そこには近日中にトルコがカフカース側から攻め入り、ドイツ軍を支援するはずだと書かれていた。私が向かっていたのがまさにカフカース方面だったから、これを読んで絶望的な気分に囚われた。だが、もうカフカース山脈までいくらも離れていないのだからと思い返し、とにかく同じ道を歩き続けることにした。
(12.12.05)
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