ゲンナージー・キルケヴィチ2
それはアキモフカ地区での出来事だった。戦いの中で、私は脚に傷を負った。衛生班が私を収容した。部下の7人はその場に残ったが、私は車に乗せられ、真っ直ぐメリトポリの病院へ運ばれたのだ。病院では輸血をしてもらい、包帯が巻かれた。メリトポリにドイツ軍が接近するまで、2日か3日は入院していたと思う。それから病院列車でオシペンコ(ベルジャンスク)方面へ、その後はヴォロシロフグラードへと搬送された。列車には非常に多くの負傷者が乗っており、明け方まで走り続けたが、それもメッサーシュミットの小隊から攻撃を受けるまでの話だった。負傷者を運ぶ列車であるのは見えていただろうに、構わずに機銃を撃ちかけてきた。多くの兵士が傷つけられたよ。私は貨車から這い出すと、車輪の陰に転がり込んだ。銃撃は2度にわたって繰り返されている。その後、私たちは何とか列車に乗せてもらい、ヴォロシロフグラードまで運ばれた。ここの病院は、元々は学校として使われていた建物だった。私は一連の治療を受け、少しずつ歩けるようになった後、いわゆるところの「療養者大隊」へ移された。指定された場所はヴォロシロフグラードの街外れ。食糧事情は非常に悪かったが、それでも体力を回復させなくちゃいけない。幸いすぐ近くにトウモロコシの畑があったから、これでもって腹を満たすことができた。焚火をおこし、トウモロコシを軽く炒って食べたよ。一方、ドイツ軍は9月の末にはドンバスを占領し、ヴォロシロフグラードへと接近していた。
当時、第12軍の下に300人程度の打撃集団が編成され、私はその隊長から副官として指名を受けた。他に選択肢がないということで、私たちは夏服を支給されたんだが、辺りはもう寒くなっており、氷さえ張り始めている状況。部隊は2つの師団の中間に配置され、防御戦を行うよう命じられた。ステパノフカ村に近いところだ。1941年の11月末までそこにいたよ。村自体は低地に広がっていたが、私たちは高地に陣取り、ステパノフカ村からドイツ軍を叩き出すよう命令を受けた。手持ちの武器といったら、機関銃と旧式の小銃があるきりだ。時刻は真夜中のことで、月がものすごく明るく、周りは一面が真っ白い雪に覆われていたから、私たちが着ていた濃い色の夏服はよく目立った。その上、恐ろしいほどの冷え込みで、湿ったポルチャンキ[靴下の代わりに足へ巻きつける布]が足に凍りついてしまったくらいだ。近くにある干し草の山まで這っていき、その陰で長靴を脱いで、足をマッサージしてからポルチャンキを巻き直し、後退してくるより他なかった。まずは体を温めようと、かかとでもって足踏みをしたのだが、おかげで大きな音がしてしまい、ドイツ軍はすぐさま音の方角を狙って撃ってきた。夜警が拍子木を打っているような、そんな感じだったよ。夜明けまでには、どうにかドイツ軍をステパノフカ村から追い出すことができた。ただ、非常に困難な戦いではあったのだけれども。部下の兵士たちはあまり鍛えられておらず、その一部は前線に動員された警官だったり、経験のない新兵だったりした。彼らは夜戦がどんなものかを知らず、「ウラー」と叫んだり、他にも色々と正しくない行動があった。打撃集団の政治委員はマクシム・フォキーチ・グリシコで、私にキエフ産業大学で政治経済学を教えてくれた先生だった。そういう偶然の出会いがあったのだ。私はすでに実戦をくぐり抜けており、経験豊富で決断力もあったから、この人には特別に目をかけてもらった。しょっちゅう相談を受けたものだ。さらに、打撃集団の隊長が迫撃砲弾[地雷?]で負傷したのだが、後任の隊長は非常に意志が強く、目的意識も明確な人だった。新隊長も私にはよくしてくれたね。高等教育を受けていたばかりでなく、実戦経験も豊か、国境からの戦闘に次ぐ戦闘で鍛え上げられたからこその評価だった。その間にもドイツ軍は攻勢を続け、友軍の砲兵や増援部隊が手助けをしてくれたにも拘らず、敵の戦車やその他の兵器に立ち向かうことはできなかった。ドイツの空軍も砲兵も、技術面で我が方より優越していたからだ。
このようにして、私たちは1942年初めの冬から春まで戦った。我が軍は少しずつ後退を続け、村々を敵の手に渡し、あるいは炭鉱を爆破していった。1942年5月2日、私は猛烈な砲撃を受けて脳震盪を起こした。所属部隊は「打撃集団」から「独立歩兵大隊」へと名を変えていたが、私は原隊から離れることを望まなかったので、師団付属の衛生隊に収容された。衛生大隊では後送してくれようとしたものの、私は断固として拒否したのだ。大隊長と別れるのが嫌だったからね。彼は経験豊かな指揮官で、部下からも絶大な信望を集めていた。それ以前に仕えた2人の隊長とは大違いさ。最初の隊長は愚かで視野が狭く、やたらに酒ばかり飲んでいて、中身も外見も全く魅力のない人物だった。政治委員も同じようなものだ。私の中隊は、ソフィエフカ(カホフカ近郊)で優勢な敵軍との戦いを強いられたのだが、当時の戦友たちから聞いた話によれば、あの隊長はどうやら戦死したらしい。2人目の隊長はNKVD[内務人民委員部]の特別収容所で勤務していた経験の持ち主で、最初の隊長より酒は飲まなかったし、意志も強いものを持っていたが、その他の点ではほとんど変わるところがなかった。彼は1941年12月にルガンスク州で負傷し、病院に搬送された。
1941年に左脚の下腿部を負傷し、今また脳震盪を起こしたことで、私は血管を患ってしまった。血栓性静脈炎のような病気だった。歩くのにも杖が要るほど症状が悪化したが、私は大隊への復帰を希望したよ。そして、大隊に帯同して少しずつロストフ方面へ退いた。私たちが退却する道すがら、炭鉱や製炭企業[の施設]が友軍により爆破されていった。何とも言えず重苦しい光景で、それが砲声を伴奏に続くのだ。第9、12、57、56などの諸軍に属する数多くの部隊が、ロストフ・ナ・ドヌーの方角を目指して進んでいた。退却中、味方の空軍からはろくな援護が受けられず、逆にドイツ空軍は途切れることなく爆撃を行い、あるいは宣伝ビラを投下して、お前たちは包囲下にある、降伏せよなどと呼びかけた。ドンに架かる橋はみな破壊され、使える橋は1本がナヒチェヴァン市の外れに残るのみ。それも軽量の自動車しか渡らせることのできない、恐ろしく原始的なものだった…私たちは車に乗り、ロストフ市内の通りを3~4列で非常にゆっくり進んだ。ドイツ機は次から次へと爆弾を落としてくる。破損車両は脇へどかし、ひたすら橋へ。川を渡り終えると、我が大隊は対岸に集結した。
私は大隊長の命令を受け、ロストフで渡河し、我が師団が防御を受け持っているノヴォ・クズネツォフカ地区へ向かうことになった。曹長と2人の兵士を伴い、私は1トン半トラックでロストフに入ると、街の中心部の通りに沿って橋を目指した。おびただしい数の車が橋に向かっており、4~5列にも及ぶほどで、これがゆっくりゆっくり都心部を移動していたのだ。ドイツ空軍はひっきりなしに爆撃を加えてきた。爆弾により損傷した車は脇へ押しのけ、後続の別の車がその場所を占めることになった。市の警察当局の指導部は、どうにかして秩序を保とうと奔走していたが、一般の警察官の姿は見えなかったようだ。
これらの光景は、退却する軍隊というよりは葬列を思わせるものだった。私たちは夕方までに橋へ到着したが、ドイツ軍機の爆弾のために、橋は何度となく破壊された。その上、私たちの車は後輪が破損していたから、ゆっくりとドン川を渡らなければならなかった。
いきなりユンカースの小隊が上空に現れた。敵機は私たちの車を見つけ、急降下してきた。こちらはすぐに車を停め、外に走り出て地面に伏せる。ユンカースは1機、また1機と舞い降り、大口径機関銃でもって薙ぎ払うような銃撃を加えてきた。私たちを救ったのは近くの小さな丘で、この陰に逃げ込むことができた。機銃弾は私たちの頭をかすめるほどだったよ。車にも少しばかり穴を開けられたが、走るのに問題はなかった。
ノヴォ・クズネツォフカで、師団と共に守りを固めていた大隊と合流。ドイツ軍は1942年7月24日にロストフを占拠し、その後で一部の隊をノヴォ・クズネツォフカに向かわせ、戦いが始まった。私たちの師団は、敵の攻撃の第一波を撃退した。だがドイツ軍は戦車の増援を得て、我が軍をこの村から追い出してしまった。私たちの部隊は、短機関銃手を乗せた敵の戦車に追撃された。私を含む少人数のグループは、前方に窪地があるのを見つけ、短機関銃手の猛射と戦車の履帯から逃れるためこの中に逃げ込んだ。敵との距離は30~35メートル以内。私たちは身をかがめながら窪地の中を走ったが、戦車に乗った短機関銃手たちは追跡を止めようとせずに撃ち続ける。しかし、友軍の砲兵が数斉射を加え、敵の動きを止めた。我が大隊を含む第261連隊は撃破され、四方八方に逃げ散った。大隊の兵士のうち、私と一緒に逃げたのはわずか数人で、その中には大隊付政治委員も含まれていた(ちなみに彼は、1940年にキエフ産業大学で政治経済学を教えており、私の先生だった)。私たちは、同じ師団に属する第974連隊第2大隊に合流した。ロストフ州サリスク市の方向に退却していた部隊だった。
政治委員は足にまめを作り、非常にゆっくりとしか歩けなくなっていたのだが、彼から置いていかないよう頼まれたので、私もその歩みに合わせるしかなかった。ドイツ軍は私たちの部隊のすぐ後ろから追いかけてきており、急がないと捕虜になるかもしれない。どうにかしてスピードを上げようと、私は政治委員のために馬を調達し、彼をその上に乗せたのだが、馬は馬でのろのろとしか進めない。私もまた脚の調子が思わしくなく、鈍痛に悩まされていたため速くは歩けなかった。しばらくしてから政治委員は、これ以上は歩けない、近くの村に残りたい、との希望を伝えた。どうしても先には進まないと言うのだ。彼は私に馬を譲ったので、これに乗ることにした。それ以前であればカチューシャ部隊と合流するチャンスもあったのだが、私は政治委員を見捨てたくなかったので、機会を逸してしまった。政治委員のその後の運命については、1950年代に[キエフの]フレシチャーティク[通り]で偶然再会した時に知ることができた。彼は手短に自分の経歴を語った。敵の占領下にあった地区が解放された時、彼は軍付属の懲罰大隊へ送られたのだそうだ。戦後は再びキエフ市の科学技術大学で教鞭を取っていた。その後、1965年に彼が亡くなったことを知った。
私は馬に乗ったまま、第974連隊第2大隊と共にサリスク市を目指してゆっくりと進んだ。しかしながら、1942年8月1日にドイツの戦車隊がサリスクを占拠し、私たちは包囲下に陥った。
(12.12.05)
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