ニコライ・スクリャービン7
―戦争中、あなたにとって最も困難だった日、または出来事のことを教えていただけますか?
負傷した時だね(笑い)。それから最初の時期、まだ慣れなかった頃だ。初めの数日間は緊張だとか、恐怖だとか、そういうような感覚に取り巻かれていた。例えば、弾が光の尾を曳いて飛んでくると、あれは自分を狙っているのに違いない、と思ってしまう。で、地面に伏せるんだが、頭上を飛び越えたところを見ると何のことはない、家よりも高いじゃないか。よく言われる、弾が来る度にお辞儀をするというやつだが、その後は慣れたよ。体が順応して、最初のような恐怖はなくなった。
―戦勝の日はどのようにして迎えられましたか?
あれはどうにも面白かったな。当時はすでに[復員して]機械製作場の主任として働いていた。で、戦争に勝ったのだということを全く知らぬまま出勤した。その日の仕事の割り振りを決めたところで、いきなり電話が鳴ったから受話器を取ったよ。
「機械を止めなさい、仕事なんかみんな中止して、大至急全員で工場の管理部まで来て頂戴!」
何だろう、と思ったよ。日課が始まったばかりなのに、いきなり仕事を止めよと言うのだ。それも、他でもない党組織の書記からの電話なのだ。私たちのところの書記はチェルノバエヴァとかいう女性で、革命前の1903年から党員になっている筋金入りだった。彼女が電話をかけてくるからにはただ事ではない。私たちは工場管理部へ駆け集まった、走って集まることが重要なのだ。その日はあいにくの空模様で、辺りは泥だらけ、雨も降りしきっていた。管理部へ走っていく途中でもう「勝った、勝った」という叫び声が聞こえてはいたものの、まだ何のことだか理解できなかった。駆けつけた先で、私はすぐパーヴェル・ドミトリエフに尋ねたよ。
「何があったんです?」
「勝利が告げられたんだ!君は軍隊にいたんだったな、皆を整列させ、機械工場まで行ってくれ」
その機械工場は、当時は第603という番号を与えられていたが、私たちはここの労働者たちと合流した。「戦勝だ」というので、合同で集会を開くことになったのだ。私は復員した時、この機械工場ではなく、スキー用具の工場の方に入った。初めて職に就いたのがスキー工場だったから、私にとっては故郷のようなものだと思ってね。集会が終わったので走って戻ってくると、[機械製作所の?]支配人から[製作所付属の?]商店に対し、品物を自由に売っていいという指示が出ていた。この店はウォッカを置いていたのだが、しかし量り売りで、さらに配給券と引き換えでしかくれなかった。よく働いたやつには、支配人から半リットル分の配給券が配られる、という次第。好むと好まざるとに拘らず、そういう売り方しかできなかったのだ。しかしこの時は[自由にウォッカを売ることが]許されたのだが、だからと言って給料を手にしているわけではない。そこで会計主任は、何を思ったか商店まで足を運んだ。
「君らのところの売上金はどれくらいあるかね?」
勘定して、これこれだと報告された。主任は彼らに受取証を渡し、大体1万[ルーブリ]くらいの金を回収した。この1万を作業場ごとに配ったわけだが、全員に足りるような額ではない。私の持ち場には定員で70人の職員がいたけれども、最初にもらった金額では2~3人分にしかならなかった。仕方ないから、受け取った者たちがそれぞれお店に走って[酒を]買い、皆に分け与えた。だから、お金はみんなお店に戻ってしまったわけだ。すると会計主任がやって来て、再び金を集め、再び分配した。このようにして勝利を祝ったのだが、それでも何人かはお金をもらえず、ここに(原註:そう言って2本の指で喉を指し示した)は何も入らずじまいだった。まあ、少しばかりはもらったのだけれども、コップ半分くらいを飲んで、次のを待っている間に酔いが醒めちまったそうだよ。こうして勝利の祝いをやったのだ。朝から集会に出かけて、1日中仕事なんかしなかった。その日は冷凍室[不詳。酒を冷やすのに使ったのか?]の傍から離れなかったからね。皆、言葉に言い尽くせないほどの感情を味わっていた。あの喜びといったら!そりゃそうだ、勝ったんだから!生き残った者は、これからも生きられるということだ。歌ったり踊ったり、ぬかるみの中でもお構いなしで、盛大に泥が飛び散った。アコーディオン弾きも引っ張ってこられて、どんちゃん騒ぎだった。気分は本当に高揚して、お祭りムード一色で、みんなお互いにキスをし合ったものだ。―我が国は何故あの戦争に勝つことができたのか、あなたはどのようにお考えですか?
何故かって、私に言わせるなら、それは愛国心が強かったからだよ。私たちが前進する時も、祖国のために、スターリンのために、で進んだんだ。それ以外の号令はなかった。こうした号令については、アネクドートのような話がある。ドイツ軍が我が軍の捕虜を尋問した時、こう尋ねたそうだ。
「君らのところに何か特別な部隊はいるのかね?君らが祖国のために、スターリンのためにという号令の下で攻撃してくると、我々はこれを迎え撃ち、時には撃退することもある。ところが、これ以外に神だとか、キリストだとかの名を唱える号令があるだろう。こういう号令で攻めてくる連中に対しては、SSでさえも持ち堪えられないのだが?」
その正体は懲罰隊で、彼らの号令はたった1種類だけ。神の許へ、キリストの許へ前進せよ、というものだった。―前線にいた頃、退却阻止部隊に出会った経験はありますか?
退却阻止部隊の存在について聞いたことはあるが、実際には見ていない。ある時、私たちは雪崩をうって後退して、それこそ敵に足の裏を見せんばかりの勢いで逃げ走ったのだけれども、退却阻止部隊になんかちっとも出会わなかった。1つ後ろの防御線まで逃げたよ。
「お前ら、何だって逃げていくんだ?」
「やられちまった、退却中だ」
だが私たちは、他の部隊によってその地区を奪回してもらうのではなく、自分たちで再び攻撃に向かったよ。1回だけだし、後退した距離もわずかだったことは強調しておきたいね。―現在のあなたにとって、あの戦争とは何だったのでしょうか?どのように受け止めていますか?
どのように受け止めるかというと、スターリンには物申してやりたいな。諜報部からの情報が届いていたのに[開戦前、ドイツ軍の攻撃意図に関する諜報部の報告を無視して奇襲を受けたことを指すものと思われる]。我が軍では、この時までに高級指揮官が[粛清により?]一掃されていて、残ったのは小隊長のヴァーニカばかりだった[意味が取り辛いが、おそらく「愚か者」「間抜け」の意味だろう。ちなみにヴァーニカとは、ロシアの典型的な男性名イヴァンの愛称である]。私のいた歩兵学校には、私たちと入れ替わる形で前線帰りの軍人たちが送られてきた。彼らが現役だったのか、そうでなかったのかはよく分からない。階級なんかは少佐に手が届くところだというのに、戦時にふさわしい教育は何ひとつ受けていないから、学校で鍛える必要があったのだ。私たちがまだ出征する前に、彼らは学校へ入ってきた。で、私たちは彼らを整列させるところから始めなければならなかったのだが、連中は嫌がってね。こっちはまだ生徒だってのに、向こうは上級中尉や大尉だったんだから。彼らをあずけられたのは、どう言ったらいいのかな、隊列を組ませる訓練のためだったんだ。私たちはすでによくやり方を知っており、教えられていたんだが、実習はまだだったから。もしも私たちが学校をきちんと卒業するだけの余裕があったら、事態は全く違っていただろうよ。
―退院した後、戦時から平時の生活へ戻るのは大変でしたか?
そうさね、私が辛かったことが分かってもらえるかね?もしかすると、戦争が終わった時に復員した兵士たち、彼らの方が大変だったかもしれない。しかし私は、何と言っても5か月は病院で寝ていたから、まだ前線っ気は抜けていた方だよ。いわゆるところの狼の券[註2]をもらって戻ってきた。私は健康上の理由で兵役免除扱いになったのだが、その券を持っていると仕事には採ってもらえず、身分証もまだ交付されていなかった。つまり、病院から出た証明書が狼の券と呼ばれていたんだ。
―敵に対して、ドイツ軍に対してはどのような感情を抱いていましたか?
憎しみ、憎しみあるのみだったよ。彼らと会えて嬉しかった、なんてわけはないだろう?私だって、家にいて女の子たちといちゃつくような生活の方がよかったんだ。自分には少年時代はあったが、青年時代は存在しなかった、という気がする。帰ってきた時にはすでに傷痍軍人だったから。今ではもう昔の話だけどね。ただ、私たちのところでは、ドイツ[東ドイツであろう]に材木を削る機械を送ったことがある。あれはドイツ製の機材だったから。私も出張を希望したのだが、[上司は]笑いを押し隠すようにしながら、あんたを行かせるわけにはいかん、あまりにも目立ちすぎるから、と言ったんだ。[戦争に]参加していたことはすぐに分かってしまうだろう。少なくない数のドイツ人をやっつけたわけだからね。彼らの中にも参戦者がいて、お互いに敵意を抱いたかもしれない。もっとも、今では平和な関係となっているのだが…
註2:「狼の券волчий билет」とは本来は革命前の言葉で、不穏分子に与えられた証明書。この書類を持っていると所謂「札付き」の状態になり、官職・教職に就くことができなかったという。おそらく、退院者がもらう傷痍軍人の証明書も就職の妨げとなるケースが多かったため、同じように「狼の券」と呼称されたものと思われる。
(了)
(12.03.26)
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