ニコライ・スクリャービン5


―ドイツ軍から何か学ぶことはありませんでしたか?歩兵として、あるいは敵として、彼らから教えを受けたりはしなかったのですか?

 いや、私には分からない。私自身は、彼らの経験を取り入れるような機会はなかったから。もしも純粋な歩兵であれば、彼らと出会うこともあったかもしれない。しかし、[ドイツ兵と]白兵戦で直接やり合ったのは、私が負傷した時の1回だけだった。
 夕方になって、大隊長が皆を集め、翌朝攻撃に出るという命令を下した。前方には村が、大きな村があった。誰かが間違いをしでかしたのか、それとも偶然に道から逸れてしまったのか、それは分からない。逸れるはずはないんだけれどもね。もしかすると、単に偵察が見当違いの方向に行ってしまっただけなのかもしれんが、いずれにせよ私たちの大隊の進撃ルートに敵はいないことになっていた。誰からかは分からないけれども、匍匐で進むよう命令が出た。森からドイツ軍の塹壕までは近かった。ここから、森から出たすぐのところにあって、砲兵の支援も何もなしで進んだ[原テキストには手書きの図が添付されているので、実際のインタビューでもこれを使って説明したのだろう]。私たちはここまで這っていった[この部分も図で説明しているものと思われる。以下同じ]。こちらには突っ込まなかった。こっちでもない、ここに来たんだな。我が大隊はこの塹壕にぶつかったんだ。這ってきて、中をのぞき込んだ。[匍匐で]地面にへばりついていたのはどうしてだと思う?敵の弾が光の尾を曳いて飛んでいて、これは見張られてるな、と感じたからだよ。で、のぞき込んでみると、そこには…小ぬか雨の降る日のことだった。敵の歩哨はレインコートにくるまり、短機関銃を肩に引っかけて、そいつを後ろ向きに撃っていた。彼はじっと座り込んだまま、うとうとしていたのかもしれないけれども、その格好で引き金を引くわけだね。弾は私たちのいる方向に飛び、光の尾がよく見えた。それが頭上を飛んでいくと、最初のうちはみんな自分の額を狙われているような気がするのだが、そのうち明後日の方角だということが分かる。最初は自分のおでこに飛んでくるように見え、思わず体が縮こまってしまうんだがね。まずは手当たり次第に手榴弾を投げ込み、音が鳴り止んだ後で突入した。私は小銃は持っておらず、パラベラムに10以上のクリップを携えていった。弾をかき集めて、パラベラムを持って攻撃へ参加したんだ。
 我が軍ではピストル1挺にクリップを2つ支給されていたが、ドイツ軍でも同じく2つずつだった。いつ弾を入れたのか、これは全く憶えていないんだ。白兵戦が始まったら、周りを見回す余裕なんかない。真正面からぶつかったり、何だりかんだりでね。見ると、足許には味方の兵が倒れており、上からはドイツ兵が飛び降りてくる。だが、上から来るやつは敵味方共に撃たれて穴だらけになってしまう。小銃は持っていなかったから、脇へかがみ、[ピストルで?]ドイツ兵を撃った。そいつを放り捨てて、味方はさらに前進すべく飛び出した。そこで塹壕が分かれていた。1本はこちらへ、もう1本はこちらへ伸び、分岐していたわけだ。こっちは前線へ、こっちのは後方へ向かう連絡壕のようだった。私たちは敵を追っかけた。大隊長が突撃へ参加することは滅多になかったのに、この時に限って彼も投入されていて、私は邪魔だと思ったな。大隊長はこちらへ進み、私たちも彼に続いたが、周囲を見る暇がなく、私は部下が続いてきているとばかり思い込んでいた。私はこちらへ駆け込んだものの、少しだけしか進まなかった。2人のフリッツ[ドイツ兵]がここで機関銃を構え、私たちが飛び出してくるであろう瞬間を待っていたんだ。私は近い方の敵兵に狙いを定め、引き金を引いたが、「カチッ」という音が響いたきり。パラベラムの不発があり得るなんて夢にも思わなかったのに、この局面で不発だとは。引き金を引いても、再び「カチッ」で終わってしまう。引っ張り出して見ると、クリップが空じゃないか。ぼやぼやしている暇はない、新しいクリップを探さないと。しかしどこもかしこも空っぽで、見つけることができない。彼らはここにいて、私は大体この辺りにいた。だが、もしも走って逃げたら、彼らは真っ直ぐ連射を喰らわせてきたことだろう。頭が素早く回転して、撃たれるかもしれないと思い至ったのだ。私はこちらに飛び出し、[分岐した塹壕を分ける]ちょっとした地峡部のようになっているところを越え、ここにいる味方の方へ逃げ込もうと決心した。飛び出して3~4歩、と言っても歩いたわけじゃなく、飛ぶようにして走ったのだが、そこで振り返って見ると、自分が狙われているのが分かった。1人がカービンを撃とうとしていて、私はこいつを騙してやろうとした。その後、長い入院生活の中で病室仲間たちと話をした時、彼らはこんな風に言っていたものだ。
「そいつはお前の脚を狙ってたんだよ。脚に当てて、倒れたらとどめを刺そうとしたんだ」
 私は敵を出し抜いてやることに決め、ばったりと地面に倒れた。憶えているのは、自分の手が地面に触れた時、弾に当たったことだ。

 それは後頭部の下の部分から入って、頬から抜けていった。指で押さえたら、穴が開いていたと思う。入ったところはほとんど分からないくらいだったが、錐でゴムを突き刺しても、何も痕は残らないのと同じことだ。しかし反対側は空気が入るほど[の穴]で、頬は完全に破れ、あごと一緒に飛ばされてしまった。私は倒れた。どれくらいそこに横たわっていたのかは分からない。それから意識が戻った。いびきのような音が出た。弾が通った時に、声帯が傷つけられていたから。
 私は何か叫ぼうとしたようだが、もしかすると口が開いていただけなのかもしれない。弾は舌の上の方を通っていたから、確かに口は大きく開いていたな。運が悪ければ舌の根元の部分に当たり、私は舌なしになっていただろうね。正気に戻った時には、痛みはなかったけれども、体の力が抜けていた。言ってみれば、手を自分の方へ引き寄せることもできないくらい。それでも、どうにかして応急手当用の包みを取り出した。結び目のところの糸をなかなか引っ張れなかったのだが。包みは口が開いてしまったものの、何とか引き出したよ。教わった通り、中には2つのクッション[止血材のことか?]が入っている。その時にはあちこちをなで回して、[顔の?]前には何も残っていないことが分かっていた。つまり、皮膚はぼろきれのようなものになってしまい、ポンプでくみ出しているかのように、噴水のように血が吹き出ている。何回か、3~4回だったかな、[包帯を]巻きつけるだけの力はあった。2巻きか3巻きくらいだけだが包帯もあったから、何とか傷口をふさいだ。それ以上は体がもたず、再び意識がなくなった。2度目の昏睡がどれくらい続いたのかは分からない。ただ、攻撃に出た時はまだ日が昇っていなかったのだが、気がついたらもう太陽が真上にいたからね。そのことだけはよく憶えているんだ。
 どれくらい横たわっていただろうか、ふと反射的に目をやると、パラベラムがすぐ近くに落ちていて、ドイツ語の話し声が聞こえる。力を振り絞って手を伸ばし、パラベラムをつかんだ。空であることは知っていたけれども、あるとやっぱり心強い。近くで爆発が起きた。友軍が退却しているのかもしれないとは思ったものの、はっきりとは分からず、どこに誰がいるのか見当がつかない。見ていると、何だか凄まじい轟音が響き始めたが、これは我が軍の大隊の仕業だった。強力な大隊だよ。シベリア出身の現役兵からなる部隊で、これに比べたら私たちの大隊なんてのは弱体だった。私の小隊も、およそ半分の兵力しかいなかったからね。彼らが敵に遭遇せずに進撃してきて、ここで戦っているということは、つまり彼らは側面から攻撃をかけたわけだ。彼ら[友軍?ドイツ軍?]は引き返していき、大隊の中でも生き残った者は、壕の中にとどまっていた。そして、両方の側から迫撃砲と機関銃による攻撃が加えられたのだ。2個大隊がそこにいたから。私は彼らと一緒に、倒れた者の法則[不詳]に従って、再び頭に喰らったんだ。最初は右、次は左からで、またもや後ろの方からだった。
 この破片は友軍からのもので、ドイツ軍と一緒に受けることになってしまった(倒れた者の法則によれば、2度目のやつが当たるはずはないんだがね。「倒れた者は撃たれない」と言われていたんだから)。だが、2度目があったのだ。再び意識を失った。ただ、首に響いた、というか柔らかい打撃を感じただけだった。この時も、痛みも何もなかったよ。打撃があったのは確かだが、なでられたような感じがしただけで、それきり何ひとつ分からなくなった。意識が戻って、また失ったわけだが、今度は手も足もぴくりとも動かせない状態だ。
 すでに日が暮れようとしていたから、私はまる1日横たわっていたことになる。後方の衛生大隊へ薬を取りに行く衛生兵が2人通りかかった。その時にはすでに、ドイツ軍の陣地の奥深くにあったどこかの村が占拠されて、衛生兵たちはそこからやって来たのだ。服が[冬服に?]替えられたばかりの時期で、辺りはすでに寒くなり始めていた。10月だったからね。私たちはもう外套を支給されており、雪に紛れるよう白っぽい色だったのだが、ドイツ軍のそれは濃い緑色をしている。私はいびきをかくような音を立て、衛生兵たちは外套の色で気づいてくれた。前が見えないほど頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、衛生大隊へ運び込まれた。そこで目覚めた時には、すでに傷口の処置は終わっており、私は3日ほども眠っていたのだ。2か所の野戦病院を転々とした後、カリーニン[現トヴェリ]にある後方の病院へ入ることになった。それまでレントゲンは撮られなかったから、多分そのせいだと思うのだが、あごの傷ばかりでなく首の後ろにも破片が入っていることは見落とされた。しかしカリーニンでは撮ってもらった。というのも、私には判断力を失うという症状が出始めたから。皮膚が癒着したので、[破片の]出口がなくなった。だが、中には金属の破片と、それから頭蓋骨が砕けた骨の破片が入っていたんだ。
 私は長いこと、自分が今座っているのか、それとも横になっているのかが分からなかった。一体どんな姿勢を取っているのか?横になったまま、説明してみろと言われ、上に天井があります、下に床があります、私は横になっています、だから私は寝ている状態です、という感じ。このことは記憶に残っているんだ。体を起こしてもらい、座らされて、今はどんな姿勢だ?と。私は座っています、と答える。それからもう一度、天井、床、私はそれらに対して垂直方向にありますなんて言うんだが、手を離されると倒れてしまい、今倒れるところだと感じることができない。倒れた状態で、今はどんな姿勢だと聞かれる。私は横になっています、と答える。小脳が傷つけられて、空間に対する位置感覚を失っていたんだね。長い間そんな感じで、退院してここへ帰ってきてからも1年くらいは続いたっけ。
 病院には4か月、というより5か月近く入っていた。カリーニンでレントゲンを撮ってもらった後、ゴーリキー[現ニージニー・ノヴゴロド]にある頭部の専門病院へ移り、ブラタレ教授の診察を受けることになった。彼の奥さんが病院の責任者で、教授の方はいろんな病院を回って診察していた。おそらくユダヤ人だったと思うのだが、髭なんかはベルトの辺りまで垂らした人だったね。それも、麻か何かの繊維のようなやつじゃない、トルストイを思わせる幅の広い立派な髭さ。みんな笑っていたよ。手術の時になると、看護婦たちが髭を半分ずつ縛り、折り曲げておいて、その後でようやく頭に手術帽をかぶるんだ。私が病院に来た時、教授は確か2日目に診察してくれたと思う。奥さんは「あんたの受け持ちの患者さんが来たわよ」なんて言ってたっけ。彼は小脳の損傷を修復する技術を研究していたのだが、戦前にはそのような患者はいなかった。汽車に轢かれたら、それだけで粉々になってしまう。車にはねられても、骨を折ったりするだけだろう?みんな骨折だけで終わっていて、私のような患者はいなかったんだな。教授の手許に来た[スクリャービン氏の容態に関する]報告書には、致命傷と書かれていたそうだ。だが実際、こうやって生きているじゃないか。大丈夫だろう、これだけ生きていたんだから一晩で死ぬようなことはあるまい、明日に診察するよ、というわけだ。で、診てくれて、すぐに手術が決まった。
 摘出したり穴を開けたり、それ以外にも何かされたのかもしれないが、私にはよく分からない。しかし不思議だったのは、痛みはここ、頭の中で起きたのではなく、脳の方に触れただけで、こちらの方には痛みはなく、ここにはあって[おそらくジェスチャーで体のどこかを示しながら説明しているのだろう]、また末端の部分、足の指の先とか、耳の端とか、鼻の先端とかに痛みを感じた。まるで、そうした場所も切断されているかのように。手術台の上に横たわり、手は十字型に台へ縛りつけられていたよ。肩も足も台にくくられ、膝も同じことで、暴れようったって暴れられない。叫ぼうがわめこうが、麻酔なんてものは全く投与してくれなかった。切っている間、彼[ブラタレ教授?]は脇の方で私に呼びかけていたよ。だが、私は聞いていなかった。麻酔は少しもされなかったんだ。

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(12.03.26)

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