ニコライ・スクリャービン2


―営外休暇は取られたのでしょうか、またその時には何をされていましたか?

 キーロフに出かけた。何をしたかっていうと、ここまで、家まで急いで帰ってきたんだ。大体1か月に1回くらいの割合で[休暇を]もらった、というのも[家が]近かったからね。中尉は時たまだが私にこっそり許可証をくれ、「行ってこい!」と言ってくれた。実際、営外休務許可証は申請してもそう簡単にもらえるものじゃなかった。
 私たちはよく学校のパトロールをやったが、他にも海軍のレニングラード軍医アカデミーが教育大学に[疎開で]移ってきていた。彼らはツェントラリナヤ・ホテルを病院のように使い、そこで実習を行っていたのだ。連中は滅多にパトロールをやらず、そもそもあんまり出歩く機会もなかったよ。だが、ちょっとした事件が起きたことは憶えている。ある時、私たちは証明書という代物でもない、単なる紙切れなんだが、とにかく身分証をあらためる権利ありと書かれた紙を受領した。[歩兵学校の]生徒は将校ではなく、中尉の見習いのようなもので、階級は高くはなかった。将校が兵士[ここでは歩兵学校生徒のこと]に[身分証を]提示する義務なんてないはずだが、もしも相手が指示に従わない場合は武器を使ってもいいことになっている。身分証をあらためる権利を示す証明書を見せたら、相手はそれに従ったからね。で、私たちは軍医学校の責任者を捕まえた。だが、どうしてそんな必要があったと思う?彼が何者で何をしているかなんて、みんな先刻承知だったのだが、問題は彼の持っている短剣で、それを見たかったのさ。彼の短剣は、現役の将校たちが受領するような当たり前のものではなく、特注の品で、たいそう美しかった。私たちは、その提督さんが何者だかはよく知っていたのに、初めて彼を捕まえてしまったのだ。じろじろ眺めて、[身分証を]出せと言った。彼はものすごく怒ったが、私たちが証明書を出すと、向こうも身分証を引っ張り出した。私たちは敬礼し、それだけで分かれたよ。

―41~42年当時、ここノヴォヴャツクに住んでいた人々はどのような気分でいたか、憶えておられますでしょうか?

 どんな気分って、そりゃあ全てを前線に、全てを勝利のために!ってなもんだったよ。12時間ずつ、3交替で働いたのさ。2交替でも何とかなった。どんな条件であれ、配給券さえもらえれば12時間は働けたな。店には何も置いてなかったから、食べ物を手に入れられるのは配給券を持っている者だけ。私は旋盤工なのでパン800グラムを受け取り、被扶養者なら400グラムという具合。配給券に書いてある品を受け取ったのだが、別の物に変わる場合もあった。例えばバターに代わって卵の粉末になったりとか。基本は全て配給券に書かれている通りなんだがね。あの当時、41~42年頃については、みんなが一番苦労していたのはやっぱり食べ物のことだったと思う。空腹だったし、私は800グラムのパンこそもらっていたものの、パン以外に温かい食事は何もなかったから。

―対戦車銃の使い方を習うにあたり、戦車のどの部分を弱点として示されたのですか?

 正面は、正面を撃っても意味がない、貫通しないから。一番大きな弱点といったら車体の後部だ。それから、側面と履帯が弱かった。履帯は特に脆い部分と考えられていたが、確かにピンに当たればバラバラになってしまう。しかしそれ以外だと、穴が開くだけで効果はない。前線へ出た後のことなんだが、何と言ったらいいのかな、不文律のようなものはあったね。小隊には15人の対戦車銃手がいるのだが、そのうち最も射撃が上手い者を3人選び出すのだ。残りの銃手には、戦車の前面でも何でも構わずに撃たせる。ただし視察用のスリットを狙わせてね。正面を、戦車の前部を撃ったって貫通しないことは承知の上だ。視察孔には強化ガラスが入っているから。だが、ここに弾が当たると、操縦手には溶接の時のような閃光が見えるわけだ。そんな風に光り出したら、操縦手としてはたまったものじゃない。対戦車銃で撃たれてるなんて分からないから、何か新兵器が現れたのでは、と思い込んでしまう。彼はこの光を避けようとするんだが、向きを変えたところで側面をさらけ出し、撃たずに待ちかまえていた3人の照星に収まるという具合。

―そのやり方は学校で習ったのですか、それとも前線で知ったのでしょうか?

 学校じゃないね。前線でだよ。自分たちで考え出したのだ、と言っていいと思う。学校ではドイツの戦車を研究するということはなく、ただ話として聞くだけだった。何か所かに写真は吊るしてあったが、どういうわけだかあまり注意を払うこともなく。まだティーガーも現れていなかったからなあ。ティーガーについては大体知っていたし、書いたものもあちこちに出回っておったのだが…どれだけの戦車が、どんな戦車が破壊された、という報道はあった。もっとも、耳で聞くだけの話だがね。

―どのようにして対戦車銃小隊への配属が決まったのですか?

 私たちは前線へ向かうことになり、ルジェフ前面のどこかで汽車から降りた。降車してから行き先を決められたんだが、私が指示されたのは第262連隊で、またもや第1大隊への配属だったな。大隊長はツィブリコといった…それで、整列したよ。まずは上級中尉たちが人を選んでいく。私は1列目に並んでいたが、階級章は生徒の身分を示すもののままだった。実戦部隊の階級章は前線で支給されることになっていたから。大隊長は生徒の階級章に目をつけ、こちらに近づいてきた。
「姓は?」
「スクリャービンであります」
「どの学校を出てきた?」
「リヴィウ軍歩兵学校、在キーロフであります」
「リヴィウだと?」
「現在はキーロフに疎開しております」
 その後、戦争の終わり頃にはリヴィウ・キーロフ学校と呼ばれるようになったんだがね。当時は単にリヴィウ軍歩兵学校という名称だった。
「階級は?」
「卒業には至っておりません」
「在学期間はどれくらいかね?」
「4か月であります」
「対戦車銃の扱い方は知っているのか?」
「知っております、デグチャリョフとシーモノフの両方共です。階級の受領だけが間に合わなかったのであります」
 大隊長はしばらく立ったまま考えた。
「列の外に出るんだ」
 私は外に出たよ。その後で全員の配属先が決まった。大隊長が私に近寄ってきた。
「お前には対戦車銃小隊を任せることにする」
「自分はまだ階級をもらっておりませんが」
「取り敢えずは引き受けてくれ、将校の手が空いたら交替させるから」
 3日くらい経った頃、軍曹の階級章が運ばれてきた。
「当座はこれをつけておけ」
 こうして私は軍曹になったんだよ。

―あなたの小隊は何人くらいで構成されていたのですか?

 30人だ。1番銃手はロシア人かウクライナ人、2番はどういうわけだか中央アジア出身者ばかりだった。

―カザフ人やウズベク人ですか?

 まあね。カザフ、ウズベク、タジク、トゥルクメン。どの民族もいたよ。彼らとはやりにくかった、えらく苦労したもんだ。
(原註:録音機を手で押さえる)
 録音を切ってくれ。連中は臆病でなあ。1人が負傷すると、みんなその周りに群がってくるんだ。例えばあんたが1番銃手だとしよう、[2番銃手は]あんたのために装填しなくちゃならないのに、気がつくといなくなるか、あるいは逃げ出している。後に若いのが送られてくるようになると、多少なりとも安心はできた。しかし年寄りはねえ…

―よくなかったのですね?年寄りというのは、30歳以上の兵隊のことですか?

 ロシア語が分からない連中さ…何しろこの程度しか話せないんだから。
「飯盒、2人分は小さい、小さい、鉄砲はおっきい、おっきい、1人は重い、重い」
 そんな具合で。1番銃手は銃を引きずって歩き、戦闘中も1人で持っていかなければならない。だが、無理にでも彼[2番銃手?]に運ばせたよ。40発の弾が入ったカバン、1発あたり210グラムの重さがあるやつを…
 2番銃手の役割としては、弾薬を運ぶ以外にも、装填作業があった。デグチャリョフを発射すると、銃身が後ろに下がって閉鎖機にぶつかり、楔を打ち込んだように動かなくなって、閉鎖機が開き薬莢が排出される。そこで弾を取り出して込め、閉鎖機を閉めるのが2番銃手の役目だ。私[1番銃手]はもう一度狙いをつけ、引き金を引くだけでいい。発射。薬莢は再び自動的に押し出される。シーモノフの方は5発入りの弾倉を使っていて、小銃と同じような感じだった。

―デグチャリョフとシーモノフではどちらの方が優れた銃でしたか?

 デグチャリョフだ。けれども私たちは少しずつ…私たちは2種類の銃を使っていた。行軍の時はどこでもデグチャリョフばかりで、というのも重さが16キロだったから。シーモノフは21キロだ。違いが分かるだろう?そういうことさ。シーモノフは5発いっぺんに装填でき、弾を補充しなくとも続けて撃てるから、防御戦の時には都合がよかった。一方、デグチャリョフのもう1つの利点としては、攻勢が始まって[銃を持ったまま]走るような時に便利だったことが挙げられる。[攻勢の時には]それ[デグチャリョフ]ばっかり使っていたからね。デグチャリョフを使う場合、残りの銃は荷車に置いたままになっていた。

―つまり、馬や馬車を使われていたのですね。あなたの小隊にはどれだけの荷車が配属されていましたか?

 [配属されていたのは]1台もない。あれは私物だった。つまり、定数には入っていないんだ。御者はともかく、馬なんかは自分たちで見つけ、手に入れることができた。銃もそれで運ぶのだ。

→その3へ

(12.03.26)

戻る