ニコライ・アルフョーロフ2
―当時はどのような兵器が使われていましたか?
1944年当時の我が軍には、T-34戦車と、それから強力な戦車ヨシフ・スターリンもありましたが、私は見たことはありません。砲の中では、一番よく見かけたのは45ミリ砲です。サイズこそ小さなものですが、目標を破壊する力は持っていましたし、戦車の履帯も打ち砕くことができました。それから76ミリ砲ですね。さらに、カチューシャの砲撃の結果も目にしました。我が軍のカチューシャは、レールを使った多連装の迫撃砲です。一方のドイツ軍には6連装のやつがあり、私たちはそれをヴァニューシャと読んでいました。その後、我が軍はアンドリューシャを実用化しましたが、これは大型の弾頭を発射することができました。しかし、後になってからアンドリューシャは生産ラインから外されました。多分、弾が飛翔している間に、空中で撃ち落されてしまうからではないかと思いますよ。
―あなたの大隊に女性兵士はいたのでしょうか?
女性はいませんでした。歩兵隊に女性兵士はあり得ないですよ。考えてもみてほしいのですが、[前線では]雨は降る、膝まで泥に潜るという有様です。塹壕の中の兵隊は、あらゆる労苦に耐えなくてはなりません。女のいる場所ではないでしょう?砲兵隊の女性兵士なら見たことはありますし、衛生大隊でもたくさん勤務していたし、あとは交通整理係や通信隊にも女性がいましたね。
―家とはどのように連絡されていましたか?
手紙を書きました。もっとも、何でもかでも書くわけにはいきません、検閲で引っかかってしまいますから。生きているだとか、元気でやっているだとか、そういう曖昧な内容でした。兵士が手紙で機密事項に触れることは厳禁でしたし、戦闘が行われている場所も書いてはいけませんでした。
―軍の中の雰囲気はいかがでしたか?
私はいつでも楽観的で、一度もパニックを起こしたことはありません。ある時、じとじとと雨が降り続ける中、泥にまみれて塹壕の中を歩いていたのですが、ソコリニコフという同郷の仲間が私と一緒でした。で、彼が言ったのです。
「死んじまいたいよ。こんな辛い目に遭うくらいなら殺された方がましだ」
「生きなきゃ駄目だろ、お前それでもシベリアの男か!?我慢してれば全ては終わりになるから、そしたら家に帰るんだ」
私たちはもう攻勢段階に入っていましたし、勝利を疑ったことはありませんでした。
大多数のドイツ兵は、破滅が避けられないことを理解していました。一方、民族主義的な精神で教育された者は抵抗を止めませんでした。彼らのアジテーションは高いレベルにありましたよ。ゲッベルスは矮人のように、あるいは醜悪極まりないならず者のように戯画化されていた人物ですが、決して愚かな人間ではありません。彼は文学者で、本を書いており、宣伝もレベルの高いものを作り上げたのです。私たちが前線に出た時、ある少佐との間にこんな会話がありました。
「もしも緩衝地帯でドイツ軍の宣伝ビラを見つけたなら、これを手に入れることはおろか、拾い上げるのもご法度だ」
「読むだけでも駄目なのですか?」
「君は懲罰中隊に送られたいのかね?」
私は最初の機会をとらえてビラを読んでしまいましたが、別に懲罰中隊へ行きたかったわけじゃなく、純粋な好奇心だったんですね。ビラがたくさん撒かれていることといったら、まるで森の木の葉のようでした。通行証を兼ねたビラもあります。捕虜として受け入れてもらいたければ、この紙を持っていけばいいというわけです。それ以外のタイプとしては、半分ずつに区切ってあって、その片方にスターリンの風刺画が描かれているものもありました。鼻は大きく、眉毛なんかは髪の毛のようにぼさぼさで、額がほとんど見えないご面相、悲しげにアコーディオンで「今日のこの日は最後の日」を奏でているという。その隣には勇ましげで喜びに満ちたヒトラーが、やはりアコーディオンで「広大なり我が祖国」を弾いている絵が描かれています。私たちは笑い飛ばしただけでしたが、これで影響を受けてしまった人々もいたのですよ。私の目の前で、2人のウズベク人が真っ昼間にドイツ軍の方へ逃げ出し、捕虜になろうとしましたから。しかし彼らは、緩衝地帯で永遠に横たわることになりました[敵陣へ駆け込む前に撃ち殺されたのだろう]。―民族同士の関係はどのようなものでしたか?
偵察隊を構成していたのは大部分がウクライナ人とロシア人、それにイヴァン・イヴァノヴィチことアルメニア人でした。
リュブリンではとある建物を占拠したのですが、ポーランド人が私たちのところへやって来て言うには、これは倉庫で、中には食糧があるそうです。建物は日用品の倉庫として使われていたのです。私たちはそこでドイツのお酒を見つけましたが、濃い色をしていて、何とも言えず美味しいものでした。それから、もう1本同じようなビンを持ってきた者がいて、中身は全く同じように見えますが、ラベルにはドイツ語が書いてあります。注ぎ分けて味わってみると、その正体は濃いシラミ駆除剤でしたよ。さらに蜂蜜も見つかり、私はすぐさま飯盒いっぱいに詰めたのですが、何だかちっとも甘くないような気がして、砂糖を足したりしたところ、それで胃腸の調子を悪くしてしまいました。攻勢の時期だったから、ずっと歩いて行軍しなければならないのに。軍医は錠剤を処方してくれましたが、一向によくなりません。戦友のホホール[ウクライナ人を意味するロシア語の俗語表現]たちは言いました。
「ツィブーリャを食ったらいい、すぐによくなるだろう」
ツィブーリャって一体何なんだ?ロシア語で言ってくれよと頼んだんですけどね。どう訳していいか知らなかったのか、それとも意地悪をしたのか分かりませんが、彼らは教えてくれなかった。で、ある村の横を通りかかったところ、あそこにツィブーリャがあるぞ!というわけです。玉ネギでしたよ。どうしてそれまでに言ってくれなかったのか、道中何度も出会っていたのにねえ!いくつか玉ネギを食べたら、それですっかり治りました。彼らは、仲間内ではウクライナ語だけで話そうとしていましたね。
それから、西ウクライナの村々へ入った時のこと。人の声も、犬のほえ声も何ひとつ聞こえません。住民は森へ逃げ込み、家畜はおろか犬や猫まで連れていってしまったのです。家は木でできていて、上等なものでした。私はたくさんの本を読んで、いろんなことを知りましたから、西ウクライナには手を触れるべきではなかったと感じています。彼らをそのままにして、好きなようにさせればよかったんですよ。私たちの生活スタイルは、彼らには受け入れられないもので、押しつけるべきではなかったのです。―あなたはどこで戦勝の報せを聞きましたか?
エレヴァンの病院です。レヴィタン[ソ連の有名なアナウンサー]がラジオで[戦勝のニュースを]伝えた時、みんな病院から飛び出し、口づけをし合っては喜びに浸りました。ただ、私は重傷を負って病室に寝ており、そこでは喜ぶどころではなかったですね。脚がないものもいれば手をなくした者もおり、どうやって生きていけばいいのか、戦争が終わったらどうなるのか!?と、私たちはすぐに考え込んでしまったのです。私はパニックを起こしたりはしませんでしたけどね。多くの負傷者は家へ手紙を書くのをサボっており、私は彼らの代筆をしていたので、字を書くのが上手くなりました。それから、会計士としての教育コースに申し込みました。辛抱が足りずに途中で勉強を投げ出した者も多くいたのですが、私は一度たりとも授業を休んだことはありません。ノートをまとめる余裕もなく、できるだけ記憶しようと努力し、病室に戻ってきた後も務めて授業で聞いたことを思い出し、憶えた内容を書きとめました。[5段階評価で]全て5の成績で卒業しましたよ。これが、私の人生を切り開いてくれたのです。
(12.01.25)
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