マラート・ヴォロベイチク3
―機関銃部隊が大きな損害を出していたことについて、時には考え込んだりすることもあったのではないですか?何故あのような損害が避けられなかったのでしょう?
確かに、どうして機関銃手の損害は他の部隊より大きいのだろう?と考えることはよくありました。
私自身は若かったから、死の恐怖も感じませんでしたし、戦死なんか怖くないと思っていたのですが、しかし戦闘が終わった後で生き残った仲間たちの数を数える度、心の中で痛みを感じていたことも確かです。ただ、機関銃部隊の損害が大きかった原因ははっきりしています。火点の位置を適宜変更しなかったからなんですよ。
ほんのわずかであっても1つの場所でぐずぐずしまうともうおしまい、死体になって転がるしかない。
とある村外れでの戦いが記憶に残っています。私とシベリア出身のニコライ・ロゴジンの2人で、開けた場所から射撃を行い、弾帯1本分を撃ち尽くしてしまったので、急いで陣地変更をやろうと決めたのです。
畑地に沿って匍匐で移動し、そろそろ家並みが近づいてきたところで、戸口の前に誰かが立っているのが分かりました。パヴリク分隊長と小隊長、例の「アル中大尉」でした。彼らの背後にはT-34戦車もいましたね。私は匍匐で通りすぎながら、「後退して下さい、すぐに敵が撃ってきますから!」と叫びました。すると大尉は、手前の知ったことじゃねえだとか何だとか、聞くに堪えない下品な言葉で私を罵ったわけです。
私たちは新たな火点まで這ってたどり着いたのですが、その瞬間に背後で砲弾が炸裂しました。それで、振り返ってみました。小隊長とパヴリクが、背に破片を受けて倒れていましたよ。
我が戦友パヴリクは、失血により顔面蒼白になりながらも、書類の入った地図ケースを何とか私に手渡すことができました。後に私は、彼の両親に手紙を書き、あなた方の英雄的な息子は戦いの中で重傷を負いましたと知らせたのです。負傷者は脇へ移され、後で衛生大隊から救急車が迎えに来たのですが、彼らが助かる見込みはなかったでしょう。あまりにも深い傷を負っていましたから。
機関銃手たちは、戦闘中に機関銃の傍らで戦死するばかりでなく、様々な原因で命を落としていました。私たちの大隊のソヴィエト連邦英雄パルシン、小隊長だったパルシンもその1人です。ベルリンで戦っていた時、彼は家の上から足下に手榴弾を投げ落とされ、それで中尉は死んだのです。
また、私の部下の給弾手、チュメニ州アムチンカ駅出身のヴァーニャ・ボヤールスキーは、すでに戦争が終わってからの話ですが、地雷でやられました。ある場所で、私たちは友軍の戦車兵たちの遺体に出くわしました。ドイツ軍の捕虜になり、虐殺された人々の遺体です。中には女性の看護兵もいたのですが、彼女は辱められ、強姦された挙げ句、殺される前にはバラバラと言っていいような状態にまで切り刻まれていました。戦車兵たちの遺体も、見るだけで体が震えてくるような状態です。その多くが性器を切り取られ、目玉をえぐり取られていました。ボヤールスキーは遺体の近くで立ち止まったのですが、どうやらその時、すぐ近くにドイツ軍が巧みに偽装して仕掛けておいた地雷を、誰かが踏んでしまったらしいのですね。彼は足を吹き飛ばされ、爆発の衝撃で目も飛び出し、その場で即死したのです…―「戦車恐怖症」というような現象についてはどのように対処されていましたか?
我が軍の陣地を攻撃してくるドイツ軍の戦車に遭遇した経験は何度かありますが、機関銃手のうちの誰かが怖じ気づいたという記憶はありません。機関銃陣地を捨てて逃げ出す者は1人もいませんでした。私たちの任務は、戦車と随伴して攻撃してくる歩兵とを切り離すことであり、必要とあらば戦車に自分の真上を通過させ、やりすごす場合もありましたよ。
それに、全ての機関銃中隊に対戦車手榴弾が給付されていましたから。ある時、ドイツ軍は4両の戦車で攻撃をかけてきたのですが、私たちの部隊の兵士セミレートフが手榴弾でティーガーを破壊し、2両目はT-34によって炎上させられました。ちなみにそのT-34は、クルーの全員がグルジア人だったことを憶えています。残りのドイツ戦車2両は、一か八かの冒険を試みようとはせず、後退して攻撃発起点へ戻っていきました。―あなたのような民族的少数派の方にとっては「お決まりの」質問をさせていただいてよろしいでしょうか。中隊で「民族問題」に由来する対立が起きたことはありますか?
中隊では、私にとっても、また私以外のユダヤ人にとっても、非常によい環境が作られていました。
私は外見的には[ユダヤ人より]ロシア人の方に似ていましたから、シベリア出身のロゴジンやシェステミロフに対し、自分はユダヤ人なんだと胸を叩かんばかりに主張しても、最初のうちはなかなか信じてくれなかったですね。反ユダヤ的な現象に出会ったことは一度もありません。
戦争が終わるまでの1年半のうちに、私たちの中隊では5~7人のユダヤ人が勤務しました。そのうちの1人であるリョーニャ・トゥフシナイドは、中隊のコムソオルグ[コムソモール組織員]にして3つの勲章の受勲者、ブルロフ分隊の機関銃手でしたよ。彼は戦争が終わる間際に命を落としました。
もう1人がソニキンという男で、彼はペニシリンを盗んだ罪により刑務所に入れられており、そこから真っ直ぐ前線にやって来たのです。私たちの中隊には、彼の他にも囚人あがりの兵隊が何人か在籍していましたが、一番印象深かったのがセメニヒン伍長で、これは本当に個性的な人間でしたよ。ある日の夕方のこと、私たちは待ち伏せ攻撃を受け、ドイツ軍は我が中隊を沼地に追い込んで三方から包囲攻撃を加えてきました。命令なしに退却するわけにはいかないのですが、中隊長は大隊本部に帯同しており、彼以外の将校は私たちと行動を共にしていないという状況で、「後退せよ」と命令してくれる者が誰もいません。皆で湿地に伏せ、空腹に堪えかねていると、ソニキンは私たちの食糧を手に入れようと、近くに見える村まで這っていきました。その帰り道、私たちの見ている前で、彼はドイツ軍の機関銃に撃たれ、蜂の巣のように穴だらけにされてしまったのです…同じ中隊麾下の小隊では、リョーヴァ・ベルジチェヴェルという機関銃手が分隊長を務めていましたが、これはベッサラビア生まれのユダヤ人で、栄光勲章を2つもらっており、ロシア語はあまり上手く話せませんでした。彼は戦争を生き抜きましたよ。もう1人の中隊仲間サムイル・ヴァインシテインとは、ここ[ポルタヴァ]で再会することができました。ある戦いで彼は腹部に重傷を負い、とても助からないだろうと思っていたのですが、それが60年後に再び顔を合わせるめぐり合わせになったんですから。
その他の民族的少数派、例えば中央アジア出身の兵士たちは、私たちより何倍も苦しい目に遭っただろうと思います。彼らにとっては戦争に慣れることが困難だったのですが、それはロシア語をよく知らなかったからだけではありません。我が分隊にはハリヤロフという給弾手がいましてね。戦闘の最中、彼に「ハリヤロフ、前進だ!」と叫び、それから振り返ってみると、塹壕の中に敷物を敷いてお祈りをしている、なんてことがありましたよ。
ヴィスワにいた時、私たちの部隊ではこんな事件がありました。旅団から送られてきた12人からなるウズベク人の集団が、工兵用のスコップで自分の手の指を切断し、みんなそろって衛生大隊へ現れると、破片で指をもぎ取られたのだと訴えました。「特務」の職員たちはすぐさま、何か不正があったのだと嗅ぎつけて取り調べを行い、その中でウズベク人の1人が仲間を裏切ったのです。結局、12人のウズベク兵は皆「自傷行為」の廉で銃殺刑になりました。旅団司令部の近くで、整列した兵士たちの目の前で刑が執行されましたよ。銃殺が行われた直後、私たちの中隊の15人は順繰りに呼び出しを受けて政治将校の地下壕へ入り、入党の請願書を書くことになりました。ちょうど敵の砲撃が始まっており、私たちの何人かは負傷したのですが、それでも全員が指示通りに「共産党員として戦場に向かうことを希望する」という請願書を書いたわけです。ただし、戦後になって政治担当副隊長から偶然聞いたところによれば、私はずっと前から党員候補とされていたそうなんですが。―機関銃中隊に補充として送られてきたのはどのような兵士たちでしたか?機関銃要員の候補者は特別に選抜していたのですか?
できるだけ健康で頑丈なやつだけを選んで採ろうとしました。それ以外の部分は全く気にしません。マクシムは重たい機関銃だったから、「うらなり」みたいな兵隊だったらろくに担いで運ぶことさえできないでしょうし、より軽いゴリューノフ型の機関銃が支給されたのは、すでに戦後になってからの話です。ドイツにいた時、捕虜から解放された3人の元将校が中隊に配属されました。私たちのところで勤務を続けることを許されたわけですが、しかし階級は軍曹に落とされていました。旅団付の「特務」の連中は、それまではほとんど中隊に姿を見せることがなく、まれに「協力者[すなわち特務機関の手先となって密告する者]を募る」ためにやって来るだけだったのが、捕虜あがりの補充兵の着任後は頻繁に私たちのところへ顔を出すようになり、元将校たちを「注視」していましたよ。もっとも、彼らをそれ以上どうこうすることはなかったようですが。
―親衛自動車化歩兵部隊の補給事情はいかがでしたか?
私たちは1944年末になってようやく親衛隊の称号を与えられたのですが、だからといって補給の面で恵まれるというような変化があったわけではありません。前線で戦っていた頃、私は野戦烹炊車というものを一度も見たことがなく、この事実にはたいそう驚かされましたよ。戦争の終わりに至るまで、私たちは戦利品だとか、打ち捨てられた地下室、食糧の隠し場所、倉庫などで手に入れた食べ物だとか、あるいは「戦車兵の厄介になる」[註2]だとかいった方法で食いつなぐしかありませんでした。食糧輸送用の荷車が前線にまでとどくことはほとんどなかったですね。
一体誰が食糧部長だったのか、あるいは大隊の経理担当副隊長だったのかは知りませんが、そいつらは軍事法廷で裁かれてしかるべきだったと思いますよ…―戦いが終わり、あなたの機関銃の前には打ち倒された敵の死体が横たわっている、という状況を思い出してみて下さい。その瞬間には、どんな考えが頭に浮かび上がってきたのでしょうか?
最初のうちは喜びを感じたと思いますし、戦友たちと一緒に戦いを振り返り、俺は生きている、何人やっつけたなんていう話をしたものです。しかし、時が経つにつれて私も「成長」し、どんな出来事であっても落ち着いて、感情的にならずに接するようになりました。生き残ればそれは結構、やられてしまったら…つまり、そういう運命だったというだけの話で…
戦争中の私の仕事、それは殺すことでした…もしもこっちが殺さなければ、相手に殺されてしまう。前線の掟は本当にシンプルなもので、2×2の答と同じくらい単純です…ただ、戦争が終わってからも様々な理由で人が死ぬところを見たのですが、その時にはもう平静に受け入れることはできなくなっていましたよ…
ドイツ駐留中、戦争が終わった直後の話ですが、脱走兵が大量に現れたばかりか、一部の者は気軽に軍務を放棄してしまい、略奪に走りました。私たちの連隊長シポリベルク大佐は、こうした兵士の1人を軍務放棄の廉で自ら射殺したのですが、これが原因ですぐに駐留軍からロシア本国へと召還され、その後大佐がどうなったかは分かりません。ただ、戦争は終わったのに人は依然として死んでいった、ということだけは事実なのです…受け入れたくないほど辛い現実でしたね…―戦後は何年くらい軍隊で勤務されたのですか?
同年代の仲間たちと同じく1950年まで、つまりちょうど7年間勤務したことになります。中隊付の曹長に昇進し、機関銃の教官を務めましたが、勤務地はずっとドイツ駐留軍のままでした。
除隊後はカフカースへ移住し、グルジア軍用道路の建設に携わりました。
それからポルタヴァに帰郷して家へ戻り、塔型クレーンの第5級クレーン操作手として長いこと働きました。さらにその後は、ポルタヴァの第7建設・組立局でも仕事をしましたよ。
註2:戦車兵は車内や車上に食糧その他の鹵獲品を積載している場合が多く、とりわけ長駆敵の後方を襲う進攻作戦の場合は多くの物資を携えていた。このため、随伴する歩兵も手に入れた品々を戦車に載せてもらったり、あるいは戦車兵から食べ物を分けてもらったりするようなことがあったらしい。
(了)
(12.01.15)
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