マラート・ヴォロベイチク2
―それでは、あなたはいつ勲章を授与されたのでしょうか?
イノロツラフ[イノウロツラフ?]奪取の時です。真夜中、戦車に乗って戦いながら街の端から端まで通り抜けたのです。
私たちは戦車から降りましたが、どこもかしこもドイツ兵だらけで、戦いはなかなか終わりません。その最中に私たちの分隊は孤立してしまい、戦況が落ち着いたところで味方を探しに行きました。
隊員は全部で4人。私、ロゴジン、ラスチャーピン、それにもう1人の兵士です。目の前に橋が架かっていて、その向こうには誰もいないように見えます。私は仲間たちに、まずはここで防御態勢に入り、後から対岸を、つまり橋の向こう側を偵察に行こうじゃないかと提案しました。マクシムを家の1階に引っ張り込み、橋の方へ銃口を向けて設置。そこで突然、足音が聞こえました。私たちから見て左側と後方から、暗闇の中を少人数の部隊が近づいてきたのですが、どうやらみんな友軍の外套を着ているようでした…しかしまさにその時、彼らの中にドイツ人が列を組んで混ざっているのを発見!すぐに射撃を開始しました。それから「ロゴジン、機関銃を頼む!」と叫んでおいて、私自身は2階へ駆け上がり、手榴弾を投げ始めました。結局、川へ飛び込んで逃げた者以外は全て打ち倒し、6人の西ウクライナ人を捕虜として捕まえました。彼らはドイツ軍の軍服の上から、我が赤軍の外套を引っかけていたのです。うち1人は負傷していたので、私は手持ちの包帯を与えて手当てをさせました。捕虜はタバコをほしがったから、私たちはマホルカ[安物の手巻きタバコ]を分けてやったものです。そして、同じ場所で防御態勢を取ることに決めました。誰が送ってくれたのか分かりませんが、5人の短機関銃手が増援としてやって来ました。これがまた年寄りの兵隊ばかりで、着くとすぐ地下室に隠れてしまい、どうしても外に出てきてくれません。川の対岸はこちらから70メートル離れており、2人のドイツ兵が向こう岸に現れるのが見えました。1人は戦利品のライフルで撃ち殺すことができたのですが、もう1人はすばしこいやつで、すぐに身を翻して角の向こうへ逃げてしまいました。しかし彼は後から戻ってきて、戦友の遺体を家の壁の向こうに引っ張り込みました。さらに、ドイツの戦車が来て橋に乗り入れ、機関銃を撃ち込んできました。ただ、戦車兵たちもこちらの岸へ渡ってくる決心はつかなかったようですね。
私たちの後方で、2人のドイツ兵の姿がちらつくのが分かりました。これは迂回されたかもしれない、と思ったので、すぐロゴジンに「手榴弾だ!」と叫び、私はそのまま地下室にいる短機関銃手のところへ駆け入りましたよ。
「さあ、みんな外に出て来てくれ!戦闘開始だ!」
ところが、答として返ってきたのは「○○でも喰らいやがれ!」というような罵り言葉です。私は「リモンカ」[レモン型手榴弾]を取り出し、再び彼らのところへ行きました。
「上がってこい!さもないとみんな○○をぶち砕いてやるぞ!」
それで、兵士たちも洒落や冗談が通じるような話ではないと悟ったのでしょう、駆け上がってきて1階で守りにつきましたよ。敵の攻撃を撃退、ちょうどその時に友軍の砲兵観測員が3人やって来ました。ところが、彼らはウクライナ人捕虜の1人をつかまえ、角のところで撃ち殺してしまったのです。私は怒りを感じました。
「どうして戦闘中のやつらをやっつけないで、捕虜をやるんだ!」
すると、砲兵観測員は答えました。
「何をむかっ腹立ててるんだ?!こいつは俺と同郷のやつなんだよ。だから、俺にはその権利があるんだぜ!」[註1]
次の日の朝、私たちはようやく大隊と合流できました。この戦いでの功績により、私は祖国戦争勲章を与えられたわけです。―何度くらい負傷されたのでしょうか?
負傷は2回、それから昏倒したことは4回あります。
最初に「引っかかれた」のは44年の半ば頃でしたね。私たちは開けた場所でドイツ軍の陣地を攻撃していたのですが、敵は戦車や野戦重砲を地面に埋めて隠していました。この野原で、彼らは私たちをみんな打ち倒してしまったのです。すぐ近くで砲弾が炸裂して、私の2番銃手であった軍曹は粉々に砕け散り、私も一瞬だけ自分が頭からかかとまで血まみれになったように感じたのですが、そこで意識がなくなりました。
目を覚ましてみると、私の体の上には他人の肉片がへばりついており、自分の血と自分の相方の血で体中が真っ赤でした…何も聞こえず、大きなハンマーでぶん殴られたかのような激しい頭痛だったですね…
私はたった1人で、敵に狙い撃たれながら匍匐して戦場から後退しました…
脳震盪ということで、しばらくは野戦病院に入院していましたが、後に元の中隊へ復帰しました。
2回目の負傷はポーランドでのことです。戦闘中、私は小銃を撃っていたのですが、ドイツ軍の銃弾が台尻に当たり、それが跳ねて、骨に障りはなかったものの肩を傷つけられました。もっともこのケガは大したことはなく、衛生部へ行くために大隊を離れる必要さえありませんでしたよ。
最後の負傷を経験したのは、すでにベルリンで戦っていた時分でした。真夜中に「乗車!」の号令がかかり、私たちは戦車の後部に機関銃を縛りつけると、戦車隊はドイツの首都の郊外へ突入していったのです。道中、私はかぶっていたピロトカ[略帽]を飛ばしてなくしてしまいました。しかし先を急ぐよう命令が出ていたので、戦車兵の1人は私が無帽であるのを見、自分のヘルメットをくれました。戦車の中では必要ない代物だから、とか言ってね。まさにこの戦車兵こそが私の命を救ってくれたのです。それから市街戦が始まりました。
ドイツの狙撃兵の攻撃をかわしながら、街路を走り抜けなくてはなりません。
私は機関銃を引っ張り、弾帯が入った箱を1つ手に持ったまま、真っ先に飛び出しました。2番手として、背の低いがっちりした体つきのシベリア人、名はカトゥイシェフという兵隊が、弾薬箱を2つ持って続くことになっていました。通りの広さは15メートルくらいでしたが、最後の最後でカトゥイシェフはドイツの狙撃兵から額の真ん中に弾を喰らったのです。一発でやられましたよ。私は長いケーブルを見つけ、その先っぽをフックのような形に整えると、建物の陰に隠れたまま、倒れているカトゥイシェフの傍の弾薬箱に引っかけようと試み、3度目にようやく成功して手許へ引き寄せました。
射撃をするための視界が確保できなかったので、私は仲間たちと一緒に機関銃を2階へ上げると、場所を選んで撃ち始めました。一方、ドイツ軍は向かいの家からこちらを狙って撃ち返してきます。そのうちの1発がヘルメットに跳ね返って膝に当たり、2発目で足の指が折られたのです。私は機関銃座から後ろへ下げられ、長靴とズボンを切り裂いて、包帯を巻いてもらいました。辺りが一時的に静かになった時、私は自力で下の階へ下り、足を引きずりながら道の端を歩いて後方へ下がることにしました。そこには砲兵たちがいたのですが、中の1人が私に叫びました。
「軍曹、向こう側へ行くんだ、負傷者を集める車がいるから!」
もうしばらく歩くと、本当にスチュードベーカー[レンドリースの一環としてアメリカから供与されたトラック]が停まっているのが見えましたが、荷台の上には将校が1人、正体もなく酔いつぶれて寝ころがっています。私は彼の横へ乗せられました。そしてその瞬間、敵の迫撃砲による猛烈な砲撃が始まり、私は自分の体で将校をかばいました。砲撃が止んだところで見ると、その将校はすでに息をしていなかったのです。彼は肺を貫通されており、そこから流れ出た血が私の目の前で固まっていました。あの致命的な破片は、私には理解できないほど不思議な軌道を描いて飛んできたんですね。いずれにせよ、破片は将校の命を奪ったのに、彼の上に覆いかぶさっていた私はその運命を免れたわけです…私は病院を出た後、元の旅団へ復帰しました。退院の記念にクバンカ[子羊の皮でできた平たい縁なし帽]をもらいましたよ。
原隊がどこに駐屯しているかが分かったので、砲兵隊に車で送ってもらうことにしました
車の荷台の上には缶詰だのウォッカだのがうずたかく積まれており、砲兵たちは混じり気なしの親切心を発揮し、私にそれらを分けてくれました。「持てるだけ持っていけよ。俺らのところには、こんなのは腐るほどあらあな」なんて言ってね。[原隊である]大隊はテントを張って宿営していました。で、私は機関銃中隊のテントに入り、ウォッカと酒の肴をテーブルの上に並べると、すぐにみんなで退院祝いを始めたわけです。
大隊は元々500人から成り立っていたのですが、ベルリンの戦いの後では士官と兵を合わせても150人に足りない程度しか残っていません。皆で座って酒を飲み、これまでの戦いの思い出話にふけりました。ところが、突然辺りの雰囲気が変わって落ち着かなくなり、隣のテントから聞こえていたざわめきがぱたりと止んで、アコーディオンの音もしなくなりました。何が起きたのだろうか、と思って外に出てみました…そして、私たちは悲劇的としか言いようのない出来事の目撃者になったのです…
発端は、大隊の迫撃砲中隊長が、「ストゥーデル」[スチュードベーカーの愛称]の運転手に車の給油を命じた際、荷台の上に樽が置いてあるのを見つけたことでした。運転手がどこからかかっぱらってきたものだそうです。中隊長は[樽の中身の]液体の臭いをかぎ、ちょっと味見をしてみたのですが、これがどうやら純粋なアルコールらしい、何も問題なさそうだということになって、ブリキ缶2つにそれを注ぐと、皆で飲もうと将校用のテントに持ち込みました。彼に続いて、大隊の全ての兵士がこの樽から酒を汲み出しました。例外は私たち機関銃中隊だけで、気前のいい砲兵たちが私にくれたウォッカを飲んでいたのです…樽に入っていた酒の正体は木精[木材を乾留してできるメチルアルコール]でしたよ。すぐさま大隊の准軍医がかけつけ、メチルで中毒を起こした患者80人ほどを病院へ運びました。しかしながら、蘇生した者はほとんどいませんでした。非常事態と言っていいでしょうね。
私たちの旅団長はソヴィエト連邦英雄ニコライ・ペトロヴィチ・オフマン少将で、ベルリン攻略の戦功により2度目の英雄称号候補者として推薦されていたのですが、この悲劇が起きた後、彼の名が載った叙勲リストはソヴィエト連邦最高会議から差し戻されてしまったそうです…
こうして、私の大隊復帰は恐ろしくも悲しむべき出来事により記憶に残るものとなりました…―私の手許に、あなたの中隊長であったソヴィエト連邦英雄チェルカス上級中尉が1945年に作成した叙勲推薦リストがあります。この中であなたは、軍務赤旗勲章の候補者として推薦されていますね。以下、推薦文を読み上げてみることにしましょう。
「…ヘーポウ村を奪取した後、大隊はさらに攻撃を続行するため集結した。敵は我が軍の側面が無防備であることに気づき、大隊を村の側から迂回すべく行動を開始した。これに対し、ヴォロベイチク軍曹の分隊を含む機関銃小隊が側面援護のために投入された。敵戦車が400メートルの距離まで接近した時、ヴォロベイチク軍曹は機関銃を前進させ、敵の歩兵を待ち受けた。戦車に続いて敵の隊列が現れ、我が軍の後方へ続く道路の遮断を試みたが、ヴォロベイチク軍曹はこれに対して機関銃の猛射を浴びせかけ、敵の攻撃隊はその場に伏せることを余儀なくされた。戦車は後退を開始し、ドイツ軍の反撃は撃退されたのである。敵は暫時の後に続けて3度の反撃を企図したが、いずれも軍曹の機関銃に射すくめられ、再び退却していった。一方、敵戦車は機関銃の火点に対して砲撃を加えた。これにより分隊長と小隊長が負傷した。ヴォロベイチク軍曹は他の機関銃陣地の指揮も執り、分隊長及び照準手の役割を務めつつ、敵の反撃を阻止し続けた。この戦いで、ヴォロベイチク隊の照準手は中隊規模の敵を潰走させ、25人の敵兵を殲滅した。政府からの褒賞として、赤旗勲章を受勲するにふさわしい戦果と認めるものである…」この後に日付、署名等々が続くわけです。
結局のところ、軍務赤旗勲章は授与されずじまいであったとのことですが、私が今からお聞きしようと思うのはそれ以外の問題についてです。
機関銃で敵に与えたとされる損害は、どれくらい正確に数えられていたのでしょうか?というのも、戦場とは想像を絶する流血の舞台であり、地獄さながらの悲惨な光景になっていると思うのですね。そんな中で、機関銃手はどのようにして自分の戦果を区別できたのでしょうか?1年半の前線生活の中で、私は大規模な戦闘におよそ10回参加し、小規模な戦いや衝突も数え切れないほど経験しています。それで、戦場の中でも機関銃の射撃範囲に倒れているドイツ兵の死体は、全て私たちの「名づけ子」[洗礼の際に代父母を務めてやった相手の子供のこと。自分が倒した敵兵を指す俗語としても使われたのだろう]あるいは私たちの「成果」と見なされるのが普通でした。まして、戦いの前に機関銃分隊は「中立地帯」[敵味方を分かつ緩衝地帯]まで前進させられることが多かったからなおさらです。私は、前線にいる間に大体120人から130人のドイツ兵を倒したんじゃないかと思います。それからまた、機関銃でやっつけただけではなく、小銃を撃ったり至近距離から手榴弾を投げつけたりしたことも勘定に入れる必要があるでしょう。だから、自分では恥ずかしくないだけの戦果を残したと考えています。
ある時などは白兵戦にさえ参加しましたから。機関銃を車に置くよう言われ、さらに機関銃中隊も歩兵の列に加わって、これこれの停車場を攻撃し占領すべしとの命令が出たのです。私は鹵獲したドイツの短機関銃と、自分のナガン拳銃とを持って行きました。凄まじい混戦となり、私たちは最初から最後まで敵と取っ組み合ったわけです。
註1:おそらくこの砲兵観測員も西部ウクライナの出身で、捕虜たちとは面識があったのであろう。故郷が同じであったか、もしくは元々同じ赤軍の同僚であったのかもしれない。ドイツ軍の下で勤務していた元赤軍兵士(所謂「ヴラーソフ軍」の兵士)がソ連軍に捕らえられ、その際に同郷者から制裁を受けるという悲劇的なケースについては、他の戦争体験者の談話でも語られている。(12.01.15)
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