マラート・ヴォロベイチク1


 私は1926年2月にウクライナのポルタヴァ市で生まれました。父は裁断工として働いていて、共産党員で、戦争が始まると志願して義勇軍に入りました。
 行ってからすぐの戦いで父は負傷し、片足を吹き飛ばされ、ポルタヴァの病院に収容されました。ドイツ軍が街を占領するであろうことが明らかになった時、私は姉のマリヤ(彼女は1924年の生まれです)と一緒に馬と荷馬車を借り、父を病院から連れ出すと、鉄道の駅まで運んでいきましたよ。その途中、疎開者を乗せた列車が停まっていましたが、「家畜輸送車」と呼ばれていたタイプのやつで、それこそぎっちりと人が詰まっていました。ちょうど駅を狙った空襲が始まり、みんな四方八方に逃げていったので、私は破裂する爆弾なんかお構いなしに、父を貨車の1台に運び込んだんです。空襲の後で疎開者たちが貨車に戻ってきて、私たちに対してやいのやいのと言い出したけど、私の姉は気の強い娘だったから、誰が相手でも激しくやり返しましたよ。そんなわけで、私たちは父を東へ脱出させることができました。ある駅ですぐ隣に病院列車が停まっていたので、私たちは衛生兵と話をつけ、父をそちらへ移してもらいまた。
 病院列車は中央アジアへ、サマルカンドへ向かい、私たちも父についていき、間もなくカットゥイ・クルガンという小さな町に到着しました。貧しいウズベク人の家族に部屋を貸してもらい、職業学校付属の組立工養成コースで勉強した後、ミコヤン記念油抽出工場で働き始めました。工場で寝泊りしたのですが、労働者がもらう切符では配給のパンしか受け取ることができず、当時の私はひどく腹を空かせていましたね。
 
 工場には付属の軍事教育コースがあって、私は映画「チャパーエフ」[内戦時の著名な騎兵指揮官ヴァシーリー・チャパーエフを主人公とした人気映画(1934年封切り)。登場人物の1人に女機関銃手アンカがいる]が大好きだったから、その影響で機関銃手のコースを選びました。マクシム重機関銃の扱い方をしっかりと教わって、目をつぶってでも「鍵」[閉鎖機]をばらしたり、また組み立てたりできるようになったほどです。1943年の秋、17歳半という年で、私は軍隊に召集されました。
 病気の母と傷痍軍人となった父を家に置いて出征するものだから、それは気が重かったですよ。姉はこの時までに船乗りと結婚して、夫と共に極東へ引っ越していました。
 応召者たちはまずサマルカンドで予備連隊へ入隊し、1ヵ月半にわたって前線へ向かうための訓練を受けるのです。予備連隊で出会った人々はほとんどがロシア人で、ウズベク人たちはというと、1943年までには上手いこと「召集から距離を置く」術を身につけていましたからね。私がいた教育中隊の隊長はザイツェフ上級中尉でした。43年の10月末、私たちは列車に乗せられ、行軍連隊を組んで前線に向かうことになりました。
 貨車の1両にはウズベク人、もう1両にはロシア人だけが乗っていて、私はそちらの方の責任者に任命されました。
 この時までに、私はもう軍曹の階級をもらっていました。3週間かけて前線に到着、それから私たちはどこかの森の中へ降ろされて、「買いつけ人」[補充兵の品定めをするため前線部隊から送られてくる派遣者の通称]が新兵たちを引き取りにやって来ました。
 それで、私は第15自動車化歩兵旅団(後に第34親衛旅団の称号を授与されました)の自動車化歩兵大隊に所属する機関銃中隊へ行くことになったのです。旅団は第12親衛戦車軍団を構成する兵団の1つでした。
 私の身長は171センチ、けれども体は頑丈そのもので、鉄棒での懸垂だって軽く30回はできたから、すぐに機関銃中隊からお呼びがかかりました。当時の中隊の基幹人員はシベリア出身者ばかり、みんな素晴らしい人々で、新兵にもとてもよくしてくれましたね。大隊長はマトヴェーエフ少佐、また私たちの中隊長はチェルカス上級中尉でしたが、後に2人ともソヴィエト連邦英雄の称号をもらいましたよ。小隊は若い中尉たちによって指揮されていたものの、彼らが[負傷などで]戦列から離れると、通常は経験豊かな「古強者」である曹長の1人が指揮権を継承していました。
 1944年、私たちのところに、何らかの失敗をやらかして降格になったらしいのですが、1人の大尉が小隊長として送られてきたことがあります。名前は言わないでおきますよ。とにかく手のつけられないアル中で、戦闘が始まるとあらゆる口実を見つけて遠くへ離れているくせに、平穏な時だけは私たちの前に現れ、のべつまくなしに罵詈雑言を並べ立て、あるいは酔っ払って人を脅しつけるんです。みんなあからさまにこの大尉を憎んでいて、彼が戦死した時も、誰一人としてその死を悼むものはいませんでしたね。
 機関銃小隊長の1人にウヴェレジャ少尉という好漢がいたのですが、彼は重傷を負い、破片で頭蓋骨の一部がもぎ取られて、脳みそが見えたくらいです。けれども少尉は意識を失わず、生きたまま後送されていきました。
 私にとっての初めての分隊長はカレリア出身のパーヴェル・パヴリク、これは非常に頭のよい立派な人物で、勇敢でした。私は第1銃手、つまり機関銃の照準手に任命されました。行軍の時になると、私は銃身を肩に担ぎ、さらに弾帯の半分を運びましたよ。
 これ以外にも身に着けていたものといったら、手榴弾が3~4個、ドイツの「シュマイザー」[おそらくは鹵獲した短機関銃のことであろう]、またベルトにはナガンの拳銃(私は第1銃手だったから、規定によりこれをもらえることになっていました)を差し、背中には自分の背嚢を背負い、さらに工兵用スコップ、水筒、時には巻き外套なんかも持っていかなければなりません。機関銃の防盾は重さが8キロもあり、しかも戦闘の時に分隊の位置を暴露するだけだから、私は一度も携帯したことがないですね。そういう次第で、これらがどれくらいの重さになるか、運ぶにはどれだけ強靭な肉体が必要だったか、ちょっと考えてみて下さいよ。

―あなたにとっては、時系列で話される方が楽でしょうか、それとも戦争中のエピソードごとにお話しいただいた方がいいのでしょうか?

 多分、個々の戦闘に関する話の方が思い出しやすいと思います。全てをお話しすることはもうできないでしょうが、最も鮮烈な記憶はまだ残っていますから。
 私がよく憶えている戦いの一つは、2個機関銃分隊、将校なしの人員10名で、2昼夜にわたってポーランドの村を確保し、何度となくドイツ軍の攻撃を撃退したというものです。私たちは戦車の上に乗り、機関銃を後部のストッパーに固定しておいて、2両のT-34戦車で真夜中に村へ奇襲をかけたのですが、ドイツ軍は前後不覚に寝入っていたらしく、歩哨すら立てていませんでした。四方を撃ち始めると、ドイツ兵たちはズボン下1枚という姿で家から飛び出し、ほうほうの態で逃げ去りましたよ。私たちはマクシム重機関銃を下へ下ろし、戦車はそのまま向きを変えて帰っていきました。
 村に残ったのは私のと、それからレニングラード出身のブルロフ率いる分隊の2つで、ブルロフ隊には鹵獲品であるMG-34もありました。彼らは村の端、森に近いところに展開しました。一方の私は村の右端を担当することになり、家の屋根に上がって瓦をばらすと、そこへ陣地を作って敵を待ち受けたのです。朝が来て、私たちの守っていた側の街道上ではドイツ軍の車列が村へ向かって進んでくるのが見えたので、私は敵を近くへ引きつけ、その後で真正面から機関銃を連射。生き残ったドイツ兵は後退し、森の中へ逃げていきます。日中にドイツ軍はもう2回攻撃をかけてきました。翌日になると、敵の砲兵隊が撃ち始め、4発目の弾が私たちのいた家を直撃しました。砲弾の爆発により炎が噴き出したのを憶えていますが、私は衝撃で端の方へ飛ばされ、梁で頭を打ちましたよ。家はほとんど完全に崩れ落ちてしまった。
 私はロープの切れ端で機関銃を結ぶと、廃墟と化した屋根裏から機関銃を地面に下ろし、それから戦友たちを掘り出しにかかりました。ロゴジンとラスチャーピンの2人は生きたまま救出することができたのですが、4人目のウズベク人、給弾手を務めていた兵隊は、瓦礫の下から引っ張り出した時にはもう息が絶えていましたね。その後、私たちは再び陣地を構築しました。また、敵は朝のうちに2両の豆戦車を繰り出してきましたが、こちらには徹甲焼夷弾が入った弾薬箱がありましたからね。私は敵の燃料タンクを狙って撃ち、2両目を炎上させてやりましたよ。
 こうして私たちは2昼夜を頑張り通し、途切れなく攻め寄せる敵軍を撃退し続けました。戦いが一段落つくと、私はロゴジンを機関銃のところへ残したまま、ラスチャーピンを伴って戦場を見に行き、戦利品を集めました。側壁が低いタイプのドイツの装甲輸送車が残されており、その中には20人が座れるようになっていたのですが、車内には死体が折り重なっていますし、周りだって…死体ばかりですよ。私たちは容赦なくやっつけてやったわけです。
 私は手にピストルを持っていて、横たわるドイツ兵のうち少しでも息をしている者、あるいは死んだふりをしている者がいたら、頭に銃弾を撃ち込んでとどめを刺してやりました。やつらを憐れむ理由なんかなかったですから…
 そのうちの1人には何発も弾を送り込んだのですが、そいつはこっちに向かって「舌を出して」いるように見えるものだから、私も苛立ってしまいましてね。そしたらラスチャーピンが私の手を引いて、落ち着けよ、死体が固まっているだけだ、舌が外に出ちまったんだ、なんて言うわけです。
 3日目になってようやく増援が到着し、私たちは歓喜のあまり彼らと抱き合いました。ただ、この戦いでは誰一人として叙勲されることはなかったですね。

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(12.01.15)

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